2013年12月31日火曜日

積み残し


2013年も大晦日。
左の「更新」欄をご覧いただければおわかりの通り、今年は例年よりずいぶん更新頻度が少なめでした。
1月2月は多いくらいだったのですが、3月からは平常運転、7月はついに1度しか更新できず、下半期はさらに告知中心の低空飛行が続き、結局、Blog開設以来の最低更新頻度を記録してしまいました。わちゃー。

その代わり、本業のほうで頑張っていたと・・・思って下されば幸いです。

というわけで、今年は「回顧と反省」はなし。
かわりに、論じる予定であった書架の「積み残し」本の数々をご紹介します。年末大掃除の風情。(現実には大掃除やってませんが...)



今年も皆さんから句集をたくさんいただきました。
大変おもしろい句集をたくさん頂いたのに、なかなか感想を書けずじまい。ともかく何句かずつ、お気に入りの句をご紹介します。

まず、「船団の会」の方々よりいただいた句集。見事にふらんす堂づくし(笑)。


赤坂恒子『トロンプ・ルイユ』(ふらんす堂)
  空真青ひばり鳴く日のがらんどう
  流星群いつまで夢を見るつもり
  魚の首ざっくり落とす星月夜
やわらかい、軽い気分のなかで、それでいて結構冷静な視点が、やわらかい雰囲気をこわすことなく貫かれている印象。


水木ユヤ『カメレオンの昼食』(ふらんす堂)
 そう今はアクビとかしてOù allons-nous ?
         (我々は何処へ行くのか?)
 留守にします時折来ます花椿
 冬の街灯と選挙カーねえ歌ってよ
詩句集。句もいろいろと実験的で、詩と見るか句と見るかで判断が分かれそうなものも多いけれども、とにかく言葉を断片化して面白くしていく意識が感じられる。


火箱ひろ『現代俳句文庫 火箱ひろ句集』(ふらんす堂)
 もつともつとすごいはずだつた野分去る
 鴈治郎四頭身で年詰まる
 憑きものが落ちてくるなりおでん鍋
火箱さんが三冊の句集から精選した句集。読み応えアリ。




嵯峨根鈴子『ファウルボール』(らんの会)
 人体のここが開きます浮いてこい
 噴水の非常口から入りたまへ
 反撃のチャンスはんかち畳み終へ
2009年に出た句集。最近、関西の句会でお目にかかることの多い嵯峨根さんに、おねだりしていただいてしまった。
無理のない不気味さというか、さらりとした気持ち悪さというか、妙な感触が魅力的である。


皆さま、ありがとうございました。



青木亮人さんの評論集『その眼、俳人につき』(邑書林)が出た。
この本、たいへん面白い。いくつか評が出ているものの、もっともっと話題になっていい本だと思うが、どうだろう。

虚子、蛇笏、誓子といったおなじみの顔ぶれから、竹中宏、井上弘美、関悦史といった現代作家、青木さんの大きなテーマでもある明治の月並み宗匠・三森幹雄に至るまで、縦横無尽、俳句のもつ特殊性と普遍性、凄みと親近感について、鮮やかに批評していく。
第一線の研究者であって資料を博捜しながら資料に溺れず、ときにざっくりした「印象批評」も怖れずに自らの「読み」を開示する、その緩急がすごい。

なにより、よく見知った作品や作家であっても、評者によってこうも見え方が変わるか、というという驚きがある。


と、こんな個人Blogで先輩の仕事を絶賛していても仕方ないので、青木さんの本からもらった問題提起についてなど少々。

当Blogでも何度か、青木さんと外山さんのお仕事に通底する視点について触れてきたが、(曾呂利亭雑記 「俳句評論のゆくえ」)それについて、関さんの興味深いツイートがあった。


                             11月15日
高原さんの『絶巓のアポリア』(まだ読めていない)は安井さんの『海辺のアポリア』を踏まえた表題なのだろうが、それと別に『平野のアポリア』が必要な気もして、青木さんの『その眼、俳人につき』や外山さんのスピカ連載はそれに繋がる気がする。

平野のアポリア。

魅力的な視角であると思う。
詩性一般にいわれるように、俳句にもシンパシー(共感)とワンダー(驚異)の両方向があって、
ときに俳句は易きに即くというかシンパシーの面が大きくなる傾向があって、
それに反発して批評の世界ではワンダーの面をことさら強調するような傾向があると思われ(批評、理論構築を得意とする人々がいわゆる「前衛」出身なこともあり)、
ところが、俳句の根っこがだだっぴろい「平野」の表現史につながっていることは誰もが体感している事実でもあり、
両方向の空隙を、断絶ではなく連続と見ることが、これから「俳句史」を新しく見直すことになるはずだと思う。


その一方で、(忘れがちですが)じゃあ自分自身の俳句はどうなんだ、ってことになると、
たぶん「平野」にも、「海辺」「絶巓」にもなくて、双方を見渡せるちょっとした異空間というか、そういう場所なんじゃないか、と。
日常からずらしたところにある「異化」。
シンパシー(共感)でもワンダー(驚異)でもなく、いわばトリップ。
そのあたりではないかな、などと。



最近、古本屋で買ったり、人からもらったりで手に入れた本。
まだまったく読めていないのですが、これからおいおいご紹介したいと思います。

齋藤慎爾編『現代俳句の世界』(集英社、1998年6月)

江里昭彦『生きながら俳句の海に葬られ』(深夜叢書社、1995年6月)

『現代俳句の新鋭 4』(ギャラリー四季、1986年11月)
 赤羽茂乃、金田咲子、田中裕明、中烏健二、中田剛、永田琉里子、夏石番矢、西川徹郎、橋本榮治、渡辺純枝 共著


2013年12月27日金曜日

俳句Gathering反省会

俳句Gathering2、終わりました。

ご来場いただきました皆さま、関係各位、本当にありがとうございました。
芳名録にはスタッフや出演者も含めてしまっているので正確な「観客数」ではありませんが、少なくとも六十名近い方に、今年もお集まり頂きました。
年の瀬の忙しい時期、「俳句」とうたって六十人以上が生田神社に参集できたこと、関西俳句界の潜在力というか、可能性を感じることが出来たと思います。


今年の最大の成果は、第二部で「W小池」と題し、小池正博さん、小池康生さんのコンビで連句・川柳とのコラボ企画をとりあげることができたこと。そしてそのために連句人・川柳人が何人か足を運んで下さったことである。

連句からは、「船団」の仲間でもある梅村光明さん、赤坂恒子さんらが徳島からわざわざ渡って来て下さった。梅村さんは当日投句大会の大賞を受賞された。
俳句Gatheringという「祭」が、ただ「関西」「俳句」に留まらず、「関西俳句・発」の気炎になることができるなら、なんともありがたい話だ。

第三部では昨年同様、Pizza・Yah!を迎えた俳句バトルが行われた。
Pizza・Yah!は7月にメンバーの卒業があり、新メンバーを迎えての参戦。休業中のおぎのかなも加わったことでファンには嬉しいチーム構成となったようだ。
一方の男性チームは昨年敗れた遠藤朗広くんが、お笑い仲間を率いてリベンジマッチを挑む、という構図。

試合前にはプロデューサーの徳本氏渾身の「あおりVTR」が入り、さらに「秘密兵器」として、林田ゆりあが登場。林田さんはかつて徳本が企画した宝塚での句会バトルで女性チームを率いた現役タレントで、いわばPizza・Yah!に先行する元祖・俳句アイドル。
客席からも笑いが漏れる中、舌戦はときに脱線し、俳句だけは真剣な句会バトル第二弾が開幕。今年は2-2の大将戦まで持ち込んだものの、やはりPizza・Yah!チームが勝利。

ちなみに、両チームの俳句指導やディベートのサポートには徳本氏が関与しているが、勝敗の判定だけはまったく審査員にゆだねられており、いわゆる「やらせ」はまったくない。
今年は審査員席に、東京から「童子」の松本てふこさん、「層雲」のきむらけんじさん、という新しい顔を迎えたこともあり、昨年はひと味違った講評となった。

スタッフには関西俳句会「ふらここ」のメンバーが多数参加してくれ、前日から泊まり込みで働きづめに働いてくれた。今年のイベントがなんとか終了したのは、全面的に彼ら学生スタッフのおかげである。本当にご苦労様でした、ありがとうございました。

とはいえ、今年は昨年以上に課題が多く残った。
まずなによりの反省というか悔恨は、昨年の経験を踏まえてすこしは余裕ができるかと思っていたのに、昨年以上に段取りが悪く、まったく笑えないほどのどたばたぶりを見せることになってしまった。昨年の石原ユキオ氏からの厳しいエールにも応えられない出来だった。情けないことだ。
正直なところ、昨年はまだ全体を見る余裕があったのだが、今年は第二部・第三部はほとんど観戦することができなかった。そのため内容についてもあまり深くここでリポートすることができない。
これもありがたいことに、すでに第二部に出演してくれた小池正博さんが詳細なリポートをすでにあげて下さっている。当日の雰囲気については、こちらをご参照いただきたい。
週刊「川柳時評」 俳句Gathering vol.2

また、今年の客層は去年以上に若返った。

洛南の高校生や、「ふらここ」から大学生メンバーが多数駆けつけてくれ、会場の約半数は一〇代・二〇代で埋まっていたのではないか。
俳句甲子園や、その後のつながりから若い人が集まってくれたこと、そこで新しい出会いがあったことはとても嬉しく、Gatheringという名にふさわしい成果だったと思う。

一方で、イベントとして考えるとターゲットが狭くなるのは考えもの。小池さんのレポートにもあるように、上の世代をどう巻き込んでいくかを考えたとき、主催側の準備があまりにも足りなかった。真摯に反省し、出直すべきだと思っている。

今後の活動についてはあらためてblogなどでご案内することになると思う。
また、Gatheringレポートについては、来年初頭には公式Blogなどで随時アップしていきますので、お楽しみに。




2013年12月18日水曜日

深沢眞二『連句の教室』


そろそろ怒られるかな、と思っていたら、案の定麒麟さんから「ブログもたまには更新しなきゃダメだよ」とメールが入ってしまったので、反省。

今週末に迫った俳句Gathering 2の第二部では、小池正博・康生のW小池氏のクロストーク「俳句vs川柳~連句が生んだふたつの詩型~」を予定しています。
その予習・宣伝もかねて、連句の話題など、少し。

五七五・七七をつなげる「連歌」のうち、俳言(俗語や漢語)を多く取り込んだ「俳諧之連歌」が生まれ、第1句の「発句」が独立して「俳句」になった、 
一方「川柳」は平句の「前句付け」から出発した・・・
など、このくらいの知識なら、簡単な解説を読めばたいてい書いてあります。

近代の「俳句」に対して、近世の「俳諧」が違うものだ、という知識は、多くの人にある(特に俳句関係者には常識的)と思います。
その一方で、芭蕉の「句」を、我われはつい「俳句」として鑑賞してしまい、「連句」としての鑑賞をすることがない。
それで、本当にアリなのか。「発句」だけ独立して鑑賞されるようになったのはなぜか?「川柳」にかかわって言われる「前句付け」とは何だろう?

俳句好きなのに連句を知らない、という一種のコンプレックスは前々からありました。
そこでいくつか入門書を手に取ってみたのですが、今年8月に出たばかりの深沢眞二氏著『連句の教室 ことばを付けて遊ぶ』(平凡社新書)という好著を読みましたので、ここでご紹介したいと思います。
著者は和光大学で教鞭を執り、芭蕉など連歌・俳諧の研究では第一線で活躍中の人物。1991年第1回柿衞賞の受賞者でもあります。

本書は深沢氏が和光大学で実践している講義をもとに、実況形式で書かれています(2012年度春季共通教養科目とのこと)

つまり読者は学生気分で、実際に毎週の講義で蓄積されていく連句の教室=「座」に入り込むことができるし、0から知識を蓄えていくことが出来るという寸法。
実況形式ということでは小林恭二『俳句という遊び』(岩波新書)に近いですね。
トランプでもなんでも、ゲームは説明うけるより「やったほうがはやい」ことが多いもので、ややこしい式目(ルール)がこと細かに書かれた入門書よりは、実践形式の講義に、いっしょに参加して楽しんだほうがわかりやすい、というわけ。

ここで冒頭、「まえがき」の一部を引きます。
連句は、言葉を使った遊びの一形式です。 
それは、文芸としての前段階である「連歌」の起こりから数えれば、すでに千年におよぶ歴史を持っています。現在おこなわれている一般的な連句は、芭蕉(一六四四~一六九四)の時代に定着した全三六句の「歌仙」形式の「俳諧之連歌」に範を求めていますから、そこからでもすでに三百年あまりの時間を経過しています。・・・・・・ 
「短歌」や「俳句」や「詩」の実作の授業なら、受講生一人一人の名のもとにそれぞれ独立した作品を求めることになるのでしょうが、連句はもう少し、作品の創作主体が集団に溶けている形式です。そのつど前句が提示されて、それに句を付ける、いわば「続きのお話を加える」ことを求めます。

なるほど、「創作主体が集団に溶けている」とはおもしろい言い回し。
俳句でもよく「座の文学」という言い回しがありますが、たしかに、一度参加した連句の座では、俳句とは比べものにならない「座」の共同性、連帯感がありました。
句を付けるにあたっての評価のモノサシは、お話として前句とつながっていることを前提として、他の人の思いつかない独自の展開の句を付けることです。言い換えれば、連句は、前句という条件を与えられた状況下での、想像力の競争です。「ちがったことを付けることができた人が勝ち」になるゲームなのです。
独自の「展開」ということ、独自性では個性が重要だが、あくまでも「ちがったことを言う」ではなく「付ける」、前句とのつながりのなかでの個性という縛り。
うーん、なかなか難しそう。

毎回の授業は、「前句」が掲示され、「付句」を提出、翌週の講義で高得点や講評が発表されたうえで、採用された次の「前句」に対する「付句」を提出させる、という形で進められていきます。
半期で三六句(歌仙)を完成させるため、ときどき深沢氏が付けたり、グループ実作としてそれぞれに付け合いを進めさせていく形式をとったりもします。

ここで実際の作品と、深沢氏による選評を聞いてみることにしましょう。次の句は例示にあげられた「和光連句2010」のうち第三句から第五句。

 3 天に向けまた目を覚ますふきのよう  二狼
 4  にがい失敗成功のもと  山左右
 5 月面へ届かなかった13号  無頼庵五月

以下は4、5の句評。
この4は私の句(注、山左右は深沢氏の俳号)ですが、「ふきのとう」に「にがい」を付けているだけで、むしろ続く5で大きく展示させようとした、抽象的で漠然とした句です。こんなふうな、連句の進行ばかりを重視した性格の句を「遣り句」と言います。 
・・・・・・そうしたら期待通り、この4がすばらしく新鮮な話題を提供して転じてくれました。1~3とはまるで違う世界へ、想像力が飛躍しています。4を受けて、アポロ13語がそうだった、と具体例を示したのです。・・・・・・
俳句をやっている人間からすると、4の句はきわめて理屈っぽいし、5も単独で見ると当たり前のように感じます。一方、「4」から「5」への飛躍は、はっとさせられるものがある。実際参加していて4句への付け句を考えているときに、5句のアポロが宇宙に連れて行ってくれたら、すばらしいだろう。
要するに、「3+4」「4+5」というくくりで見なければいけないということ。

次は本番である「和光連句2012」から。

 5 明月に小さな自分噛みしめる  史
 6  いただきますと拝む新米  山左右
 7 秋祭り弁財天に願を掛け  誤喰

ちなみに第5句は、いわゆる月の定座。かならず月を詠み込んだ句を作る場所です。
連句には三六句のなかで「月」や「花」を詠み込むべき定位置(定座)が原則決められているわけですが、そんなルールがなぜ生まれたのか、それは連句が書かれるときのスタイルに原因していることが、本書96100ページに解説されています。大変わかりやすいので、どうぞ本書をお読みください。
上では、第5句の「月」から第6句が秋の季節感と「噛みしめる」感覚を付け、第7句「秋祭り」へつないでいます。では第7句に対する付け句の講評から。
 恋の神器はピンクの腕輪  宅権 
これ、ちょっとはっとしましたね。そういえば弁財天さんって腕輪しているなって。細かなポイントをよく付けてくれたと思います。ただ、「神器」という言葉は、強すぎるかもしれません。
ということで最終的な付け句は、

 8 恋のまじないピンクの腕輪

と添削されて採用されたのですが、「恋の神器」のほうがマジックアイテムぽくて面白いのに、「まじない」では類型的でぼけてしまうのではないか。
このあたりのぼやかし方が、連句的な「溶けた」感じなのか、それとも捌き手である深沢氏の個性なのか。そのあたりは曖昧ですが、「俳句」という文芸が「連句」と分かれた、その根拠の一つであろうとは思えます。
一方で平句から生まれた「川柳」は、なぜ分かれていったのか。「発句」との違いは何か。
そのあたりの機微を、俳句Gathering当日は考えてみたいところ。




本書の連句には、実は和光大学で講師をしていた俳句作家の高田正子氏も参加していて、本文中では言及がないのも、個性が溶けた共同体集団ならでは、と言えましょうか。

高田氏による解説、「連句の教室濫入記」は、俳句作家から見た「連句の教室」見聞記なので、俳句関係者には一層読みやすいでしょう。