2012年9月29日土曜日

告知

 

告知をいくつか。



まずは明日ですが。

俳句ラボ ~若い世代のための若い講師による句会~ 
柿衞文庫の也雲軒(やうんけん)では、若い世代の人たちの句会を開催します。1年間の成果は作品集にまとめる予定です。ぜひお気軽にご参加ください。 
・日 時:毎月最後の日曜日 午後2時~(詳細は下記の日程をご覧ください) 
・場 所:公益財団法人 柿衞文庫 
・講 師:塩見恵介さん、中谷仁美さん、杉田菜穂さん、久留島元さん 
・参加費:1回500円 
・対 象:15歳以上45歳以下の方 
・日 程 
第4回:9月30日(日)・・・袋回しを行います。


ご都合の合う方は、当日飛び入り歓迎です。是非お気軽にご参加ください。



その、柿衛文庫。
今年は案内が遅いなーと思っていたのですが、ちゃんと実施されるようです。

第9回鬼貫青春俳句大賞募集(11月20日(火)必着)
 
芭蕉(ばしょう)とほぼ同じ時代を生きた上島鬼貫(うえしまおにつら)は、10代からさかんに俳句を作り、自由活発な伊丹風の俳句をリードしました。柿衞文庫では、開館20年を機に今日の若い俳人の登竜門となるべく「鬼貫青春俳句大賞」を2004年から設けました。みなさんの作品をお待ちしています。

●募集要項●
 ☆応募規定・・・俳句30句(新聞、雑誌などに公表されていない作品)
 ☆応募資格・・・15歳以上30歳未満の方(応募締切の11月20日時点)
 ☆応募方法
  ● 作品はA4用紙1枚にパソコンで縦書きにしてください。
  ● 文字の大きさは、12~15ポイント。
  ● 最初に題名、作者名、フリガナを書き、1行空けて30句を書く。
   末尾に本名、フリガナ、生年月日、郵便番号、住所、電話番号を書く。
  ● 郵送またはFAXで下記まで。
 ※応募作品の訂正・返却には応じません。
 ※応募作品の到着については、必ずご確認くださいますようお願いいたします。
 ※応募作品の著作権及びこれから派生する全ての権利は、(公財)柿衞文庫に帰属します。
 ※個人情報は、表彰式のご案内および結果通知の送付に使用し、適正に管理いたします。
  また、柿衞文庫の事業のご案内をさせていただくことがございます。
 
 公益財団法人 柿衞文庫(こうえきざいだんほうじん かきもりぶんこ)      〒664-0895 伊丹市宮ノ前2-5-20
 電話/072-782-0244  FAX/072-781-9090
 
 ☆応募締切・・・2012年11月20日(火)必着
 ☆選考・表彰・・・2012年12月15日(土) 午後2時~5時                  於 柿衞文庫 講座室(兵庫県伊丹市宮ノ前2-5-20)
 
● 下記選考委員(敬称略)による公開選考[どなたでもご参加いただけます。]
     稲畑廣太郎(「ホトトギス」副主宰)
     山本純子(詩人)
     坪内稔典(柿衞文庫 也雲軒塾頭)
     岡田 麗(柿衞文庫 副館長
    (社)伊丹青年会議所 理事長         
 以上5名(予定)
 
  ● 賞
     大賞1名〔賞状、副賞(5万円の旅行券)、記念品〕
     優秀賞若干名〔賞状、副賞(1万円の旅行券)、記念品〕      
 
主催 公益財団法人 柿衞文庫、也雲軒
共催 伊丹市、伊丹市教育委員会(予定)
後援 伊丹商工会議所、伊丹青年会議所、株式会社 角川学芸出板(予定)
 

例年はもう〆切過ぎているんですが、今年は遅いんですね。
公開選考会は12月ですか。寒いな。



あと、こちらはもうご存じかと思いますが。

第23回青年部シンポジウムのお知らせ
  「洛外沸騰 ―今、伝えたい俳句、残したい俳句―」

11月17日(土)、関西では10年ぶりとなる現代俳句協会青年部シンポジウムを
開催いたします。 協会、年代に関わらずどなたでもご参加ください。

今日、情報技術の急速な発達を背景に
俳句と俳句以外のものとの出会いが頻繁かつ容易になった。
それにつれ、ジャンルを越境した相互的創発の潜在可能性は
 かつてなく高まっている。
そのとき俳人は俳句にとっての他者に対して俳句の何を、どう伝えたいのか。
俳句というジャンルを担ってゆく若者や後世に対して何を、どう残したいのか。
俳句でしか伝えられないこと、残せないことはあるのか。
千年の王城の地・京都の秋深まる頃、
気鋭の若手俳人及び研究者が洛外に会して熱く語りはじめる。
 
■日 時
平成24年11月17日(土)
14:00(会場13:30)~17:00(予定)(懇親会=18:00~)

■開催場所
知恩院 和順会館 京都市東山区林下町400-2(TEL 075-205-5013)

■出 演
パネリスト  青木亮人(俳句研究者)
         岡田由季(炎環・豆の木)
         松本てふこ(童子)
         彌榮浩樹(銀化)
司   会   三木基史(樫)

■主 催
現代俳句協会青年部/関西現代俳句協会青年部

■参加費
シンポジウム      一般 1,000円 学生 500円
懇親会(18:00より) 一般 6,000円 学生 4,000円
お申込みの上、参加費・懇親会費は当日会場でお支払い下さい。
関西では珍しく、大きめの「俳句イベント」。
パネリスト全員と知り合い、なもんで、これは楽しみ。
キャラクターが随分違うので予測がつかないが、どんな展開になるのだろうか。

 


2012年9月27日木曜日

「共同研究 現代俳句50年」を読む(6)

 

第8章 根源志向 川名大

「根源俳句」運動とは、周知の通り、俳誌「天狼」(昭和23年1月創刊)に拠った中堅俳人たちによって、戦後俳句の推進、深化という明確な目的意識を持って「天狼」創刊以来、昭和二十年代末までを中心に展開された文学運動である。
『天狼』創刊同人は、山口誓子を中心に、西東三鬼、橋本多佳子、秋元不死男、榎本冬一郎、高屋窓秋、山口波津女、平畑静塔など13名。その創刊号は一万部ちかい冊数を売り切ったというから、当時の期待、人気のほどが伺える。

山口誓子は戦中、伊勢で療養生活を送っており、内面的作風へ深化していたとされる。
三鬼をふくめた『天狼』同人が、創刊号に書かれた誓子の「酷烈なる俳句精神」「俳句のきびしさ、俳句のふかまり」などの語に啓発されて「根源」探求へ向かったことは言うまでもない。
また、誓子の『七曜』以降の句が「根源俳句」の基準となっていたことも確かである。
しかし、誓子以外の作家による概念規定や表現方法の確立は、明確にはなされなかった。
というより、論客ぞろいの『天狼』作家が、「「根源」という語がおのずと示唆するベクトルにそって、求心的・探求的・一元的な方向に展開する中で、何を根源と捉えるかをめぐって同人内で各人各説が飛びかった」のである。
根源俳句運動は、論としては、「根源」の意味内容をめぐって百家争鳴の様相を呈し、平畑静塔の「俳人格」説のような一種の態度論などを生み出したが、表現方法論への言及は希薄であった。 
百家争鳴の論を、作品上の成果という結果論的な相関も視野に入れて振り返ってみると、神田秀夫の生命論、平畑静塔の俳人各論、永田耕衣の東洋的無や諧謔の発言は、根源俳句運動が俳句表現史の展開を促すうえで重要な働きをした、と思う。
逆に、堀内小花が初期から中期にかけて精力的に行った図式的な作品の分類・分析は、労多くして、いたずらに混乱を招きこそすれ、実りが少なかった。
川名氏は「根源俳句」運動が俳句表現史にもたらした成果を評価しているが、同時に、心理主義的な傾向におちいって作風が一律化し、狭くなっていった点も手厳しく指摘しており、特に評論についてはあまり成果が出なかったようである。
実際、『天狼』同人には論客がそろっていたが、現在まで読み継がれている評論はほとんどない。
有名なものに、平畑静塔の「俳人格」説があるが、これはむしろ川名氏のまとめるとおり、虚子の句の主体が痴呆的精神をみせる、という指摘により、「卓抜な虚子論になっていること」を押さえておけばよく、全体としては創作する側の精神論というか自己修養のような話になってしまい、その意味で不毛である。
 
川名氏は『天狼』作家のなかから耕衣、多佳子らがあらわれたことを重視しつつ、「根源俳句」運動がもたらした成果について以下のようにしめくくっている。
耕衣は自らの形而上性に執し、多佳子は自らの肉体と情念に執することで、それぞれ誓子のバリアから抜け出た俳句様式を樹立した。・・・このことは、文学運動と個性の確立との相関について、俳人に示唆を投げかけている。


第9章 雑誌「俳句」創刊 坪内稔典

『俳句』は、昭和2761日、角川書店によって創刊された(雑誌奥付)。当時定価は「九〇円(地方定価九三円)」だったという。

以後、『俳句』は、昭和9年創刊の『俳句研究』とならび、両翼として俳句ジャーナリズムを形成してきた。『俳句研究』は昨年秋(2011831日)休刊(という名の廃刊)してしまったが、『俳句』のほうは無事に創刊六〇周年を迎え、今年いろいろ特集を組んでいたのは記憶に新しいところである。

坪内氏が紹介する『俳句』創刊号は、扉に高浜虚子の祝いの一句「登山する健脚なれど心せよ」を掲載、内容は岡崎義恵(日本文芸学者)、風巻景次郎(中世文学研究者)、平畑静塔、神田秀夫らの論文・評論が掲載され、飯田蛇笏、阿波野青畝、山口誓子、中村草田男ら一八名による「諸家近詠」、頴原退蔵の「冬の日鑑賞」(遺稿)、山本健吉の「現代俳句」(山口誓子鑑賞)、永田耕衣の「聴耳草紙」(一般時評)、中島斌雄の「俳壇時評」など。

中世文学を専攻している人間としては風巻景次郎氏の名前に反応してしまうが、こうした一線級の研究者の評論を掲載していたのが、発行者・角川源義の目配りだったのだろう。
また、美学の観点から文芸史を探求した岡崎義恵は、ここで「俳句の叙情性」という論文を書いている。これものちに角川源義が『河』を創刊(昭和33年)し、叙情性の回復を課題としたことと同様の志向があるようだ。
 
坪内氏は、戦前の『俳句研究』と違い虚子の協力をとりつけたことで幅の広さを確保しているが、すでに代表的な仕事をなした実力者をそろえた誌面からは新しい魅力を引き出すことが難しく、「地味で堅実な印象」である、と評する。

創刊号の「編集後記」(「K生」と署名があるそうで坪内氏は石川桂郎かと推測)には、
近代の文芸である「俳句」を、接頭語も接尾語もつけずに大通りを歩かせたい、という決意や、外部の批評(第二芸術論)を意識しながら、自前の批評、思想を育てようという意欲が明確にあらわれている。

坪内氏は、俳壇の総合誌の役割として、「結社を超えた広い場を提供する雑誌」であり、「俳壇の外にいる人でも興味を持って読めるという条件」が必要だ、という。「後者の条件を欠くとその雑誌は業界誌になるだろう」。

その条件に適っていたのが、子規時代の『ホトトギス』であり、戦前の『俳句研究』であった。『俳句研究』も、虚子本人は協力しなかったがホトトギス系の作家は多く執筆しており、自由律からホトトギスまで網羅した「総合誌」だった。

『俳句』創刊と平行して角川書店は積極的に俳壇にかかわるようになり、文庫版の句集の出版や大部の歳時記刊行、角川俳句賞や蛇笏賞などを設立し俳人の顕彰にも尽力するなど、多角的に俳句に関わっている。その意味で『俳句』は、角川書店という背景を含めた意味での「総合誌」であった。
社主・源義には「俳句を核とした文化の発信」という夢があり、その夢を具現化させたのが山本健吉であった、と坪内氏はいう。
(源義が日本文化の継承・発信を信じていたのは確かだが、俳句が核であったかどうかは私自身はよくわからない。私などからすると角川源義は軍記研究、民俗研究の大家でもあるからだが、少なくとも山本健吉との協力関係が大きかったことはよくわかる。)

坪内氏は最後に、『俳句』昭和278月号における草田男との対談での山本健吉の発言を引いて、それが「「俳句」を創刊した時代においては、俳句を俳壇の外へ開く、もっとも刺激的な見解だった」と評価している。
僕はね、大きな点からいふと、俳句作家といふものは独白の世界、モノローグの世界へ入り込んでしまつた、根源俳句は、ことに甚だしいと思ひますけれども、それはやはり危険を感じますね。一人合点にいつちやふんだ。

 

2012年9月19日水曜日

読書記録

 

更新が滞っているので、最近の(俳句関連)読書記録など。

 *

小林恭二『この俳句がスゴい!』(角川学芸出版、2012.08.24)

『俳句研究』誌に連載されていた「恭二歳時記」から10人を抜粋、再編したもの。
高浜虚子、種田山頭火、尾崎放哉、久保田万太郎、西東三鬼、加藤楸邨、石田波郷、森澄雄、金子兜太、飯田龍太、の10人。


どれも知名度抜群の作家ばかりで、俳句を知らない人にも、俳句をもっと知りたい人にも、はばひろく自信をもって勧められる好著。
本書ではあえて、いわゆる「名句」が優先して紹介されている。
作家も10人だけなので収載句数は多くないが、世間一般に著名な「名句」が簡便にわかる、アンソロジーとしても出来が良い。俳句読むのは好きだけど、あまり句を覚えられない、必須の句だけ教えろ!的な人にちょうどいい。

同じような人は多いだろうが、私も高校生のときに『俳句という遊び』『俳句の楽しみ』(ともに岩波新書)で俳句を知って以来、小林氏のファンである。当然、「恭二歳時記」は、連載時に全部読んでいる。
この連載が始まった平成15年は、まさに私が大学に入学した頃。当時の私は毎月図書館で『俳句研究』を立ち読みし、「恭二歳時記」と、もうひとつ高柳克弘氏の「凛然たる青春」をコピーするのが習慣だった。たぶん今でも全部そろっていると思う。

小林流鑑賞術の魅力は、その自在さであろう。
基本的には一句の言葉から読み取るが、場合によって作家の置かれた時代背景や、人生なども折り込んだり、ときには自分の体験談を交えたり、誤読を承知の上で深読みしたりすることも辞さない。

共通するのはただ一点、一句がもっとも活き活きする方法で「読む」ことだ。
マジメなばかりでなく、拍子抜けするような句にはツッコミをいれ、意味不明な句には首をひねり、自分の趣味に合わない、過大評価と思う句には率直に疑問を投げかける。

読者として、どこまでも誠実にして真摯、まっとうなのである。
奇をてらわずとも、ただ真摯に「この俳句がスゴい!」と伝えるだけで、俳句の凄さは、充分に伝わる。本書には、それだけの迫力と魅力がある。

残念なのは、長い長い「恭二歳時記」連載から、抜粋がわずか10人だということ。山頭火、放哉はページ数も少ないし、「自由律」で一括してもよかったのではないか。
特に、著者の複雑な感情が行間ににじむ「高柳重信」や「摂津幸彦」などが脱けているのは惜しい。その他、「中村草田男」「渡辺白泉」「三橋敏雄」「寺山修司」など、改めて読みたい作家は多い。

できれば、もっと簡便な文庫版で、増補をお願いしたいところだ。

 *

対中いずみ『巣箱』(ふらんす堂、2012.07.07)

著者より謹呈をうけた。記して感謝する。
対中氏は、改めて紹介するまでもないが、田中裕明門下の作家。同人誌「静かな場所」の代表でもある。本書は著者の第二句集。
対中句集の魅力については、帯にも引かれている正木ゆう子氏の栞文の一節、

対中さんの俳句から読みとれるのは、たっぷりと水を湛えた湖の、静かな真水の気配である。その印象はこのたびも変わらない。ひんやりとつめたい真水の清らかさをこの集の一番の個性と思いつつ、もう一方で惹かれるのは、詠まれた生き物たちの命の温もりである。

が、言い尽くしていよう。
このとおり、対中さんの句は「水」に喩えられることが多いが、実際句集にも「水」にまつわるものが多い。特に前半には、舞台としては「みづうみ」、素材としては「水鳥」(鴨、鳰)が選ばれることが多い。


 ときをりは鴨あらそへる水の音
 みづうみの北の桜も散りにけり
 はつなつの太平洋のものを干す
 波の跡うすくかさなる九月かな
 月繊きことも水鳥引くことも
 ひとまはり小さき水輪や鳰


どれも田中裕明門下らしい、静やかで透明度の高い佳吟である。これらの句に不快感を持つ人はいないだろう。現代俳句のなかでも、もっとも上質な部分が結集しているといえる。
とはいえ、もっとも目を引いたのは正木氏も注目する次の句だった。修辞にそつのない作者にして、このストレートな一句は異色である。


 鼻面に雪つけて栗鼠可愛すぎ
 

 *

内野聖子『猫と薔薇』(創風社出版、2012.07.24)

著者より謹呈をうけた。記して感謝する。
著者は「船団の会」会員。本書は著者の第一句集。
代表句はやはり、坪内稔典氏の帯文にも引かれる、


 どろどろでぐちゃぐちゃの夏きみがすき

であろう。
現実的にはどんなに無謀で無秩序な失敗であっても、一句として提示されたなかでの感情の発露は、圧倒的に力強く、美しい。この「夏」は、無造作だが絶対的に動かない。一般に俳句は感情表現、特に恋愛感情などを積極的に出さない詩型であるといわれるが、だからこそ、無鉄砲さが際立つ。
そのほか面白かった句は、

 軍艦のゆるりと進み春の波
 五月晴愛し愛され生きるのさ
 どのへんでやめておこうかほたるとぶ
 この町は雷がやたらと近い
 湯たんぽを抱えた猫がいってらっしゃい

など。
「季語+人生の感慨」という取り合わせのパターンが多いのが、やや類型的といえるかもしれない。五月晴」は、下五「生きるのさ」が良いと思ったが、「花冷えやまっすぐなことばの痛さ」「願い事決められなくて流星や」「本能のままに生きたし蜜柑むく」などの句は当たり前で面白くない。
このあたりの判定は、個人差もあって難しいところではある。


 
山本健吉『山本健吉俳句読本第一巻 俳句とは何か』(角川書店、1995.05)
 
例の「共同研究」などを読むうちに、古い評論を読み直してみたくなった。
山本健吉は、部分的には読んでいるがまとめて読むのははじめてかもしれない。改めて読むとやはり面白い。
山本健吉と言えば『現代俳句』の、出来上がった評論家調しか思い至らなかったが、有名な「時間性の抹殺」(初出「批評」1946.12)など、戦後直後で、著者は39歳だったのだ。
何と言っても僕は年若い俳人たちとの気の置けない付合いから、極く自然に俳諧と言うものを学んで来たようである。僕の俳句への理解も、言ってみれば、草田男・楸邨・波郷氏等が独自の世界と風格とを形成しつつあったのと、ほぼ歩みを合せて、成熟して行ったのだ。 
「第Ⅰ章・挨拶と滑稽 一、時間性の抹殺」『俳句とは何か』
なんか、若々しくて力強いではないか。
「純粋俳句」とか「ディアローグの芸術」とか、用語としてはなお検討を要するけれども内容として示唆されることは多い。
 
批評とか評論とか、ついつい私たちはネットで探したごく新しいものをさっと流し読みしてすませてしまうことが多いが、評論史の蓄積をふまえないなら、議論はいつまでも深化せず、同じところにしか至らない。

「批評行為」とは、ただ論理的に分析すればよいのではなく、読者に新たな視点を導くようなものをめざすべきである。そうである以上、先行する批評をふまえてから批評行為に臨むことが、後に生まれた人間の、当然の責務というものだろう。


※ 9/21、誤植訂正。一部追記。
 

2012年9月16日日曜日

近況報告

 

ご無沙汰しております。

うかうかしている間に前回の更新から随分間があいて、はや9月も中旬になってしまいました。



週刊俳句 Haiku Weekly: 週刊俳句 第282号

に、「8月の俳句を読む」を掲載いただいております。
タイトルは編集部で付けてくれたみたいですね。




俳句ラボ、9月の当番は私です。
 
俳句ラボ ~若い世代のための若い講師による句会~ 
柿衞文庫の也雲軒では、若い世代の人たちの句会を開催します。1年間の成果は作品集にまとめる予定です。ぜひお気軽にご参加ください。 
・日 時:毎月最後の日曜日 午後2時~(詳細は下記の日程をご覧ください) 
・場 所:公益財団法人 柿衞文庫 
・講 師:塩見恵介さん、中谷仁美さん、杉田菜穂さん、久留島元さん 
・参加費:1回500円 
・対 象:15歳以上45歳以下の方 
・日 程 
第4回:9月30日(日)・・・袋回しを行います。
袋回しのルールを知らない人でも参加可能です。準備はいりません。
筆記用具と、できれば「歳時記」をご持参ください。

ともかくその場で、即席で俳句を作ります。まぁ、やってみりゃわかります。

ご都合の合う方は是非ご参加ください。



昨日は、たまたま作業が一段落したところだったので、大阪で行われました「川柳カード・創刊記念大会」にお邪魔してきました。

「川柳カード」は、樋口由紀子さんが代表、小池正博さんが編集をつとめる川柳誌。
(参照:週刊「川柳時評」:川柳カードをどう切るか
系譜としては、「バックストローク」の後継誌ないし系列誌、という位置づけでよいのかな。
2012年7月に、創刊準備号として「0号」が発刊され、実はまだ創刊号=1号は刊行されていないのですが、創刊されていない雑誌の創刊記念大会というのも、なかなか面白くていい。

さて、今回の「創刊号記念大会」は2部仕立て。
第一部は、池田澄子×樋口由紀子のトークショー。
第二部は、川柳大会。
兼題が「脈」「すれすれ」「ピーマン」「割る」「品」、事前投句題「カード」の6題で、それぞれ2句ずつ出句。

当日は私のような飛び入り参加も少なくなかったようで、100人を超える参加者(主催者発表109人、水滸伝より一人多い)が参集。用意された席がすべて埋まり、補助椅子が導入される事態に。
ちなみに当日の選者には「川柳塔」や「琵琶湖番傘」など、いわゆる「伝統系」に所属している方もおり、川柳シーン全体においても、たいへん期待された「創刊」だ、ということがよくわかるわけです。



さて、開会宣言で樋口さんは、
川柳をはじめて30年になりますが、いまだにわからないことがあります。それは、川柳とは何か、ということ。その問いを、もっと考えていきたい。
 川柳カードは、1年おきか2年おきか、このような大会を開いて、他ジャンルの人を招いて話を聞くことにしたい。川柳のなかだけでは見えないことが、他ジャンルとの比較のなかで見えてくることがある。

と述べ、「由紀子の部屋」第一回ゲストに「他ジャンルにも人気のある」池田澄子さんを紹介した。

池田さんとのトークショーでは、ふたりの「俳句」「川柳」との出会いから、それぞれの師匠(池田澄子-三橋敏雄、樋口由紀子-時実新子)との関係、師匠の言葉、池田さんの思う「川柳っぽい自句」の、なにが「川柳ぽい」のか、などなど、川柳と俳句との境界をめぐってさまざまなトークが交わされた。

トークの最後のほうで、川柳の句会初体験の池田さんが俳句の句会との違いにびっくりしていたのが興味深かった。
川柳句会のルールは、俳句作家はたいてい驚くが、まずそれぞれの「題」に一人ずつ「選者」が付く。そして選者が、投句された中から何十句も「抜く」(選句)する。選者は撰んだ句を「披講」する。読み上げられると作家が名乗りし、次の句の披講に移る。ここには「合評」の入り込む余地がない。ここが違うところだ。
川柳の場合は「抜」かれない句はそのまま消える。したがって、川柳人は基本的に「抜かれる」ために句を作ることになる。

ところが、池田さんは句会には「自信のある句は出さない」のだという。そして句会に出すのは自分だけでは判断に迷う句であり、自句の欠点を聞くために出席するのだという。

池田さんのように「自信のある句は出さない」「自分の欠点を聞きに行く」とまで思うのは極端にしても、句会で実験作を出して主宰や周囲の反応を伺う、というのは、俳句界ではごく日常的であると思う。

二人のトークでは、この句会形式を通じた、「句との接し方」が、川柳と俳句との一番の違いなのでは、というあたりで時間切れとなり終了した。

話の流れでオチがついたとはいえ、句会形式のありかたというのは確かにジャンルの性格を形成する大きな側面だろう。
(というか、そもそも「句会」という形式で文芸を楽しむこと自体が大きな特徴だ)



大会の詳細については、おそらく川柳プロパーの側からのまとめも出るだろうし、なにより「川柳カード」創刊号で述べられるはずなのでこのへんで。