2019年2月16日土曜日

季語論


俳句にとって季語が必須の、絶対条件なのか。
これは、他ジャンルからみれば奇妙に思えるほど、俳句界においてはくりかえし議論され、作家や協会の分断をまねき、近代俳句においてもっとも可燃性の高い論題であり続けている。

個人的な見解を述べれば季語については、夏石番矢が『「俳句」百年の問い』(講談社学術文庫、1995)の解説における、
これに対して、山口誓子(九八ページ)の季語擁護論は、有季俳句の歴史性、慣習性のみが云々されただけで、有季俳句の論理的根拠のなさをかえって露呈している。長谷川櫂の近年の季語オリジナル説は、...(中略)...日本が亜熱帯から亜寒帯にわたる多様な気候風土の多元的環境であることを忘れた、本州日本人(長谷川は九州出身だが)の自己中心的でナルシシズム的な主張と言えまいか。
という批判で、おおむね尽されていると思っている。
すなわち、俳句に季語が必要であるという論理的根拠は、歴史性、慣習性にしかなく、歴史を顧みれば季語を絶対条件としてきたのは、主に虚子ホトトギスの俳壇政治的なスタンスに過ぎないのではないか、とさえ思えるのが実情である。
(参考.筑紫磐井「虚子の季題論と季題」、中原幸子「なぜ取り合わせをしないか 自流を行う」ともに『国文学 解釈と鑑賞』「特集 高浜虚子・没後50年~虚子に未来はあるか」74巻・11号、2009年11月
しかし、これは無視できないことだとも思うのであって、俳句の原型である誹諧の発句に挨拶としておおむね季語が詠み込まれ、以後、発句のみ作る場合も季語が詠み込まれることが多く、歳時記において季題別に分類・享受されてきたこと。
そして何より近代俳句が、高浜虚子の言挙げを根拠に、季語を詠み込んだものを俳句としてきたこと。
これはすなわち、俳句がこれまで歴史的に培ってきた作句・選句の技法が、おおむね「季語のある俳句」を前提に洗練されてきた、積み重ねられてきた、ことを意味する。
単純に言えば、「俳句は季語がある」という強固な前提のもとで作家も読者も育ってきたのであり、ぶっちゃけ「季語を入れれば俳句っぽくなる」のである。
季語にはよく知られるとおり膨大な情報量がふくまれており(季節・空間・情緒)、季語を入れることによって俳句の読み・詠みは大きく広がる。

俳句という定型詩・伝統詩の、作家個人の等身大を超えて読者と共有される「俳句っぽさ」は、俳句をフィールドとする以上避けられないものであり、単純化すれば「俳句っぽさ」に乗るか、かわすか、裏をかくか、ということにおいて俳句作家は俳句を書くのだ。
ただ私は、自分自身としては季語の働きに期待し、季語を利用して俳句を立ち上げるものであるが、一方で教条的な季語絶対論には距離を置きたいと思っている。
私自身が季語を使って俳句を立ち上げているのは、私という作家個人のパーソナリティや限界に由来する、個人的な事情に過ぎないのであって、ほかの作家が無季俳句の可能性を開くことを制限することはできないと考えるからである。

すなわち、これはあらゆる詩型・文芸に言えることであるが、これまで書かれなかったものが今後書かれる可能性、今後開かれていく可能性は無限だと思うからである。
すでにこれまでも無季俳句については、少数の作家によってではあるが挑戦が続けられ、無視できない、多くの佳句・名吟を遺してきた。
昨年10月に犬山で行われた現代俳句協会青年部主催の句会・勉強会でも無季俳句が話題となり、いくつかの代表的作品が例示された(『現代俳句』2019.02にレポート「季語のない俳句の成立条件」掲載)。
草二本だけ生えてゐる 時間  富澤赤黄男
とりめのぶうめらんこりい子供屋のコリドン  加藤郁乎 
二十のテレビにスタートダッシュの黒人ばかり  金子兜太 
目覚めるといつも私がいて遺憾  池田澄子 
投函のたびにポストへ光入る  山口優夢 
赤紙をありったけ刷る君に届け  外山一機
今後無季俳句の可能性がひらかれ、その技法が積み重ねられていくことは大いに考えられるし、「有季」俳句の根拠が「歴史性・慣習性」にしかない以上、未来の俳句について制限を加えることは不可能である、と私は思う。


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