野遊びのつづきのやうに結婚す
俳句という短い詩型は、断定に向いている。
ああでもない、こうでもない、と言葉を連ねるひまはなく、ただ簡潔に言い止める、それが俳句の理想の、あるいは典型的な、スタイルだ。
だとしても、これらの見事な「言い切り」は鮮やかだ。
材木は木よりあかるし春の風
霜の夜の足音ばかりなる団地
冬眠の骨一度鳴りそれつきり
「材木」に見る「あかるさ」。「団地」中から聞こえてくる「足音」。「冬眠」中の獣が鳴らす「骨」の音。いずれの五感も想像の域に達しつつ、きわめて具体的で実感がある。
これらの句にも見られるように、「~よりも○○」、「~ばかり」といった、きわめて「俳句的」な文体、つまり物事を焦点化させる文体を好むのも、それが言い切ることに慣れた文体だからだろう。
だから、失敗してしまうと、ちょっとあざとい。いかにも俳句的な「ウケ」を狙ったように、見えてしまう。
どの粒も蟻より重し夏の雨
焼酎や親指ほどに親小さき
暮れてより親しきわが家足袋白し
年忘やがて手拍子だけ残る
しかし、たとえば山口誓子や中村草田男の句にときどきあるような、独善的な感じは受けない。
断定はするのだが、彼はそれを押しつけないのである。その意味で彼の句は、とてもしなやかな知性を感じさせる。
行列のところどころが花粉症
なま卵すなほに割れて緑さす
水は街さまよつてゐる熱帯夜
言ってみれば彼の俳句は、独白なのだ。
本人が、ある出来事に対して、ナルホド、と理解する。理解の仕方。ああ、これって、こういうことなのか、と。その「納得」を、ふと言葉にしてみる。そんな俳句なのである。
目の中を目薬まはるさくらかな
吐き出せる巨峰の皮の重さかな
これなど、まさに本人も会心の「納得」だと思う。
「目薬」をさすとたしかに眼球のなかをまわる感覚がある。「巨峰」をまるごと食べたことはないけれど、ちょっと皮を剥いて口に含んで、皮を吐き出したことはある。吐き出した後の「巨峰の皮」は、実を出したはずなのに汁気を含んで重く、皮だけだけでも皿の上にしっかり存在感があるものだ。
ただ、本人は、なかなかいい理解の仕方、だと思っているに違いないのだが、周りは必ずしもそうは思っていないようなものもある。彼の理解は、ときどき妙なのである。
正直、そこにこだわって、どうするの?
人波のまだナイターに残りをり
炎天や食つてはたらく男たち
あけがたの動物園の冬の水
白鳥を見てゐて首が凝りにけり
踏切は夜も踏切沈丁花
「白鳥を」「踏切は」はちょっとおもしろいが、「人波の」「炎天や」「あけがたの」などは、当たり前のような気がして、なにがおもしろくて詠んでいるのか、よくわからない。
もっとも、彼にとっても、共感されれば喜ぶだろうが、共感されなくても、たぶん、構わないのである。読者にしたところで、妙なところで「納得」している彼を見るのも、その妙な解釈を聞くのも、またそれがときに当たり前すぎるというのも、いかにも「俳句的」ではあろう。
さきほどから無責任に「俳句的」との評を使っているが、それほど彼の句には無理がない。彼の句に、ある種の食べ足りない感じを覚えるとすれば、まさにその「無理のなさ」に原因があるだろう。彼は、ある「発見」や「納得」を俳句の文体に収めるとき、ほとんど無理をしていないように見える。ところが、あんまり無理なく俳句の文体に収めきってしまうと、却ってもとの奇妙な「発見」の、奇妙さが消えてしまって、当たり前になってしまう。
その意味では、俳句の文体のなかにあって、なおかつ何かはみ出している次のような句は、全体では珍しい。
火葬場に絨毯があり窓があり
掲句に戻ろう。
野遊びのつづきのやうに結婚す
彼のしなやかさ、軽快さは、掲句にもっともあらわれている。
彼はマイペースに、自分なりのペースで世界を作っていくだろう。
「野遊びのつづきのやうに」、自分なりのペースと、現実との折り合いで、案外器用に、意外としたたかに、彼は彼の俳句を作りつづけるに違いない。
作者は、山口優夢。
※ 本稿は、『俳句』2009年11月号掲載の第五十五回角川俳句賞候補作品「つづきのやうに」に対する鑑賞文です。
文体については、山口優夢氏がブログ「そらはなないろ」他で発表されている、「句集を読む」シリーズの文体をパスティーシュさせてもらいました。
遅ればせながら、優夢氏、角川俳句賞最終候補、おめでとうございます。
※ 一度アップしてから、ふと思いついて同日中に加筆しました。