2011年8月30日火曜日

連載終了、特集開始


8月いっぱい続けていた、spicaの連載が、本日深夜の更新をもってめでたく完走、終了です。
spica 「平成狂句百鬼夜行」久留島元

結局、俳句には帰ってこられないまま、妖怪談義で一ヶ月終えてしまいました。
個人的には「妖怪」「俳句」ともに見直す機会をいただいて、とてもありがたく楽しく、かつせわしなく(^^;)過ごさせてもらったのですが、閲覧者にはつくづく不親切なコーナーだったなぁと。読んでくださった方々と、spica運営各位には腹の底からお礼申し上げます。
お付き合い、ありがとうございました。
一ヶ月、貴重な誌面を占拠させてもらいましたが、これでめでたくお役御免、来月は閲覧者に戻り「次は誰か?」を楽しみにしたいと思います。

一ヶ月の連載最終日、衝撃のラストを見逃すな(違)。



そんなことはさておき、spicaでは、先週末東京で行われた、ふらんす堂のイベントについてのレポートも掲載されています。
シリーズ自句自解ベスト100大好評 池田澄子最新句集『拝復』刊行W記念イベント


池田さんの句集『拝復』と、池田さん含む『自句自解ベスト100』シリーズの、発売好評を祝してのイベントだそうです。
関西からも「ふらここ句会」黒岩くんが参加したようで、若手の多い活気のあるイベントになった模様。


しかし、写真の越智と優夢がネタすぎる。。。ギャップ萎え。。。。






気を取り直して。
9月から「関西俳句なう」では、第14回俳句甲子園特集を組みます。



特集 第14回俳句甲子園~ことばの力・リベンジ~ 9月1日よりスタート!!

今年8月20日、21日に開催された、第14回・松山俳句甲子園。9月の「関西俳句なう」では今年の俳句甲子園を、独自の視点でふり返ります。俳句甲子園は、五七五の俳句と、ディベートを組み合わせた言葉のスポーツ。しかし、試合は試合、あとに残っているのは作品です。当日の試合とはひと味違った切り口から、今を生きる高校生たちの作品に向き合ってみたいと思います。


関西俳句なう

試合結果とは関係なく、おもしろいと思った句をとりあげていきますので、ご注目ください。

イベントとしての俳句甲子園は充分知っているつもりですが、俳句甲子園の魅力とは別に、一句ずつに向き合っていければ、と思っております。
 

2011年8月28日日曜日

俳句甲子園のことなど。


第14回俳句甲子園行ってきました。
20日の午後に着いて大街道の準々決勝を観戦、翌21日は朝から決勝を堪能しました。生の俳句甲子園観戦は、伊木の優勝以来かと思いますから、かれこれ7年ぶり(!)になります。
いやぁ年取るもんですね。。。(追記。そういえば卒業した伊木と一緒に見た記憶があるな……第8回に行ったとすれば6年ぶりか。あまり変わりませんが。)

詳細は、公式HPでも結果がアップされていますし、各種報道機関、あるいは「spica あつまる」でも神野さんが写真入りで速報されているのはご承知の通り。

また、本日付で「週刊俳句」にも、俳句甲子園見聞記 野口裕がアップ。
実は野口さんとは松山まで往復のバスがまったく同じでした(^^;。
帰りのバスで、野口さんがしきりとメモをとっておられるなぁ、と思ったら、この観戦リポート。うーん、仕事が速い。

内容としては準決勝の松山東vs開成の試合について、実作と鑑賞のバランス、ディベートがからむ甲子園形式へ評価の難しさに触れつつ、客観的なリポート。

高校生の発達段階から見ると、ディベートに耐え得るだけのコミュニケーション能力を持つ層は限られるだろう。したがって、俳句甲子園に集まる高校生たちの層が偏ってくることは、今後あり得るかも知れない。だが、おそらく、俳句の入り口としてこれより優れた形式はないに違いない。末永く続いてほしいイベントではある。
自らも高校教師であるだけに、観戦中も「コンテストの功罪」について口になさっていましたが、レポート中盤で開成のディベートを分析する手際はさすがです。開成の「うまさ」が具体的によく分かります。

正直なところディベートの手法自体は、私の知っている頃とあまり変わらない印象でした。審査委員長・高野ムツオさんは「近年希な好勝負!」と昂奮されてまして、うーん、リップサービスもあるんだろうなぁとは思いつつ。もちろん洗練度というか、全体のレベルは向上しているのですが、相手のコメントを引き出しつつ自分のフィールドに持ち込むとか、笑いを取りつつ添削していく過程とか、懐かしいな、という感じ。

審査委員長の正木ゆう子さんが最後の挨拶でおっしゃっていましたが、ディベートに関してはもう一歩、別の展開がありそうな気がする。それが何か、具体的にはわからないですが。
野口さんのレポートは、現段階の完成形ともいえる開成ディベートの特徴が実によくわかります。これを参考に、新たな局面を考えられるとおもしろい。誰か、一緒に研究しませんか。



さて、今回出場常連校にはいくつか見覚えがありますが、当然ながら出場選手はまったく面識なし。どこの応援というわけではなく、あちこちを観戦してまわることができました。
それよりも引率の先生方や、スタッフのなかに懐かしい顔がたくさんあって、テンションだだ上がり。もう何年も会っていない人たちなのに、同じように松山で会えて、同じように会話を交わすことが出来る。それだけでもステキすぎる。

内容としては、涙あり、笑いあり。勝って泣き、負けて泣き。ひさびさに「甲子園」を堪能できたなぁ、という感じです。もちろん見ていると「なんでここで言い返せない!」「なんでそっちの句がいいの!?」なんていろいろ思いますが、俳句に熱くなれる高校生を見られるのはとてもいい気持ち。

スタッフのなかには、私が縁遠くなっていた間も休まず毎年来ている人、私同様ひさしぶりに戻ってきた人、いろんな人がいます。もちろん私のような自堕落学生ではなく、立派な社会人ばかり。それがわざわざ休暇をとって、甲子園を盛り上げるために、自費で来ている。
そのなかには俳句を続けている人もいるし、もうやめてしまった人もいる。休んでいたけれど再開してそれを機に甲子園に来た、という人もいる。14回の蓄積。14年の重み。

俳句甲子園について、卒業生がどこまで俳句を続けるのか、みたいな言い方をされることがありますがね。
はっきり言って、些末なことです。

よく言われるように、俳句甲子園にかかわる卒業生には二種類います。
ひとつは、俳句が好きになって俳句を続けるタイプ。もうひとつは、俳句甲子園というイベントが好きで、スタッフとして関わり続けるタイプ。もちろんそれ以外の多くの卒業生は、文字通り甲子園から「卒業」していきます。

しかし、毎年30以上のチーム(つまり150人以上)の高校生が出場し卒業していくという事実は重い。たとえ実作を続けていなくとも、俳句の魅力を知り、俳句にかかわっていく、俳句を応援していこうと思える人たち。そういう「俳句にまつわる若者」を着実に増やしている、ということ。そしてそのイベントを支援する大人たちも、確実に増えているということ。このことは忘れてはいけない、と思います。

いま、俳句界で活躍している人たち、「0年代の作家」「10年代の作家」たちを生み出すのが俳句甲子園なのではない。そんな狭い視野の話ではない。
そういう作家たちを見守る、「俳句にまつわる人たち」が増えていく。スタッフ、卒業生、後援者、すべてふくめて、「俳句」を盛り上げる。活気ある「俳句」シーンを作っていく。そういうイベントとして、俳句甲子園はすごい、と、私は思っているのです。



ちなみに。
松山でお会いした、朝日新聞俳句担当の記者である宇佐美さんへのインタビュー記事も同日公開。とてもおもしろいのでオススメです。

週刊俳句 Haiku Weekly: 朝日新聞 宇佐美貴子さんインタビュー「俳句は人間活動として面白い!」
 

2011年8月24日水曜日

俳句評論のゆくえ


俳句評論は、近代百年の歴史のなかで何度も同じ議論ばかりくり返しているように見える。

たしか高浜虚子が新興俳句について、自分たちの若い頃の議論と大差がなく興味が持てない、といったようなことを言っていた気がするが、出典が思い出せない。

余談だがしばしば作家論と称する文章のなかに、これと同じように俳句界の「伝説」のような、要するにWikipediaであれば「要出典」とタグを付けられてしまうようなたぐいの言説を、いかにも重要な論拠として使っているものがあり、うんざりする。
虚子が第二芸術論に関して、「俳句も第二芸術にまでなりましたか」とうそぶいた、というのは何が出典になっているのだろうか。あくまで印象だが、特に虚子には伝説めいたものが多いようだ。虚子自身が体験を談話や小説として発表することが多いせいだろうか。

閑話休題。なんにせよ、新しい話題がないのが俳句評論にとっての不幸である。
何を論じても、どこかで目にしたことのある、既視感のある議論に入ってしまう。
いわく写生。いわく主観と客観。いわく結社の弊害。いわく季語。いわく主題。いわく詩性、あるいは芸術性。云々

さて、こうした俳句評論の不毛さを乗り越えるために、ひとつ提案をしたい。
俳句史の見直しである。

上の文章を見ながら自省を籠めて言えば、我々は俳句を語るにあたって、あまりに虚子の言説にたよりすぎてはいなかったか。
そして虚子の呪縛から逃れようともがいた作家たちが求めたのが子規であった。高柳重信のもとに集った評論家、作家たちは好んで子規を論じ、虚子の一面的なるを糾弾した。
あるいはさらに、古典回帰の時代に顧みられたのは俳聖・芭蕉であった。芭蕉の位置に戻ることで虚子、子規を客観視しようとしたのである。こうなるともう明治の子規と同じ立場であり、子規の俳諧分類に匹敵するようなバックボーンがなければ、新たな見方を作り出すことは難しい。
例外として、近年金子兜太が小林一茶を持ち出しているが、大きなムーブメントとはならなっていない。

しかし、である。
俳句の「本質」は、果たしてこのような大作家たちの言説から、あるいは作品から、見えてくるのであろうか。近代百年の歴史のなかで、大作家の数はごくわずかである。むしろ大作家たちの影響をうけつつ営々と俳句を作り続けてきた、無名の作家たちに目を向けることで見えてくるものがあるのではないか。

いや、問いが相応しくなかった。
俳句の「本質」などというものがどこにあるのか、私にも分からない。しかし少なくとも、我々が思う「俳句っぽさ」、俳句的somethingとは、大作家たちの名句ばかりでなく、その他大勢の「俳句」によって培われてきた部分が大きいのではないか。現に、我々自身が句会で日々目にし、かつ自身生み出し続けている、この「俳句」こそ、「俳句的something」を考えるための絶好の現場なのではないのか。

こういった、いったいどこへどう帰着するのかわからない思いこみが、この数年私の頭を支配している。ただその思いこみの、あるいは傍証たりうるのではないか、といういくつかの評論が、主として現代の若手のなかから見出されるのである。


その筆頭は、私にとっては直接大学でお世話になっている先輩である青木亮人さんである。
青木さんが目指されているものと私の目指す方向には違いがあるが、上のような考えがある程度形になったのは、青木さんのご教唆によるところが大きい。

青木さんの論考は、子規と同時代の「旧派」に属する宗匠たちの発句や子規批判の評論を読み直すことで、子規たちの「写生」や「俳句革新」の内容に迫ろうというものである。青木さんはそのために、明治期から始まる膨大な量の俳句を博捜され、丹念に追跡しておられる。
我々が子規を読むとき、子規や子規周辺だけでなく、子規以前の俳壇や子規と対立した人たちのことを、どれだけ理解できているだろうか。子規からの批判(月並、芭蕉偏重)などを鵜呑みにして、そのままにしていないだろうか。
当時、子規以外の俳句はどうであったのか、子規が「写生」を目指したのは何故なのか、それは正しかったのか。子規を、ひろい目で客観視する視点を持たなくては、我々は百年たっても「結局子規派」(高山れおな氏)で終わるしかない。
それはほかの作家にも言えることであり、青木さんのお仕事が誓子など現代作家にも及んでいることは、俳句表現史にとって新たな局面といえるのではないか。


ほかに注目したいのは外山一機氏の仕事である。
ネット界隈では『豈』49号掲載の佐藤文香論や、最近では種田スガル論などで物議をかもしたが、本領はむしろ自身のHPで連載していた、俳句リテラシーをめぐる一連の論考であろう。

現在リテラシー論は更新がストップしているようであるが、我々がいつの間にか「当たり前」だと思っている「俳句を読む」行為の特殊性をとらえ返し、つきつめる論考は、間違いなく後世に残る仕事である。
最近では「詩客」の俳句時評でブラジル移民の俳句をとりあげつつ、国際Haiku論の無自覚さに警鐘を鳴らしている。
外山氏が興味深いのは、作句行為と評論行為が、ともに同じベクトルをむいていることであり、論作ともに華やかな現代の若手のなかでも、ひときわ存在感を放っている。外山氏の言動は近代俳句史の顧みられない部分から俳句史全体への捉え直しを迫る、という点で一貫しており、俳句界にとって重要な批評家として、今後も活躍に期待したい。


ネット関係では名前を見ることがないが、今泉康弘氏も見逃せない。
今泉氏の論考はおもにネット非公開の大学紀要に掲載されており、一般には読みにくい。しかし鶏頭論争を丹念に追いかけたり、戦火想望俳句の起源を追求したり、現代俳句史を読み直す丁寧な論考を発表している。
第12回俳句界評論新人賞受賞作の「ドノゴオトンカ考」は、タイトルからして奇妙で惹かれるが、未読である。高柳重信に関する評論ということなので機会があれば読んでみたい。
最近では総合誌でも健筆をふるっており、『国文学 解釈と教材研究』での虚子特集や、『俳句界』の芭蕉アウトロー説などでは、国文学の最新動向もおさえた的確な評論を発表しており、特集のような依頼原稿にも対応できる蓄積を示している。


そのほか、「俳句史」を意識しながら創作・評論活動をしている作家としては富田拓也氏があげられる。
「豈Weekly」でのアンソロジー企画は掲載媒体の終了で終わってしまったが、現在はspicaで「百句晶晶」という鑑賞を連載している。独特の審美眼でえらばれた百句のアンソロジーが完成すれば、違った視点での「俳句表現史」が見られることと思う。

 







関連拙稿



曾呂利亭雑記: メモ。(今泉氏の論考「夏草の夢 異説~"兵どもの夢"とは何か?~」に言及)
曾呂利亭雑記: 俳句評論について
曾呂利亭雑記: 若手評論家見取り図、時評篇


2011年8月14日日曜日

麒麟さん生誕祭


西村麒麟さんがお誕生日だそうだ。


西村麒麟一人っきりの誕生日パーティー「きりんぽろぽろ」のページ


お誕生日おめでとうございます!
お盆真っ盛り、今宵は満月見ながら日本酒呑みましょう。

鬼太郎全巻をお送りするのは結構大変なので(こういう場合はやっぱりマガジン連載版ですかね。ちくま文庫で全七巻です)、取り急ぎ「空飛ぶ麒麟」について書かせていただきます。

といっても、いま手許にある資料だけなので、中国五千年の深奥にはとても及ばないのだが、ひとまず「麒麟」話をもってお祝いの言葉に代えることにする。


「平成狂句百鬼夜行」番外


麒麟。
空飛ぶ麒麟、というよりもいまやキリンビールのキリン、といったほうが通りがよい。 (そういえば麒麟が空を飛ぶという伝承も本来はない)
東洋における一角獣であるが、西洋のユニコーンが処女にしか懐かないといわれるのに対して(こちらは西洋騎士道の象徴である)、麒麟は儒教的倫理観を具現化した聖獣である。

後漢の許慎(58?~147?)『説文解字』「鹿」部に「麒麟は仁獣で、オオジカの体、牛の尾、角が一本ある」とある。鹿に近い生き物なのである。もともと「麟」の一字だけであらわしていたが、麒は牡、麟は牝だともいわれる。声は音階に従い、行動はコンパスや定規で描いたように美しく、歩くときも注意深く土を選び、群れをなさず、遠出もしない、という。清代の段玉裁(1735~1815)の注によれば、角が肉に包まれて人を傷つけず、生きている虫を踏まず、生きている草を折らない、とされるため「仁獣」というのだという。

古来、名君が仁政を行うと麒麟や鳳凰があらわれるとされ、歴史書にもしばしば麒麟出現の記事がある。逆に『春秋公羊伝』では孔子71歳のころ、麒麟の死体を発見して「吾が道、窮まれり」と悲嘆したと伝える。
またすぐれた才能をもつ人を麒麟がこの世に連れてくる、というコウノトリのような話もあり「麒麟送子」という。これで生まれる子がすなわち「麒麟児」であり、現在でも中国台湾には縁起物で麒麟送子の図案を用いているそうだ。

日本では出現の例が少ないが、『日本書紀』天武天皇九年(680)二月辛未条に、葛城山で見つかった鹿の角が、根元は二枝だが末は一つに合わさっていた、けだし麒麟の角であろう云々、という角だけが見つかった記録がある。

鳥取県の各地では「麒麟獅子」と呼ばれる、麒麟の獅子舞が舞うという祭がある。
慶安三年(1650)、徳川家康のひ孫であった鳥取藩主の池田光仲が、日光東照宮から分霊した因幡東照宮を建立して始めた祭だといわれる。猩々に先導された麒麟獅子が、子どもたちを祝福するもので、鳥取県では百箇所以上で麒麟獅子舞が現存しているそうだ。

この祭は2005年公開の映画『妖怪大戦争』(監督・三池崇史)でも重要な役割を果たし、主人公タダシ(演・神木隆之介)が麒麟に選ばれた「麒麟送子」となって世界を救うことになる。作中、キリンビールも大変重要な役割を果たす。
この映画、荒俣宏原作、京極夏彦ほかの製作で水木ファンとしてはかなりツボな作品だった。むしろ麒麟さんにはこちらのDVDをオススメしたいと思っている。



  麒麟児登場 満月の夜でした  久留島元


参考.笹間良彦『日本未確認生物事典』(柏美術出版、1994)、中野美代子『中国の妖怪』(岩波新書、1983)、荒俣宏「因幡の麒麟伝説」『怪』vol.15(角川書店、2003.08)



ネット渉猟


先月末の「ねんてんの今日の一句」「に、高橋修宏の評論集『真昼の花火―現代俳句論集』(草子舎)を引き合いに出した記事が並んだ。

7月29日 に「稲の世を巨人は三歩で踏み越える 安井弘司」、7月30日に「南国に死して御恩のみなみかぜ 摂津幸彦」、7月31日に「戦争と畳の上の団扇かな 三橋敏雄」と、まぁ錚々たる顔ぶれと言ってよい。

しかし坪内氏はこれらの句を「よい句として引いたわけではない」とくり返す。そして「私はよいとは思わないが、……いわば伝説的に読まれているのだ。」と批判する。

安井句については、稲作が中心の世を「3歩で越える巨人とは現代の産業、あるいは市場。それとも原発? 新興宗教の神かもしれない。」と読みつつ、「読者の私にとってはやや概念的な句」で未熟だ、と評する。
摂津句については、「音読すると実に美しい句だが、……むしろ軍歌の快さに酔っている感じ。」「私は居酒屋の攝津幸彦が酔って調子をあげているようすを想像する。別の言い方をすれが(ママ)、この句は戦争ごっこ的快楽。」という。
三橋句については、「この句は「と」によって戦争と団扇を並列というか同格にした、その強引さが見どころではないだろうか。」と読む。そのうえで「団扇を使いながら戦争の話をしている、……なんだか、ありふれて平凡である。」というのである。

興味深いのは、「よいと思わない」としながらも坪内氏の読み方が正鵠を得ているように思われ、しかも私にとっては坪内氏の読み方によって句が魅力的に思えることである。

周知のとおり坪内氏は高柳重信周辺の新興俳句の若き評論家から出発し、次第に俳句の場の問題、「共同性」に注目していくなかで現在の方向性を獲得してきた。
通俗的な俳壇史の興味からいくと、坪内氏と三橋敏雄、安井浩司、摂津幸彦らはお互い遠くない存在のはずである。たとえば川名大『現代俳句』(ちくま学芸文庫)では「新興俳句の系譜」として同じ項目で扱っている。このことからも川名氏の俳句表現史と称するものが、実際は経歴重視の俳壇史を要領よくまとめたに過ぎないことがわかるのだが、それはともかくそれにも関わらず、、坪内・三橋・安井・摂津と並んだときには強い違和感があり、坪内氏と新興俳句との(現在の)距離を再確認させられるのである。

前掲、摂津句は坪内氏のいうように軍国ロマンティズムを臆面もなく歌い上げ、「戦争ごっこ的快楽」に興ずる戦後生まれのふてぶてしい言語センスが魅力的である。アイロニーといえばアイロニーだが、戦争の悲惨さを語りつつ軍国ロマンティズムを捨てることのできない、「男の子」的な感性へのアイロニーというべきであろう。
三橋句のほうも「戦争(非日常)と団扇(日常)とを同格にした強引さ」が強烈で、この不気味な魅力は「戦争が廊下の奥に立っていた 白泉」によって開かれた方向だといえるが、「団扇」の安心感は白泉を上回る。思うにこの日常的安心感(共感)へ帰着するあたりが、季語の効能であり、「俳句っぽさ」、俳句的なるものへの道なのではないか。

坪内氏は早くから三橋に対する違和感を表明しており、『俳句研究』四九・二(1982年2月号)掲載の「三橋敏雄論」でも批判的に論述している。
「過渡の詩」を書いた坪内氏にとって三橋の「俳句っぽさ」との対決は必然であったと考えられるが、共感の蓄積としての「季語」、季語を媒介に発生する「俳句っぽさ」を避けて坪内氏が目指した「共同性」の場には、一体なにがあるのだろうか。



高山れおな氏の「日めくり詩歌」は自身も参加している『俳壇』「妖怪百句物語」より。




左勝
宗教に入ってしまう雪女 塩見恵介


雪女魂(たま)觸れあへば匂ふなり 眞鍋呉夫

……計百五句のうちに最も多く登場する妖怪は「雪女(雪女郎)」で、四人が句にしている。これは季語でもあるのだから当然として、二位には「ろくろ首」と「ぬらりひよん」が三人タイで続いていて、ちょっと意外だった。ろくろ首は妖怪界の大メジャーだから不思議ではないのだが、そこに比較的マイナーなぬらりひよんが並んだのは、ぬらりひよんという音の面白さのゆえか。……本稿の読者に、ぬらりひよんとはかくかくしかじかの妖怪なり、と手際よく説明できる御仁はいかほどありや。私は、水木しげるが描いた妖怪画をかろうじて思い出せるだけで、どんな振る舞いをする輩なのかはとんと存じません。



日めくり詩歌 俳句 高山れおな (2011/8/5)

さすが博学の高山氏も妖怪には疎いらしいが、「ぬらりひょん」といえば今でも『週刊少年ジャンプ』で椎橋寛「ぬらりひょんの孫」が連載中であり、現在では比較的知られた妖怪なのではないかと思われる。

妖怪についてはspica連載のほうでもしきりと語っているのでこちらで詳細を語ることは遠慮しようと思うが、せっかくなのでかるく解説。
「ぬらりひょん」は、『広辞苑』にも載っていて、




① 「ぬらりくらり」に同じ。
   浮、好色敗毒散「その形-としてたとへば鯰に目口もないやうなるもの」
② 瓢箪鯰のようにつかまえどころのない化物。

とある。つまり正体不明であることが本意という妖怪なのである。

「ぬらりひょん」を妖怪の総大将とする説は藤沢衛彦『妖怪画談全集』で「ぬらりひょんと訪問する怪物の親玉」とあるのが早い例のようである。おそらく鳥山石燕の絵を見て創作したものと考えられるが、「ゲゲゲの鬼太郎」のアニメ第三期以降すっかり定着し、現在の「ぬらりひょんの孫」にまで連なるわけである。
また岡山県では海坊主のことをぬらりひょんと称するらしく、これは捕まえようとするとヌラリと沈んでヒョンと浮く、からヌラリヒョンなのだそうで、ぬらりひょんをタコだとする俗説もこのあたりに由来していよう。

ところで、現在挑戦中であるからこそ敢えて言っておきたいが、「妖怪俳句」というのは案外難しい。ただ妖怪を詠みこんだ観のあるキャラクター俳句では「妖怪」の意味がなく、かといって古伝承の世界を偽装してしまうのも本道に外れる。
(だから私がコラムのほうばかり力を入れてるようにみえても、それは志方のないことであろう。)

そのなかで高山氏の注目するとおり、「妖怪俳句」としては塩見氏の句に可能性があるように思われる。
ちなみに相手に選ばれた真鍋氏ほどではないせよ、塩見氏も雪女俳句については挑戦を続けており、『船団』81号(2009年6月)会員作品に連作が載っている。


酔っ払って壁を壊した雪女
そのことは示談にしたい雪女
その示談に遅れて行った雪女

2011年8月2日火曜日

メモ。


第13回俳句界評論賞決定のお知らせ
平成23年3月15日(火)、第13回俳句界評論賞の選考を行いました。慎重な協議の結果、第13回俳句界評論賞の授賞が決定しましたのでお知らせ致します。贈賞式
は、平成23年11月8日(火)第一ホテル東京シーフォートにて行います。
依田善朗 「横光は波郷に何を語ったのか」
http://www.bungak.com/info/haikukai.php

まだちゃんと読んでないが、『俳句界』8月号で掲載されていたので本屋ですこし流し読みした。
実は最近、まったく違うところで横光利一の「純粋小説論」にあらわれる「偶然」という概念について講演を聴いた。依田氏の評論にも横光に関わって偶発性に関して論及があったので、ちょっと興味深く思っている。

参考.真銅正宏「昭和十年前後の「偶然」論―中河与一「偶然文学論」を中心に―」
 →pdf公開版(http://doors.doshisha.ac.jp/webopac/bdyview.do?bodyid=BD00012675&elmid=Body&lfname=016000430002.pdf
 真銅正宏氏の「偶然文学」に関する論攷一覧
http://ci.nii.ac.jp/search?title=%E5%81%B6%E7%84%B6&author=%E7%9C%9F%E9%8A%85%E6%AD%A3%E5%AE%8F&range=0&count=20&sortorder=1&type=1




※追記(2011.08.04)

依田氏の評論をざっと拝読した。
「馬酔木」新星として俳壇デビューした波郷が「古典と競ひ立てる」句へ傾斜していく際に、横光の俳句観、文学観が影響した、という指摘である。横光の影響についてはすでに知られているらしいが、昭和十年前後の横光の文章(「純粋文学論」)などから具体的内容にまで踏み込んで考察したもの。ごくまっとうな手続きであり、新味はないにしても手堅い評論だ、ということだろう。
真銅先生の「偶然文学」に関する講演を聴いたときにも「俳句へ応用できるな」と思ったが、横光自身、「偶発性」とか「無目的」という手法から俳句へ関心を持ち、実作にも関わっていたらしい。不勉強でまったく知らなかった。

こういう話を聞くと、やはり俳句研究はもっと近現代文学研究に資するところがあるし、もっと近現代文学研究の成果を取り入れていかないといけないのだろうな、という気がする。

それにしても『俳句界』の誌面は、謎。
表紙では「第11回山本健吉文学賞」のほうが大きな字で書かれており、受賞者の加藤郁乎氏、岩岡中正氏の名も出ている。依田氏の名前は表紙には全く出ていないのだ。自誌が主催している評論賞より山本健吉文学賞のほうが大きな扱いというのは、どういうことなのだろうか。
また「特集 芭蕉異説~アウトロー伝説を追う~」となっているが、芭蕉アウトロー説といえば嵐山光三郎氏だろうと思うが、文章中にもほとんど名前が出てこない。文章を読んでも芭蕉の何をアウトローと呼びたいのか、どのあたりが「異説」(通説と違う、の意味だろう)なのかがよくわからなかったのだが、
思えば、芭蕉はいつも正統なる異端であり、アウトローであった。その姿勢を芭蕉は「風狂」といい、アウトローになることによって風雅の道を極めようとしたといえよう。

水津哲「アウトロー芭蕉」


などを読むと、『俳句界』の相手にしている「通説」というのは「わびさびの俳聖」とか、そういう中高生の教科書レベルなのかなと思う。芭蕉が「風狂」だとか「孤高」だとかいう見方こそ、「通説」だと思っていたのだけど。
ほかの執筆陣も、どうやら編集部から依頼された題で苦労されたようで、どうも歯切れが悪いことおびただしい。
読み応えがあるのは今泉康弘氏「夏草の夢 異説~"兵どもの夢"とは何か?~」で、『文学』七・一号(2006年1月)掲載の深沢真二氏の論文を紹介し、「夏草や兵どもが夢の跡」の「夢」が、夢幻能としての「夢」である、という見方を提示している。



芭蕉は自らを諸国一見の僧になぞらえて、奥州平泉の高館を訪れた。そこは義経主従が、藤原安衡に裏切られて討死をした場所である。芭蕉はワキ僧として、義経主従という「兵ども」に出会う。彼らは語り、舞い、供養を願う。芭蕉はそれに応える。そして、ふと、夢から覚める。その跡には、ただ夏草だけが広がっている…。


また、今泉氏は従来の「兵どもが栄華の夢をみた跡」という解釈が二十世紀になってから登場する、という深沢氏の指摘に対して、ワキ僧となって夢を見た、という趣向は「写生」にあわない」ために切り捨てられたのではないか、と推測している。重視すべきだろう。 

2011年8月1日月曜日

spica

 
日付変わって、もう今日ですが、

ご存知、神野紗希、江渡華子、野口る理の三人が運営しているウェブマガジン、spica で、

平成狂句百鬼夜行

というのを始めさせていただくことになりました。

一ヶ月、毎日アップします。がんばります。
ホーム → つくる で過去の句も読めます。


そもそもは先日、東京へ行った時に、お酒を飲みながら「漫画的俳句」「妖怪俳句」以外にテーマが見つかったらやってよ、みたいな話をされて、せやねー♪と軽く流していたはずなんですが、数日前に電話がかかってきて、「妖怪俳句でよろしく」と。

……どっちやねん(笑)。
こちらとしても精進の場をいただけるのはありがたいので、ツッコミ入れながら二つ返事で引き受けたんですが、よくよく考えるとこれ、山口優夢、谷雄介、御中虫、と続いてきた、かなり注目のコーナー。

…うーむ、そのなかで選んでいただいたことは大変光栄ながら、今更ながら、俺でいいのかなぁという気がしてきました。。。

ひとまず、プロフィール写真を、と言われましたので、お世話になっている「妖怪絵師」松野くら先生にお願いして、一枚使わせていただきました。 可愛らしいなかにも妖怪の特徴が押さえられていて、ファンなのです。

松野先生は、世界妖怪協会公認マガジン『怪』(角川書店)などでも活動されており、なんばのほうで「妖怪講座」なんかもされているお方です。実はちょいちょい俳句にもご縁がある方なので、楽しんでいただけるかな、と。

短文については、思いつかなかったのでとりあえず妖怪に関する雑学をあれこれ書いては消し書いては消し、そうこうするうち〆切も迫ってきたのでえいやっと校了、、、したところ、すっかり「オバケ学講座」のようなことに。
真面目なことを言うと、いわゆる「妖怪」の輪郭を、おぼろげにでも明確にしておかないと「妖怪俳句」という括りもできないな、ということがあります。ただし、こっちはこっちで、俳句以上に関わってきただけに、手を抜けないという事情もあり(^^;。

あんまりにも俳句の方々に遠い話題ではspicaにも迷惑かけちゃうので、おいおい軟化していくと思いますのが、気長に見守っていただければ、と思います。

よろしくお願いいたします。