2012年2月27日月曜日

お知らせ、再掲


席にはまだ余裕があります。お時間のある方は是非!
当日入場料は1500円になってしまうので、どちらか迷われている人はとりあえずご一報いただけると幸いです。キャンセル料は発生しませんので。


上のシンポジウム自体は「関西俳句なう」のなかでは年長組(朝倉晴美、塩見恵介、工藤惠/敬称略)の方々が企画・実行されるので、どちらかというと私はお手伝いのほうである。
そのため、当日どういう方向で議論がころがるか、というのは正直言って未知数。ただ、「作家」と「教育研究者」と「出版者」と、さらに「保護者」と、立場の違う、しかし創作表現にかかわっている人たちが集まったときに、どんなふうなシンポジウムになるか、というのはとても関心を持っている。


こうした活動について、大衆啓蒙だとか、子どもに俳句がわからないとか、そんなことを言うひとは多いと思うが、(私も宣伝している最中にお会いしたが)以前このブログでも述べたとおり、私は「俳句」と「教育」との関係については積極的であって、もっと考えたいと思っているのだ。
(というか、もっとみんなが「考えるべきだ」と思っているのだ)



第一には、教育的意義。

文芸創作を経験することは教育的に悪くないはずで、工藤直子氏「のはらうた」なども同様の効果を期待して全国の小中学校で「みんなも何かの気持ちで詩を作ってみましょう」という授業が展開されている。

さらに、俳句は特に「創作」(作句)と「鑑賞」(選句)が不可分の文芸である。俳句を通じて「伝える表現」「伝わる表現」について意識できるようになるのではないか、と思う。

しかし、そのとき作る俳句が、「ヒマワリがにこにこ笑う夏休」「さみしいが涙こらえて卒業す」(即興の例句)でいいのか、という問題がある。

(※ これらの句は間違いなく作者の思ったこと、感じたこと、経験したことである。体験を句にすることがすばらしい、というだけの教育ならかまわないが、一句として成立するために表現の新しさ、ないし新しさへの志向が全くないものをよしとするのは、表現教育としては不充分だ、と思う。)

「感情表現」や「比喩」ではなく、文芸として、幼くとも不十分でもその作者にしかない発見がみえるような、そんな作品を楽しめるような視点を、どうにか伝えられないだろうか。
欲を言えばつまり、その作者なりの「表現」を、表現する喜びに触れられるような、そんな経験を伝えられないだろうか。

そのような「表現」の楽しみ方を、もしも知ることができれば、小説でも短歌でも俳句でも、将来「楽しめる」、つまり「読者」になっていってくれるのではないか、と思う。

つまり、ここでいう「俳句の授業」は、なにも新たな表現を担う「作家」を育てる、というような傲慢な教育ではない。むしろ表現の楽しさを知る「読者」を育てる授業ができないだろうか、というのが、私個人の考えなのだ。
これは創作一般における市場開拓のための深慮遠謀策でもあるわけで、俳句的に言ってもこれは重要な意味があると思う。
俳句は芸術なりと信じて表現一途に生きるのも俳句史のためには重要だが、一方で俳句表現というもの自体を楽しめる読者を育てていくのも、俳句に関わる者にとってはおそろしく重要な責任であろう。

もちろん、こんな理想的な「表現」の授業が、一朝一夕にマニュアル化して普及させられるとは思わない。ただ、まずは教える側が「表現」のおもしろさに触れていないと、そもそも伝えることはできないだろう。
なにか、授業として一過性に通り過ぎるものではなく、「楽しめる」素材として、俳句や、それに限らず創作一般を提供できないだろうか、というのが、私の中では非常に重要なテーマとして存在しているのである。

2012年2月19日日曜日

俳句王国


2月20日21:30~放送予定の「俳句王国」に、悪友、徳本和俊(船団/関西俳句なう)が出演します。
http://www.nhk.or.jp/haiku/

主宰は寺井谷子氏、
ゲストはなんと藤本隆宏氏。(「坂の上の雲」で広瀬大佐演じていた俳優さん)

徳本とは一時、会うたびに「坂の上の雲」の話題ばかりしていたことがあって、広瀬の最期も感動しながら視聴していたのですが(アリアズナ美人すぎ)、まさか共演するとは。実にうらやましい限りです。
同じ回で山田露結さん(お会いしたことないですが)も出演だった模様。
共演者同士ずいぶん盛り上がったようで、ロケ先から興奮して自慢たらたらの電話がかかってきていました。
というわけで、その雰囲気が画面から伝わるかどうか、鑑賞したいと思います。

見所は藤本さんの句と、寺井主宰、山田さんの着物対決かな。

2012年2月16日木曜日

断章


俳句の歴史を、伝統と前衛、守旧と新興との対立図式の変遷に見ることは今日、常識的に行われている。
この対立図式はまた、「俳」と「詩」、「俗」と「雅」とも同義ととらえられ、容易に換言して適用されがちである。

私がそのとき見つけた法則は、詩人の私が俳句に深入りするようになったことと強く関連するもので、俳句を律する二要素に詩と俳(新と旧)の因子をとり出し、その二因子の相克によって、近代の俳句史が展開してきたとするものであった。後に知ったことだが、復本一郎氏も近世俳諧に関して、反和歌と親和歌の二因子による展開を見ておられ、私の視点がただちに近世にもつながることがわかったが、それはさておき、私の法則を近代俳句史に適用すると次のようになる。

平井照敏「現代俳句の行方」『現代の俳句』(講談社学術文庫)

第一に、その言い換えが、はたして妥当であったかどうかが問われなくてはいけない。
まず考えるべきは、「旧」い「伝統」とされるものが、「俳句」の伝統なのか、「俳句」以前の「俳諧」の伝統なのか、さらに「親和歌」の伝統なのか、ということである。
伝統を近代以前の「俳諧」に求めるとすれば「俳」につながるだろうが、「和歌」的美学に求めるならばむしろ、小西甚一の理解にそえばそれは「雅」(永遠美)に至る。
しかしそうしたおおざっぱなくくり方では、たとえば金子兜太の若き日の煩悶は救えないだろう。

(注、第二芸術論の)決め付けの猛猛しさ潔さに、私は、ああ戦後だなあ、とこれまた実感を募らせつつも、しかしおかしい、とおもっていたのです。フランス文学と比較しただけではわからない世界が、俳句と人人との結びつきにはある。その世界は、桑原や中村草田男のインテリジェンスよりも、もっとしぶとい肉体を持っているのかもしれない。そして、そこに開花している句をいきなり、詩ではない、芸術ではない、といいきれるものなのか。句を通じて、人人の中に心情のふれあいがあり、そこに感銘の熱さが得られているとき、それをしも詩ではないといいきれるのか。詩の高さ、とはなんなのか。

金子兜太『わが戦後俳句史』(岩波新書)

「秩父の子」金子兜太は社会性、文学性を問い詰めながら、一方で「人人との結びつき」、「土の思想」に強く共鳴する。そうした中での「俳句」を愛する。それは「俳句」ではないのか。
むろん、「土」にまみれていない都会にも、「人人との結びつき」は存在する。そしてむしろ「俳諧」という文化は、江戸や大坂の「町」で栄えた文化であった。俳諧のルートはそのまま文化のルートであり、近世には俳諧師がさまざまな都市文化の伝播者となったのである。



「伝統」とか「守旧」とか言ったとき、そこに通底するものは何なのか。
あるいは「俳」という抽象概念で名指されているもの、こと、つまり端的に言って、我々が「俳句っぽい」と感じる、そのもっとも濃厚な部分は、なんなのか。

高浜虚子と河東碧梧桐の句を比較し、虚子の句をより「俳句」だと思う。

あるいは、角川春樹の軌跡を「毎年刊行した句集の一冊ごとに急速に伝統俳句化」した、と評する(平井照敏、前掲書)。

あるいは、坪内稔典の全句集をして林桂氏が看取した「大方の先達俳人が辿ったものと同じ」変遷、また「坪内を迎え入れた」とされる「規範」の存在。(―俳句空間―豈weekly: 静かなる常在戦場 林桂『俳句此岸 ’04~’08』を読む・・・高山れおな

あるいは、高柳重信が晩年に五七五定型を発表する際に用いた山川蝉夫の句を引いて、芭蕉の境地を思う根拠(冨田拓也、百句晶晶)。

これらは、(そのすべてを同一視することはできないにしても)いったい、なにものであるか。

断っておくが、私は別段我々の考えるものとは違う「俳句的なるもの」が「俳句」のなかに本質的に内在する、などとは考えていない。

むしろ、現在の我々が感じるところの「俳句っぽさ」が知りたいのである。
現在の私たちが感じる「俳句っぽさ」、俳句的somethingとは、明治以降、様々な作家、評論家たちによって常に更新され補強され、歴史的に形成されてきたはずのものであり、私が知りたいのはその形成の過程であり、結果としての「俳句っぽさ」なのだ。

我々が読み、我々が作り、我々が関わり続けているこの、「俳句」という形式、あるいはジャンルについて、我々はさらに自覚的であっていいのではないか。
それを知るためには、目の前にある過去膨大な俳句表現そのものを、つまりすでにそこにある俳句を、もっともっと、読んでみるべきではないか。
「俳句」とはこうである、という定義から選別するのではなく、先行者たちが「俳句」と名付け、名乗った、その表現の山に、まず分け入ってみるべきではないか。
演繹ではなく帰納で、「俳句」を考える。
これはもちろん、子規も、山本健吉も、三橋敏雄も、やってきたはずのことだが、そしてその成果として導かれる諸々こそ「俳句っぽさ」と思われる最有力候補であるが、それでもなお、我々は、その人たちの仕事を遡り、検証しなおすことから始めるべきなのだろう。

いやいや、私が言うのはそんな大それたことではない。たとえば身近な作家の句業を「すべて読む」というような、そんなところからでも、現代俳句の沃野を概観していきたい、と、ただ、その程度のことなのである。
 
 


2012年2月10日金曜日

写生論の彼方

 

先日、写生の研究会に参加してきました。

佐藤栄作先生(さとあや父)、セキエツ氏ほか、お久しぶりの方々にご挨拶したり、初めましての人にご挨拶したり。
御中虫さんとは残念ながらお会いできませんでしたが、いろいろな方にお目にかかりました。

当初は「研究会」ということで少人数の予定だったのだと思いますが、京都「醍醐会」の方々のほか、東京から来られた人もいて、参加者30余名、ちょっとした規模のシンポジウムに。
詳細は別に報告する機会があるのでそちらに譲るとして、こういうシンポジウムでいつも気になることがあります。
議論が「実作」側に進むか、「評論」側に進むか。

実作者、として議論する場合、話は「作り手として、どうするか」「作り手として、何を考えるか」という方向になる。
しかし考えたって実現できているかどうかはわからないので、「どうするか」は、しばしば「どうあるべきか」「どう考えるべきか」という「べき」論になりがち。
そうなると、賛成できる場合はよいとして、反対する場合は「人それぞれですね」ということになってしまう。
表現は人それぞれが当たり前、統一されたら面白くも何ともないわけなので、結局結論のでないまま、お互いの主観、理想を言い合って終わるしかない。それはちょっと、議論としては不毛なのではないか、というのが、私の考えである。

もちろん、その日に「答え」に向かわなくても(また、この手の問題に唯一の答えなどあるはずもないので)、議論の過程で見えてくる物があれば、また参加者それぞれに発見があれば、それでよい、という立場もある。
そういう面も、ある。

同じジャンルに携わる人間同士、結論の見えない議論を繰り返しながら、表現って何だろう、形式って何だろう。どうすれば、どんな表現が生み出せるだろう、と考える。
それはとても楽しいし、実作者にとって有意義な「肥やし」になるだろう。
喫茶店で一杯のコーヒーで何時間も粘ってしゃべるのもいいし、日付が変わるまで安い居酒屋で管を巻くのもいい。お互いの表現について語り合う。研鑽しあう。大風呂敷を広げる。他人の句を批評する。ほめあう。けなしあう。陰口をたたく。わめく。さわぐ。愚痴る。ひがむ。

・・・・・・なんか楽しくなさそうなのも混じりましたが、しかし。
個人としては、そうした表現との格闘は、とても楽しい、ほとんど快楽的と言っていいことだと思うが、イベントとして、多くの人が集まる場合は、やはり、何かしら、答えでなくともよい、最終ゴールでなくてよい、一歩、「進んだ」「深まった」という実感が、共有できないものだろうか、とも思う。
そう考えると、やはり私としては、ある程度は「評論家」的な物言いをすることが「公」の議論の深化に貢献できるのではないか、と思うのだ。

「評論家」的とは何か。
要するに、「俳句」であったり、今回なら「写生」であったり、を、自分に外在するもの、共有され、説明可能な「もの」ないし「こと」としてとらえる、ということである。
もちろん自分自身が俳句表現に関わっていること、自分の経験、知識に拠るのは当然として、しかし固有の体験ではなく、俳句創作における一般論として提示できるか、ということである。
もちろん、作家的な実感を背景として理論を構築するのが得意な人もいる。作家的体験談が、そのまま一般論につながるような作家もいる。私が言っているのは、一般へのパフォーマンスとして発信する、公開する、というときの、ひとつの形式である。

さて、そう考えたとき、今回はどうだっただろうか。
結論から言えば、私はかなり楽しめた。明確な議論の終着点があったわけではないが、「写生」を議論するうえでの一つの方向性が見えたと思うからだ。

「写生」を、俳句固有の問題ととらえないこと。
「写生」を、表現以前の姿勢の問題ととらえること。

ざっくりまとめれば竹中氏の「写生」論の要諦ははこの2点だろう(詳細は別に・・・以下略)。
これだけ聞くと当たり前に思うかもしれないが、しかし当たり前のことを確認することで、議論はようやく次の、当たり前でない段階へ進める、ということなのである。

※ 竹中氏の写生論について、小池正博さんが研究会の感想を週刊「川柳時評」:「写生」と「ノイズ」でまとめておられます。ここでは「姿勢」の内容については触れていませんが、竹中氏の「写生」論としては小池氏のあげる、外界の「ノイズ」というキーワードが重要。これについてはまた別の機会に。




竹中宏さんという人は、まだ数回しかお目にかかってないが、非常に興味深い作家である。
作品や文章を読むと作家性の強いひとだ、と思い、また実際お会いしても表現者として自覚と自負を強く持っておられるのだが、一方でとても柔軟で自在な論客なのである。だから、作家としての立場をこえて、その意見を聞いてみたい気になる。
当日、懇親会で話していたとき、竹中さんが、
「俳句の議論ではよく、例句が良い句かどうか、論ずべき句かどうか、ランク付けしようとする。僕は、句としてはくだらないなぁと思うものでも読むのは好きですよ」(大意)
と言っていたのが、とても印象的だった。
思うに、「読者」の立場と「作家」の立場を柔軟に入れ替えられる、というのは、「公」の議論ではとても重要なことである。
「詠む」から「読む」へ、という流れを考えたとき、俳句評論もまた、「詠む」ための実践論から「読む」ための一般論へ、という可能性が、求められているのではないだろうか。




と、思っていたら、「読む」波の申し子が、実に的確な書評を書いていた。

森の入口の案内役―神野紗希

驚くべきことに、引用されている岸本尚毅氏の鑑賞文は、当日、「写生・写生文研究会」で話題になった素十の句。研究会では爽波の解釈として、同様のことが紹介されていた。
岸本氏は爽波の弟子なのでどこかで直接聞いていたか、それとも同様の好みになっていうものなのか、なんにしてもピンポイントでこの箇所をあげている、というのは、すごい。

シンクロニシティというかなんというか・・・・・・紗希さん、ついに超能力?


 

2012年2月2日木曜日

関西俳句なう


昨年、一年間のHP活動を終え、現在、書籍化計画に向けて準備中の「関西俳句なう」ですが、
来月3月3日にイベントを開催することになりました。


シンポジウム&句会ライブ
「子どもと作る楽しい俳句を考えませんか」
と き  2012年3 月 3 日(土) 
開演14:00(開場13:30)

ところ   平生記念セミナーハウス
神戸市東灘区住吉本町2-29-15 TEL:078-854-1605

参加費  1,000円(事前申込/当日1,500円)(当日受付にて)

問い合わせ&申込方法
電話、メール、又は船団ホームページ(http://sendan.kaisya.co.jp/
 「お便り」欄から、2月末日までにお申し込みください。
連絡先:塩見(tel:078(412)1660
 mail:dfcum908@kcc.zaq.ne.jp)


第一部
シンポジウム 14:00~15:30
 赤石忍(船団・くもん出版取締役・日本児童図書出版協会「子どもの本」編集長)
 目黒強(神戸大学大学院人間発達環境学研究科准教授)
 横丁八重子(高槻市小学校教員)
 朝倉晴美(船団・俳人及び講師

(司会)工藤惠

第二部

句会ライブ(兼題「桃の節句」2句投句) 15:45~17:00
 坪内稔典(船団の会代表)・木村和也・中原幸子・目黒強 
(司会)小倉喜郎


実作者だけの集まる詩歌イベントでは出ない意見も出てくると思われ、実作側にも、教育畑の人にも、どんどん来て欲しい、期待の企画となっております。

場所の「平生記念会セミナーハウス」アクセスはこちら。
 
http://www.konan-isc.co.jp/map.html
駅からすこし歩きますが、阪急・JRのどちらからでも来られる立地です。


と、よく考えると当日は東京で「詩客」のイベントもあるんですね。
東西で詩歌のイベント開催、ということで、どちらに行かれるか迷う人も多いと思いますが、是非こちらへもどうぞ!


関連内容
週刊俳句 Haiku Weekly: 比喩をめぐって【前編】 高柳克弘×さいばら天気
週刊俳句 Haiku Weekly: 比喩をめぐって【後編】 高柳克弘×さいばら天気


2012年2月1日水曜日

東京日記


ひさびさに純然たる日記です。

先日、学生から届いたメールで届いたレポートを開こうとしたら、PCがダウンしちゃいましてね。
普通のワードファイルだったと思うのですが、クリックの瞬間にバッとアイコンが消えて、なんか英語でメッセージが出てるんですよ。
Windows PC scanとか何とか。
Windowsだから大丈夫なのかな、と思っていたら、そのまま動かなくなっちゃって、ダウンと言うより、おシャカ?うん、もう、完全崩壊。再起動してスタートメニューを開けても何もファイルがない、という。

仕方ないので翌日から一日がかりでリカバリーですよ。
最近はリカバリーもずいぶん楽になりましたが、ネットの設定とかメールの設定とか自分で購入したファイルとかもろもろやっていると、まあ一日かかります。

重要なデータはだいたいバックアップとっていたので、そのぶんの損害は少なかったんですが、数年分のカスタマイズが全部なくなるのは厳しいですね。
一番痛いのはメールとアドレス帳が全部なくなってしまったことで、これが地味に面倒。古いメールが飛んでしまったのは仕方ないとして、アドレス帳のほうも送られてくるメールを読みながら現在少しずつ復旧中。
受信のほうは全く問題ないので、もしお気づきの方がおられたら、久留島宛に空メール送ってくださると助かります。
ホントにバックアップ、大切。

学生レポートのほうは、ネットカフェでひらいたら何の障碍もなかったので、そのファイルのせいなのかどうかよくわからないまま。Macユーザーさんだったので、なにか相性が悪かったのかもしれませんが、相性の問題でファイルが全部消えたらやってられないですな。
しかし、PCなり、ネットなりがダウンすると、いかに普段の生活でネット浸りか、というのを痛感するわけで。なんか、デジタル保存というのは、いろいろ不安なところがあるなぁ、と思う次第ですよ。紙媒体と違って、いつなんでダメになったか、がよくわからないままダメになることがある、というのが怖いというか腑に落ちませんね。燃えたとか割れたとか水に浸った、とかなら、納得できるのですが。

俳句系のblogめぐりも、「お気に入り」が飛んでしまったのでずいぶんわからなくなって、まあおいおい復活するとは思いますが、最近ちょっとご無沙汰しているところも多いかもです。



それはさておき、先日関東方面へ入ったついでに、西村麒麟さんに遊んでもらいました。
麒麟さんにあらせられては、日曜出勤でお疲れのところ、しかも前日も某若手伝統系作家さんとの飲み会であったにもかかわらず、またおつきあいいただきましてただ感謝。

麒麟さんからは会うなり「古志」189号、西村麒麟特集号を頂戴しまして、これはもう麒麟さんの手元にも数部しかない本らしいので、大変貴重なもの。ありがとうございます。
こちらは手ぶらで行ったので申し訳ない限りで……。今度、なんか探しておきます。

西村麒麟さんは、以前もすこし書いたとおり、寄席芸のような笑いを誘う文章で、実はすごく批評的な読みを展開している、まさに「芸」の人である。
個人的に話しているといろいろ啓発されるところが多いのですが、なにせ酒の席ですからね。うん。お酒飲んでいるうちになんの話をしていたやら。。。

もともと、麒麟さんとは「裏スピカ」的に、スピカの悪口……もとい、スピカ三人があまりやってないような話をしたいですね、ということを言ってたんですよね。
ネット媒体だと、どうしてもホットな話題ばかりが取り上げられがちですが、普段取り上げられていない作家、古い作家も含めてお互いの好きな作家と嫌いな作家の話をやりあいたいですねー、ということで。
麒麟さんとの好みは、青畝や爽波などのホトトギス系だとかぶるところも多いのだけど、一方で若手作家の評価ではあまりかぶらないことが多くて、そのあたりをちゃんと話したらおもしろいでしょう、と言っていたわけです。
お会いするなり麒麟さんから「今日はしゃべるために新撰21と超新撰と俳コレ持ってきたよ!まだ全部読めてないけど!」とか言ってくださったり、
さらに気を遣ってあちこち電話してくださって、句会明けの生駒大祐くんが駆けつけてくれたりして、久しぶりに会ったのがうれしいのでそのままお酒飲んでいたらどんどん時間が過ぎて、翌日月曜でお仕事のある麒麟さんに、結局は終電までおつきあいいただいて。

えーっと、何の話しましたかね??

とりあえず覚えているのは、「アンソロジってねーな」ということで。
「アンソロってない僕ら」的に、どう生き残るか、みたいな話題で、流行なんか結局流行だよ、みたいな。でも意外と今の若手はそれもわかってて流行乗ってますよね、でも流行乗れてない人の方が気づいてないよね、みたいな。
そこから、やっぱり好きな作家のことはもっとちゃんと読もうよ、もっと読もうよ、と。
結局読んでいる人が強いですよね。紗希さんとかほんとよく勉強してますよね、他の人ももっと読めよ、ていうか僕あんま読んでないです麒麟さんすみません、でも青畝はいいっすよね晩年の句集もっと読みたいっす、僕にも青畝全集くれる人欲しいです、あ、芭蕉兄さんとキヨコ姉さんってどんな人なんですか、てか東京は俳人多いし毎日どっかで句会してるし、俳句文学館と国会図書館あってうらやましいですよ、生駒くんも古い作家読み放題なんだからもっと読めよ、でも就職で地方行ったら俳句ばっかりしてりゃいいよっていうか麒麟さん仕事しながらよく読めますね、俺はむしろ誓子読みますよ誓子案外アホみたいな句多いですよ、、、、

あー、たしか、なんかそんな話をした記憶がありますね、うん。


……違ったかな?


…………えーっと、麒麟さん、いろいろ忘れちゃったんで、また呑み直しましょう(笑)。
今度は是非、寄席で昼酒を。