2011年10月28日金曜日

それにしても。


当blogで9月に本読みHPブログ 俳諧ガールのための雑誌「Haine(ハイネ)」を話題にしたときには、まさかこんなにはやく実現するとは思わなかった。

さとうあやかとボク。 10/25

本誌HPのほうではもう来月号の宣伝に変わってしまったので佐藤文香氏のブログで代用しておく。

※訂正。よく見たら最新号(12月号)ではないですか。SPURのHPで目次が見られます。

まぁさすがに買うのはやめた。が、この手の雑誌にとりあげられる、というのは、やはりちょっと違う風がふいている気がする。


ていうか「しゅぷーる」て読むのか、知らなかった。




感想を書こう書こうと思って、結局10月に入ってからばたばたしすぎていてまったく書けなかった句集評。
もう今さら感もあるので、簡単に。

・山口優夢『残像』(角川学芸出版、2011)
濃縮還元、粒ぞろいである。
総数184句ということで、九年間の句をあつめたものとしては多くない。句集を読むときに私がもっとも期待するのは「バラエティ」なのだが、むしろこの句集ではぎゅっと詰まった感じ、意識して抽出された感じが伝わる。
もっとも典型的なのはすでに世評たかい次のような句か。

  あぢさゐはすべて残像ではないか
  台風や薬缶に頭蓋ほどの闇
  どこも夜水やうかんを切り分ける
『叙情なき世代』(邑書林)という評論集で自らの世代を規定しながら濃厚な叙情性をもち、濃密な肉体感覚とぼんやりした現実世界との懸隔をもてあましつつ、どうにか埋めようと言葉をつむいでいる。
一般的に、山口優夢とはそのような作家であると認識されているようだ。
ところで、上の三句はいずれも第一章「どこも夜」より。第二章「どれもあかるく」は、

  心臓はひかりを知らず雪解川
にはじまり、
  夢でせうはくれんだけの空なんて
  小鳥来る三億年の地層かな
  目の中を目薬まはるさくらかな
など。
彼のスタートともいうべき「小鳥来る」をあえて二章に配したことはもっと注目していいのではないか。
第二章に見られるのは上のようなシニカルかつウェットな気質だけではなく、目にうつる景色を楽天的に受け入れようとするポジティブさである。

  野遊びのつづきのやうに結婚す
  投函のたびにポストへ光入る
巻末二句の向日性、ことに角川俳句賞を受賞した、無季の一句を巻末に据えたところに、次へ展開する山口優夢の軌跡と方向性を見出したい。



・中本真人『庭燎』(ふらんす堂、2011)
中本さんの句については「週刊俳句」や「関西俳句なう」でも取りあげたことがある。
一口でいえば、ドライであけっぴろげなユーモア感覚。身も蓋もないというか、その風景をそう詠んで、それで作者はそれだけでいいの?みたいな。
  それらしき穴のすべてが蟻地獄
  落第の一人の異議もなく決まる
  ばつた跳ねガードレールをかんと打つ
作者の感情がほとんど読み取れない。読み取れないところに読者はひっかかり、思わずツッコミを入れたくなる。そこが面白い。
一方、序文で師・三村純也氏が指摘されているような方向性もまた、中本句の佳さだろうと思う。
  山茶花にあらずと椿落ちにけり
  御旅所にどつかり座り何もせず
  回送のバス涼しげに走り去る
物語が始まりそうで、なにも始まらない感じ。覚めた現実感覚。
決して印象に残るというほどではないにせよ、これらもまた俳句ならではのおかしさを持った句であり、散文では鑑賞しきれないところにその特質があるように思う。
いわば、なぜそれをわざわざ十七音の詩型におさめてみせたのか。その意図や感情が読みとりにくく、ただ定型で示される作品化、加工の手練だけが露出する、その面白さである。




・火箱ひろ『えんまさん』(編集工房ノア、2011)
火箱ひろとは何ものか、と思われた方にお答えしておくと、船団・紫野句会の幹事役である火箱游歩さんと同一人物である。「還暦を過ぎ句集を出す、この機会に、親からもらった名前に回帰し」ということだそうだ。同句集は第三句集。
  どこをどう行っているのだ夏至のバス
  天高くみんなで道を間違える
方向音痴気味の私は、バスに乗ったらもう見慣れた街もどこをどう進んでいるか見当がつかなくなることが多々。京都のバスは特に路線が多くてややこしい。しかし夏の盛りには夏の、秋空には秋の、方向音痴には方向音痴なりの楽しみがある。
  金魚A尾ひれの先にちょいと癖
金魚を見分ける手段など私にはまったくないのだが、「金魚A」という響きだけでいい。私の世代だと「少年A」なのだが、上の世代は「少女A」なのだろうなぁ。
  立て仔牛立つんだ仔牛月皓々
  爽やかや少年の抱く月球儀
  にんげんが消え村が消え月夜
友だち*秋」の章にまとめられた月をめぐる群作。火箱句のよさがよく出ている。
おもに取り合わせで既存の言い回しをもとに作られているが、この方向が教訓めいた説教臭さから離れると実に晴れやかな句になる。
「仔牛」へのエールと「月」の明るさ、「少年」「月」の透明性、「にんげんが消え」ていく物語性。最後の句はちょっと不気味だが、感傷が入り込みすぎないことで俯瞰的に歴史の流れを見るような、淡々と澄んだ心地になる。湿っぽさとは無縁で、しかし物事をきちんと見る公正な愛情深さなのである。
読後感のよさ、これも俳句を読む楽しみのひとつ。

 

2011年10月23日日曜日

外とか内とか

 
さて、それほど気になる言葉だっただろうか?

週刊俳句 Haiku Weekly: 〔週刊俳句時評47〕ユリイカ「現代俳句の新しい波」ふたつの印象…上田信治

「詩客」 七曜詩歌ラビリンス4

トゥゲッター 千野帽子氏の「帽子の中」

週刊俳句 Haiku Weekly: 〔週刊俳句時評49〕外気にさらされるということ…西丘伊吹

まぁ、実際に反応しているのは「俳句世間」の人々でも「俳句界隈」の人々でもなく、「週刊俳句界隈」の人々、といったところが現状だろうが、「外」という看板をさげて挑発的に風穴を開けようとする千野氏の活動はいたってまともなものであり、外と言っても実は中だ、などと自明のことをあげつらってもなんの意味もない。千野氏だってそんなことは百も承知のうえで使っているのだろうから。

もちろん千野氏の「俳句史」は氏個人の見解にもとづく「誤解」や、かなり一方的な評言が目立つ。
しかし、千野氏の文章は正確さよりもまさに「速さ」をこそ楽しむべきもの、という気がする。
それは作者自身がそのように規定し、断っているのだから、それ以上求めるのはナイモノネダリにしかなるまい。求める方向が違いすぎる。
千野氏は、とりあえず発信しかったのだろうし、事実、そのようにしている。

むしろ、千野氏のような立場からの紹介に対して、本当に過敏な反応を示しているのだとしたら、それこそ「俳句界」のナイーブすぎる、潔癖主義というか無菌主義というか内向き志向を露わにしているというべきだろう。
「外」からの視点は、多かれ少なかれ「誤解」や「幻想」に満ちていて当たり前であり、「外」に対して「誤解」や「幻想」を振りまいてお客を誘致しようというのも、どこにでもある話。
それでもその「誤解」と「幻想」をもとに「お客」が来てにぎわえば、その中に定住者が出てきたり、理解者が出てきたり、なかには原住民よりふかく理解してまた「外」へ紹介してくれる人が出てきたりして、いつの間にか「中」の風景も混じり合い、変わっていく。
よいではないか。

少なくとも私は自分が「俳句」に関係している自覚はあっても、自分の好きな「俳句」以外にも膨大で多種多様な「俳句」があることを知っている。
誰かが決めつける「俳句」に対して、別ルートを示すことはできても、公然とある俳句を否定する根拠を持っていない。
それは「俳句に似たもの」論争に対しても、そのように弁ずるしかない。

ツイッターその他を含めてフォローすれば、千野氏の好きな「俳句」は、基本的にオープンな「句会」形式で楽しむことが出来るものであり、またキーワードとして提示される「一発芸」的な、「速い」作品、ということになる。
(彌榮浩樹氏が指摘したキーワード「一挙性」「露呈性」などが想起される)
特に「句会」を「俳句」の重要要素とみるところなどは私自身の嗜好にも重なる。(*)
一方でそれ以外の俳句を否定的に述べる根拠を、今のところ私は持っていないのであり、おそらく私が「俳句」の歴史を論じるとすれば、やはり「関係者」らしい、総花的なものにならざるをえないだろう。


いろいろ刺激をもたらしてくれる、と言う意味で個人的に千野氏の文章は読み物として楽しめたし、ほかの記事にも見所は多かった。
結果、おおかたの反応としては、「俳句もようやくサブカルチャーになりましたか」と言って、自分の気に入った記事を丹念に読み返すのがよろしかろうと思う。
少なくとも、最近の俳句専門誌の特集よりも、はるかに広く、「文芸」一般に開かれた特集ではあっただろう。



ところで、先日いただいた句集のなかにもこんな表現。



俳句との関わりにおいて、そのケッペキさは、インサイダーにならないこととして、表現されている。本人からしたら当たり前以前のことだろうけれど、俳壇の人を一切ありがたらないし、うっかり俳人と呼ばれた一生の不覚と思うような人だ。

これは西原天気さんの句集『けむり』(西田書店、2011)に寄せられた上田信治氏の栞文。天気氏の人柄を評した部分で、ここにも「インサイダー(中の人)」という言葉が登場する。
この部分だけ引くのはフェアではないだろうから、もう少し引いておく。



インサイダーにならないというのは、その俳句の書きようにも言えることで、天気さんは、俳句プロパーの人の気に入るように書くということをしない。かといって、反○○というわけでもなく、つまり、俳句らしさの枠が、まったく出入り自由なものとして扱われている。



そういえば、BS大会では樋口由紀子さんが「内」「外」という語を使っておられたな、と思い出す。
「川柳時評」川柳が文芸になるとき


このときも「外」はともかく、「内」とはどこか、と言う問題はすこし議論になっていたかと記憶する。

「外へ広がっていく」「開いていく」みたいなキャッチフレーズは、私自身も使ってしまうことがあるが、こうも取りざたされるとその曖昧さが目に付いてくる。
少なくとも一度でも作品を他人の眼に触れる場で発表した人は、「中」ではないにせよ、「外」の人ではないだろう、とか、思うのだが。





* このあいだ神野さん、江渡さんにお目にかかったときにも話題になったが、このとき問題になるのは「句会」を離れて掲載される作品をどう読むか、ということである。俳句が「句会」のライブ感に支えられ、「句会をするのは飲み会のため」という千野氏の作品を「ユリイカ」という誌面で見る我々読者は、「飲み会」の楽しみがないわけであり、これをどう読むかは問題である。


2011年10月10日月曜日

ふーん


週刊俳句 Haiku Weekly: 〔週刊俳句時評47〕ユリイカ「現代俳句の新しい波」ふたつの印象…上田信治




印象2
千野さんは、正統的な文学とか芸術のジャッジにさらされない、南洋の楽園のような場所を求めているのかもしれない────
と思った。

いや、そこはふつうに入植地って言えばいいのかな。

「入植地」とはたしかに言い得て妙。
日本文化の一部だけをとりあげて「非西洋」の部分を強調し、「脱近代」につなげてしまう、結局それが「近代」≒「西洋」から見た特殊性にすぎないのだと気付かない、今日もどこかでだれかが主張するゆがんだ日本文化論。

千野さんの議論が、「文学」帝国から見た「外野意見」というポーズを強調しすぎて、そんな空気を漂わせているという指摘。うん、たしかに言われてみれば。

要するに、裏返しの(好意的な)「第二芸術論」ということ、ですかね。

そこで考えてみる。なぜ、私は一読で気付かなかったのだろうか。
あるいはこう考える。なぜ、私は一読で不快感を抱かなかったのだろうか。


「外の人」の過剰なアピールは、「拒絶」というより「エクスキューズ」だと受け取った。
入り口でうろうろしているから深層までは踏み込みません、でも入り口の面白さはよく知っていますよ、という。
そのあたりが、「書評家」ぽい、と思った理由ではなかろうか。
あくまで紹介。深層ふかく切り込む探求者ではなく、論考をひねり出す専門家でもない。
俳句の入り口は、私はどんなに低く宣伝してもらっても構わないと思っている。
楽器の一つも扱えず小学校から音楽や芸術は赤点スレスレだった私にとって、俳句はリコーダーより簡単であり、絵を描くよりも準備がいらず、書道よりも容易に「それっぽく」書ける。





要するにたぶん、私も俳句を「第二芸術」だと思っているのだ。
俳句は「遊び」だと思うし、間違いなく「俳句は誰にでも書ける」と思っている。

ただし、それだけでもないのである。
ほかの、一般人が「遊び」でしかないもので、凄い境地に切り込んでしまう、それはつまり「感動」とか「驚異」とか、あるいは「共感」でもいいかもしれないが、そういうところまで至ってしまうことはありうるのであって、間違いなく「俳句」にはその力がある。
もっともそういうことは「遊び」一般に言えるだろうことで、ことさら「俳句」が文学(文芸)かどうか、とは関係がないと思う。

「誰にでも書ける」とアピールされて、入り口がどんどん広く低くなったとしても、それはそれでいい。初心者が偶然至ってしまう面白さもあるし、生涯かけてあがいたって敵わない俳句もたくさんある。どちらも凄さをわかってくれる人が増えるなら心強い。
逆に分母が大きくなって、それで価値が揺らぐ俳句だけなら、それだけのことだ。時代に応じて、また別の俳句が評価されていくだろう。
俳句が、そういう動き続ける存在であってよい、というのは、これは「中の人」らしからぬ、ということになるのだろうか。

※追記。
要するに言いたいことは、
 俳句は誰にでも書ける。
  でも、誰にも書けなかった俳句、もある。

ということ。
これ、ごく当たり前のことですよね?

2011年10月7日金曜日

告知もろもろ

 
小西昭夫編集長の「子規新報」2巻33号(2011.09.30)に掲載していただきました。

「次代 を担う俳人たち」という欄で、懇切な記事を掲載くださっております。
小西編集長、ありがとうございます!

あ、ひとつだけ訂正。
記事のなかで私が「俳句甲子園」ボランティアスタッフとして参加、とありますが、私は一般観客でした。
まぁ出身生でスタッフにも顔なじみが多いので、勘違いされることは多いです。
たいしたことではありませんが、内情知ってる方はちょっと違和感をもつかもしれませんので、念のため。


「子規新報」購入/講読は創風社出版さんへ!




もうひとつ、告知。


朝日新聞東京版の夕刊「あるきだす言葉たち」に、拙作15句を掲載いただける予定です。
掲載は来週11日(火)です。

残念ながら関西では見られませんが、東京の方、見てくださればありがたく存じます。


ちなみにこのふたつのお仕事は、ともに松山へ遊びに行ったのが縁でうけたもの。
ひとつは池田澄子さんの講演会で、
もうひとつは松山俳句甲子園。



どちらも自分が楽しくて動いていたら、思いがけず人と行き会い、つながった。


先日、川柳BS大会で畑美樹さんが、

「川柳は動いている。特に自分が川柳を始めた時代は、川柳が自己のアイデンティティを問われ、動き続けていた時だった。そんな時代に川柳に出会ったので川柳をおもしろく感じた」

といった趣旨のことをおっしゃっていた。
ある文芸のシーンが「動く」という感覚、程度はあれその熱の最中は、どんなジャンルでもそんな感覚があったのではないか。

そして今。
俳句には、「ユリイカ」で特集されるような「新しい波」が起こりつつ、ある。