古くさいテーマであるが、俳句「作品」と、作者の私(プライベート)という問題について、すこし考えている。
作者個々のプライベートが作品に影響することは、人間として当然である。
しかし、作品の全てが作家個人のプライベートに起因し、そこで回収されてしまうなら、その作品はひどく痩せた、広がりのないものになるに違いない。
そもそも「作家」個人のプライベートだって、誰の、どういう立場から捉えるかかによって、さまざまな「解釈」「表現」を生むだろう。
そうした「解釈」「表現」をもとに成り立った作品は、どこまでも加工されたものであり、その作品のなかから析出される「作者」なるものは、結果として実在する「作家」のプライベートに重なったとしても、完全にイコールではあり得ない。
今さら「作者は死んだ」でもないだろうが、それが現行もっともスタンダードな「作者」の理解ではないだろうか。
と、思うのだが、案外そう割り切れない人たちも多いようなのだ。
というのは、特に、俳句や短歌、川柳など詩歌ジャンルでは、ストーリーがないせいか、作品のなかにある「作者」と、作品を創り出した「作家」とが、必要以上に結びつけられ、混同され、理不尽な批判の眼にさらされているように、思うのである。
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いくつかのきっかけがあるのだが、昨年、文月悠光さんの次のようなエッセイが、すこし話題になった。(2015/10/24掲載)
旧聞に属するが、改めてとりあげてみたい。
「あなたの朗読にはエロスが感じられないね。最近セックスしてる?」 セックス? あっけにとられ、固まった。空気は完全に凍りつき、その場の男性たちも顔を見合わせて黙り込む。「そんなの関係ないと思いますけど......」 精一杯に反論するも、彼は「いや、あるね! 男と濃い恋愛をして、その経験を詩に注ぎ込まないと!」とお決まりのアドバイス。立派な(?)セクハラである。
うんうん、こういうおっさん、いますね。。。
せめて詩歌にかかわる人間からは聞きたくない、ため息の出るくらい類型的で非生産的な「アドバイス」である。
このあと文月さんの文章は、別の中年男性から投げかけられた「産んで育てるという自分の中の女性性を意識し始めたのは何歳くらいから?」という「無邪気」な質問をふまえながら、精神科医の齋藤環と心理学者、信田さよ子による対談に至り、「男性には身体性がない」という指摘の妥当性へシフトしつつ、男性と女性のなかにある「社会」との距離感について述べている。
男性に身体性がない。
この指摘は、どこかで聞いたような気もするが、なるほどなと思う。
女性は幼いころから女性として「見られる」が、男性は「見られる」ことがなく、「見る」側(のつもり)である。
身体性がないから知識で武装し、個人より社会的肩書で判断する。
社会のなかで居場所がなければ自己を保てない、など。
いちいち思い当たるふしがあるが、これは精神分析学の成果であって(だいたい精神分析学は、日常的な「なるほどなー」を裏付けた顔をするのがうまい学問である)、文月さんの考察の成果ではない。
私が気になったのは、文月さんの文章の、結論部分である。
「私が男であることを初めて意識したのは、妻にプロポーズしたときですね!」という爆弾発言を聞いたとき、私は「そんなプロポーズは気持ち悪い!」と率直に思い、彼の奥さんに同情した。が、知人の女性(主婦であり、二人のお子さんを育てた母親でもある)がこんな風に笑いに変えてくれた。「こういう能天気な男性はいらっしゃいますね。疑問点は明るく質問してみる......小学生か? きっと奥さんに楽々コントロールされていると思うよ。ふふふ」 夫を手中に収めて、ほくそ笑む――。そんな奥さんの影を、男性の背後に重ねてみれば、少しだけ愉快である。同志を見つけたように心強い気持ちになった。
え、ちょっと待って。(前掲、下線部引用者)
それこそ、類型的な夫婦観じゃないですか。
男はいつまでも子どもで、女が手のひらで躍らせている。孫悟空とお釈迦さま。女は母性で男は少年。
外ではえらそうに言ってるけど、あそこの旦那、「奥さんにコントロールされてるのよ、ふふふ」って。
落語か。
(思えば、私が一時熱狂的に愛読した司馬遼太郎を読まなくなったのは、そこに現れる男女がこの「類型」に則った書き割りのようでうんざりしたためであった。女性を家に縛りつけ支配しながら「母性」を求めてやまない男の、なんと卑小で類型的なことか。)
たとえ事実そういう関係性が多いとしても、その「類型」のままで、本当にいいんですか。
結局それは、男性に対して「実は有利」という心理的勝利を得て満足しているだけで、なにも変わっていないのではないですか。
そんな「類型」をなぞったうえで、「恋人がいてもいなくても、セックスしてもしなくても、詩は書ける。」という結論。
それはなにか、いろいろねじれてはいませんか、と。
そこで、もう一度文月さんの文章を読み直してみた。
すると違和感の源は、冒頭の「アドバイス(セクハラ)」被害が、いつの間にか「男性と女性」をめぐる議論にスライドしてしまったことにあった、と気づいた。
というのは単純な話で、冒頭の「アドバイス(セクハラ)」は、程度や頻度の差はあれ、女性だけでなく、われわれ男性にだってよく投げかけられるのである。
俳句は、詩に比べればセックスや恋愛とは距離のある文芸だと思うが、それでも「恋愛しなければ恋愛句ができない」「若者は恋愛をしろ」「お前は女性とつきあった経験が少ないから云々」という言い回しには聞き覚えがある。
「(女遊びは)芸の肥やし」という格言?もあって、これを俳句短歌にあてはめて女遊びに誘ってくださる先輩だっている。
なるほど、恋愛もセックスも、芸の「肥やし」になることは、あるだろう。
芸に限らず、文芸においても「肥やし」から大輪の花を咲かせる才能がありうるだろう。
かつて初代坂田藤十郎が芸のために恋をしたとは、菊池寛『藤十郎の恋』で語られることであるが、現代でも藤十郎や勘三郎、猿翁といった名優をみれば、若いころに鳴らした浮き名が芸に活かされていると言ってもいいのだろう。
だからといってすべての人が恋や遊びを肥やしから芸を磨くことはないし、芸(作品)の出来から作者のプライベートを忖度することは、所詮「楽屋雀」程度の質の低いゴシップ趣味に過ぎないではないか。
まして、舞台上に色気、華やぎを演出しなければならない歌舞伎役者と違って、詩歌文芸の作者が、すべて男女の恋愛のみをテーマとして華やかな創作しなければならないなどと、そんなばかげた話はなく、そのような体験談から一線を画した世界を創り出すのも、歌舞伎ではできない詩歌創作の「芸」である。
つまるところ「作者」に対して「恋愛しろ」だの「遊べ」だのと強制するのは、作者個人の生活的リアリティが作品価値を裏付けているという、旧弊な価値観にもとづいているだけではないのか。
ということはつまり、これは男女に限らずかかわる問題であって、それを「性」(ジェンダー)に引きつけてとらえてしまう在り方こそ、むしろ「性」(ジェンダー)に囚われた偏狭な在り方ではないか、と思えてならないのだ。
そのような偏狭さが、一周まわって類型的な、男女関係の理想像を「良し」とするような、でんぐりがえった展開に陥らせてしまうのではないだろうか。
世の中には恋をしないと詩が書けない人もいるだろうし、セックスすることで句作がはかどる人もいるだろう。
それでよい。
しかし、その方角に生まれる俳句は、結局その方角にある俳句でしかない。俳句を一方向に定めようという働きは、
作者と虚構をめぐる議論も、私にはそうした「創作を狭める」ひとつとして映るのだ。