2009年6月27日土曜日

読者、というやつ。

昨年、参加していたメール句会で、拙句をめぐってちょっとした議論があった。

  アイリッシュウルフハウンド秋の風

句の出来はさておき(本当は一番肝心なことだが)、当時この句に対して、

「アイリッシュウルフハウンド」がわからない。調べろ、と怒られそうだが、調べない。たとえわからない単語でも、なにか手がかりになるような世界観があればいいのだが、読者は作者ほどその句に愛着はないので、浸透していない言葉には無頓着であることを覚悟しなくてはいけない。
という句評をいただいた。(blog掲載にあたり、私に要約させていただきました)
ちなみにアイリッシュ・ウルフハウンドというのは、犬種中もっとも背が高いという長毛種の狩猟犬である。→ http://www.konmakk.com/iwh.html
このとき、議論になったのは別にこの話題だけではなかったのだが、私にとって興味深かったのは「読者」の立ち位置に関する言及であった。そこでそのとき、私は次のように返信した。

句会では誰もがそれぞれの知識をもって、それぞれ自由に読めばいい、とも思います。最低限の俳句のルールをふまえたうえなら、知識の多寡によって制限される句は、それだけで読者を選ぶ、特殊な句であるといえます。特殊な句を作るなら、それに見合う覚悟(理解されにくい可能性)を背負うべきだ、と、僕は思います。
だから今回の句が「読まれなかった」としても、その評価を「甘受」します。(そういう特殊な句の在り方、というのも僕は好きですけれども。)

しかし一方で、わからない季語、知らない単語に出会ったとき、例えば目の前に電子辞書があったら、それを使わないかどうか。調べて読みが変わった、ときにそれは直感的な、一般的な読みを排除したことになるかどうか。
僕ならば、調べるでしょう。調べた上での鑑賞を述べるでしょう。

ちなみに今回は、「メール句会」という特殊性があるように思います。句会では、歳時記と、せいぜい電子辞書程度しかありません。しかしメール句会ではネットに接続して何でも調べられる(可能性)がある。それを活かすことが、いいのかわるいのか。
僕は、一句を必ず「鑑賞」しなければならないなら、どういう知識を援用しても、上のように「調べて読んだ評」をします。
一方で、一過性の句会では専門知識を要求するような句、読み手=座を無視した句は、評価されずにいても仕方がないと思います。メール句会の場合は、…正直わかりません。
(一部抜粋、掲載にあたり改行箇所などを一部変更。)

考えの根底にあるのは、最近いよいよ力を増している「俳句は座の文学」というテーゼに対する、ひとつの疑問である。
この俳句の活字化に伴う結社誌の普及で、句会から俳句のおひろめの場としての機能が奪われてしまった。(略)/(書き文字であった)俳句は、特定された読者に対する限りない信頼感を軸に成り立っていた。要するに、「ここまで踏み込んで書いても、彼らなら読む筈だ」という安心感である。/ これに対して活字化された俳句は、明らかに違う風合いをもっていた。すなわちそれは始めから不特定多数の、読み手としてはまことに見えにくい読者に提供された。
小林恭二『俳句という遊び』エピローグ(岩波書店、1991)

この本以降、俳句世界は改めて「句会」の力を重視するようになった。私自身がこの本に出会って俳句を知り、句会を知った。今でも俳句の魅力の半分以上は句会にある、と信じて疑っていない。
句会、で出会った句に対しては、そのとき自分が知りうる限りの知識と読解力とでもって、全身全霊、必死に句に読解しようと努めなくてはいけない。私は小林恭二の著作からそのことを学んだのである。それが「座」を共有する人間のつとめである。
なぜなら、句会では「読み手」は「読者」ではない。「読み手」は「選者」である。

私たちは句会で、「○○選」と叫んで選句をする。「選句」する以上、その責任は負わなくてはいけない。その句がなにを目指しているのか、この句はアリなのか、なしなのか。その理由を、直感的でも良い、きちんと言えなければ、それは句に対して失礼だろうと思う。

もっとも、「アイリッシュ・ウルフハウンド」のような「俳句世界の用語」以外の知識を問うような単語は、「俳句世界」の俳人たちが知らないのも当然だ。はなから冒頭の拙句は「読まれない」可能性が高い句だったので、それはそれでよい。

しかし現代俳句は、句会を離れても成立する。つまり、活字化された俳句の場合である。
活字化された俳句を見るときというのは、基本的には「句会」の場ではない。「読書」であり、自分の娯楽だ。どう読もうが、全面的に「読者」の自由である。

ちなみに、「読者」は、普通、一句単独では読まない。
ページをひらいて一緒に目に飛び込んでくる俳句は、基本的に関連づけて読むだろう。
ページを繰っていったりきたり、あっちを読みこっちを読み、たまに著者略歴も見ながら、句集一冊から、作者の私生活を想像したりするだろう。
傍らに辞書を置き、途中で飽きてネットサーフィンし、そのまま部屋の隅に積んでおいたり、Book offに売り飛ばしてしまったりするだろう。

そういう「読者」にあてて俳句を作るのと、ひとりひとりが「選者」=つまりよりよい俳句の理解者たらんとしている場に向けて俳句を作るのと、同じ枠の中で考えて良いのだろうか?

俳句は座の文学。
というテーゼは、もちろん、活字化しきった俳句に活力を取り戻すための、意識的な試みであったはずなのだが、テーゼだけが一人歩きしていると、その「意識」が無意識に変わって、俳句が座を離れて読まれている現実を忘れてしまいそうになる。

ところで、当然だが、わがままな「読者」は、徹底的に調べて、鑑賞する自由もあるし、そういう意識的な「読者」だけをめがけて放たれる俳句も、当然ありうる。

たとえば、高柳重信の多行形式俳句という試みは、視覚的効果や、意味の飛躍、用語の特殊性、どれをとっても活字でしか楽しめない俳句を追求したものだった。
しかし、活字化された俳句は正岡子規の時代からあったはずで。
多くの俳句作家は長らく高浜虚子という巨大な選者を活字越しに見ていたはずで。

俳句百年。
いまでも俳句は、座の文学なのだろうか。


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