2009年8月30日日曜日

二百十日


船団「初秋の集い」が、いよいよ今週土曜と迫ってきた。
 →http://sendan.kaisya.co.jp/shoka09.html


「初夏の集い」が新型インフルエンザ騒動で流れてから、約二ヶ月。 世間では夏を超える大流行、重症化の危機が叫ばれている中での開催であるが、某主催側にお尋ねしたところ、「今回は流さず、なにがなんでもやってしまいます!」という強い決意の下、運営準備が進められているそうである。期待して待つことにしよう。
……アドレスが「shoka」のままなのは、ご愛敬ですね。


ところで、先週日曜の「―俳句空間―豈weekly 」で、秋のシンポジウム登壇者のおひとり、高山れおな氏が興味深い発言をしていた。  

いうまでもなく高山氏は俳句世界の「若手」のなかで屈指の論者と見なされている方であり、またおそらくは俳句史上でも言論史上でも空前と思われる、俳句評論専門のblog「―俳句空間―豈weekly 」の主筆のひとり、でもある。

誰にも好きな季語、嫌いな季語があるのは当然だが、好き嫌い以前にそのような季語が存在すること自体に疑問を覚える場合もある。筆者には原爆忌がその最たるもので、いかなる意味でもこの言葉を風雅の文脈に回収することはできまい。それでもまだ、原爆忌そのものを詠むのであればやむをえないとしても、単なる取り合わせの季語にして済ませているに至っては、ほとんどその作者の正体の程を見届けた気分になる。 →―俳句空間―豈weekly: 佐藤清美句集
たしかに、「季語」のなかでもっとも扱いに慎重さを有するのは、こうした「災害記念日」俳句であろう。ほかにも、「終戦(記念)日」、関東大震災の「震災忌」、阪神淡路大震災の「西の震災忌」、近いところではN.Y.の「9.11」など、扱い方というだけでなく、「名前」や、そもそも季語と扱っていいのかどうか、を含めて議論となることが多い。  だから高山氏の発言も理解はできるのだが、たとえば次のような句にはどう反応すればいいだろう。

 カルビーのポテトチップス原爆忌 中田美子

偶然と言えば偶然だが、掲句は8月6日の原爆忌に「e船団 日刊この一句」で塩見恵介氏が取り上げた句である。塩見氏の評を挙げよう。

 まだ20歳ぐらいの時に、船団の句会でこの句に出会い、衝撃を受けた。原爆の日のことを「原爆忌」というのでさえ違和感を覚えていたのだが、こんなふうに軽々しく詠んでよいのか、と道義的な違和感を覚えたのだった。ただし直感的に、あのポテトチップスの油の匂い、包装の中の銀色、そこにある日常を、反転し転換した世界にも思えた。……また何年かして今、しみじみ、一枚のポテトチップスと同化し、その気持ちになった、鎮魂歌に思えている。
 →http://sendan.kaisya.co.jp/ikkub09_0801.html
塩見氏は、はじめ原爆忌を「軽々しく」扱われることにショックを受けたが、現在では「鎮魂歌」として受け入れられるようになったという。 句に対する違和感が、そのまま拒絶ではなく、時間的経過はあるにせよ、よりそって理解するほうへ転化したのだ。


以前、記念日俳句という企画があった。
 →http://www.kinenbi.gr.jp/
 →http://www7.ocn.ne.jp/~haisato/satotop.htm
これは日本記念日協会の定める記念日を詠みこんで俳句を詠む、というものであって、私も縁あって何度か参加させていただいていた。(HNは「中性子」。) このなかには8月6日「広島原爆忌」もあったのだが、高山氏に言わせれば、こんな企画自体嫌悪すべきことかもしれない。しかし、こうした句群にもまた、それぞれの「原爆忌」のとらえ方が表れているわけであって、そのことを否定してよいものか、どうか。

ところで、私はあまり面識もないような人が「追悼句」や「祝句」と称して詠む句が嫌いである。 もちろんよく知っている人ならいいが「個人的な体験」に、個人を知らない人がどうして詠めるのか、意味が分からない。 もっともこれは私の「好き嫌い」だが、「個人的な体験」に較べるとこうした記念日俳句は、より多様な個人的な受け止め方がありうるし、あっていいのではないか。 もちろん被害者当人たちにとって許せないこともあるだろうが。


いつ来るかいつ来るか、と思っていたら、やっぱり来た。
坪内稔典氏から高柳克弘氏への挑戦状である。
「e船団」に、いつの間にか登場した新コーナー「ねんてん今日の一句」、7月29日の評で、坪内氏は高柳氏の第一句集『未踏』を辛辣に評する。

1980年生まれのこの人、俳諧の研究者であり、現代俳句の評論集『凛然たる青春』も出している。俳壇の期待の星だが、残念ながら句集はおもしろくない。   http://sendan.kaisya.co.jp/nenten_ikkub09_0703.html
坪内氏が唯一評価するのが、この日とりあげた
  百人横断一人転倒油照   高柳克弘
であり、これを「ほぼ唯一の例外」で「俗のエネルギー」を感じる句である、とする。
この句は、偶然にも(?)塩見恵介氏がその数日前、7月19日の土用の丑の日にとりあげた句であるが、坪内氏とはまた違った捉え方をしているのが面白い。

群衆の中、転倒して、周囲にあっと思わせながらも、3秒後には日常にかえる。油照りが蘇る世界。その一人は、全く知らない誰かか、自分かもしれない。というと自分を突き放した言い方だが、……こういった世界は年配から見ると、意外だが、若い世代からは、むしろ今、もっとも共感される客体的自己かもしれない。
http://sendan.kaisya.co.jp/ikkub09_0702.html
坪内氏から高柳氏への挑戦状、「俗のエネルギー」の欠如、という点については、坪内氏の年来の主張からすれば当然の評言であろう。
個人的な感想を述べれば、以前拙稿でも鑑賞したとおり、高柳氏の「雅」な世界は章がすすむにつれて変化しており、特に句集のラストでは意識的な句材の拡充が見られる。だから高柳氏が「俗のエネルギー」との距離をどうとっていくのか、は今後に注目したいと思う。
さらに無礼を承知で言えば、「俗」一辺倒では高柳克弘の詩質が消えてしまうのではないか。 やはり「雅」「俗」双方にまたがるような、そんなバラエティを楽しませてほしい、と、無責任な読者は思うのだ。


話は飛ぶが、以前扱った「俳句の未来予想図」での、神野紗希氏の発言が、今でも問題提起として胸に残っている。
 みんな違って、みんないい、みたいに相対化しちゃうと何もでない。
それはそのとおりだ、と思いつつ、では逆に、ある句を完全に否定する根拠というのは何だろうか。みんな違って、みんないい、 は、結局、何が悪いのだろうか、と。
もちろん、個々の句の巧拙はあるだろう(技法上の巧拙は確実にあると思う。)
しかし、「巧拙」でなく、そして「好き嫌い」ではなく、あるひとつの方向性を完全に否定する根拠を持てるだろうか。 自分と別の方向性の句に対して、もちろん「好き嫌い」はあるし、「違和感」も「異和感」もあるが、それを拒絶するだけの根拠を持てるだろうか。  少なくとも、今の自分には持てないと思う。


「船団」の初秋のイベントにおいて、ふたりの全く異なるゲストを迎えた「船団」は、どのような刺激をうけ、どのように反応するだろう。
そしてその異和は、「百年後」、拒絶となるだろうか、それとも異和は異和のまま、別の世紀を迎えるのだろうか。

たぶん百年後、僕らはこの世にいないのだが。
 

2009年8月28日金曜日

第三回芝不器男俳句新人大賞

先日、チラリと匂わせた、芝不器男新人賞の応募が9月から公式に開始されるらしい。

第3回芝不器男俳句新人賞 9月募集開始します。
新鮮な感覚を備えた将来性のある若手の創作俳句100句を募集します。(既発表句でも可。ただし、平成17年12月1日以降に発表した句で、著作権を他に譲渡していないものに限る。)応募資格は昭和45年1月1日以降生まれの方。芝不器男俳句新人賞(1名) 賞金30万円、句集出版奨励賞(5名) 賞金5万円特別賞(1名) 賞金3万円応募締切 平成21年11月30日(月)午後5時選者は、大石悦子、城戸朱里、齊藤愼爾、対馬康子、坪内稔典の各氏。応募の方法等、詳細は当ホームページで9月に発表します。今しばらくお待ちください。

http://www.ecf.or.jp/shiba_fukio_haiku2/index.html

芝不器男新人賞の特色は、第一に新人賞であるということ。
第二に、発表済句を含めた100句、というまとまった数で募集すること。
第三に、大賞受賞作がそのまま句集になる、という、非常に大きな賞である。

不定期開催で、まだ第三回めだが、第一回の冨田拓也氏、神野紗希氏、第二回の佐藤文香氏、宮嶋梓帆氏など、優秀な才能を輩出していることで、すでに若手登竜門として存在感が大きい。言ってみればM-1みたいなものである。

もちろん私も応募するつもり。
前回は予選も通らず見事玉砕した。今回はまず、予選通過を目指して健闘したい。
出すだけなら、投句はタダである(郵便代くらいかかるかもしれない)。
願わくば、みんなで楽しく、やりあいましょう。



先日、「週刊俳句」の江渡レポートから受けた「俳句甲子園ディベートの変化」は、やはり確かなものだったようだ。
 →http://100nenhaiku.marukobo.com/?day=20090811

12年かけて、やっと、ディベートにも新しい局面が出てきたこと、そして創作面でも決してディベートで守れる俳句、ではないチームが出てきたこと、これは喜ぶべき事態だろう。
そして、先日うけた佐藤文香氏のコメントによれば、かの松山西高校の生徒も、別の俳句コンクールに応募しているという。これも嬉しいお知らせ。

俳句甲子園は楽しい。
これは間違いない。
今でも私は甲子園が大好きだし、気の置けない仲間と、ときに討論のようにやりあう句会こそ本当の句会だと信じて疑わない。
しかし 俳句 に甲子園ルール以外の楽しみ方があること、がわからないと、俳句のおもしろさがわかったとはいえない。甲子園で育った俳句作家が、甲子園を離れてどこまで続けていけるか。 コアな「俳句世界」の未来のためにはそのことが重要となってくるだろう。
でも、俳句甲子園の本当の意味は、それだけではない。
甲子園を卒業し、俳句からも卒業してしまう人たち。 それでも彼らが、高校時代に親しんだ俳句を身近なものに感じてくれるのなら、そして彼らのまわりのひとたちが、俳句を「年寄りの余芸」以外のものに捉えてくれるなら、「俳句甲子園」は決してムダではないのだ。
 

2009年8月19日水曜日

「俳句を読む」 ~真銅著をうけて~


われわれがテクストと言うとき、それが理論用語としての「テクスト」なのか、作品・教科書の英訳としてのtextなのか、なんとなく使ってしまうだけのテクストなのか、は、今さらながら重要な大前提であって、真銅著のなかでも、まず第一番に確認されるのは「テクストとはなにか」である。

まず、テクスト概念の整理から始めたい。テクストとは、編み目、すなわち、おそらく作者によって書き付けられた……一見実態物に見える文字の羅列と、……これを現実化する読者の読書行為とがぶつかる現場において、一瞬立ち上がる、一時的な意味の総体のことである。(P.26)
要するに、テクストの考え方は、小説を、実体物ではなく、意味の関係性によって一瞬構築されたものとして捉えるわけである。(P.27)


「テクスト」は、不確定で非物質的なものである。断片的には意味をなさない単語、文、節、章が、読者によって (コンテクストに沿って) (また読者それぞれがそれぞれもつ知識・解釈・感情に拠って) 再統合され意味づけられる。その「意味の総体」を「テクスト」と呼ぶのであり、従って「テクスト」に実体はない。 また「テクスト」が立ち上がるためには、「読者」の存在が必然である。読書行為の主体、つまり、意味づける主体がいなければ「テクスト」はあらわれないからである。
同書は、如上のような「読書行為」がもつ創造性について、きわめて意識的であり、またその創造性を高く評価している。
我々はなぜ小説を読むのか。そもそもそれは、決して娯楽の一環としてではなかった。……小説を読むとは、実は想像し、創造するという言葉の言い換えなのである。(P.25)
この「読書行為」のもつ創造性への期待が、後半の「小説を書く楽しみ」へとつながるところに、同書の最大の特色と、魅力があると言っていいだろう。

もちろん、創造性といっても「読み」の無制限の広がりを認めているのではない。

俗流テクスト論・読者論の悪しき典型例は、テクストを文字面だけに限定し文字面を追った解釈者が自由気ままな妄想解釈や連想ゲームを無秩序に広げてしまうようなたぐいである。 そんなものは「ノストラダムスの大予言」解釈と変わらない。
「テクスト論」と、その延長上にある「現代理論」がまとう、なんとなくの胡散臭さ(私が感じているだけかもしれない)は、おそらくこの手の悪しき俗流論者のせいだろう。

しかし、そうした「誤読」は、なぜ「誤読」と切り捨てられるのだろうか。端的に言えば、作品が持つコンテクストを無視しているから、ではないか。
正しい用法なのかどうか知らないが、ともかく私の理解の中では、作品の歴史性や環境、発表媒体など作品外要素もろもろを含めて「コンテクスト」であり、コンテクストをふまえた解釈でなければおよそテクストの読みとしては「誤読」と言えるだろう。
古典を専攻している人間からすれば、もっとも無視できない作品外要素は対象作品の歴史的環境である。同書でもヤウスによる「歴史性の参照」による制限、が紹介されている。
コンテクストに沿って読む限り、テクストの読みは自由、と、こう理解しよう。
逆に言えば、テクストの方向性を決定するのは、作品の表現だけではない。パラテクストとかコンテクストとかの作品外要素と、作品外要素をテクストに引きつける、読者の側の知識や環境の作用も大きい。 つまりテクストを取り巻く「社会性が意味を産出する」


ここで話題は俳句にうつる。
句会で俳句が提出されるとき、それはある程度の読みのルールに沿って読まれることが期待されている。 「句会」で作品を読む人間は、基本的に、すでに俳句を読むことに慣れている人間である。 各人はそれぞれ自分の俳句に関する知識をもとに、目の前の俳句作品を読解するわけだが、「句会」という場はたいてい同じ結社やグループで催されるので、ある程度共有の「読みのルール」ができあがっており、読者はそのルールを参照しながら作品を読解することになる。 俳句は、基本的にはそのルールを知っている人たちのあいだだけで発信・受信されている、きわめて特殊な文芸である。

この「俳句を読むルール」は、小説を読むルールとは、根本的に違う。
あるいは、根本的に違う、と仮想されている。
単に韻文と散文との違い、というだけでなく、具体的には季語だとか切れだとか、あるいは曰く花鳥諷詠、あるいは曰く省略の文学、座の文学、余白の文学、などなど、「特殊」感を醸しだし、初心者に厳しく設定されている。従って初心者は、まずはこの「ルール」を学ぶところから始めなくてはいけない。
こうした「俳句リテラシー」が具体的にどのように形成されてきたかについては、外山一機氏がネット上で緻密な論考を重ねておられる。
 →Haiku New Generation: 近代における俳句リテラシーの形成過程について

これまで拙文でも繰り返し指摘してきたように、「俳句」は作者と読者がほぼイコールという、現代文芸には珍しい、内向きの型を保持している。
和歌はさて措いて俳句のみについていうのであるが、俳句というものは、世の大衆がそれを愛読するような性質のものではない。それは大衆小説というようなものとは較べものにはならない、極く限られた範囲内の読者ほか持っていない。その読者はたいがい作家である。/しかしながら俳句を作る人は割合に多い。読者は少ないが、作家は多い。その点で俳句は大衆文学と言えるのである。
高浜虚子「客観描写」『玉藻』(1953年5月)のち『俳句への道』所収

しかし、次のような真銅著の発言を見るとき、われわれに別の視点が生まれないだろうか。
結局、我々が文学の社会性と述べているものも、実のところは、全読者、全人類なるものを対象としているのではなく、……文学は、ある意味で、閉鎖的な内輪の伝達を前提としている。しかもそれは、「文学なるもの」という実に不確かなものを内容とする、実に曖昧な閉鎖的伝達である。(P.81~82)
おそらくは世間一般でいう「俳句なるもの」は芭蕉、一茶、いって子規どまりであり、われわれ俳句作家が想定する「俳句なるもの」とはかなりギャップがある。その問題は後述するとして、われわれは「俳句なるもの」という共有の、しかし不確かなイメージをもとに「俳句」をやりとりしている。(特にそれぞれの「句会」では「俳句」イメージが共有されているはずだ)
暴論と承知で言うならば、真銅著が示す「小説」のやりとりの構図と、「俳句」作品のやりとりは、基本において違わない。
つまりこのことは、「小説」という巨大な享受層をもつ世界が、実はある共有のイメージを媒介にした「閉鎖的な内輪の空間」つまり「座」である、ということなのではないか。


ここ数日、本稿のオチを書きあぐねていたのだが、ここにいたって私はまったく逆の視点が必要なのではないか、という気がしてきた。
つまり、これまで私は、 小説を中心にくみ上げられてきた議論を俳句に転位すること、
を目指していたのだが、逆に、俳句から小説に言えること、があるかもしれない。
小説を構成するとは、正しく、現実世界とは別のもう一つの世界を構築することであり、小説を描く際の構想とは、その意味において、世界像の把握である。世界をどう捉えるのか、という訓練の機会を、小説は我々に与えてくれるのである。(P.151)
誰もが完璧な小説を立派に完成させなくともいい。誰もがそれぞれ、どんな形でもいいから、物語を構築することを積み重ねていけば、現実空間に埋没する人が減り、多くの人の世界の見え方が変わってくるはずである。……極端に言うならば、今は、これまでのような小説読者を増やすことによる小説の復権ではなく、小説作者を増やすことによって、小説を取り巻く環境自体から整備するべき時なのかも知れない。(P.179)
真銅著においてもっとも印象的な、「小説」の魅力の総括と、「小説作者を増やす」という提言とを再掲した。ところで、
 創作のルール(作品構成)を知っている作者が、読書(鑑賞)において優位であること。
これは俳句が証明してきたことではないか。

むろん、「誰もが完璧な小説を立派に完成させなくともいい」
完璧な小説を書く人間ならば完璧な読者である、ということなどありえない。
しかし、作品構成のおもしろさを知っている人間が、より能動的な読者になりやすいだろうことは期待していいことだと思う。
先日触れた、「俳句甲子園」のゲーム性への期待もおなじことなのだが、要するに「俳句作家」への敷居はどんどん低く、広げてしまっていい。どんどん「創作行為のおもしろさ」を知ってもらうこと、俳句世界の外からの参入者にどんどん俳句のことを知ってもらうこと、それが「俳句を読む」ための土壌になるのではないだろうか。

注意すべきは、第一に「俳句作家が増えた後」についても考えて行かなくてはいけない、ということである。ネットも活字媒体もあふれかえって、表現行為が考えられないほど個人の身近になっている現代に、作家の粗製濫造を加速させることが果たしていいのか。
これは小説よりも「大衆文学」虚子)である俳句にとって切実な課題である。
しかしこれまで述べてきたとおり、私個人はこれらの問題に悲観的ではない。
この問題についてはまた別に考える機会を設けたい。

ともかく今言えることは、「俳句」という特殊な文芸形式の特殊な感覚、をフラットにしたい、ということ。つまり、今よりももっと巨大な、俳句だけでなくせめて今文芸書一般に興味を示す人すべてを視野に入れるような、巨大な「座」の構築ができないか、ということ。
そのためにまずどんな戦略が有効なのか。それがこれからの課題となる。
  

2009年8月16日日曜日

週刊俳句121号 <俳句甲子園>特集?



「週刊俳句」121号に、第12回俳句甲子園記事が三本もアップされている。特に銘打ってはいないが、小特集のようでおもしろい。

一本目、江渡華子氏の準決勝~決勝までのレポート。

 → 週刊俳句 Haiku Weekly: 2009年俳句甲子園レポート 江渡華子
句それぞれの主観的な評価よりも大会そのものの客観的なレポートを重視した感じ。
彼女は、世代的には僕と同年でいわゆる「俳句甲子園世代」とでもいうべき世代だが、本人が明言するとおり俳句甲子園には参加経験がない。そのせいだろう、どちらにも入れ込まず、公正で臨場感のあるレポートになっている。
面白かったのは江渡氏が指摘する、松山中央のディベートの特色。

予選の時から気になっていたのは、松山中央のディベートの仕方だ。「○○をこう鑑賞しましたが、これでよろしいでしょうか」という言い方が多い。相手を褒めてしゃべり終わることがしばしば。相手の句の弱点を攻撃し、自分の句の良さをアピールするというディベートの観点からすると、いまいち何を言いたいのかわかりづらい。/金子兜太先生が「私は審査は初めてだが、これは褒めあいのゲームなのか」とおっしゃるほどである。
個人的には俳句甲子園のディベートの悪弊として、しばしば「揚げ足取り」の「けなしあい」に終わることが多かった。 もちろん僕が甲子園に関わっていたのはもう何年も昔なのだが、それがイヤで俳句甲子園を批判する人は、今でも多いはずだ。 ただ甲子園のディベートというのは、ディベートであるが、「鑑賞力」を試す場でもある。だから実際には「けなしあい」しかできないチームは鑑賞力のない、勝ち上がれないチームなのだが。
実見していないので何も言えないが、その意味では「褒める」チームが今年度の優勝校になったというのは、個人的にとても興味深い。テレビ放送が楽しみである。

江渡氏の言うとおり、俳句甲子園出身者がどこまで俳句を続けているのか、というのは疑問である。仲間が近くにいると続けられる、という人が多いが、逆に仲間がいないとまったくしない、というタイプが多く、また仲間を自分で集めようとする人も少ない。
ただ、ずっと考えている「創作に慣れる」体験ということで言えば、これほど俳句の垣根をぶちわった大会も少ないはずだ。その意味で私はいまでも俳句甲子園を評価している。

二本目、佐藤文香のレポート。
 → 週刊俳句 Haiku Weekly: 俳句甲子園うちらの場合 佐藤文香

江渡レポートと対照的に、予選敗退した松山西チームに密着した記事。
これから俳句甲子園を目指そうとする人たち、あるいはそういう人たちと俳句をやろうとする人たち、あるいは逆に俳句甲子園に妙な偏見を持って反対している人たちに絶対読んで欲しい、読ませる記事である。

俳句甲子園はディベートをしないといけないから、同じレベルの魅力なら「守れる句」が強い。有季定型のわかりやすい写生句は、その意味では、かなり強いんです。ただ、はじめからその句ができるならいいけれども、初心者に強固な句を作らせるのはかなり強制や矯正が必要になってくる。そんなのはしたくない。/としたら、欠点はあっても凄い魅力がある句を目指さないことには、面白く勝つことができない。ただ「凄い魅力」っていうのは、人によってさまざまだから、審査員がわかってくれない可能性もある、というのは常に言っていました。
「守れる句」が強い、でも「矯正や強制はしたくない」。
俳句甲子園出場チームに対して、少しでも指導的な役割を果たしたことのある人なら誰でも直面するジレンマだ。甲子園出身者で、ボランティアスタッフとして長く運営にも参加してきた文香氏はそのことをよく知っている。そして、どんなに自分たちがいい俳句だと思っても「審査員がわかってくれない可能性もある」ことも。
七夕や子供に渡す聴診器   岩本薫梨審査員の先生は「これは病院の診察室でのことですか」のような質問をした。それは読者が考えることだから、那須くんは「診察室でなくてもいい、七夕に子供に聴診器を渡す、それだけ」のような応え方をした。そしたら観客席の、ある高校の引率の先生が「はっはっはっわからな〜い」と手を叩いて笑った。そのあたりの人達や違うところでも笑っていたね。真剣だったから動揺するに決まってる。だって、なんで笑うの。わからないものは、わかるものより低俗なのでしょうか? 
文香氏の文章は抑制されて問題提起に徹している。一方的な恨み言にならないよう注意して書いている。
従って、僕も、この句が勝つべきだった、とは言わない。
俳句甲子園という場にあって、評価が「負」であった事実は変わらない。「わかってくれない」悔しさは、12年間、出場したほとんど全てのチームが味わってきた悔しさだから、ここで慰めを言うのはおかど違いだし、審査員や「ある高校の引率」を批判するのは ……後者の下品さはすこし批判に値するかも知れないが…… 当たらない。それを言い始めると、俳句甲子園そのものの批判になる。
勝ち負けは、負けである。甲子園ルールに沿って試合を楽しむ以上、そのことで文句を言っても仕方ないし、審査員の個人的なレベルや、その背後の俳壇の風潮云々を考慮するのは …… 個人的な愚痴や恨み節になるだけで、あまり意味がない。
句会でもそうだが、「わかる」句に対して票が集まるのは当然である。
しかし、「わかる」句だけでは面白くはない。「わかる」句と、「わからなくても魅力のある句」とが、対立してどちらかがなくなるのではなく、どちらも併存していて、いい。審査員には、勝ち負けとは別に「魅力のある句」の鑑賞もしてほしい。

そのために個人賞があるはずだ。
…… と思って調べてみたら、松山西は一句もとっていない。そして、どうやら第10回から年々、一人ずつ入選作が減らされている。
あるいは不況のあおりでもあるかも知れないが、試合の勝敗ではないところでこそ、一句ずつの本当の評価をしてほしい。それが「勝ち負けにこだわる」との甲子園批判に対する、もっとも誠実な応えだと思う。


三本目の酒井レポートは、甲子園から離れた出場句の鑑賞。
 → 週刊俳句 Haiku Weekly: 俳句甲子園を読む 酒井俊祐
江渡氏、文香氏の、甲子園のゲーム性に焦点を当てたレポートの欠を補う意味でもこうした一句ごとの鑑賞が見られるのがいい。こうした多面性を見せられるのが、誌面に制限のない週刊俳句の利点だろう。編集人の妙である。


僕が俳句甲子園にはじめて俳句甲子園に出場してから、(つまり俳句を始めてから)もう8年になる。
僕が甲子園に多少関わったのは、自分が出場した第4回と、友人や後輩のサポートにまわった5~7回までだ。それから、もう5年も経ってしまって、今や出場者のなかに知った名前はひとつもない。そろそろ甲子園に対しても客観的に見ることができるか、とも思っていたのだが、今年は残念ながら参加できなかった。

俳句甲子園を取り上げるメディアも増えている。
甲子園出身者にも、森川大和、神野紗希に続いて、佐藤文香、谷雄介、山口優夢といった俳人が台頭している。
甲子園出身者だけで固まる必要もないが、いわゆる俳壇的権威から遠い存在として生まれた「甲子園世代」が中心になってなにか、とっても楽しいことができないか。いつもそのことばかり考えているのだ。


※追記 佐藤文香氏記事のコメント欄が予想外に紛糾している。本文で書いたとおり個人的
 に文香氏の文章は、松山西に添った記事であると明言したうえで後出し恨み言にならない
 よう充分配慮されている、と思う。しかし世の中には素直にとらない人も多いらしい。
 もっとも編集人も自ら出馬して、どうやらおおかたの論点は出尽くしている。これ以上議論
 が発展することもなさそうだ。
  ところで、俳句甲子園出身者のなかに藤田亜未、伊木勇人、徳本和俊といった我が関西
 の盟友たちを入れていなかったのは迂闊でした。読み直してから気づき、笑ってしまった。
 訂正して補記します。

 

2009年8月6日木曜日

お知らせ。

真銅著を読んで考えたことなどをまとめようと数日四苦八苦しているのですが、どうもうまくまとまりません。そのせいでここ数日は誰彼なしに噛みついて議論したいような物騒な症状にみまわれています、いかんいかん。

結局、真銅著の指摘する「小説のおもしろさ」とは「虚構」であり「脱日常」のおもしろさ、ということになると思う。それはつまり、同書にも紹介されているロシア・フォルマリトとかいう人々のいう「異化」に近いものかと思われる。
その「虚構」による「脱日常」作用を自覚し、そのうえで「読む」あるいは「書く」という行為を捉え直そうとするのが真銅氏の試みであろう。
ここで注目したいのは、真銅氏が「読む」だけでなく「書く」つまり、「創作」という行為にまで視野を広げている点。ここが、他の理論入門とは一線を画する同書の特徴であろう。
また「精読者」をある種の「創作者」と捉え直している点もおもしろい。もちろんこれは「読者」を重要視するテクスト論の展開からすれば当然なのだと思うが、それでも「創作者」という議論の延長上に「作家を増やす」発言が飛び出すことからすると、やはりこれはただの理論上の結論ではないように思う。

そして、だからこそ同書が他の理論書と違い、「俳句」という特殊な立ち位置の文芸に対して、なにか大きな示唆を与えてくれるような気が、しているのである。

もうすこしまとまったら、詳しく書きます。


で、先日予告していたように、世間が俳句甲子園に熱中する8/7~9まで、福島県のほうへ研究合宿に行ってきます。本blogだけでなく、携帯などもつながりにくい状況があるかもしれませんので、ご連絡まで。


あ、そういえば、田ステ女青春俳句祭、始まったようです。

2009年8月2日日曜日

龍谷大学青春俳句大賞


*応募締切
  2009年9月18日(金)必着
*テーマ
 ”テーマは自由”
 友情、恋愛、家族、スポーツ、勉強、受験、風景など、感じたこと、思うことを自由に表現してください。
*応募部門
 1. 中学生部門
 2. 高校生部門(予備校生含む)
 3. 短大・大学生部門
 4. 英語部門(どなたでもご応募できます)
*応募方法
 2句を1組としてご応募ください。おひとり何組でもご応募できます。応募用紙に必要事項を明記の上、ご郵送ください。応募用紙は龍谷大学ホームページからダウンロードできます。また、ホームページ上にある投句フォームからでも応募できます。
 ※学校単位の団体応募を受け付けます。まとめてご郵送ください。
 ※住所・氏名などの個人情報は、「青春俳句大賞」の実施にのみ使用させていただきます

*選考委員
 有馬朗人(元文部大臣、元東京大学総長、俳人協会顧問、日本科学技術振興財団会長、俳誌「天為」主宰)
 茨木和生(龍谷大学非常勤講師、俳人協会理事、俳誌「運河」主宰)
 ウルフ・スティーブン(龍谷大学国際文化学部教授)
 大峯あきら(元龍谷大学文学部教授、同人誌「晨」代表)
 寺井谷子(現代俳句協会副会長、俳誌「自鳴鐘」主宰)
 山田弘子(日本伝統俳句協会理事、俳誌「円虹」主宰)


べつにここで紹介する義理もないわけですが、〆切が迫っているみたいですよ、と。
私も以前出したことがないわけではないですし、そして知り合いは何人も何人も受賞しているので、それなりに義理を感じないわけでもないです。
しかしまぁ、俳句をやりはじめて知ったわけですが、投句料のない俳句賞ってすごく少ないんですね。
二句一組二千円とか、千円とか。まして、この賞のように若者をターゲットにした賞は、最近増えつつあるとも聞きますが、それでも多くはないですから、やはり「若者」にとってはありがたい賞であることに間違いはないです。
もちろん、投句料をとることでコンテストの運営が成り立つのだろうし、俳人先生のギャランティもそこに発生しているわけでしょうけれど、いわゆる「点取り俳句」の雄が必ずしも俳句界の雄ではない、のは、今更言うのもはずかしいほど当たり前のことです。
……で、そう自分に言い聞かせながら、自分が普段行っている句会の評価と、まったく違う評価をうけて異文化交流を楽しむといいと思います(笑)。
ちなみに私は、この賞で十把一絡げの佳作以外、受賞したことはありませんが、なにか。


※ 近々、某有名な新人賞の募集が始まるらしいとの噂があります。正式な告知を見付けたら、またこの場でもお知らせしたいと思います。