2013年12月31日火曜日

積み残し


2013年も大晦日。
左の「更新」欄をご覧いただければおわかりの通り、今年は例年よりずいぶん更新頻度が少なめでした。
1月2月は多いくらいだったのですが、3月からは平常運転、7月はついに1度しか更新できず、下半期はさらに告知中心の低空飛行が続き、結局、Blog開設以来の最低更新頻度を記録してしまいました。わちゃー。

その代わり、本業のほうで頑張っていたと・・・思って下されば幸いです。

というわけで、今年は「回顧と反省」はなし。
かわりに、論じる予定であった書架の「積み残し」本の数々をご紹介します。年末大掃除の風情。(現実には大掃除やってませんが...)



今年も皆さんから句集をたくさんいただきました。
大変おもしろい句集をたくさん頂いたのに、なかなか感想を書けずじまい。ともかく何句かずつ、お気に入りの句をご紹介します。

まず、「船団の会」の方々よりいただいた句集。見事にふらんす堂づくし(笑)。


赤坂恒子『トロンプ・ルイユ』(ふらんす堂)
  空真青ひばり鳴く日のがらんどう
  流星群いつまで夢を見るつもり
  魚の首ざっくり落とす星月夜
やわらかい、軽い気分のなかで、それでいて結構冷静な視点が、やわらかい雰囲気をこわすことなく貫かれている印象。


水木ユヤ『カメレオンの昼食』(ふらんす堂)
 そう今はアクビとかしてOù allons-nous ?
         (我々は何処へ行くのか?)
 留守にします時折来ます花椿
 冬の街灯と選挙カーねえ歌ってよ
詩句集。句もいろいろと実験的で、詩と見るか句と見るかで判断が分かれそうなものも多いけれども、とにかく言葉を断片化して面白くしていく意識が感じられる。


火箱ひろ『現代俳句文庫 火箱ひろ句集』(ふらんす堂)
 もつともつとすごいはずだつた野分去る
 鴈治郎四頭身で年詰まる
 憑きものが落ちてくるなりおでん鍋
火箱さんが三冊の句集から精選した句集。読み応えアリ。




嵯峨根鈴子『ファウルボール』(らんの会)
 人体のここが開きます浮いてこい
 噴水の非常口から入りたまへ
 反撃のチャンスはんかち畳み終へ
2009年に出た句集。最近、関西の句会でお目にかかることの多い嵯峨根さんに、おねだりしていただいてしまった。
無理のない不気味さというか、さらりとした気持ち悪さというか、妙な感触が魅力的である。


皆さま、ありがとうございました。



青木亮人さんの評論集『その眼、俳人につき』(邑書林)が出た。
この本、たいへん面白い。いくつか評が出ているものの、もっともっと話題になっていい本だと思うが、どうだろう。

虚子、蛇笏、誓子といったおなじみの顔ぶれから、竹中宏、井上弘美、関悦史といった現代作家、青木さんの大きなテーマでもある明治の月並み宗匠・三森幹雄に至るまで、縦横無尽、俳句のもつ特殊性と普遍性、凄みと親近感について、鮮やかに批評していく。
第一線の研究者であって資料を博捜しながら資料に溺れず、ときにざっくりした「印象批評」も怖れずに自らの「読み」を開示する、その緩急がすごい。

なにより、よく見知った作品や作家であっても、評者によってこうも見え方が変わるか、というという驚きがある。


と、こんな個人Blogで先輩の仕事を絶賛していても仕方ないので、青木さんの本からもらった問題提起についてなど少々。

当Blogでも何度か、青木さんと外山さんのお仕事に通底する視点について触れてきたが、(曾呂利亭雑記 「俳句評論のゆくえ」)それについて、関さんの興味深いツイートがあった。


                             11月15日
高原さんの『絶巓のアポリア』(まだ読めていない)は安井さんの『海辺のアポリア』を踏まえた表題なのだろうが、それと別に『平野のアポリア』が必要な気もして、青木さんの『その眼、俳人につき』や外山さんのスピカ連載はそれに繋がる気がする。

平野のアポリア。

魅力的な視角であると思う。
詩性一般にいわれるように、俳句にもシンパシー(共感)とワンダー(驚異)の両方向があって、
ときに俳句は易きに即くというかシンパシーの面が大きくなる傾向があって、
それに反発して批評の世界ではワンダーの面をことさら強調するような傾向があると思われ(批評、理論構築を得意とする人々がいわゆる「前衛」出身なこともあり)、
ところが、俳句の根っこがだだっぴろい「平野」の表現史につながっていることは誰もが体感している事実でもあり、
両方向の空隙を、断絶ではなく連続と見ることが、これから「俳句史」を新しく見直すことになるはずだと思う。


その一方で、(忘れがちですが)じゃあ自分自身の俳句はどうなんだ、ってことになると、
たぶん「平野」にも、「海辺」「絶巓」にもなくて、双方を見渡せるちょっとした異空間というか、そういう場所なんじゃないか、と。
日常からずらしたところにある「異化」。
シンパシー(共感)でもワンダー(驚異)でもなく、いわばトリップ。
そのあたりではないかな、などと。



最近、古本屋で買ったり、人からもらったりで手に入れた本。
まだまったく読めていないのですが、これからおいおいご紹介したいと思います。

齋藤慎爾編『現代俳句の世界』(集英社、1998年6月)

江里昭彦『生きながら俳句の海に葬られ』(深夜叢書社、1995年6月)

『現代俳句の新鋭 4』(ギャラリー四季、1986年11月)
 赤羽茂乃、金田咲子、田中裕明、中烏健二、中田剛、永田琉里子、夏石番矢、西川徹郎、橋本榮治、渡辺純枝 共著


2013年12月27日金曜日

俳句Gathering反省会

俳句Gathering2、終わりました。

ご来場いただきました皆さま、関係各位、本当にありがとうございました。
芳名録にはスタッフや出演者も含めてしまっているので正確な「観客数」ではありませんが、少なくとも六十名近い方に、今年もお集まり頂きました。
年の瀬の忙しい時期、「俳句」とうたって六十人以上が生田神社に参集できたこと、関西俳句界の潜在力というか、可能性を感じることが出来たと思います。


今年の最大の成果は、第二部で「W小池」と題し、小池正博さん、小池康生さんのコンビで連句・川柳とのコラボ企画をとりあげることができたこと。そしてそのために連句人・川柳人が何人か足を運んで下さったことである。

連句からは、「船団」の仲間でもある梅村光明さん、赤坂恒子さんらが徳島からわざわざ渡って来て下さった。梅村さんは当日投句大会の大賞を受賞された。
俳句Gatheringという「祭」が、ただ「関西」「俳句」に留まらず、「関西俳句・発」の気炎になることができるなら、なんともありがたい話だ。

第三部では昨年同様、Pizza・Yah!を迎えた俳句バトルが行われた。
Pizza・Yah!は7月にメンバーの卒業があり、新メンバーを迎えての参戦。休業中のおぎのかなも加わったことでファンには嬉しいチーム構成となったようだ。
一方の男性チームは昨年敗れた遠藤朗広くんが、お笑い仲間を率いてリベンジマッチを挑む、という構図。

試合前にはプロデューサーの徳本氏渾身の「あおりVTR」が入り、さらに「秘密兵器」として、林田ゆりあが登場。林田さんはかつて徳本が企画した宝塚での句会バトルで女性チームを率いた現役タレントで、いわばPizza・Yah!に先行する元祖・俳句アイドル。
客席からも笑いが漏れる中、舌戦はときに脱線し、俳句だけは真剣な句会バトル第二弾が開幕。今年は2-2の大将戦まで持ち込んだものの、やはりPizza・Yah!チームが勝利。

ちなみに、両チームの俳句指導やディベートのサポートには徳本氏が関与しているが、勝敗の判定だけはまったく審査員にゆだねられており、いわゆる「やらせ」はまったくない。
今年は審査員席に、東京から「童子」の松本てふこさん、「層雲」のきむらけんじさん、という新しい顔を迎えたこともあり、昨年はひと味違った講評となった。

スタッフには関西俳句会「ふらここ」のメンバーが多数参加してくれ、前日から泊まり込みで働きづめに働いてくれた。今年のイベントがなんとか終了したのは、全面的に彼ら学生スタッフのおかげである。本当にご苦労様でした、ありがとうございました。

とはいえ、今年は昨年以上に課題が多く残った。
まずなによりの反省というか悔恨は、昨年の経験を踏まえてすこしは余裕ができるかと思っていたのに、昨年以上に段取りが悪く、まったく笑えないほどのどたばたぶりを見せることになってしまった。昨年の石原ユキオ氏からの厳しいエールにも応えられない出来だった。情けないことだ。
正直なところ、昨年はまだ全体を見る余裕があったのだが、今年は第二部・第三部はほとんど観戦することができなかった。そのため内容についてもあまり深くここでリポートすることができない。
これもありがたいことに、すでに第二部に出演してくれた小池正博さんが詳細なリポートをすでにあげて下さっている。当日の雰囲気については、こちらをご参照いただきたい。
週刊「川柳時評」 俳句Gathering vol.2

また、今年の客層は去年以上に若返った。

洛南の高校生や、「ふらここ」から大学生メンバーが多数駆けつけてくれ、会場の約半数は一〇代・二〇代で埋まっていたのではないか。
俳句甲子園や、その後のつながりから若い人が集まってくれたこと、そこで新しい出会いがあったことはとても嬉しく、Gatheringという名にふさわしい成果だったと思う。

一方で、イベントとして考えるとターゲットが狭くなるのは考えもの。小池さんのレポートにもあるように、上の世代をどう巻き込んでいくかを考えたとき、主催側の準備があまりにも足りなかった。真摯に反省し、出直すべきだと思っている。

今後の活動についてはあらためてblogなどでご案内することになると思う。
また、Gatheringレポートについては、来年初頭には公式Blogなどで随時アップしていきますので、お楽しみに。




2013年12月18日水曜日

深沢眞二『連句の教室』


そろそろ怒られるかな、と思っていたら、案の定麒麟さんから「ブログもたまには更新しなきゃダメだよ」とメールが入ってしまったので、反省。

今週末に迫った俳句Gathering 2の第二部では、小池正博・康生のW小池氏のクロストーク「俳句vs川柳~連句が生んだふたつの詩型~」を予定しています。
その予習・宣伝もかねて、連句の話題など、少し。

五七五・七七をつなげる「連歌」のうち、俳言(俗語や漢語)を多く取り込んだ「俳諧之連歌」が生まれ、第1句の「発句」が独立して「俳句」になった、 
一方「川柳」は平句の「前句付け」から出発した・・・
など、このくらいの知識なら、簡単な解説を読めばたいてい書いてあります。

近代の「俳句」に対して、近世の「俳諧」が違うものだ、という知識は、多くの人にある(特に俳句関係者には常識的)と思います。
その一方で、芭蕉の「句」を、我われはつい「俳句」として鑑賞してしまい、「連句」としての鑑賞をすることがない。
それで、本当にアリなのか。「発句」だけ独立して鑑賞されるようになったのはなぜか?「川柳」にかかわって言われる「前句付け」とは何だろう?

俳句好きなのに連句を知らない、という一種のコンプレックスは前々からありました。
そこでいくつか入門書を手に取ってみたのですが、今年8月に出たばかりの深沢眞二氏著『連句の教室 ことばを付けて遊ぶ』(平凡社新書)という好著を読みましたので、ここでご紹介したいと思います。
著者は和光大学で教鞭を執り、芭蕉など連歌・俳諧の研究では第一線で活躍中の人物。1991年第1回柿衞賞の受賞者でもあります。

本書は深沢氏が和光大学で実践している講義をもとに、実況形式で書かれています(2012年度春季共通教養科目とのこと)

つまり読者は学生気分で、実際に毎週の講義で蓄積されていく連句の教室=「座」に入り込むことができるし、0から知識を蓄えていくことが出来るという寸法。
実況形式ということでは小林恭二『俳句という遊び』(岩波新書)に近いですね。
トランプでもなんでも、ゲームは説明うけるより「やったほうがはやい」ことが多いもので、ややこしい式目(ルール)がこと細かに書かれた入門書よりは、実践形式の講義に、いっしょに参加して楽しんだほうがわかりやすい、というわけ。

ここで冒頭、「まえがき」の一部を引きます。
連句は、言葉を使った遊びの一形式です。 
それは、文芸としての前段階である「連歌」の起こりから数えれば、すでに千年におよぶ歴史を持っています。現在おこなわれている一般的な連句は、芭蕉(一六四四~一六九四)の時代に定着した全三六句の「歌仙」形式の「俳諧之連歌」に範を求めていますから、そこからでもすでに三百年あまりの時間を経過しています。・・・・・・ 
「短歌」や「俳句」や「詩」の実作の授業なら、受講生一人一人の名のもとにそれぞれ独立した作品を求めることになるのでしょうが、連句はもう少し、作品の創作主体が集団に溶けている形式です。そのつど前句が提示されて、それに句を付ける、いわば「続きのお話を加える」ことを求めます。

なるほど、「創作主体が集団に溶けている」とはおもしろい言い回し。
俳句でもよく「座の文学」という言い回しがありますが、たしかに、一度参加した連句の座では、俳句とは比べものにならない「座」の共同性、連帯感がありました。
句を付けるにあたっての評価のモノサシは、お話として前句とつながっていることを前提として、他の人の思いつかない独自の展開の句を付けることです。言い換えれば、連句は、前句という条件を与えられた状況下での、想像力の競争です。「ちがったことを付けることができた人が勝ち」になるゲームなのです。
独自の「展開」ということ、独自性では個性が重要だが、あくまでも「ちがったことを言う」ではなく「付ける」、前句とのつながりのなかでの個性という縛り。
うーん、なかなか難しそう。

毎回の授業は、「前句」が掲示され、「付句」を提出、翌週の講義で高得点や講評が発表されたうえで、採用された次の「前句」に対する「付句」を提出させる、という形で進められていきます。
半期で三六句(歌仙)を完成させるため、ときどき深沢氏が付けたり、グループ実作としてそれぞれに付け合いを進めさせていく形式をとったりもします。

ここで実際の作品と、深沢氏による選評を聞いてみることにしましょう。次の句は例示にあげられた「和光連句2010」のうち第三句から第五句。

 3 天に向けまた目を覚ますふきのよう  二狼
 4  にがい失敗成功のもと  山左右
 5 月面へ届かなかった13号  無頼庵五月

以下は4、5の句評。
この4は私の句(注、山左右は深沢氏の俳号)ですが、「ふきのとう」に「にがい」を付けているだけで、むしろ続く5で大きく展示させようとした、抽象的で漠然とした句です。こんなふうな、連句の進行ばかりを重視した性格の句を「遣り句」と言います。 
・・・・・・そうしたら期待通り、この4がすばらしく新鮮な話題を提供して転じてくれました。1~3とはまるで違う世界へ、想像力が飛躍しています。4を受けて、アポロ13語がそうだった、と具体例を示したのです。・・・・・・
俳句をやっている人間からすると、4の句はきわめて理屈っぽいし、5も単独で見ると当たり前のように感じます。一方、「4」から「5」への飛躍は、はっとさせられるものがある。実際参加していて4句への付け句を考えているときに、5句のアポロが宇宙に連れて行ってくれたら、すばらしいだろう。
要するに、「3+4」「4+5」というくくりで見なければいけないということ。

次は本番である「和光連句2012」から。

 5 明月に小さな自分噛みしめる  史
 6  いただきますと拝む新米  山左右
 7 秋祭り弁財天に願を掛け  誤喰

ちなみに第5句は、いわゆる月の定座。かならず月を詠み込んだ句を作る場所です。
連句には三六句のなかで「月」や「花」を詠み込むべき定位置(定座)が原則決められているわけですが、そんなルールがなぜ生まれたのか、それは連句が書かれるときのスタイルに原因していることが、本書96100ページに解説されています。大変わかりやすいので、どうぞ本書をお読みください。
上では、第5句の「月」から第6句が秋の季節感と「噛みしめる」感覚を付け、第7句「秋祭り」へつないでいます。では第7句に対する付け句の講評から。
 恋の神器はピンクの腕輪  宅権 
これ、ちょっとはっとしましたね。そういえば弁財天さんって腕輪しているなって。細かなポイントをよく付けてくれたと思います。ただ、「神器」という言葉は、強すぎるかもしれません。
ということで最終的な付け句は、

 8 恋のまじないピンクの腕輪

と添削されて採用されたのですが、「恋の神器」のほうがマジックアイテムぽくて面白いのに、「まじない」では類型的でぼけてしまうのではないか。
このあたりのぼやかし方が、連句的な「溶けた」感じなのか、それとも捌き手である深沢氏の個性なのか。そのあたりは曖昧ですが、「俳句」という文芸が「連句」と分かれた、その根拠の一つであろうとは思えます。
一方で平句から生まれた「川柳」は、なぜ分かれていったのか。「発句」との違いは何か。
そのあたりの機微を、俳句Gathering当日は考えてみたいところ。




本書の連句には、実は和光大学で講師をしていた俳句作家の高田正子氏も参加していて、本文中では言及がないのも、個性が溶けた共同体集団ならでは、と言えましょうか。

高田氏による解説、「連句の教室濫入記」は、俳句作家から見た「連句の教室」見聞記なので、俳句関係者には一層読みやすいでしょう。


2013年11月4日月曜日

本音と建て前


俳句Gathering vol.2の準備を進めている。
ようやく、今年の詳細を発表することができた。


blogも、約半年ぶりの更新となる。
正式なチラシはまだ完成していない。鋭意制作中である。

俳句をやりこんでいる人はもちろん、
俳句には興味があるが、敷居が高いと思っている人、
いままで俳句に興味も関心もなく、そもそも考えたこともない人、
すべての人に楽しんでもらえるような、お祭り的なイベントを企画したいと思っている。

とはいえ、実行委員会はそれぞれ仕事やプライベートがあるなかでの兼業であるうえ、ゼロからすべて手づくりなので、簡単なこともなかなか進まないことが多い。

結社やグループのプール金があるわけではないので、協賛企業をお願いしたり、個人の寄付金なども順次お願いしている。これから俳句の集まりに行くときには、こっそり募金箱を携えて、個人寄附をお願いして回るつもり。俳句Gatheringを応援してくださる方は、ご協力をよろしくお願いします。


のっけから愚痴のようになってしまったが、俳句Gatheringや俳句ラボ活動を通じて、私としては、特に同世代に対する俳句のイメージを変えていけないか、と思っている。
俳句のイメージを変えていくことで、俳句にかかわる享受者を広げたい、と思っているのである。

表現は、表現史を更新するすぐれた表現者だけでなく、
その表現を受容し、作品に驚いたり笑ったり感動したりしてくれる「読者」がいないと成り立たない。
そして、散文と違って韻文の場合は、読むのに一定のルールがあるから、放っておいても読んでくれる、というわけにはいかない。積極的に「読者」を育てる努力も必要なのである。

その意味で、俳句甲子園が、毎年何百人もの高校生と俳句との出会いの場を提供していることは、それだけで驚異であり、すぐれた仕事だといえる。
当blogや、あちこちで機会を得るたびに強調してきたように、俳句甲子園の最大の功績は、神野紗希や佐藤文香、山口優夢のような、ごく限られた一部の「ゼロ年代作家」を生み出した点にあるのではない。
すぐれた作家を生み出す場であると同時に、多くの「俳句愛好家」を生み出す場であることが重要なのだ。

「俳句甲子園」の是非を論じる人々は、あまりにもストイックに、実力者、天才を求めすぎている。新聞の投稿俳壇がそうであるように、あるいは各地の俳句大会がそうであるように、その場から作家として、あるいは批評家として自立していく人など、ほんのわずかである。
それでいいではないか。
そのようなディープな「関係者」ばかりを「読者」に限定する必要はない。
俳句には、もっともっとライトな「読者」が必要なのだ。

参考.


というのが、理論上の建前。

一方ではやはり、俳句甲子園の後輩にも、もっともっと深みにはまって欲しい気持ちがある。

簡単なはなし、お酒呑んで好きな句集の話とか、したいじゃないですか。
どんな作家が好き?とか。最近なんの句集読んだ?とか。

句会とかに行っても、世間話だったり近況報告が多く、好きな俳句の話をする機会が、案外なかったりする。
週刊俳句の特集の話とか、角川俳句受賞に対するあれこれとか、ときにゴシップまがいのあれやこれや、でお茶を濁すことの方が、多かったりする。
それはそれで、その場では楽しいのだけれど、思い返してみるとせっかく「俳人」なのに「俳句」じゃなくてその周辺の話題ばかり話しているのは、とてももったいないことだ。

私が甲子園に出場するときは、今ほど「若手ブーム」ではなかったから、参考にした本はひと世代前の人たちとあまり変わらない。
小林恭二『俳句という遊び』『俳句という愉しみ』(岩波新書)が一番のバイブルであり、これは今でも座右の書。何度読み返したかわからない。
アンソロジーとしては、むろん平井照敏『現代の俳句』(講談社学術文庫)が一番数も多く顔ぶれも安定しているが、通読するには多すぎる。読み物としては大岡信『百人百句』(講談社)、金子兜太編『現代の俳人101人』(新書館)正木ゆう子『現代秀句』(春秋社)あたりにお世話になった。春秋社シリーズは結構読んでいて、富安風生『大正秀句』が絶品である。
実は塚本邦雄『百句燦燦』(講談社)を手にしたのはずいぶん後である。山本健吉『定本現代俳句』(角川選書)も、買うだけは買ったが長らく積ん読だった。むしろ読みふけったのは川名大『現代俳句 上下』(ちくま学芸文庫)で、このあたりに私の嗜好があるといえるかもしれない。

作家としてはじめに好きになったのは、関係の深い塩見先生や坪内先生、山口誓子の三人を除くと、三橋敏雄。これは小林恭二の著作で知って、なんとなく好きになって、句集も1、2冊、すぐに買っている。<鉄を食ふ鉄バクテリア鉄の中><石段のはじめは地べた秋祭>なんて、なんでこんな句ができるのかと痺れた。
思うに、三橋敏雄にはホームランよりヒットが多い。金子兜太や高柳重信のように時代を画する爆発的な表現ではなくとも、じわじわ、何度読んでもいいなぁ、という句がたくさんある。
ちなみに、印象は全然違うのだが、そういう、句を続けて読んだときの感触みたいなものが、私にとっては池田澄子さんと三橋敏雄に共通していて、二人とも、句集を読んでいると「○」ばっかりになってしまう作家である。

そのうちに高柳克弘さんが登場し、『凜然たる青春』(富士見書房)の連載が始まって、こちらも多大な影響を受けた。


ライトな読者を増やせ、ということとは別に、やっぱり、好きなものは好きだし、どんどん読んで、一緒に好きな物について話したい気持ちは、あるのである。
 


2013年10月27日日曜日

暗躍


ご存じのとおり大学の夏休みは8月・9月なんですが、夏休みのあいだやろうと思ってた作業が終わらないと、いつまでたっても引きずることになってしまうわけで。次にやらなくてはいけない作業、次、次、と順送りに遅れていって、ますます余裕がなくなって自転車操業に。。。
この10月は夏の宿題が終わらない小学生のように、焦りながら作業していました。

とはいえ、何もしていなかったわけではありません。
blogではご報告できていないものの、一応いろいろ、暗躍してるんです。


まずは、今年もやります俳句Gathering

昨年は第一回ということで、やるほうも見るほうも結果がどうなるかわからない、出たとこ勝負のお祭りでした。思った以上にうまくいったところもあり、うまくいかなかったところは、もちろん山ほど。

とはいえ、多くのかたにご来場いただき、応援や、厳しいご意見も含めていろんな感想をいただけました。

だからこその、第2回。
昨年は、さすがに長丁場に過ぎました。
内容も、時間も、もうすこしコンパクトに、シェイプアップして、でも「やりたい放題」の無茶な感じは残しつつ。
公式ツイッターのほうで少しずつ告知していますが、内容も煮詰まりつつあります。
来月頭には、正式なご案内が出来る予定。

昨年ご来場いただいた方にも、
昨年見逃した、という方にも、
たくさんおいでいただき、
楽しんでいただきたい。

俳句をやっている人はもちろん、俳句をやったことがない人、なんとなく敷居が高いと思っている人に、気軽に楽しんでいただけるイベントとして、発信していきたいと思います。


で、そのGatheringの宣伝をさせていただける、ということで、FM京都・「俳句セブンティーンズ」に出演させていただいてきました。

俳句セブンティーズに関しては、「週刊俳句」でも紹介されています
月1回、日曜日の朝6:00から、小池康生さんが司会で、クラシックと俳句が聞ける番組。アシスタントは中川舞美さん(京都大学学生)。番組内のコーナーで俳句を作りはじめたそうですが、俳句に関してはまったくの初心者。
こーゆー感じで、かるーく俳句やクラシックに触れられる入門って、大事ですよね。
先日、京都烏丸のスタジオにお邪魔し、和やかな雰囲気のなか収録に参加することが出来ました。

というわけで、FM京都(αステーション)俳句セブンティーンズ、次回放送は11/3日曜、朝6:00~です。

Gatheringについて、かなりがっつり宣伝してます。よろしければ、お聞き下さい。


それから俳句ラボは、今日第2回目が終了。

6・7・8月の杉田先生が俳句の基礎知識をしっかり押さえて下さっていたので、私は安心して俳句の実作や句会をやらせてもらってます。こちらも、昨年よりもたくさんの方々に来ていただいてます。
45歳以下の句会、なんて需要あるのかと思いましたが、案外ほそぼそと続けることが出来ているので、ありがたいことです。

久留島の担当回は来月で終わり、12月からは塩見先生の担当です。
こちらは今からでも申し込み可能です。上のリンクから、柿衛文庫にご連絡ください。


そういえば、芝不器男俳句新人賞今月末が〆切。

今回はそれなりに戦略を練りつつ、やってみたい実験があるので調整しているのですが、最近どたばたすぎてまったく手つかず状態。
これからの数日で、なんとか完成させねば。


新人賞と言えば、第10回鬼貫青春俳句大賞の〆切は11/13 です。

実は今回、記念すべき第10回ということで、選考会・授賞式ではこんなものが企画されているようです。
☆座談会・公開選考会・表彰式・・・2013年12月7日(土) 午後2時~5時 
於 柿衞文庫 講座室(兵庫県伊丹市宮ノ前2-5-20)
  ● 歴代大賞受賞者(敬称略)による座談会(予定)
   コーディネーター 塩見恵介(第1回・第2回選者)
  徳本和俊(第5回大賞受賞)×久留島元(第7回大賞受賞)× 林友豊(第9回大賞受賞)


何を話すか、まったく聞いてないんですが。

まあ、当日、いい作品にもお目にかかれればと思います。

以上、いろいろ、暗躍の成果でした。


2013年10月12日土曜日

つくる


ネット世界によって領導されつつある、俳句の「読む」方向への流れについては、当ブログでも再三言及してきた。
 曾呂利亭雑記 俳コレからスピカ「読」を分解する

筑紫磐井氏による「「結社の時代」とは何であったのか」で明らかにされたことは、昭和60年代から俳句総合誌(特に秋山みのる編集の角川『俳句』)によって「俳句上達」「俳句入門」の風潮が形成され「結社の時代」というキャッチフレーズに至ること、現在まで実作に偏した、それも「先生(入門書)に教えてもらうことで上達していく」ような、受け身の実作者を養成する体制が整備されてきたこと、であろう。

俳句界において、自分の作品を読んでもらいたい「作者」はたくさんいるが、人の作品を読み、鑑賞する「読者」はほとんど存在しない。

そのアンバランスについての反動が、現在の「読む」流れを生んでいる。

俳句にかかわる、いわゆる「俳人」としてならば、「読む」流れへの共感だけですむ。
しかし一方で、「俳句作家」の一員としては、「読む」流れへの共感だけですませるわけにはいかない。
つまり、「読む」意識の関心の高まりを「作る」側の理論へ、とりこみ、消化する必要があるだろう。

同時に、「読む」意識を取り込むことをしない、端的に言えば「読者」を必要としない句について、我々はもっと思考するべきなのかもしれない。



俳句は、「作る」面と「読む」面が相補されて成立している。

ほかの文芸も基本的には同じ構造にあるが、俳句が顕著であるのは「句会」という場において「作る」行為と「読む」行為が交錯し、作者の目の前で作者から離れて作品を「読む」ことが原則となっているところにある。
むろんその功罪もあるのであって、俳句は基本的に「作る人」=「読む人」になってしまうので、純粋読者が育ちにくい、さらに専門集団による符牒のやりとりのような、身内ウケの自家中毒のような作品が量産される、という問題がある。

「読む」意識の高まりは、俳句を外へ開く、きっかけともなったはずである。

しかし同時に明らかになったのは、同じ「読む」行為に含まれる、二方向の隔たりではなかっただろうか。
「句会」において、目の前に作者が居る前提(作者の風貌・人格を知っている)で、複数作者の句がランダムに並ぶ清記用紙のなかから、句を選び鑑賞するという行為と、
句会を離れて、句集ならば句集に向き合い作者の句を「群」として通読する行為、あるいは一句鑑賞のため一句に向き合い、鑑賞する行為。

体感として、やはりそこには差がある。

そして、関連して言うならば、句会ごとに兼題や席題に応じて、あるいは当座の季節に応じて、目の前にいる句会仲間にむけて「作る」句と、
句会という場を経ることはあってもその後さらに賞への応募や寄稿という形で、あるいは句集にまとめて、「発表する」句と、
意識のなかで相当の差があるのではないか。

毎月の「句会」のための、あるいは投句〆切、あるいは日記、あるいはつかの間の息抜き、のために日々量産される「句」について、その表現がどのようなものであれ、作者と、「句会」をともにする人々が楽しんでいる限り、その句には明確に存在意義がある。

それらの句の「読者」は、あるいは結社の主宰であり、あるいは句会の先生であり先輩であり、あるいはもっと身近な家族だけかも知れない。
それらの「読者」は、いわゆる「精読者」ではないかもしれないし、また作品も「精読者」の目に耐えうる作品では無いかも知れない。
しかし、表現の未熟や発想の類型を指摘することが無意味でしかない、日々量産され消費されきえゆく俳句が、まことに陳腐な比喩で恐縮ながら「肥やし」となり、「俳句」という形式を存続させてきた事実を無視してはならない。

多くの先達がその糧としてきた『ホトトギス雑詠選集』、
現在そのもっとも優れた水先案内人である岸本尚毅氏が注目する句、
あるいは外山一機氏の連載「百叢一句」に取り上げられる無名作家たちの句、

表現史を志向しない、その意味では底辺を支えている句、日々「作られる」句によって「俳句」という表現形式が認知され、その認知のうえに、はじめて俳句の表現史が形成されているという事実について、我々はもっと真剣になる必要がある。



spicaで始まった冨田拓也氏の連載「書架の前にて」に、ある種の恐怖を覚えるのは私だけだろうか。

この連載は、冨田氏が書架から気ままに選んだ一冊の本をもとに一句作り、関連する文章を掲載する、という形式になっている。(相変わらず否定や曖昧な修飾の多い独特の佶屈な悪文ではある)

いわば関悦史氏が行った「もはやない都市 読まなくてもよい書物」と同趣向といえるが、しかし、一連の句を並べたとき、その違いは歴然とする。

  宇宙人を食うて緑となりにけり  関悦史  2012年1月27日
  遍歴の銀漢に寝む逗子に寝む  2012年1月19日
  猿のゐし雑居ビル消え踊る二人  2012年1月1日


  『黄金時代』秋声にひらきしは  冨田拓也  10月4日
  こだまなす『俳句とは何か』秋深し   10月8日
  秋昼寝『高濱虚子』と詠まれし句    10月12日

ご覧のとおり、冨田氏の作品には書名がそのまま取り込まれ、しかも当季の季語(秋)を加えて作られている。
つまり、極端に言えば10月2日<露の夜『一千一秒物語』>のように、「季語」+「書名」だけで句が量産されてしまうのだ。

普段「俳句」を人にすすめるときに、「取り合わせ」によるもっとも軽便な方法を愛好している私としては、一概にこの作句技法を否定することはできない。
さらに言えば、私自身、同じコーナーで「妖怪俳句」なる枠組みを設定して一ヶ月間悪戦苦闘し、spica三姉妹から厳しい批評をうけたことを思えば、冨田氏の連載についてとやかく言うべきではないかもしれない。

しかし、それでは「冨田拓也」という作家にとって、その「つくる」行為、そしてその句をウェブ上にせよ「発表する」行為、とは何なのだろうか。

そこに果たして、「読者」はいるのだろうか。
 

2013年9月20日金曜日

俳句ラボ

「俳句ラボ」、9月からは久留島が担当します。

初回は9月29日(日) 14:00~。

よろしくお願いします。


若手による若手のための俳句講座「俳句ラボ」


関西在住の若手俳人 塩見恵介、中谷仁美、杉田菜穂、久留島元の各講師が、俳句の作り方や鑑賞の方法などについてわかりやすく、楽しく教授。
魅惑的な俳句の世界へエスコートいたします。句作経験が無くても大丈夫。
実作を中心に実践的な句会を体験していただく、ユニークな内容を予定しております。

対象:45歳以下で俳句に興味がある方ならどなたでも。
内容:各月の最終日曜日、2時から5時
基本を学ぶ(6・7・8月 講師:杉田菜穂)
どんどん作って上達(9・10・11月 講師:久留島元)
楽しいイベントと句会(12・1・2月 講師:塩見恵介・中谷仁美)
※3月には、全講師参加による総括句会を予定しております。
※受講者は、講座終了時に作成する作品集(講師、受講者の作品などを掲載予定)に作品をご掲載いただけます。
受講料:
  1、2、3すべて受講:5000円
  1、2、3いずれかを受講:1期につき2000円
問い合わせ・申し込み:

  電話(072−782−0244)で公益財団法人柿衞文庫まで

2013年9月17日火曜日

『WHAT 2013 Vol.1』を読んだ


『週活句会メンバーによる合同句集 WHAT 2013 Vol.1

201391日、マルコボ.コム発行。
概要は表紙に印刷されているとおり。
Weekend Haiku AcTivities 18歳から20代までの方のインターネット「週末俳句活動句会」略して「週活句会」メンバーによる合同作品集

18歳から20代、具体的には俳句甲子園世代(出場の有無を問わない)によるメール句会から、有志16名が15句ずつ持ち寄って作った作品集、ということのようだ。

きわめてシンプルなデザインのお手軽句集だが、夏井いつき率いる「100年俳句計画」の一環として始動した「句集Style」シリーズのひとつらしい。
135mm×135mm36ページ。

目次
 指先に空   小鳥遊栄樹
 水の記憶   安里琉太
 硯の海   森直樹
 感覚的宇宙   雀子
 自由   ひで
 リメイク   仮屋賢一
 靫草   京極堂
 何色   紫音
 持ち帰る   希望峰
 かさぶた   晶美
 憶ゆる躯   川又夕
 蛇口からポンジュース   夕加
 水蜜桃   正人
 朝との境   若狭昭宏
 眼鏡の縁   ゆまるばたこ
 ユニセックス   夕雨音瑞華


本書の購入方法、「句集Style」シリーズに関する詳細はマルコボ.コムHPを参照。

 

何人かとりあげて鑑賞してみよう。

  パレットは真つ青 春の水流る  小鳥遊栄樹
  のど飴を噛み砕きたる夏の果
  小春日やパウンドケーキに気泡あり

破調気味の句をふくめて、どれも素直な詠みぶりといっていい。
言葉に無理をさせないというか、等身大の日常雑感に対して、やわらかい季語をうまく取り合わせた、という句が多い。句意も平明、明快で、いたって健康的な、若い作者の日常がうかがえるという点、実に嫌みがない。
とはいえそのぶん、力強さやインパクトもあまり感じられない。そのなかで印象に残ったのは次のような句。

  夏空を舐めた味するやうな朝
  サンダルに流星蹴つたやうな傷

似た形の句で、作者の得意なパターンなのかもしれない。
実際にパターン化してしまってはおもしろくないが、「夏の朝」や「サンダルの傷」という日常的な世界を、かなり強引で抒情に過ぎる比喩の世界にもちこみ、無理矢理まとめあげる体言止めの作り方は、はまれば強い。


悔しいけど君と私は似ていて春雷  雀子
ラズベリータルト晴天でよかった
蟷螂が死んだ何も言えずに死んだ

小鳥遊に比べ、季語の世界を超えた饒舌さが際立つ。
作者を中性的な、スイーツ系男子ととってもよいが、この饒舌さはやはり若い女性と見るべきか。加藤千恵『ハッピーアイスクリーム』を読んだときのような読後感。
(「いくつもの言葉を知ったはずなのに大事なときに黙ってしまう」「嘘をつくときが一番やさしかったあなたのことを恨んでいない」など)

そんななかで、

木星から帰ってこれないパプリカ

の舌足らずな突き放し方が一番俳句っぽいのでは、と思った。
色彩鮮明な「パプリカ」が、ガスに覆われた「木星」へ行ってしまうことも突飛だが、「帰ってこれない」状況、しかしよく考えれば(たとえ事実でも)まったく問題ない。その肩すかし感が、作者の一人語りのような句群のなかでちょっと異彩を放っている。


排気筒ふるはせ野焼見てをりぬ   正人
クロッカスクロッカス終戦はまだですか
鳥一羽ぶち込んで炊く立夏かな  

本書の参加作家のなかではもっとも安定して好きな句が多かった。
「排気筒」の、何も言わず叙景に徹しながら「ふるはせ」の一語に心情を沿わせた一句。「クロッカスクロッカス」とほとばしるように口ずさむ、軽さと思いの深さ。「鳥一羽」の文字通り豪快な、おいしそうな感じ。
他には、

  愛の詩を噛むブロッコリブロッコリ

もいい。上五からのうっとうしい、臭すぎる流れを「ブロッコリ」の軽さにつなげる。「ブロッコリ」のリフレインは、ブロッコリを噛むあの食感にも似て、青臭くも楽しい。


そのほかの作家から。

人参の顔とおぼしき箇所摘む  安里琉太
雀の子実家の時計遅れをり  森直樹
ずんずんと花野へ進む取材班  ひで
台車に虫ゐて今日から村に住む  仮屋賢一
月は多分一穿ちの穴なんだらう  京極堂
クロッカスわたしの好きな色よ咲け  紫音
雷やダーツ孤独を知つてしまふ  喜望峰
やはらかに闇はがしけり雛の燭  晶美
男ども通り過ぐ朝髪洗ふ  川又夕
結婚やしますしました青嵐  夕加
鳥の巣の蓋を探してゐる子ども  若狭昭宏
観月のおもちゃ箱よりシンデレラ
サングラスはずして会いたい人は誰  ゆまるばたこ
逃避願望果ては現実冬菫  夕雨音瑞華
ぞつとする明るさに溺れる四月


 

2013年9月10日火曜日

9/9連句の日


連9、で「連句の日」(だった)らしい。
まだ普及していませんが、そうらしいです。小池正博さんに聞きました。



先月の末「大阪連句懇話会」というところにお邪魔してきました。

小池正博さんからお誘いをいただいて、前半「俳句甲子園世代と若手作家の現状」ということで小一時間ほど話させてもらい、後半は連句の座にも参加してみました。

もちろん私、連句はまったく初心者。
この日のために一応いくつか指定された本は読んでいったものの、実際やってみるまではまるでわかりません。
ところが、当日はゲストということで発句をもとめられたので、

  三つめの目の玉ひらく秋暑し  元

と作り、ひとまず皆さんのやり方を見学することに。

言い忘れましたが、私の本業が「お化け」研究だということで、これも小池さんの提案で「妖怪」しばり(賦物というそうです)の半歌仙(歌仙三十六句の半分、十八句)になっております。従って、「月の座」も「花の座」もすべて「妖怪」がらみになるはず。

この日は5、6人ごとのチームにわかれ、それぞれ別々の歌仙を巻く形式。チームによって「和漢聯句」や「短歌行」を行っているところもあり、同じ会場にいながらバラバラというのも、なかなか不思議な気分。

こちらの「妖怪連句」では、まず「捌き手」、宗匠役の小池さんが「脇句(二番目)」を出します。
    あやしの里を照らす月光  正博

うむ、「妖怪連句」らしいスタート。
ふつうの歌仙ではもう少しあとに出す「月」を、今回は「秋」で月の季節なので早めに作った、のだとか。

ここからは歌仙の参加者が、それぞれ出来た句をどんどん提出し’(出勝形式)、「捌き手」がルールや展開をふまえながら選び、「付けて」いきます。
もちろん作るのは無作為に作るわけではなく、たとえば第三句は発句・脇をうけながら次の展開をみせる、季節はまだ秋のままで、などの条件があります。

この第三句あたりから、だんだん「連句」らしさが出てくるのだろうと思いますが、この時点で、「俳句」の人間としてはずいぶん雰囲気が違うなぁと驚きます。

まず投句に時間や数の指定がない。
作りながら皆さん、お茶飲んだりお菓子食べたり、けっこうのんびり雑談を楽しまれている。作るヒントを探しているのもあるんでしょうが、全然関係ない話題も多い。
私も結構お化けの話をしたり、俳句の話をしたり、のんびり過ごさせてもらいました。この雰囲気は、句会で〆切直前の緊張感とは全く違います。
芭蕉の時代なんかは数日かかって歌仙を巻いていますし、ネット上でも、長いときは数ヶ月にわたって続いていることがありますね。

だいたい皆さんが作って打ち止めになったと思えば、「捌き手」が、出た句のなかからふさわしいものを選んでいくわけですが、今回は通常の歌仙ルールに加え「妖怪」しばりなので、参加者も頭を悩ませています。
選ばれたのは、「なま臭き風吹き渡る薄原 品部三酔」でしたが、作者と捌き手が相談して、次の句に続きやすいように添削が行われました。

      あやしの里を照らす月光  正博
    薄分け生臭き風吹き渡り   三酔

連句は前句との流れと展開を重視するので、前の句に使われた語を使うのはアウト。直接使うだけでなく、発句が「三つ目」なのでしばらくは数字は使わないとか(「一反木綿」とか「一本足」なんて使えないわけです)、前の句で「人物」が登場したらしばらくは「風景」にするとか。
重複を嫌うのは、「連句」として一つの作品が完成したときにマンネリ、中だるみを防ぐためなのだろうと思われます。
しかし、句を選ぶのも「捌き手」なら、句を棄てるのも「捌き手」です。棄てられた句はもう日の目を見ないわけで(もちろん改作して再利用は可能ですが)、連句の座における「捌き手」は、初見の限り絶対君主のごとし。
最終的に完成する歌仙の性格は、すべて「捌き手」にかかっていると言ってもいいわけです。
たとえば第四句では

    薄分け生臭き風吹き渡り  三酔
     おいてけ堀にぷくり泡立つ  なおみ

と付いたのですが、脇句の「あやしの里」が場所、地名だとすると「おいてけ堀」の地名はかぶるのではないか、という見方もあるらしい。(一句おいてカブるのを打越と呼ぶ)
これを許すも許さないも、「捌き手」のさじ加減ひとつであり、まったく「作者の作品」という考えが、通用しない。

俳句の場合、たとえ主宰に選ばれなくても、あとから句集に忍ばせるとか、お勧めしませんが別の句会で出すとか、自分で発表することが可能です。
しかし、たとえば先の「おいてけ堀に」が棄てられたとしても、あとで前後の句から独立させて発表する・・・ということは、ない。できない。

ううむ。「俳句は座の文芸」と、私も人並みに唱えたことはあるが、やはりホンモノの「座の文芸」に参加してみると、個人主義の文学とはかなりの懸隔がある。

一方で、では「作者」個人を感じる瞬間は無いのか、というと、それも違う。第五句は

     おいてけ堀にぷくり泡立つ   内田なおみ
    飛び上がる河童の皿にりぼんあり  もりともこ

と展開したのだが、本所七不思議の、よどんだ「おいてけ堀」から、「河童のりぼん」への飛躍はお見事で、発句からの江戸情緒的な雰囲気が一気に変わってしまった。

まだ連句の世界は一度、入り口からのぞいただけなのでわからないこと、誤解していることが多そう。

「連句」のルールも含めて、もう少し確かなことが言えるようになったら、またご報告したいと思います。



さてさて、連句懇話会で話題になったのが、今の俳人で連句人は誰でしょう、という話題。

当日もお会いした連句協会の会長、臼杵遊児さんは俳句は「春燈」に属しているそうで、また「船団の会」の梅村光明さん、赤坂恒子にもお会いした。
ただ、いま連句と俳句の二刀流で有名人は少ないようだ。俳句のほうでは小澤實さんや品川鈴子さんが知られているが、協会に属さずやっている人も多く、相互の交流は盛んではないらしい。

と、そこで思い出したのが橋閒石
一般には
  蝶になる途中九億九光年
  階段が無くて海鼠の日暮かな
   噴水にはらわたの無き明るさよ
  銀河系のとある酒場のヒヤシンス

あたりが有名だろうか。
晩年になって蛇笏賞で知られるまでは、英文学者として、また俳諧・俳句の研究で知られていたのは周知のとおり。
もともと印象的で好きな句が多かったこともあり、連句会で名前が出たことなど、いろいろの都合で詳しく読みたくなり、図書館で『橋閒石全句集』を借り出すことにした。

さいわい橋閒石は神戸の大学で長らく教員をしているので、神戸市立図書館には蔵書が多いわけである。

そしたら、出るわ出るわ。
「俳壇」とまったく交流のなかった初期から、面白い句がたくさんある。

  目つむりて剃られゐる子よ朝燕  『雪』「道程」
『雪』の発行は昭和26年、「道程」は昭和23年以前の句だそうですから、明らかに寺山より早い。(寺山は昭和10年生まれ。第一句集『我に五月を』は1957年刊)
少女が襟足を揃えてもらっているのか、それとも少年が生えかけの髭を剃られているのか。
すこしエロチックな感じの句です。

かと思えば、
  子と遊びたく春宵を酔うて帰る   『雪』「彩雲」
どこかの酔いどれ俳人を思わせるような(固有名詞は避けます/思い当たる人名はたくさん)句もある。

  現れし漢いきなり野火放つ  『雪』「彩雲」
のような乱暴な句もあれば
  雲うすく芽木にかかれば帰りたし
と湿っぽく、
  靴下のどれも濡れをり梅黄ばむ  『朱明』
    生欠伸とめどなし含羞草に触れ
のようななさけなく可愛らしい句、
  露早き夜の鉛筆削り立て
  螻蛄の夜のどこかに深い穴がある
  すいと来る夜をふかぶかと沈む椅子
と奇妙な感覚で作られた句もある。

うーむ、このバラエティ。侮りがたし。

まだまだ晩年にむかって句集は続くので、じっくり楽しみたいと思います。  

※ 9/12、補足追記

2013年9月4日水曜日

告知、船団フォーラム

告知が続きます。

船団俳句フォーラム 第2回
講演とシンポ
 「女たちの俳句」を読む

 坪内稔典が雑誌「俳句」(角川書店)に「女たちの俳句史」を連載しています。女性の俳句についての新しい見方が示されており、何かと刺激的です。今回の俳句フォーラムでは女たちの俳句に焦点をしぼり、女たちの俳句の現状と未来を考えます。

日 時: 9月14日(土)14:00~17:00
場 所: 園田学園女子大学 30周年記念館 3階 大会議室
阪急神戸線塚口駅下車西南へ徒歩10分 アクセス
電話: 06-6429-1201


 講演とシンポ 

講 演 : 「女たちの俳句―現状と未来」
神野紗希(俳人)(こうの・さき)
シンポジウム: 「女たちの俳句史」を読む
中原幸子・小枝恵美子・わたなべじゅんこ・工藤惠
木村和也(司会)

参加料 船団の会会員 500円 / 一般1000円
 参加される方には、会場で、「女たちの俳句史(1)~(17)のコピーを差し上げます。
参加申し込み: 不要
問い合わせ: 船団の会(電話:072-727-1830)


船団フォーラムに、神野紗希さんが登場。

そういえば私もお会いするのは久々かも。
紗希さんのテーマのひとつ、「女性俳句」に関する講演と、シンポジウム。
楽しみです。


愛媛大学准教授で、今年俳句甲子園の審査員をつとめた青木亮人さんによる、俳句甲子園レポートが愛媛新聞に掲載されました。多くの出場者、関係者にインタビューされた成果です。

愛媛新聞ONLINEで読むことが出来ます、こちら

 出場者の大部分は高浜虚子や高柳重信などの俳句史をほぼ知らない。・・・・・・ 
 これらに対し、「俳句甲子園は狭い世界にすぎず、それ以外の俳句観もあることを知らない」との批判もある。しかし、考えてみてほしい。彼らは普、通、の高校生であり、俳句に人生を賭けた俳人ではない。たまたま学校が俳句甲子園に縁があったため参加したとか、人数が足りないので友人に誘われた出場者もいる。いつもは運動部に所属し、ライトノベルを読んだりJ-POPを聴く普通の高校生が、自分なりに良い句を詠もうと時間を費やした結果が多くの作品なのだ。その彼らが大会に出場し、勝利するとガッツポーズを決め、敗北すれば泣き崩れる。スポーツならまだしも、平成期の日本で俳句にこれだけ一喜一憂する高校生が集う大会があることがどれほどすごいことか、簡単に批判する論者はその意義を実感できないのだろう。 
その後の青木さんのツイートもふくめて、どうぞ。

俳句甲子園が、数パーセントの「ゼロ年代俳人」だけで語られることはあってはならないし、彼らを生むためだけに俳句甲子園があるのではない。出場者すべてが、人生かけて俳句に打ち込む必要はないし、誰もそんなこと望んではない。
それは、出場者たちが一番よく知ってる。わかってないのは、現場で見たこともない「俳人」だけだと、思うんですけどね。

ただし、これからの俳句甲子園がどういう方向へ転がっていくか。
回を重ね、純化して洗練していくにつれて、失うものもあるだろうし、一方で「俳句」甲子園であることを捨てては意味がない。

どうなるかな、これから。

2013年8月31日土曜日

告知

第16回俳句甲子園、終わりましたねー。

俳句甲子園結果速報 が出ております。

さすが第16回ともなると、常連校にも蓄積が出てくるし、初出場も並大抵ではない学校が多いので大会前から注目校の情報が飛び交っていました。
残念ながらわが母校は地方敗退で松山に行けませんでしたが、そのぶん洛南は活躍してくれたようだし、個人賞でも知った名前がちらほら。
最優秀の青本柚紀さん(広島県立広島高等学校)は俳句Gatheringの句相撲でも優勝した「広島の双子」。噂を聞きながら、私はひそかに「双子無双」と呼んでますが(^^;、いま一番の注目株ですね。

  夕焼や千年後には鳥の国  広島県立広島高等学校 青本柚紀


そのほかGatheringなどで見知った名前もちらほら。にやにやしながら、注目句などあげてみます。


  夕焼やいつか母校となる校舎  大阪府立吹田東高等学校 大池莉奈

  はちすから鳥が生まれてきたやうな  開成高等学校B 日下部太亮
  バカとだけ手紙に書いて雲の峰  熊本信愛女学院高等学校 皆越笑夢
  裏庭の団栗の木と同い年  沖縄県立首里高等学校 田島志保理

とはいえこれらは入賞句。入賞してない句も、もう一度「甲子園」とは別の視点から評価する機会があるといいなぁと思います。

追記。 まったく俳句とは関係ないですが、さすがこの世代になると名前のバラエティがすごいですねぇ。。。「~子」のつく名前も「優祈子」「 緋奈子」とひとひねり。こうなると昔からある名前のほうがかえって目立つかも。。



と、いうことで、暑い夏が終わり、触発されて俳句したい若手の皆さんへ。
俳句ラボ、9月からは私が担当です(笑)。



若手による若手のための俳句講座「俳句ラボ」

関西在住の若手俳人 塩見恵介、中谷仁美、杉田菜穂、久留島元の各講師が、俳句の作り方や鑑賞の方法などについてわかりやすく、楽しく教授。
魅惑的な俳句の世界へエスコートいたします。句作経験が無くても大丈夫。実作を中心に実践的な句会を体験していただく、ユニークな内容を予定しております。

対象:45歳以下で俳句に興味がある方ならどなたでも。
内容:各月の最終日曜日、2時から5時
基本を学ぶ(6・7・8月 講師:杉田菜穂)
どんどん作って上達(9・10・11月 講師:久留島元)
楽しいイベントと句会(12・1・2月 講師:塩見恵介・中谷仁美)
※3月には、全講師参加による総括句会を予定しております。
※受講者は、講座終了時に作成する作品集(講師、受講者の作品などを掲載予定)に作品をご掲載いただけます。
受講料:
  1、2、3すべて受講:5000円
  1、2、3いずれかを受講:1期につき2000円
問い合わせ・申し込み:

  電話(072−782−0244)で公益財団法人柿衞文庫まで


よろしくお願いします-。