2018年12月1日土曜日

【告知】戦後俳句を聞く 坪内稔典と片言の力


12/23、現代俳句協会青年部勉強会のお知らせです

現代俳句協会青年部 連続企画 
戦後俳句を聞く(1) ~坪内稔典と片言の力~

昭和から平成へ。戦後俳句から、現代の俳句へ。
俳句の可能性をひろげてきたトップランナーたちに、その歩みを聞く。
第一弾は、正岡子規研究やユーモアあふれるエッセイでも知られる坪内稔典氏。
俳句史と切り結び、軽やかな口語俳句で魅了する、坪内氏の原点を探る。

■ 日 時
2018年12月23日(日) 13:30~

■ 会 場
柿衞文庫講座室(兵庫県伊丹市宮ノ前2-5-20)

■ 参加費
無料

■ 申込・問い合わせ
E-Mail : seinenbu@kangempai.jp 

■ 坪内稔典(つぼうち・ねんてん)
昭和 19 年(1944)愛媛県伊方町生まれ。
本名 稔典(としのり)。俳人。現在、公益財団法人柿衞文庫理事長。京都教育大学・佛教大学名誉教授。「船団の会」代表。
著書に『正岡子規―言葉と生きる』『俳句の向こうに昭和が見える』『カバに会う』『季語集』など多数。
■ 聞き手/久留島元・野住朋可(関西現代俳句協会青年部)

■ 主 催
現代俳句協会青年部・関西現代俳句協会青年部

■ 後 援
公益財団法人柿衞文庫

詳細はこちら

2018年10月23日火曜日

ご案内


第55回現代俳句協会大会

日時: 2018年10月27日(土)13:00~
会場: ANAクラウンプラザホテル(二条城駅前 アクセス
講評: 協会各賞、大会賞発表
記念講演:竹田美喜氏(松山市立子規記念博物館館長
「明治28年の子規と漱石―愚陀佛庵の52日―」

記念講演は15時半ごろ~だそうです。協会員以外でもご参加いただけます。



第15回船団フォーラム 将棋と俳句

とき:2018年10月28日(日)14:00~ (開場13:30)
ところ:広田神社(兵庫県西宮市大社町7-7 アクセス
参加費:「船団の会」会員 500円 一般 1000円

第1部 14:00~15:00
講演:「棋士の私が思うこと」
講師:内藤国雄九段

第2部: 15:15~16:30
句会ライブ
 コメンテーター:藤内忍五段(指導棋士 内藤九段門下)・塩見恵介・会場の皆様

兼題:将棋の言葉が入った秋の俳句を1句ご用意ください。
席題:内藤九段のお話を聞いて、当日の出題でも1句作ります

主催:「船団の会」 共催:西宮将棋普及実行委員会

申込期間が終了しておりますので参加ご希望の方はご一報ください

2018年9月20日木曜日

お仕事紹介


最近、紙のお仕事もふくめていくつか文章&作品発表の機会を戴きました。

『俳壇』6月号(35巻7号、2018.06)
「松本てふこ小論 分断を超えて」
「新・若手トップランナー18 松本てふこ」で松本さんからご指名いただき、作家小論を書かせていただきました。冒頭一行を引いておきます。
のっけから大きな話で恐縮だが、今の俳句界に分断というものがあるとしたら、つまり「伝統/前衛」「口語/文語」「大家/若者」のような対立があるのだとしたら、その分断を横断し解消してみせるのは、たとえば松本てふこのような作家ではないか。

「詩客」2018年6月9日号
〇俳句時評
第98回 私たちの俳句 久留 島元
2018年3月の北大路翼&上田信治による対談、4月の現代俳句協会青年部シンポジウムをふまえて、「俳句史」という枠組みのなかで消費され、見えなくなっているものがあるのではないかという問題提起をしています。


週刊俳句586号(2018.07.15)
良くも悪くも話題になってしまった、久留島元丸ごとプロデュース号です。
話題性を狙ったことは事実ですが、予想外の方面で類焼が続き、お騒がせしました。


週刊俳句590号(2018.08.12)
出会いで終わるとは思えない 2018年7月21日(土)関西現代俳句協会青年部勉強会『句集はどこへ行くのか』レポート
7月に行われた関西現代俳句協会青年部勉強会「句集はどこへ行くのか?」参加レポートを樫本由貴さんに書いていただきました。久留島が勉強会の趣意とレポート執筆の経緯などを説明しています。


東京四季出版「俳句四季」9月号(35巻9号、2018.09)
精鋭16句に、「ヒト科」を掲載いただきました。
 ときどきはヒト科であるがほぼ鯰


毎日新聞出版『俳句αあるふぁ』2018年秋号(通巻167号、2018.9.14)
「特集・平成の暮れに」で「俳句甲子園のもたらしたもの」を執筆しました。

平成最後の年に関する特集で、小川軽舟氏、関悦史氏、島田牙城氏とならんでいます。それぞれ与題が違うこともありますが、切り口、視点がまったく違うのがおもしろい。同じ平成という時代でもまったく違って見えるのだなあという感慨。
宮坂静生・長谷川櫂・対馬康子3氏の「鼎談 平成と俳句」も大ボリュームで読み応えありますね。
長谷川櫂氏による「人類に空爆のある雑煮かな 関悦史」評、関氏の評論中の『震災歌集』『震災句集』批判との応酬のようになっていて、これはこれでなかなか、実は平成最後の「論争」火種になりうるのではないかと思ったり。

2018年7月15日日曜日

週刊俳句丸ごとプロデュース号


週刊俳句2018.7.15号で、久留島元丸ごとプロデュース号をさせていただきました。

残念ながらなぜか不正に〈横取り〉〈フライング〉掲載されてしまった高田獄舎さんとの対談をはじめ、私個人の関心で依頼した方々の作品でまとめています。

吉田竜宇さんだけが15日時点でcoming soon状態なのは、吉田さんの名誉のために弁護しておくと、久留島からの依頼が遅く、〆切が曖昧だったためで、16日以降にアップされる予定がありますので、お待ちいただければ幸いです。

あわせて、
 7/21(土)14:00~
  関西現代俳句協会青年部勉強会「句集はどこへ行くのか

 7/22(日)13:00~

  梅田蔦屋書店 俳句雑誌『オルガン14号』刊行記念トーク&句会

の宣伝もしております。

順調にお申し込みいただいておりますが、どちらも会場が広めなので残席は余裕があります。
現代俳句協会以外のかたも、俳句知らないよという方も、ふるってご参加ください。
7/22は投句なしの見学のみも可能です



さて、獄舎さんとの対談記事でふれた名物Amazonレビュアーの佐野波布一さんから、早速反応がありました。
名指しで批判をうけておりますので、取り急ぎお答えしておきたいと思います。

私が佐野波布一さんについて言及したのは、彼のサイトにも引用して有るとおり次のとおりです。
佐野波布一という人のAmazonレビューについては、おもしろく読みました。ただ「サブカルは文学ではない」という強固な価値観によってサブカル的感性の俳句を一律否定したうえ、人格に否定まで筆が及ぶことが多く、心穏やかに読みにくいものがありますね。
特に福田若之くんの句を評価する青木亮人さんを研究業績のない寄生虫とまで罵っているのは明らかに「坊主憎けりゃ」の類いです。
人を二分法で敵味方にわけるような低劣な分断主義、排他主義というべきで、島宇宙的ともいえるのではないですか。
これについて佐野波さんは


アニメはサブカルだと僕は思っていますが、サブカルは文学ではないと思っているわけではありません。
僕はサブカルを否定しているのではなく、サブカル的感性で書かれた「特定の」作品の「レベルが低い」と批判したのです。


それから青木亮人が「寄生虫」だと書いたことについてですが、
僕もさすがに言葉が乱暴かもしれないと思ったので、Amazonに掲載した方のレビューではその記述は消去してあるはずです。
また、僕が誰の「人格に否定」をしたというのでしょうか。


意味がわからないのは、
「人を二分法で敵味方にわけるような低劣な分断主義、排他主義」という部分です。
「分断主義、排他主義」という言葉は辞書にもないので僕は存じ上げないのですが、


そもそも、久留島のように特定の立場にコミットした人間は、自分が客観的でフェアな視点を欠落させがちなことに自覚的であるべきです。
僕に文句を言うなら、僕の言論を弾圧するリツイートを垂れ流した「オルガン」のクサレ俳人についてはどうなのでしょう。

などの批判をされています。
順番にお答えします。


これについては私の認識がゆるかったので、やや訂正すべきかと思います。
佐野波さんの膨大な書評すべてを閲する労を怠ったため認識が雑だったことは申し訳ないのですが、「サブカル的発想に富んだ舞城王太郎やたら持ち上げられた。」「サブカル的なファッション俳句」「「ライトノベル(もっと言えば西尾維新)の影響」の一言で終わる福田の散文世界」といった評言から、サブカル的感性・ライトノベルに対する評価の低さを読み取ったうえで、「本質はアートではなく、サブカルでしかないわけですが、教養のない人にはその違いがわからないようなのです。」とあり、
 「アート」>「サブカル」
といった図式を持っていると判断したものです。
もちろん「サブカル的であっても、それだけでは否定しません。」という発言もあるので、

 サブカルに対する低評価からサブカル的感性の俳句に手厳しい

とでもすべきだったでしょうか。



については、何をかいわんや、Amazonでは消したけどブログには載せているのですから、評言として看過しがたいのは言うまでもありません。
青木さんの研究上の業績については、国文学論文目録データベースでも検索していただければ多数ヒットします。
青木さんは私が知っている限りでもトップクラスに筆の速い研究者であり、論文数だけでも抜きんでた存在です。佐野波という人物がどんなに知識人ぶってもまったく研究の実態がわかっていないことは明らかです。
また、40歳未満の新進俳文学研究者に贈られる「柿衞賞」の第17回受賞者であることからも、(佐野波さん個人の素人的判断は措いて)すぐれた研究者であると認められた存在であることは自明です。
ところが当該の文中では「微妙な記述」どころか「寄生虫」という罵倒は5回も登場しており、およそ簡単に人を「寄生虫」呼ばわりする人物が、「否定」と「批判」の区別を人に説いて聞かせるという凄惨な喜劇に頭を抱えたくなります。



え、辞書にないのか、と思ってとりいそぎ『日本国語大辞典』を調べたところ、たしかに分断、排他はあっても排他主義はありませんでした。ただネット上では「実用日本語表現辞典」に掲載がありましたので引いておきます。
排他主義 読み方:はいたしゅぎ
自分と自分の仲間以外のものを容易に受け入れず、むしろ排斥するあり方や態度。他を排斥する主義。
これについては、「四ツ谷龍と関悦史、関悦史と青木亮人は友人であり、若手俳句の一部に目立つ「俳句のサブカル化」に深くコミットした人物」のように、一部の交友関係をとりあげて云々するやり口を上げれば充分でしょう。
恣意的に交流関係をあげ自分の気に入らないたちを特定団体のごとくあげつらう評は、これが俳壇内情にくわしい人物なら楽屋落ちというべきでしょうが「結社の人間」ことを重ねて強調するからにはネットで類推されたのでしょうか。
私は佐野波さんに友だちがいるかどうかは知りえませんが、「僕のレビューに好意的な投票をした人が相当数いる」ことを盾に、事実かどうかわからない(何があったかは、推して知るべし/つまり彼自身は関知していない)「大学から戒められるような千葉の行為」に「寄ってたかってリツイートで言論弾圧行為に加担する」俳人たちを、「クサレ言論弾圧俳人」と呼ぶような行為は、目に余ります。
インターネット上での言論行為において問題視されるのは「悪質性の高い」「中傷」を書き込んだ場合であり、政治的権力も持たない一般人がSNSにおいて拡散した程度で誹謗中傷される謂われはないと思います。


これは②、③で充分例証できると思いますが、小津夜景さんを「おフランスかぶれのセレブおばさん」などと揶揄する言動が、「作品に現れる知性や能力の評価」を越えた人格誹謗に近いと私は思います。

もとより私は自分自身が中立だと思ったことなどありませんが、私こそ佐野波さんとは一面識もなく、佐野波さんの文章からその立ち位置を類推するだけに過ぎません。
しかし「AというならBはどうなんだ!」というのは、論理のすりかえを感じます。
これは私見ですが、レビューという場で俳人の「行為」を糾弾するという態度にもいささか疑念を覚えます。たとえば高浜虚子『五百句』のレビューに、虚子は秋桜子を排除した人物で云々と作家の行動に関わることばかり書かれていたら、私はうんざりします。
また、小津さんの知識において佐野波さんが垂れ流している「「類像性」などという言葉は聞き覚えがないのですが、学術用語なんでしょうか」「「倒装法」をグーグルで検索すると、すぐに久保忠夫の論考が登場して、他の論文は出てきません。」などという印象操作は、前者は「グーグルで検索」すると英文法に関するページが多くヒットしますし、後者は日中辞典や芥川龍之介の文章がヒットすることを申し添えておきます。


俳句に対する評価に関してではなく、このような互いの誹謗中傷の不毛なやりあいは、これきりにしたいと思います。以後、私はこの件について沈黙しますので、ご寛恕願います。
追記.なお、対談記事を読んでいただければわかるとおり、佐野波さんへの言及は対談の本筋とは関わらない部分で、獄舎さんのたってのご希望で掲載したものです。
私自身は純文学から15年遅れ・短歌から30年遅れてサブカル的感性が俳句形式と邂逅したことを新たな展開だと歓迎しており、今後、この可能性が拓かれるのか、それともやはり俳句形式にはなじまないとして終息してしまうのか、わくわくしながら同時代を生きたいと思います。

2018年6月5日火曜日

俳句甲子園と部活動




週刊俳句2014.09.07 俳句甲子園に期待しない 久留島元

石原ユキオ商店 文化部の活動に協力しているおとな(外部講師)からお願いしたいこと

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2018年2月1日木曜日

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