前回の投稿(引用)が、思ったより長々と続いてしまって、随分読みにくいものになってしまいました。
読みにくいだけなら、もともと読む人も少ないブログなので構わないとも思うのですが、あんなに引用したらもしかして真銅先生の営業妨害になりかねないと思うと少し反省。今のところ特に問題はないのですが、もしなにか問題があったら、記事を一掃するかもしれません。
個人的には、公開した文書を一方的に更新したり削除したりするのは避けるべきことと考えています。本音では、なにせ軽率で誤解を招くような書き方をすることが多いので何十回でも推敲したいのですが、我慢してせいぜい誤植訂正程度に抑えるようにしています。
というのは後からどんどん書き変え、削除されてしまったら他の人があとから記事を検証できない、つまり客観的な議論の組み立てをすることが不可能になる。だからblog記事やWikipedia記事は論文に引用できないとか、そーゆーことがあるわけですよね。
もちろんこの拙文をもとに論文書く阿呆はいないと思いますが、一応ややこしい議論につっこんでる自覚はあるので、議論のための礼儀はわきまえたいと思っています。
ただし、拙文に関して権利関係人間関係その他不快な思いをされた方がいるなら、謝してその旨を明記し記事を訂正・削除することに吝かではないです。どうぞお申し出下さい。
で、反省はしつつ、それでも乗り出した舟なのでそのまま引用編集のスタイルを続けます。
前回は序章と第一部の引用が基でしたが、今回は第二部。この部分を問いは、「我々はなぜ小説を書くのか」。「読む」だけではなく、「書く」ことに意識を及ぼしている点が、他の多くの理論入門とは違うところだと思います。
また論中引用されている川西著(未読)とは別の視点に立ちながら「メディア革命の時代」にあって「小説の危機」を意識する著者の姿勢は、なかなか読み応えがあります。……皆さん、買って読んでください(^^;。
第二部「我々はなぜ小説を書くのか」
川西政明の『小説の終焉』(岩波書店、2004年)のタイトルは、この時代における小説の危機的状況を、実に見事に言い当てている。(P.103)
川西は、小説が「終焉」を迎えつつあるのは、既に二葉亭四迷の昔から一二〇年近くが経ち、小説が扱うべきテーマまたは論点が書き尽くされてしまったからである、と言う。……それでもなぜか小説は、今も書かれ続けている。……以前ほど影響力を持たなくなったにしろ、芥川賞や直木賞の発表は、社会的なニュースとして、マス・メディアに今も大きく扱われる。この、やや異様とも思える小説の特別扱いは、例えば絵画や演劇に関わるさまざまな賞と比較しても、明らかであろう。(P.103)
むしろ危機の度合いが大きいのは、書き手の側の問題である。明治時代のように、他のメディアが発達していなかった時代と現代との間で、受け手である読者の環境が大きく変化したことは明らかである。……しかし、それに関わる書き手の個人的な意志や戦略、そして方法の側面については、基本的には何も変わっていないように思われるのである。(P.105)
小説は虚構である。虚構であるということが小説の存在性を支えるものである。(P.172)
小説の存続の危機が言われる今こそ、虚構性の復権による、小説の再定義が必要なのではないだろうか。小説は、これまで近代日本の文学史がたどってきた、明治末期以降の自然主義・私小説の席巻以前に戻り、近代文学史を無化し、虚構の芸術として歩み直すべきではないだろうか。虚構をめぐる方法論の積み重ね、および脱日常という小説の性格の原典に立ち戻り、これらの実験の系譜を積み重ねるべきではないだろうか。(P.172)
小説とされる諸々の作品群に、果たして共通の性格は存在するのか。ここが問いの出発点である。……小説とは何か、という問いに答えるためには、一つの方策として、下位項目としての様々なジャンルについての検討から帰納的に全体像を組み立てることが想定される。(P.111)
例えば、日常の風景を写す描写に際しても、これをどのように書くか、という思考には、書き方の選択が伴う。そこに想定される書き方のヴァリエーションは、書くという行為の限界と可能性を示している。……作家とは、取り敢えずは、この書き方のヴァリエーションをたくさん持ち、またその使用法を十二分にわきまえている存在と考えることができる。(P.108~109)
最前線の作家は、過去のジャンルを意識しながらも、基本的にはそこから自由になろうとするか、もしくは意識的にジャンルの殻を破ろうとするものである。したがって、ジャンル名とは、どこまで行っても小説の創造の場に追いつくことはできないのである。(P.116)
多様なジャンルを意識し、小説の可能性を拡大すること。それが、読者層を想定することの最も重要な意味合いであろう。(P.128)
ごく内輪の読者には、一種の符号的な表現も許されるであろうし、ローカルな話題も通じる。……しかし、より広い一般読者には、この内輪性は通用しない。したがって、より広範な読者を獲得するためには、特殊な状況を、いかに一般化して伝えるかという技術が必要となるのである。(P.128~129)
読者層の想定には、当然、リテラシーの問題が関わってくる。まずは、その小説を、読者が読むことができるのかが、ある限定を加えている。我々は通常は意識しないが、日本語で日本の文化を前提に小説を書く際には、日本語が読め日本の文化がある程度理解でき、作中の空気を共有できる読者を確実に選択している。……このような、暗黙の了解事項は、小説の読書現場においても、コミュニケーションにおけるコードとして確かに存在しているのである。(P.125)
このようなコードについては、厳密に見ていけば、その共有に差が生じてくることも事実である。……つまり、テクストがそこに立ち現れる際、いかに作者が緻密に描き込んだとしても、読者のコードは一定でないので、テクストは、たとえ誤読がない場合においても、あらゆる読まれ方のヴァリエーションを抱え込むことになる。(P.125)
注意しておかなければならないのは、このことが、読者個々の読みの恣意性をのみ意味すると言うことを強調したいわけではない、という点である。むしろ、個々の読みの恣意性を超えて、読みとは改変可能である、という点に結びつけたいのである。テクストは読者を鍛え、読者に読みの一定のルールを植えつけることも可能なのである。(P.126)
読者の意識こそは、文学がいかに私的な表現から、社会的な表現へと移り変わるかという問題を体現するものである。(P.129)
次に、読者の距離、および裏切りについても触れておかなければならない。作中に設定された読者はともかく、現実における読者は、テクストの意図通りに解釈してくれるとは限らない。……このような場合には、やはりガダマーの『真理と方法Ⅰ』からヤウスの『挑発としての文学史』へと引き継がれた、「地平」の概念を導入するなどの工夫が必要である。要するに、テクストが乗っている地平と読者の乗っている地平を違うものとした上で、地平の重ね合いが求められるという発想法である。この際、テクスト側からちかづいてくれることは想定できないので、あくまで読者の地平が更新される必要があろう。(P.130)
小説を書く際に、作中時間をどう設定するのかが、作品の重要な鍵となることは言うまでもない。……ジュネットによると、作中の出来事の記述は、イストワール(histoire 物語内容)と呼ばれる。それに対し、言説自体は、レシ(recti 物語言説)と呼ばれる。この二つの間にある時間のずれは、大きく、まず、順序の相違として現れる。(P.131)
日常生活においては、時間はただ流れているだけであり、我々はその存在について殊更に気づきもしない。ところが、時間が止まっているように感じたり、時間がとても早く流れていくように感じた場合には、時間というものの存在を強く意識する。……このように、生きていることにすら無自覚的になってしまった人間が、成長や停滞に気づき、言わば人間らしさを取り戻す瞬間、それが時間を意識した時なのである。(P.135)
小説は我々に脱日常を促す。……この場合、脱日常は、ただ空間的な位置関係にのみよるものではなく、このような我々の肉体が委ねられている通常の時間から、精神的な側面が関わる時間感覚が乖離しようとする営為であるとも言い換えることができよう。(P.135)
小説を構成するとは、正しく、現実世界とは別のもう一つの世界を構築することであり、小説を描く際の構想とは、その意味において、世界像の把握である。世界をどう捉えるのか、という訓練の機会を、小説は我々に与えてくれるのである。(P.151)
誰もが完璧な小説を立派に完成させなくともいい。誰もがそれぞれ、どんな形でもいいから、物語を構築することを積み重ねていけば、現実空間に埋没する人が減り、多くの人の世界の見え方が変わってくるはずである。……極端に言うならば、今は、これまでのような小説読者を増やすことによる小説の復権ではなく、小説作者を増やすことによって、小説を取り巻く環境自体から整備するべき時なのかも知れない。(P.179)
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次回、自分の言葉で、書きます。
※後記。 同書の著名な書評がネット上で読めることを知りました。書評者は近代文学研究
では有名な方です。拙稿は非常に個人的な問題関心によって引用していますので、同書の
しっかりした書評がお読みになりたい方は、下記。
http://d.hatena.ne.jp/hibi2007/20071110/1200221690