2022年8月19日金曜日

朝日川柳の件


朝日川柳の件。


2022年7月15、16日付の朝日新聞「朝日川柳」に、安倍晋三元首相の銃撃事件を揶揄するような内容の作品が複数掲載されたことが、SNS上で物議を醸している。(略)

 問題となったのは、15・16日付の朝日新聞に掲載された「朝日川柳」だ。選者・西木空人氏によってそれぞれ7本の川柳が選ばれている。

   15日には「銃弾が全て闇へと葬るか」「これでまたヤジの警備も強化され」など、16日には「疑惑あった人が国葬そんな国」「死してなお税金使う野辺送り」など、安倍氏の事件や国葬を行う政府方針を揶揄するような複数の川柳が選出されている。16日は選ばれた7本すべてが安倍氏を題材にしたとみられる作品だった。

この記事は朝日新聞の「回答」が主眼だから比較的ニュートラルな書き方だが、次の記事になると川柳の受け止め方が全然違っている。

 批判が集中しているのは「朝日川柳」の7月15日、16日付です。この二日間にわたって、安倍元首相を揶揄するような内容ばかりが選出され、「死人に鞭打つとは、それでも報道機関のすることか」との声がSNS上にあふれているのです。

このとおり、一句も例句をひくことなく、しかも「安倍元首相を揶揄」と書いています。
もう一度J-CASTのほうの記事を読んでみましょう。「安部氏の事件や国葬を行う政府方針を揶揄するような複数の川柳」とあります。揶揄の対象が異なっています。
はっきり言って後者の記事は、例句を引く前に読者に先入観をあたえる、煽り記事にすぎません。

実際の作品はどうでしょうか。

還らない命・幸せ無限大 (2022.07.15掲載)
銃弾が全て闇へと葬るか
これでまたヤジの警備も強化され  
疑惑あった人が国葬そんな国 (2022.07.16掲載)
死してなお税金使う野辺送り
忖度はどこまで続く あの世まで
国葬って国がお仕舞いっていうことか  

「安倍氏」個人を揶揄するような、あるいは「死人に鞭打つ」ような句は、私見では一句もありません。すべて安倍氏の在任中の時事、職務上の「疑惑」と、そうした人物を「国葬」にするという政治方針についての批判です。
公人の業績や政治方針に関する批判、揶揄は、時事川柳として当然ありうべきものである。(当該作品の優劣を問わない)

特に第一句については、すでに繰りかえし指摘されていますが、安倍氏の事件についてではなく、東電旧経営陣に対する賠償命令を素材としたもの。

きちんと読み直してみると、

 還らない/命・幸せ/無限大

と五七五で読めば、「命も幸せも無限大(だったのに)もう還ってこない」となるし、

 還らない命/幸せ無限大

として「還ってこない命/幸せは無限大(だったのに)」ととることも可能でしょう。
いずれにしても「安倍元首相を揶揄」するような理解とするのは、かなりアクロバティックというか、悪意のある誤読というべきで、まして、
暗殺された人に対して、ご冥福をお祈りするということがそんなに難しいことなのか
などという感想(たかまつなな)は見当外れも甚だしいものです。

ただしそのような理解を誘引する要素があったのは確かで、ネット記事の出方として、16日付の川柳欄で7句すべてが安倍氏銃撃事件や国葬に関わる句(ほかの3句は「利用され迷惑してる民主主義」、「動機聞きゃテロじゃ無かったらしいです」「ああ怖いこうして歴史は作られる」)だった、つまりカラーが統一されていた。
そのあとで前日15日を見れば、誤解する人がいても理解できる。
しかし実際には15日は、東電賠償の句(ほかに「高裁も最高裁もなかりせば」)や、季節外れの長雨
を話題にした句(「梅雨明けと言われ機嫌を損ねたか」)もあった。
つまり、16日が「反安倍一色!」といきりたった人々が前日記事の「粗探し」に殺到した結果、誤読が生まれたのである。
先入観と正義警察による暴走、時系列の無視である。

本来であればこのような、小遣い稼ぎで類型的煽り文をならべたコタツ記事が扱う「炎上」など相手にしないほうが正しいのだろう。
しかし、歴史上、こうした「善意」の一般市民による「言葉狩り」「自粛」が、おぞましい結末に至った例は多い、そのことを我々は知っている。
諷刺というなら、まさにこうした事態をこそ揶揄し、啓発しなければならない。

にも関わらず、朝日新聞は、川欄欄への「ご批判」を受けとめてしまった。
遺憾と思う。

Twiiterで述べた私見を繰り返す。

西木空人氏の選んだ川柳は、諷刺というには直接的すぎるし、掲載句すべて同じ主題という均質性も、まことに「つまらない」と思う。
しかし、つまらない川柳すら発表できない国で、圧倒的で衝撃的な川柳が発表されるはずがない、という点において、私は朝日の川柳欄を支持するものである。

2022年8月17日水曜日

天狼を読む会

 

以前お知らせした「天狼を読む会」ですが、オンラインで続いております。

次回は8/20(土)13:30~、「天狼」昭和24年1月号を読みます。
ようやく2年目に入りました。

研究者なども参加していますが、参加資格はとくにありません。興味のある方は誰でも参加できる勉強会、読書会です。
誓子記念館の協力により、参加者とは資料を共有しておりますので、特に用意しなければならない物もありません。これまでの研究会の記録動画などもあるので、ご関心のある方は亭主までご連絡ください。

CQA21226◎nifty.ne.JP(◎を@に、JPを小文字に変換してお送りください)

2022年3月27日日曜日

【転載】京都新聞2022年3月15日 季節のエッセー(30) 

 「豆腐が飛んだ」

三年前の春は何をやっていたかと思い、アルバムのデータを見ていたら、MIHOミュージアムの桜の写真があった。たしか、国宝、曜変天目の展示を見たときだ。
結婚を機に滋賀県に住むようになって一年余り、ついでに桜も見られるし、と言って出かけたのである。
滋賀在住ならこれからもたびたび来られるだろうと思っていた美術館も、県内のほかの花見スポットも、それ以来行けていない。

私のエッセー担当は今回が最終回。
まさか三年のうち二年間がパンデミックにおおわれるとは思いもよらなかった。おかげさまでエッセーも、季節感のうすいオンラインの話題が多くなった。

実はほかの文章はともかく、本欄のように人目にふれるものは読みやすさが一番と思って、毎回妻に下読みをお願いしていた。
はじめはなかなか書き慣れず、季語の由来や俳句について書き込んだ文は「読みにくい」と言われ、日常の話題を書いた文は「まとまりながない」と言われ、何度も書き直した。

本欄の難しさは、季節にあわせた話題を選ばなくてはいけないことと、案外字数が多いこと。
もちろん書き手の腕次第なのだろうが、日常の小ネタだけではうまく話がまとまらないということはわかってきた。

たとえば、通っている床屋さんが西宮神社の福男選びに参加しているという話。
早朝のスタートに好位置を確保するため夜中に並んで抽選し、仮眠をとってのぞむらしい。興味深いが、聞いた話だけでは話に重みがないし、ほかの話題に展開しづらい。

最近でいえば、妻に豆腐をぶつけてしまった話。
もちろん意図したわけではない。以前視聴した情報番組で、プリンなどをお皿に盛るときはカップを裏返して皿に密着させ、皿を持った腕を延ばしたまま一回転すると遠心力で簡単にはずれる、という裏技を紹介していたので、豆腐で試そうとしたのだ。
ところが皿との間にすきまがあったらしく、カップから出た豆腐がつるりと飛び出し、こたつでくつろぐ妻の背中を滑降、カーペットに落ちて無惨に崩れてしまった。悲しかった。

こんな話題も、豆腐は季語にならないし、普段はボツである。

最後だから思い切って書いてみたが、やはり落ちがつかない。修行をやり直して、またいつか、どこかでお目に掛かりたい。


※3年間お世話になった京都新聞「季節のエッセー」はこれで最終回。
はじめはここで書いたとおり書き慣れず、なかなか難しいと思ったけれども、なんとかネタをつないできました。「言葉」について、更新されていくもの、つながっていくもの、みたいなことは漠然とテーマに考えていたけれど、途中でリアルに仲間と会うこと、季語に触れること、を考え直さざるをえなかった三年間でした。思いがけずもと船団の方から感想をいただいたり、よい経験でしたが、パンデミックが収束しないなかで戦争と天災のある世の中になっているとは、まさか思いませんでした。暗い気持ちになるので、思い切ってお気楽な方向に振り切って最終回をまとめましたが、これでよかったのかどうかわかりません。
国が戦争をするということ、個人が、表現や学問にたずさわる人間がそれに直面するということ、を考えさせられます。つら。俺だって気楽に酒呑んで俳句の話してーわ

2022年3月21日月曜日

【転載】京都新聞2022年2月7日 季節のエッセー(29)

 「春を待つ」

春を待つ、という季語がある。
漢語でいえば待春。万葉集にさかのぼるようだから日本でも相当昔から愛されてきた言葉で、春待顔などという言葉も平安時代に用例がみえる。
もう少し春の気配を感じられると、春近し、となる。

春隣という言葉もあって、やわらかな、よい言葉だと思う。
春の訪れは春信、春告鳥といえばウグイスのこと。実家のある神戸の山裾でもウグイスの声は聞こえるのだが、それと意識したのは俳句を始めてからだった気がする。
ある友人は、季語を知ると目の前の景色の解像度が上がると表現していた。まさにそう、知っていたはずの景色をより明晰に認識することができる。

あるいは春に入ってからも余寒、冴え返る、など早春の寒さをあらわす季語がある。

 鎌倉を驚かしたる余寒あり 高浜虚子

行きつ戻りつ、少しずつ寒さがほどけて春らしくなっていく。春夏秋冬、それぞれに移ろう時季を楽しむ季語はあれど、冬から春にかけての変わり目は、特に語彙が豊かなように思う。

春先に強い風が吹けば、SNSのトレンドワードに「春一番」があがる。
気象庁の定義では、立春から三月半ばごろまでに、日本海に発達した低気圧により最初に吹いた南よりの風。もともと西日本の方言だったものを民俗学者の宮本常一が採集し、歳時記で紹介されるようになったという。全国的には比較的新しい言葉だが、いやだからこそなのか、現代では季節の言葉として定着している。

天気予報といえば「暦の上では春ですが、」という定型句もよく使われる。我々はなんとなく春は暖かいものと思い込んでいるけれど、立春を過ぎても暖かい日はなかなかやってこない。だから「名のみの春」などという言葉まで使ってしまうのだが、実はこれも吉丸一昌作詞の唱歌「早春賦」で広まった新しい言葉らしい。
以前、別の場所にも書いたが、一年を四等分した暦本来の意味からすれば本末転倒でも、「名のみの春」の感覚は現代人には広く支持されている。
季節や暦の感覚が乏しくなった時代だからこそ生まれたり、再認識されるようになったりする言葉がある。
歴史の浅い、バーチャルな季語を嫌う人もいるけれど、新しい、軽い手ざわりも捨て難い。そして多くの人に愛されて、厚みを増していくのだ。


ウラハイ = 裏「週刊俳句」月曜日の一句 久留島元の一句

2022年2月7日月曜日

【転載】京都新聞2021年12月20日「季節のエッセー」(28)

 「へろへろと」

大学の講義で俳句を扱うときは、実作と鑑賞をセットにしている。
もともと俳句には句会というシステムがあって、実作だけでなくお互い鑑賞、批評しあう文化がある。ただ自分たちの作品を読むだけではどうしても視野が狭くなるので、講義では虚子から現代の若手まで、私が独断で選んだ秀句の一覧を配布し、学生たちに任意で好きな句を選んで鑑賞文を書いてもらう機会を作る。

鑑賞にあたって季語など語彙の解説はするが、基本的に作品だけで自由な鑑賞にゆだねている。俳句は五七五の言葉を見て、読者それぞれが受け取ったものが答えになると思うから。
また、そのほうが学生たちは教科書にない表現を楽しんでくれるようだ。

学生から人気があるのは次のような句。

はっきりしない人ね茄子(なす)投げるわよ   川上弘美 

現代の人気作家による小気味いい一句。男女の関係性もうかがえ、わずか十七音で想像が広がる楽しい句だ。

へろへろとワンタンすするクリスマス  秋元不死男ふじお

)

面白いことに、この句を鑑賞する学生はほとんどがワンタンをインスタントと想像する。
クリスマスなのに一緒に過ごす相手もなく自宅でインスタントのカップをすすっているわびしさ、自嘲を読み取り、共感するのだ。

作句年代や作家の背景を考えれば、作中のワンタンはインスタントではなかっただろうし、プロレタリア文学的な批判精神を読み取るべきなのかもしれない。
しかし上五の擬音で生じる、チープだがあたたかなユーモアは、学生の鑑賞とも通底しているだろう。

今年の春は思いがけない鑑賞に出会った。

若さとはこんな(さび)しい春なのか 住宅(すみたく)(けん)(しん)

白血病で、二十五歳の若さで世を去った自由律俳人の句。
この句について、ある学生が「この句は僕たちの句だ」と書いた。新型コロナ感染症の影響で卒業式も入学式もなくなり、仲間との卒業旅行も、新しい友だちとの出会いも奪われた僕たちだ、というのだ。
胸を突かれた。
喪失感は青春詠の定番だが、確かに、こんなにも物理的に大量の「淋しい春」が生み出され、共有されたことはなかったのではないか。
今後、私たちは、あるいは彼ら自身は、喪失感をどうやって埋めていけるのだろう。
(俳人)

2022年1月30日日曜日

寒中お見舞い申し上げます。

坪内さんのサイトで新作を掲載いただきました。

久留島元の新作―鬼を喰う  坪内稔典の「窓と窓」2022.01.26


今年もよろしくお願いいたします。

亭主拝