2016年11月27日日曜日

日常と季語のこと


土岐友浩(とき・ともひろ)


 ライブ後はみんなばらばら沙羅の花 木田智美

僕が短歌を考えるとき参考にするのは水原秋櫻子編の『俳句小歳時記』なのだけれど、
秋の歌をつくりたいときに秋の言葉を探すというくらいで、
使い方としてはほとんど実用書と変わらない。

その奥に広がる「季語の世界」というものを、ときどき思う。

歳時記に載っている言葉のなかで、「晩秋」「紅葉」「菊」「木の実」は身近に感じられるし、自分の短歌にも、なんの違和感もなく使える。
しかし「秋深し」とか「冬隣」「後の月」「草の実」あたりになると、僕にとって別世界、「季語の世界」への入り口だ。ここに足を踏み入れるのは、勇気がいる。

これが「栗名月」や「菊人形」「懸煙草」「べったら市」「色変えぬ松」まで行くと、異国のお祭りを見るようで、なにかものすごく華やかそうだけれど、ここは自分の世界じゃない、という気分になる。

歳時記に象徴されるような「季語の世界」。
それは豊穣な、しかし僕の日常とはあまりに隔たった、ひと言でいえばエキセントリックな空間だ。

 コンビニの花火がしょうもなくて笑う

花火で遊ぼうと思ったら、いまはコンビニで済ませるひとがほとんどだろう。

僕が持っている『俳句小歳時記』には、

「夏の夜空の祭典ともいうべき揚花火は各地で盛大に行われるようになった。(中略)暗い夜空に開いた花が次々に色を変えては川面を指して流れて消えてゆく。舟を浮かべて酒をくみかわしながらの贅沢な花火見物もあるが、家の窓から見る遠花火もあわれ深い。庭で子供が興じるのは手花火である。中でも一番素朴な線香花火が、俳人にとっては趣深い」

とあるが、その一番素朴だという線香花火と比べても、コンビニで買った花火は、どうしようもなくしょぼい。
「花火」という「季語の世界」に属する言葉が、コンビニという日常のシステムに取り込まれたとき、「あわれ」も「趣」も消し飛んでしまった。

 ブラックサンダーどろどろになる体育館

これは無季の俳句だろうか。
前後に夏の句があるので、これも「ブラックサンダー」に「カミナリ」という季語が隠れた夏の句、と読んでもいいだろう。
いわば「カミナリ」がブラックサンダーというお菓子に生まれ変わって、体育館に姿をあらわしたのだ。

しかしコンビニの花火のように、ひとたび「季語の世界」を離れたブラックサンダーは、あえなくどろどろになるしかない。

 昼寝して見逃すウォーターボーイズ

「昼寝」は夏の季語。
ウォーターボーイズは、シンクロナイズドスイミングに打ち込む男子高校生の物語。映画が話題を呼んで、TVドラマにもなった。僕はリアルタイムでは視聴せず、森山未來が出ているというので後からDVDで観た口である。

この句のポイントは「見逃す」だと思う。
句意はもちろん、夏休みの昼間、ウォーターボーイズの再放送かなにかをやっていて、それを見逃した、ということなのだが、
なぜ見逃したか、といえば、作者が「季語の世界」に眠っていて、日常に戻るのが間に合わなかったからだ。
つまりここに書かれているのはやはり「季語の世界」と日常との隔たりなのだと、僕には思える。

「季語の世界」は、日常に引き寄せるとブラックサンダーのように溶けて跡形もなくなってしまう。
「季語の世界」に入ってしまうと、日常の世界が遠ざかる。

 香水や色褪せている孔雀の絵
 凍鶴や欠けてケーキの砂糖菓子
 葱の花海ひからせて港町


これらの句は、オーバーに言うと「季語の世界」の風景という感じがして、僕にはうまく入り込めなかった。

日常を生きる僕は、「季語の世界」をはたしてどう読んだらいいのか。

 ライブ後はみんなばらばら沙羅の花

木田さんのこの句を見たとき、はじめてそれが、すこしわかったような気がした。

ライブは日常のなかのお祭り、ちょっとした非日常の場である。
解散していく人々を見ながら、作者もまた、日常に帰ろうとしている。
そこに見つけたのが、「沙羅の花」だ。
この花は「季語の世界」に咲いている。

 ピペリカムカリシナムむかし住んだ家

「季語の世界」は、ただ遠く隔たっているのではなく、
おそらく僕たちが帰る場所のようにして、そこにある。

「季語の世界」と日常との往還。

芭蕉の弟子、服部土芳の言う「行きて帰る」の心とは、もしかしたら、そういうことだったのだろうか。

 スパイダーマン中肉中背芋煮会

遠ければ、遠いなりに「季語の世界」を見たらよいのだと気づいたとき、
ずいぶん俳句の見晴らしがよくなった。

「中肉中背」にスパイダーマンのヒーロー性を見る着眼点。
スパイダーマンのスーツと、芋の皮のイメージの共通性。
あるいは、助詞がなくてごろごろとした楽しい韻律。

鑑賞としては、そのあたりに注目することになるだろうか。

そこに僕が付け加えるとすれば、世界を日常へと引きつける作者の眼だ。
フィクションの世界を飛び回るスパイダーマンを「中肉中背」だと気づく眼が、「季語の世界」のイベントである「芋煮会」にも働いている気がする。

だから、この「芋煮会」は、そんなに遠くにある感じがしない。

 4人のRADWIMPSがみたかったよ晩夏

僕の年齢的なものもあって、残念ながらRADWIMPS自体に思い入れはないのだけれど、この句はとても胸を打つ。
晩夏の光が、作者に4人揃ったRADWIMPSのまぼろしを見せている。

「季語の世界」は、きっと日常を超えたなにかを映し出す、光のような存在でもあるのだ。


Kuru-Cole 7 木田智美



2016.11.27深夜、誤植訂正。


2016年11月25日金曜日

Kuru-Cole 7 木田智美


Kuru-Coleとは?



木田智美(きだ・ともみ)

 一九九三年大阪生まれ。「ふらここ」所属。

キャロラインの部屋には黴びたパンがある
紫陽花ゆれてこねこのトムのおはなし
ピペリカムカリシナムむかし住んだ家
香水や色褪せている孔雀の絵
スジャータのトラックのゆく夏休み
昼寝して見逃すウォーターボーイズ
ブラックサンダーどろどろになる体育館
ライブ後はみんなばらばら沙羅の花
環状線乗り換えアルトコロニーの定理
4人のRADWIMPSがみたかったよ晩夏
コンビニの花火がしょうもなくて笑う
騙しあってきたでしょう月と海ぶどう
パステルカラー錆びて寒露の観覧車
スパイダーマン中肉中背芋煮会
エンドロールは童貞のまま銀杏踏む
漫才師去る足揃う三十三才
映画のなかの雪が本物だったらいい
凍鶴や欠けてケーキの砂糖菓子
いそぎんちゃく四歳の子の髪がきれい

葱の花海ひからせて港町


木田さんは、寒天さんと同い年、吹田東高校出身で龍谷大学卒業生だから中山奈々直属の後輩である。船団の句会や、柿衞文庫での「俳句ラボ」にも初期からよく参加してくれていたので、彼女の句を見る機会は比較的多い。

一言で言って彼女の言語センスは天才的なものがある、と思う。

初期の代表作
 ラズベリータルト晴天でよかった
 月光と血とその他からできている
などは、私の愛唱句である。(彼女の手製句集「シュークリーム」に所収)
また昨年の鬼貫青春大賞では、「しりとり」と題し、「臨機応変なあなたに林檎あげる」「留守番はやねうら部屋で蝙蝠と」「ときめきが足りない南瓜も足りない」・・・という、しりとりで30句連作を完成させるという冒険(結句は「小鳥来る樹の椅子奏でるカノン」)を成し遂げた。音律でいえばかなり無理があるものの、言葉のうえで遊びつくそうという覚悟を買いたい。
今後彼女がどのような俳句を生み出すのかわからないが、内向きに籠もりがちな俳句界にとって、俳句という詩型を超えた言葉の活力を発揮できる稀少な個性といえよう。
小論には、いっそ俳句プロパーではないほうが相応しいだろうと思い、悩んだすえ、気鋭の歌人、土岐友浩氏にお願いすることにした。土岐氏は俳句Gatheringのフォーラムにご参加いただいたときからの縁で、俳句に対してもフラットな視点で接してくれるのでありがたく、ご多忙のなか無理を言ってお願いしてしまった。作家としては歌集『Bootleg』(書肆侃々房)で話題だが、鋭い批評眼の持ち主でもある。お楽しみに。

2016.11.26 誤植訂正。 1992年生まれではなく93年早生まれでした。

2016年11月23日水曜日

読みをめぐって


このBlogでも、何度か触れたことがあるけれども、作品を読むときに「正しい読み」というものは、ないと思っている。

だから「正しい読み」を前提として、誤読や、二次創作的な読みの楽しみを批判(排撃)するような言動には、いつも不快感を覚える。
そのように言うと、テキスト原理論者であるかのように思われるかも知れない。
そうではない。なんでもありの無制限な誤読を奨励するわけではない。言葉の意味や、文法上で、勘違いや知識不足によってありえない読み方をしてしまうような読み方は、もちろん避けるべきものだと想う。
季語の理解度などもこれに類するもので、季語を知らない読者が季語を季語として読まない読み方を披露すれば、それはやはり優先的な解釈にはなるまい。
それらの「誤読」が批判され、斥けられるということは、理解できるのである。

しかし、作品を読むときに、個々の読者による偏差(バイアス)を、0にすることはできない。
読者個々の教養や環境はもちろん、性別や年齢によっても偏差は存在し、その偏差によって作品に対する愛着や理解度に差が生じるのは、当たり前のことだ。
その偏差を0に近づけるべきだ・・・・・・というのは、これは研究上の領分である。
私はいちおう「文学研究者」としての肩書をもち、それが本分だと自負しているから、素っ頓狂な「誤読」を容認することは、立場上躊躇われる。
しかし、研究者ではない読者や、遠慮はいらないと思う。むしろ偏差が0になってしまえば、本当はその作品の魅力は消えてしまうような気さえする。(*1)
個人の読みのうえでは(それが個人のものであるという前提が共有されていさえすれば)、どんな文法上の誤読も、勘違いも、ときとして作品を魅力的に輝かせる補助剤となり得るだろう。まして創作家であれば、誰はばかることなく先行作品を「誤読」し、創作的な再生を試みていけばいいのではないか。(*2)

これは、別段「テクスト論」原理主義というような立場で言っているのではない。古典研究の経験上でものを言っているつもりである。

よく例に出すのだが、「源氏物語」が千年の間読み継がれてきたというのは、偏差を0にする「正しい読み」の蓄積ではなく、むしろ個々の「誤読」を重ねて来たからである。
「源氏物語」を仏法唱導の物語と読み解いたり、本文の一々に歌道の秘伝奥義をこじつけてみたり、登場人物のモデルをいちいち歴史的に比定してみたり、あまつさえ「失われた巻」を想定して創作、補筆してしまう(「雲隠」や「輝く日ノ宮」、あるいは後日談を創作する「山路の露」etc)など、歴史的にはさまざまな「注釈」「再解釈」が創り出され、創作されてきたのである。

もとより文芸作品を作家個人のものと限定しない前近代にあってみれば、面白い物語を読めば書き継ぎ加えていくのは当然のことであり、そうした無数のフォロワーたちによって「源氏物語」は読み継がれ、楽しまれてきたのである。
(男女交換の悲喜劇を描く『とりかへばや』は、もともと書かれたものが過激で荒唐無稽だったため改変された『今とりかへばや』が普及し残った、とは『無名草子』に説かれるところである)
近代においても多くの作家たちが「現代語訳」の名のもとに自由な創作を加え、解釈を施してきたことを忘れてはならない。古典が読み継がれるとは、それぞれの時代によって、それぞれに楽しまれ、再解釈されることでしか、ありえないのだ。
だから、現代において「源氏物語」を「王朝時代の華やかな恋愛物語」に限定してプロモートしたり、「ライトノベル」に再生したりするのは、まったく無駄ではない。(*3)

人は誤読を怖れてはいけないし、ましてや創作が、「正しい読み」とやらに遠慮して自分の偏差に根ざす「読み」を公開できないなど、まるで本末転倒なことだと思うのである。(*4)
  1. 私にとって佐藤さとるや岡田淳、柏葉幸子といった児童文学作家の作品は、幼少期の思い出と密接に結びついているからこそかけがえのないものであり、そうでなければただ優れた「作品」であるというだけに止まる。作品の価値は私個人の「思い」と何の関係もないが、私にとっては「かけがえのないもの」である必然は、思い出とセットである。
  2. 現在河出書房から刊行中の池澤夏樹編の日本文学全集では、現役の作家たちが思い思いに古典の現代語訳に挑戦しているが、正直異論が多い。現代語訳の「古典全集」ならわかるが、「全集」なのに現代作家はそのまま収録で、古典は現代語訳という差は納得できない。また短歌俳句に「口語訳」がつくのも妙だ。近代小説同様、原文を楽しむべきではないか、なぜ鑑賞や脚注だけではないのかと思う。そうした研究者、実作者としての思いはある。しかし「読みやすく、幅広い読者に原典の魅力を紹介」する意義と、古典の再生という側面からいえば、やはりとても意味があるし、貴重な仕事であった、と思う。
    ちなみに私が専門としている説話文学はほぼ伊藤比呂美氏の労になるもので、もう伊藤語訳古典全集を出せばいい、という気になる。町田語訳宇治拾遺物語はそれなりに面白かったけど。
  3. 現代における源氏物語の普及が、大和和紀「あさきゆめみし」や田辺聖子、瀬戸内寂聴らの作品を介しているように、今昔物語集は芥川龍之介のリバイバルによって再生し、また夢枕獏の伝奇小説によって広く知られるようになった。個々の好き嫌いはあるだろうが、誤読や、ときに冒険的な再解釈を怖れて文芸の隆盛はないのである。
  4. もちろん、偏った「読み」を披露したとして、それが支持され受け入れられるかどうかは、創作家当人の実力と、運と偶然によるだろう。創作家であれば袋だたきにあう覚悟も辞してはならぬ。

 短歌でのBLが難しい、という話題もありましたが、BL俳句の人に聞くと〈夜を水のように君とは遊ぶ仲 佐藤文香〉などはBL読みして萌えるそうです。こういう方向のBL読みには、私なんかは可能性を感じます。 石原ユキオさんたちのBL短歌・俳句読みは、正統的、常識的な読み方に揺さぶりをかけるのが快感という意味がありそうで、歌人の荻原裕幸さんも同様の関心を寄せていると思います。これらは、どれも「読み」のほうの可能性です。 
 例示された佐藤文香の句は関係性だけ抽出しているのでそういうこともやりやすそうですが、大部分は「揺さぶりをかける」というよりも、それが「正統的」な読み方ではないことを大前提とした「鑑賞」という名の「二次創作」ということになるんじゃないでしょうか。読解法としては、唯一の正解がどこかにあると想定する「解釈学」(これは聖書解釈から発しているので、唯一の正しい読解があるという立場になるのが当たり前なんですが)をそっくり裏返して強化しているだけのようなものでしょう。システムとかヒエラルキーとかはそっくり温存されることになる。私があまりやる気にならないのはその辺が理由でしょうね。 
 「正統」に対する二次創作、という構図は非常によくわかります。それが、「正統」性を裏打ちするだけでなく、別の可能性を拓けるかどうか、ですね。私からするとBL俳句は「読み」のほうが面白い。実作のほうは、わりと「王道」の物語に乗っかっちゃうところがあるので、BLの枠を広げて変な世界を志向しないと難しいかな、とも思っているんです。関さんの考える、実作の可能性は何ですか? 
 まだ全然実現されていない可能性がいくらでもあるのではないかと思います。・・・(中略)・・・昔はこんな本を持っているのが親や知人に見つかったらシャレにならないえらいことだったので、書店であっけらかんときらびやかにBL本が大量販売されていて、そういう話をツイッターで平気で出来るようになってしまった全然別の世の中で同じ事をしていても仕方がない。 
対談・関悦史、久留島元「BL俳句って何でしょう?」『庫内灯』1(2015)


 ところで、近年この「読み」をめぐって、ある意味興味深い試みがなされている。昨年刊行されたBL俳句誌『庫内灯』(編集発行人・佐々木紺)がそれである。・・・・・・BL読みの対象となるのは、「晩夏少年を抱けば甲虫の皮膚感」(高野ムツオ)のように、少年相、同性愛が比較的わかりやすく描かれている句だけではない。「木下のあいつ、あいつの汗が好き」(坪内稔典)のように作者本人の意図とは異なるが同性愛を詠んでいるように見えるもの、「恋とも違ふ紅葉の岸をともにして」(飯島晴子)、「白鳥の愛深ければ頸もつれ」(能村登四郎)のように、いかようにも読めるものまでもBL読みすることで、豊かな読みが「非公式に」発見されていくのである。BL読みをただの知的遊戯といえばそれまでだが、「二次創作」としての矜持からなるその奇襲的な読みは、既成の読みに揺さぶりをかけるものであろう。
外山一機「俳句時評 読み手の本懐について」『鬣』60 2016.08

2016.12.28追補
BL読み」は極私的なものであり、「脳内の腐敗菌を活性化させて」こそ楽しめるという、誤読を前提とした読みなのである。そのような共通認識があればこそ、彼らは互いの読みに(とりわけその嗜好について)必要以上に踏み込んで論じないのである。その意味では「BL俳句」も「BL読み」、も不毛な営みだ。しかし重要なことは、これらが、その不毛さのなかに抵抗の作法を織り込んでいるということである。もしこの不毛さをもってこれらを否定するのならば、その前に、僕ら自身が知らず知らずのうちに行なっている「多毛な」営みの気持ち悪さについて考えてみるべきだろう。たとえば、僕らはある句を読むときにその句についての読みの歴史を参照することがあるし、その歴史の積み重ねの上により適切な読みが生まれると考えることがある。これはごくまっとうな考えかただし、このような読みの努力をすることはちっとも恥ずかしくない。堂々と披露されるべき―いわば実名で披露されるべき読みはこのような営みから生まれる。けれども、このような読みが抑圧するものはなかったか。

2016年11月6日日曜日

寒天句鑑賞


中山奈々(なかやま・なな)

Chapter

【感じて】

久留島さんから「いつになるか分からないけれど、寒天を《Kuru-Cole》に取り上げるとき、鑑賞書いてな」と言われ、いつものように何も考えずふたつ返事をした。

句稿が送られてきて、しまったと思った。身近な人の俳句ほど鑑賞しにくいものはないのだ(というとお前の文章はそもそも鑑賞でもなんでもないだろうという声がどこからか飛んでくるが、それは無視しておこう)。
殊、寒天に至っては、彼女が俳句を始めた高校一年生から知っている。その当時の顧問の考えで、一年生ひとりに卒業生ひとりが指導者としてつけられた。
なんの巡り合わせか、彼女には(かなり迷惑だっただろうが)私が充てがわれた。
俳句甲子園に向けて、二日に一回、彼女からメールがくる。わずか五句。なんだこいつは。二日に一回でしかも五句って! やる気があるのか。
と思いながら読む。読んだ句にコメントやアドバイスを打っていくのだが、文字が止まらない。ダメ出しのためではない。粗い。粗さしかないのに、書いているうちに褒めることしかできなくなる。高校生に対する気遣いや優しさなんて今以上に持ち合わせていなかった。なのに褒めてしまうのは、この句は必死に立ってんだ、と思ったからだ。
必死に立っている。ときおり背伸びもするけれど。座っていたら誰も見つけてくれないことを、知っていたのだろう。彼女の句はいつも立って、待っていた。
本当は泣きたいくせに、泣くのってなんだか面倒くさくないですか、と笑う。疲れているのに、今日の楽しさに必死にしがみついている。そんな、口に出さない痛みに惹かれた。
永遠の十四歳(※)といって周りを明るくする。十四歳。自分が何者なのか、何者になれるか、わからない十四歳。わからないと言えない十四歳。
照れ臭そうに「わかったんですよ」と俳句にする。「実はですね」と俳句にする。そんな俳句だから、誰かから「きみの俳句はわからないね」と言われると首を傾げながら寂しそうに笑うのだ。またひとりになってしまいましたよ、また誰かを立って待っていますよ、という代わりに。
やっぱり身近な人間の俳句の鑑賞は難しい。ひととなりや思い出話ばかりしてしまうから。
だから、ちょっと長くなるが、これ以降、寒天無視ーそれもどうかと思うがーの文章にする。それに私以外の執筆陣はどうも一流揃いなので、ここはもう二流三流の書き手の勝手を許して貰おう。

 大人の気配感じて水鉄砲やめる   寒天


大人の気配感じるまでは水鉄砲をし続けよう。冬だけど。

1、永遠の女子中学生だったかもしれない。どちらでもいい。


Chapter

 【運んで】

高校演劇。それは大根役者より下に見られる。学生演劇でも専門学校でも、何かしら演劇と関わって小劇団に入る。ええ、まあ、というだけの端役だって、ここまでくれば「自分、演劇やっています」といえる。それまでは言いにくい。いや言っても構わない。でもそれを周りがどう見るか、それは知らない。
高校演劇が演劇ではなく、部活の馴れ合いと捉えるひとが、世界があってもそれに関わっているニンゲンは真剣だ。
「今回は、オリジナルじゃないのか」
「うん」
「珍しいね。毎年コンクールはオリジナルだろ」
「オリジナルにこだわりがあったわけではないからね。慣例? 通例? それに縛られていただけ。それに部員数の少なさからオリジナルにせざるを得なかったというのもあるし。あとは演技で賞取れなくても、オリジナル脚本なら、そっちで賞貰える可能性があるっていうか」
「あ、いやらしい裏事情を聞かされた」
「聞かされたって。聞いて来たのそっちだから」
「まーね。で、何やるの」
「寺山修司」
「それはまた……
「第一候補が、『毛皮のマリー』」

 月光を泳ぐあなたを殺したい   寒天

「最初のシーンからバスルーム。マリーが出たあとで情夫が浮いているの」
「ねえねえ、マリーが出たあとでって、マリー、裸なんじゃないの。いいの? 高校演劇的に裸、いいの?」
「それらしい雰囲気にするだけだよ。それに……

 五月病からだの一割が性器   

「それに……?」
「ニンゲンって生きているだけで、エロい」
「え、何言い出すの、急に」
「毎日風呂入るでしょ。で裸になる。それがたまたま舞台の上になっただけっていう。そうなんだよ、生活ひとつひとつが実はエロいんだよ。見られて初めてエロいって意識するだけで」
「え、ちょ、ちょっと待って話についていけないというかなんというか」
「うん。みんなもそう言っていた。欣也が蝶について話すシーンだけでもやりたかったな」

 夏蝶の跡べつたりとある車窓   

「でも欣也が、蝶の話をするだけのシーンじゃ成り立たないだろ」
「だから紋白がくるんじゃない」

 秋蝶の影つややかな手水鉢   

「それでもひたすら会話劇じゃないか。観客は飽きるだろ」
「あくびしたやつは殴ればいい」

手鞠花で殴れば振り向いてくれた

「無茶苦茶だな。そんなことするくらいなら他の作品にしなよ」
……うん。だから第二候補の『身毒丸』にする」

 白露を抱いてゐる母を抱いてゐる   

「よりR指定度、高くなってない?」
「でも『身毒丸』、よく知らない」
「じゃあなんで候補に挙げたの」
「で、最終的に『星の王子さま』になった」
「サン=テグジュペリ?」
「いや寺山修司の」
「あ、そうか。でもあれ、人数多いよね。部員足りるの?」
「役与えず、台詞全部無くし、ひたすらみんなで舞台を歩く」
「もうそれでいいと思うよ」

 誰も笑わず月を運んでゐるをどり


Chapter

【おで】
ふくろふの首に拳を沈めけり  寒天
ふくろうに聞け快楽のことならば  夏井いつき 『伊月集 梟』(2006)
 
寒そうなゾンビが駅で待つてゐる  寒天
秋麗ゾンビのような車掌の声  御中虫 『おまへの倫理を崩すためなら何度でも車椅子奪ふぜ』(2011) 
愛のある酒はうつくしおでん食う  寒天
涼新た良き酒は奢つてもらふ  中山奈々 「里」2016.9

Kuru-Cole 6 寒天


2016年11月4日金曜日

Kuru-Cole 6 寒天


Kuru-Coleとは?




寒 天(かんてん)

 一九九二年大阪生まれ。「ふらここ」所属


春水にほどかれてゐる躰なり
行く春の髪結ふ指にある火傷
五月病からだの一割が性器
手鞠花で殴れば振り向いてくれた
大人の気配感じて水鉄砲やめる
夏蝶の跡べつたりとある車窓
製氷の音今誰か見たやうな
潮焼けの背に背負はるる眠りかな
古床の甘いにほひの夏の果
朝露やみだらな鳥の赤い腹
誰も笑わず月を運んでゐるをどり
秋風の部屋に鋭利なペンダント
白露を抱いてゐる母を抱いてゐる
秋蝶の影つややかな手水鉢
月光を泳ぐあなたを殺したい
寒そうなゾンビが駅で待つてゐる
ジャンパーの背に雨暗く染みてをり
ふくろふの首に拳を沈めけり
着膨れてせんせいとよく目が合ひぬ
愛のある酒はうつくしおでん食う


編者コメント

彼女とはじめに知り合ったのはいつだったか、よく覚えていない。
俳句甲子園の関係で、同じ関西のつながりで学校ぐるみの交流があったから、おそらくその一環だろう。一時は船団の宝塚句会にもよく顔を出していたし、そのころから独特の言語センスで注目されていた。当時は「緑の髪の子」で有名であった。
何を聞いてもにやにやあいまいに笑っている彼女は、あまり人と親しむというふうでもなく、いつの間にか姿を見せなくなった。俳句からも一時は距離を置いていたようだ。

数年経って再会した彼女は、緑色だった髪を黒髪にし「永遠の中学二年生」を自称していた(14歳だったかもしれない。どっちでもいい)。そのくせ酒も飲むし、言動はまったく中学生ではなかったが、なんとなく肩肘張ったところがなくなり、つきあいやすくなった印象だった。
現在の彼女は、どうなのだろう。今回20句をみて、そのバラエティの広さに一驚した。関西俳句会ふらここに属し、気ままに句会を楽しんでいるようだが、高校時代から数えると句歴は長いし、自由度の高いぶん、素材にあわせた技巧の高さがうかがえる。

俳句界は、ともすれば結社に属していなければ不真面目だと決めつけたり、季語や俳句史の勉強を強制したり、若者に対してむやみにプレッシャーをかける傾向がある。もちろん期待の裏返しなのだが、気ままな彼女のスタイルは、俳句にとって「勉強」だけが重要ではないと思い出させてくれる。中高年が自由に俳句を楽しんでいいように、若者もまた、もっと自由に俳句を楽しんでよいのだ。

小論は、彼女の直接の先輩である中山奈々氏にお願いした。近しい間柄ならではの愛のある好論である。お楽しみに。