大晦日です。
今年は新しい仕事が増えたり、いろいろと雑事が増えたせいもあってblog更新が滞ってしまいました。
Twitterその他の媒体でちょろちょろ意見を出す機会があったということも原因としてありますが、一重に私の怠慢です。
これまでは大学院で「学生」という身分が長かったので比較的時間にも余裕がありましたが、これからは遅ればせながら「社会人」として、自分で時間を捻出していかなくちゃいけないのだなあ、と。
「俳句」は、飽きたらやめるつもりなのですが、まだ当分飽きそうにないし、飽きさせてもくれないらしい。
それならこちらも、やっぱり飽きない努力(工夫)をしながら、俳句をにぎやかに、楽しんでいきたい、と思います。
来年は、「俳句」関係でもいくつかお仕事をいただくことになりそうで、また報告できればと思いますけれども、どうぞ今後ともごひいきに。
で、Twitterで先日少しつぶやいた、「4S」ざっくり見取り図の話。
不勉強でした。
阿波野青畝『万両』の序文(昭和六年三月)において、虚子は「ホトトギス俳壇」で活躍する新人として秋桜子、素十、誓子をあげたうえで誓子と青畝は「共に大阪に居を構へ、共に活躍を続けて居る点も相似て居る」と指摘しています。
青邨が「4S」と名づける以前に、虚子自身、ホトトギスを代表する作家として4人を認めていたのか、というのは、今回改めて読み直して知ったこと。
そのうえで虚子は、青畝の句を「既成の俳諧の天地に歩を留めようとするもの」、誓子の句を「キャムプを詠じ、デウスを詠じ、韃靼を詠じ、餓鬼を詠じ、甚だしきに至つては、宝塚のダンスホールを詠じて居る。而も亦その句の調子は、疎硬放漫なるかに見える」と述べています。(誓子の句にやや辛い感じがします)
一度誓子を去って青畝に帰ると、其処には誓子君の句は国境にある征虜の軍を見るが如き感じがするが、それが青畝君の句になると、俳諧王国の真中に安座して、神官行き、僧侶行き、貴人行き、野人行き、老も若きも共に行く縦横の街路井然として乱れず、而かも其、静なる水に影を映して、一塵をとゞめざる感じがする。青畝、誓子は吾が俳句界に於て面白き対立を為して居る。又相互に学ぶべき点もあると思ふ。
虚子「万両序」阿波野青畝『万両』(引用は角川書店、現代俳句大系より)
晩年、青畝は「息白しポイ捨て御免合点だ」のような自在の境地に達し、「ペレストロイカペレストロイカ虫滋し」「綿虫を見て湾岸が憂かりけり」などのようなテレビ画面すらも「写生」するに至ります。
その自在さは、しかし誓子の「征虜の軍」が素材を拡張していったのとは全く違って、目に映るものを自然に詠み込んでいく感覚。
4Sそれぞれが長生の果てにたどり着いた境地は一語で語れるほど偏狭単純ではないものの、やはり秋桜子/素十、誓子/青畝の「4S」を極とする見取り図で、当時(大正末~昭和初期)の俳句表現を見通すことはある程度、可能なのだろうと思います。
というわけで、試験的に。
4Sに、その周辺にいた作家を数名加えてみました。
4S以前の大正主観派はあえて外していますが、配置するなら「抒情+根源」に蛇笏、鬼城。「根源+客観」に普羅、石鼎でしょうか。私自身、このあたりは勉強不足なのでわかりません。
写生といえば夜半、風生、草城らをどう配置するか。「客観+滑稽」でやや素十寄り、爽波の隣かなと思いますが、ホトトギス全体がそこに収まるとも思えません。
さらに悩ましいのは草田男。どう考えても、あの歪な、多層的世界を受け止める位置がよくわかりません。わからないまま外して、楸邨、波郷を番外に加えました。
いずれにしても、私は多色多様な、現代俳句の広さを愛好しています。
上図は、かえってその広さを限定してしまうかもしれませんが、図に収まらないことを実感することで広さを再認することもできるかも知れません。
本年はこれまで。
皆さま、良いお年越しをお迎え下さい。今後とも曾呂利亭雑記をご笑覧いただければ幸いです。
亭主拝
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