11/30、プロムナード短歌2014、参加してきました。
詳しいプログラムや内容は、いろいろな方のツイッターやブログなどでご確認ください。
いくつか興味深かった発言をとりあげ、ぽつぽつコメントしていくことにします。
なお、発言は当日の記憶に拠っているため、正確なものではないことをお断りしておきます。
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第一部
島田修三(短歌)、佐藤文香(俳句)、なかはられいこ(川柳)の、クロスジャンルトーク。司会は荻原裕幸氏。
島田氏「俳句は映像的。川柳は批評的」
俳句は映像的。たいへんよく聞く言説ですね。
嘘ではないと思うが、しかし「映像的」だけでくくれるものでもないだろう。
それは「川柳=批評」という図式にも言えて、基調というかベースはそうかもしれない、けど。っていう。けど。
島田氏「俳句は序詞で、映像だけを詠む」「俳句の五七五に川柳をつけると短歌になる」
「俳句+川柳=短歌」は一瞬納得しますが、要するに「発句+平句」ですよね。違うかな?
先日の高橋睦郎氏による講演で出た
「五七五ですっぱり分かれるのが俳句。でも、と未練を残すのが短歌」
という補助線を引くと、わかりやすいかもしれない。「未練」という本音部分が「川柳」というとらえ方。これも、わかりやすくはあるけれど非常に図式的な説明といえる。
佐藤「俳句カードバトルは、こんなのも俳句だという句を入れている」「無記名で、誰の句かわからないものを、とりあえず鑑賞できるようになる」
佐藤氏は、最近石原ユキオ氏と考案したという「俳句カードバトル」について解説。うん、要するに「借り物句相撲」みたいなもんですね。私も実は似たようなことを考えていたので、先んじられたのと、共感と。
なかはら氏とともに、佐藤文香の立場は、俳句(川柳)の域を広げたい、広めたいという方向。したがって「最近の動向」について聞かれると、「俳壇」というヒエラルキーの外、または周辺で活動している、という答えになる。
一方で島田氏は、短歌の真ん中から俳句、川柳を見ている。そして「非常にインスパイアされ」、両方の良いところを取り込んで「短歌」にしてしまう。拡散していく方向と、周りを取り込んでしまう王道と。
パフォーマンスとして挑発されたところがあるのだろうが、議論としてはかなりベクトルが違ってしまったのは否めない。
その後、文香から俳句の句会と、川柳句会、短歌の歌会との違いについて言及があった。
あまり熟さなかったが、ジャンルの差違を際立たせるためには重要な視点だったと思う。
これは、後半の「作者と虚構」問題にも関わるので、後述する。
番外編ながら、なかはられいこ氏のblogより当日の感想を引いておく。
わたしが出たのは第一部ですが、レジュメつくるときから、なぜかジャンル論になるとはあんまり思ってなくて、途中で、あ、そうか。と思ったわけです。・・・・・・でも、なんとなく、いまさら感があったのは事実で、巷間認識されている川柳と、わたしやわたしの周りのひとたちがいま、書いている川柳の違いっていうのは、「あの場」では共有されているものだと、なぜか思い込んでいて、そう思い込んでしまったのはわたしがラエティティアという文芸メーリングリスト(加藤治郎、穂村弘、荻原裕幸の3人が立ち上げた)の記憶をひきずっていて、しかも荻原さんが司会という状況もあって、場というものを読み違えていたからかもしれません。
・・・まさに、イベントというのは生きものだなあと思います。
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第二部。
「ニューウェーブ三羽烏」、加藤治郎、穂村弘、荻原裕幸、そろい踏み。司会は斉藤斎藤氏。
話題は、短歌研究新人賞を受賞した石井僚一氏の作品が、父の死を悼む挽歌という体裁をとりながら実際にはフィクションだったということをきっかけに、「虚構」に関するもの。
シンポジウムというよりは、3人がそれぞれ「現在の短歌」にどう向き合っているか、という自分の立場について表明しあった場、という感じだった。
それぞれの発言はきわめて誠実でもあり興味深くもあったが、クロスして議論が深まる、という方向にはいかなかったのは、見ていてもどかしい気がした。
穂村氏は、自身が震災の翌年に鈴木博太「ハッピーアイランド」を短歌研究新人賞に推した(2012年)ことをあげ、「この作者が福島の人であってくれ。鹿児島の人であってはいけない」と祈っていたことを告白した。
そのとき、自分はこれまで、作者と作品とを切り離し、短歌の虚構性を重視した塚本邦雄を信じてきたが、「塚本を裏切っている」ことに気づき、衝撃をうけたという。
穂村氏はそのうえで、虚構かどうかを読者が見抜けるかどうかは、結局は作品の「文体」に拠っており、石井氏の作品はどう見ても「リアリズムの文体」であった、と指摘。
そのうえで、今後彼がどのような作品を発表するかわからないが、「短歌を続けるためには短歌のルールと契約したうえで、どのような文体を選択するかが今後問われてくる」といった趣旨の発言をしていた。
震災詠ということだと、ちょうど俳句のほうでも永瀬十吾氏が俳句賞を受賞しており、それについて週刊俳句誌上に否定的発言を公開されたことも記憶に新しい。
また、当blogの過去記事を探ったところ、御中虫氏の代表作「おまへの倫理崩すためなら何度でも車椅子奪ふぜ」が「作者が車椅子使用者か、近親者にいるならよいが・・・」という的外れな評をうけたことについて、言及していた。議論の方向性が違うのでここでひくのは混乱を招くが、ついでにご参照くだされば幸いである。
加藤氏は、前衛短歌の盛行のあと短歌の流れが「「私」に回帰し、一人称の文芸という部分に生命線を見いだした」という見立てを披露。
そのうえで、短歌に虚構を持ち込むことの是非だけではなく、短歌の虚構性についての情報が(作品、文体からではなく)作者からの情報開示によって区別(差別?)されてしまうことへの違和感を強調した。
石井氏の場合、①作者の情報を知らないで選考した選考委員、②授賞式で作者の虚構を知った参加者、③ツイッター等で作者について知った読者、の3種類がいた。
また受賞コメントでは明らかにされていなかったにも関わらず、北海道新聞のインタビューで虚構性が明らかになった、など(加藤氏ら短歌関係者にとっては)ルールを外れていると思われる段階的な情報開示の差別があったことを指摘した。
たしかに基本的には、作品にふれるときには読者が平等に情報を共有できる、ことが望ましいだろう。
が、それはあくまで理念的なものであり、実際には読者が手に入れられる情報には、読者自身の環境や志向によって常に差がある。
今回は、一部の関係者や研究者だけが知っている情報だったとかいうことではなく、地元新聞を通じてのみ作者の虚構がわかった、ということで「差」が見えてしまったことが特異だった。しかし本質的にはあまり大きな違いは感じられない。
ここで、先の句会と歌会の違いから、「無名性」という問題を考えてみよう。
俳句、川柳の句会は、基本的に無名性を担保する。
俳句は、選句と合評(または選評)の割合が大きい。無記名の他人の句を筆写し、味わい、選び、なぜ選んだか、選んだ選者の「評」を語り、また聞くことが重要である。
これは、互選方式でも主宰単独選方式でも、基本的には変わらない。
川柳は、多数の句のなかから一人の選者が、大量に選ぶ。選ばれた(抜かれた)句の作者は、その場で名乗りをあげ、その名乗りに独特の個性が出たりする。選評は、基本的にしない。おそらく、一読明快であることが川柳の前提であり、どの句を評価したかという選者の切り口、センスが勝負なので、くどくどと評する必要を認めないのであろう。
『バックストローク』からの流れをくむ『川柳カード』など、鑑賞・選評に力を入れているところもあるが、それでもやはり俳句よりは選評にかける情熱は薄いといえよう。
句会は、無名性を担保したところで「作品」についてやりとり可能な場である。
しかし、句会という場から降りたところで作品と向き合うとき、そこにはおのずから記名の「作者」がつきまとう。それはどのジャンルでも変わらない近代的な自我の桎梏、もっと露骨に言えば「著作権の所有者」とでもいうようなものであり、作者情報によって作品の価値が左右されることも、やはり仕方ないことではないだろうか。
壇上では、「老人は死んでください国のため」という句が話題になった。この句の作者を70代と考えるのと、30代の作者と考えるのでは、句の意味が変わってしまうだろうという。座を共有しない、出版ベースの世の中であれば作者情報の多少に差が出るのは当然であり、そのなかで読みの可動域が変化することは、それは、むしろ肯定的に評価すべきではないのか。
短歌はどうか。
第一部で島田氏は、歌会はむしろ一首を決めて批評しあうものであり、作者を隠した状態から選んだり、合評したりするものではない。ゲーム的な歌会はあまりしたことがない、とまで言い切っていた。
司会の荻原氏によれば、実際には名前を隠した状態での歌会で島田氏とやりあった経験もあるそうで、パフォーマンスというかリップサービスというか、相当の誇張があるようだが、それでも無名性のゲーム要素を排除したところに「短歌」を立ち上げようとする傾向があるようだ。
第二部において、荻原氏は終始一歩退いた風に見えた。
しかし、口語の文体が極限まで浸透したことで、これまで短歌が培ってきた文体上の「リアル」と「虚構」の境が不分明になっている、その混沌は「おもしろいことが起きると思うが、現時点でいいかわるいかわからない」「かなり変なことが起きている」という判断は、きわめて誠実だし、おもしろいとも思った。
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総じて、「私」を重視しながら、口語・等身大の詩性を推し進めてきた「短歌」に対して、「私」を消すというスローガンを掲げ(客観写生)、文語旧かながいまだ多数派をしめる「俳句」は、随所に違いがあり、軽々に比較できることではないと思う。
しかし、同時代の定型詩表現としての「短歌」は、「前衛」や「私」を経て、「口語」に対してもゆたかな批評文化をはぐくんでいる。
そのことは、ただ素直にうらやましく思う。
※2014.12.14、斉藤斎藤氏の表記訂正。12.27、加筆訂正。
参考.
うたぐらし(大木はちさんのblog)