2014年1月19日日曜日

備忘録、親和と異和


注意力のちぐはぐな作動ぶりを記したこの句は、「おもしろさ」も「かなしさ」も持ちつつ、しかし読者の感情移入を誘ったり、何らかのメッセージを伝えたりする暑苦しい同調圧力からは徹底して身を遠ざけており、・・・ 





穂村弘氏が提唱する、詩の二分法として「共感(シンパシー)」と「驚異(ワンダー)」というものがあって、これは大変便利な概念であると感心して当Blogでも、たびたび用いている。


しかし、もちろんこの二分だけで割り切れるものではない、という気もしていて、(当たり前だ)特に俳句について考えたときには、また別の基準が必要だと感じていた。


それはもちろん、「写生」とか、「前衛」「伝統」とか、旧弊のキャッチフレーズなどとはもちろん無縁な基準である。

上にひいた関さんの評は、春の夜の時刻は素数余震に覚め 榮猿丸」という句に対して書かれたもの。
作句技法としては、正統派の「写生」といってよいだろう。
「余震」で目が覚め、ふと目にした時計が「素数」を表示していた、という。地震で目覚めて時計を見るという行為自体は「あるあるネタ」であり、そこには「共感」がある。
しかし「時計」の表示を「素数」と見る感性は普通ではなく、関さんのいう「注意力のちぐはぐな作動ぶり」がきわだつ。
しかしこれを「驚異」と呼ぶことにも躊躇いがある。


最近、これがいけるんじゃないか、と思い出したのは、「親和」と「異和」である。


 さへづりのだんだん吾を容れにけり  石田郷子

 はつなつの太平洋のものを干す  対中いずみ
 若葉風らららバランス飲料水  宮本佳世乃

たとえば、ここには大きな「季語」的世界観との親和を看取できる。


それに対して、たとえば

 
 青嵐ピカソを見つけたのは誰 神野紗希
 アイスキャンディー果て材木の味残る  佐藤文香

これらは、明らかに「共感(シンパシー)」を基盤として作られているにもかかわらず、同調・調和とはむすびつかない、むしろ、「季語」のような、外界との異和を表面化させている句であるといえる。

榮さんの句もまた、「余震」という不安な状況下においてなぜ「素数」に気づいたか、そして「素数」に気づいた作者の意識の持ち方、という点において、「異和」が残る。

どちららがいいとか悪いとかではないのだが、「驚異(ワンダー)」に向かわない方向の「異和」という感覚、あるいはまた「共感」とも違う、外界との「親和」という方向性について、すこし考えてみたいと思うのである。




2014.01.20 追記、参考。
「薄氷に壊れる強さありにけり」「歯ブラシを噛み締めてゐる遅日かな」「浴衣脱げば脱ぎ過ぎたやうな気も」「串を離れて焼き鳥の静かなり」「冬の朝座つているといふ動作」。たとえばこれらの句、私たちの日常を定義し直している感じがする。日常が今までとは少しずれて現れるのだ




そんなことと関わるのかどうか。
大変刺激的な、時評的な記事をふたつ。

【週刊俳句時評86】 まれびとの価値論と、句集2冊 上田信治

しかし、俳句にルールがありその一つが季語であることが、俳句の、人の発話であることからの遠さ、言説性の欠如、現実世界との紐帯を切らないといった性質を、発生から基礎づけている。それは、本当のことです。

短歌評 <ショート・エッセイ>何が違うか  筑紫磐井 - 「詩客」短歌時評

短歌の歴史が前田透の言うように「主体的表現を獲得する」ための長い歴史であるとすれば、俳句の99%は、季語を使い――ことによると季語を使わないでも――、「主体的表現を放棄する」ことによって生まれるものだということなのである。

『アナホリッシュ国文学』、未読ですが大学図書館には収蔵されるはずなので、いずれじっくり読もうと思います。


2014年1月6日月曜日

新年詠など


ツイッターではもう宣伝してしまったのですが。

関西現代俳句協会青年部のページで、10句作品を公開してもらってます。

〆切が昨年だったので新年詠の意識がなく、完全に「冬」の句。
めでたさに欠けること甚だしい句群ですが、ご覧いただければ幸いです。

10句作品は岡村知昭さん、木村修さんと並び。
木村さんのは、これはマンガ俳句というかキャラクター俳句といっていいかな。

青木さんの連載は、関西の生んだ初代「詩歌梁山泊」と言うべき、富澤赤黄男『詩歌殿』について。


毎年の恒例行事となりつつある「週刊俳句」新年詠、今年も参加させていただきました。



今年は168句、去年よりは少なめですが、それにしても老若男女、これだけの「1句」が並ぶのはやはり壮観。
今年のレイアウトは特に、「みっちり」って感じですね。

熊谷尚さん(存じ上げない)と、黒岩徳将くん(旧年中はお世話にry)に挟まれてます。


もうひとつ、これは関係ありませんが、昨日の記事に関連して。


タイトルどおり、俳句の「お金」についてのコラムです。

あまり正面切って論じられることは少ないですよね。
数ヶ月前に、朝日新聞で結社誌の売り上げについての記事を読んだのですが、ちょっと探しても見付けられませんでした。

代わりに、上のコラムを発見したので、お知らせします。
筆者は石田修大氏、もと日経新聞の論説委員だそうですが、それより石田波郷の長男、といったほうが馴染みやすい。
というわけで、波郷に関する記述はかなり正確なものと思われます。
結社からの収入は微々たるもの、俳句でも大した金にならない波郷の主な収入源は、新聞、雑誌の俳句欄の選者として得る選句料だった。読売文学賞を受賞して3年後、昭和33年のある月、波郷が選句を引き受けていたのは読売新聞江東版・城南版、愛媛新聞、新潟日報、図書新聞、オール読物、小学館、創元社、全逓文化、かまいし、東芝などなど。全国紙、地方紙から労働組合の機関誌まで十数件、読売新聞の2件2万円を別格として、あとは1件3000~5000円ほど。それでもサラリーマン世帯の平均月収が35000円弱の時代に、月ごとの波は大きいが5万から15万円の月収を得ている。それも数多くの新聞、雑誌の俳句欄選者だったからで、波郷クラスにならないと、これほどの注文は集まらない。俳句人口300万人と言われた当時、俳句で飯を食っているのは10人か20人だろうと、波郷は言っている。
いったい何千、何万の句を一月に「選句」していたのでしょうか。
石田波郷をして、自分の結社の上にそれだけの選句欄を抱えないと、「俳人」はやっていけなかった。

コラムでは、カルチャーが普及して状況が変わったと結ばれていますが、果たしてどうでしょうか。いずれにしても「アルバイト掛け持ち」の、不安定な状況には変わりありません。

「俳句」で「お金を稼げる」か。

少なくとも、現状、その道はない。だから、「諦める」か、それも「自分で作る」か、どちらかしかないわけだが。
 

2014年1月5日日曜日

俳人一〇〇人言えますか?


「船団の会」に、岡清秀さんという人がいる。

大先輩であるが、あえて言えば「俳句仲間」である。
昨年8月19日(ハイクの日)には、岡さんプロデュースの「句イズラリー」大会が開催され、大いに盛り上がった。(参照:ハイクの日、句イズラリー
今や「船団の会」懇親会の定番になりつつある「季語ビンゴ」の発案者も岡さんだし、聞くところによれば今年の新年会(111)にも新企画を準備中だという。
とにかくアイディアマンで、「俳句」を「楽しむ」ことにかけては人後に落ちない。

岡さんは、句会でも人一倍真剣である。真剣に句に向き合い、論評する。
キャリアも長く、常に挑戦的な句を目指している。
だが、岡さんはいつも言う。

「僕の俳句は草野球だ。プロ野球じゃない。
 でも、俳句が野球と違うのは、句会の場では平等だ

じゃあ俳句にとって、プロフェッショナルとは、何だろう?


中山市朗という人がいる。
小説家、怪異蒐集家、と称している。実話怪談集『新耳袋』の著者のひとりとして有名で、SFやオカルトうんちくに詳しい作家である。
ある先輩から、中山氏のBlogに面白い話が載っている、と教えてもらった。


中山氏が、クリエイターを目指す人たちの専門学校で講師をしていた頃、次のような試験を出したという。

「ある分野(好きな分野)を限定し、著名人を100人挙げよ」

学生の回答はさまざま。歌舞伎役者を80人以上あげた学生もいれば、マンガ家を目指しているのに十数人しか書けない学生もいたという。
そのなかでKという学生は答案を白紙で提出し、強く抗議してきたという。

「こんな試験には意味がない。100人の著名人を挙げる意味がわからない。僕はマンガ家を目指しているが、ネームバリューだの、有名だの、興味はありません」

曰く、クリエイターにとって大切なのは感受性であり、ネームバリューなどではない、と。

次の授業で、中山氏は全学生に対して怒鳴り散らした、のだそうだ。
「あほんだらーッ! お前らは、お花は美しい、お別れは悲しい、言うて小学生の日記でも書いとれ!」と。 
まず、自分たちが進もうとしている業界は、誰が作り上げてきたのか、どんな歴史があるのかをちゃんと知り学ぶべきだと。 
そうすると、誰をどう評価せねばならないかを知ることになる。プロの技をちゃんと正当に評価することがほんまもんのプロなんや、と。 
プロはプロを知るわけです。 
古いものを学んでも意味がないというのは、やっぱりプロのスタンスではない。 
あんなもん古いだけや。俺には合わん、なんてド素人でも言えること。 
ちゃんと、正当評価する、このことこそがプロの見識を問われるときです。
新しいもの、今のトレンドを学ぶのも重要だが、流行のことは、興味のあることなら自然に入ってくる。そのなかで残るものを見極められるか。分析して、評価できるか。

著名人一〇〇人を書けというのは、その世界についてどこまで知っているか、どこまで本気で取り組んでいるかを試す機会だったのだ、と。
Kくんは、著名人に興味はないからテストの意味はないと言った。 
それでみんなに聞いたんです。
「じゃあお前たちは、自分のマンガを投稿したり、掲載するのに、ペンネームは書かないわけやな。名前の意味がないのだから。著者無記名で作品描くわけやな。 
もし、いや、それとこれとは違います。自分はペンネーム使います。その名前でマンガ家として生きていきます、というのはあまりに自分勝手な考えやぞ。 
読者や編集の人たちに、私は他人の名前や実績には全然興味はありません。そこに意味があるとは思えません。しかし、私のペンネームは覚えてください。私の作品は読んでくださいって、それ、許されるんか!」


まあ、中山氏の講義は実際のところもっと実践的で、そのぶん生臭いものなので(業界でどう仕事を得るか、どう生き残るか、という)、業界人ではない我々がそのまま鵜呑みにする必要もないですけれども。(詳しくはリンク先をご覧下さい。)

俳句の「プロ」というポジションが、仮に、ありうるとして。どんなものか。

俳句がうまい、それは大事。基本です。大前提。下手ではやっていけない。
ところが、野球と違って俳句は「句会では平等」で、もしかするとその日その場の句会では「素人」が「プロ」を上回ることもある。
だから、「うまい」句を、偶然作れるだけではプロにはなれない。そうじゃない。

著名人を知っている、というのは、もちろん具体例のひとつにしかすぎないし、できたからと言って意味のあることではない。

正直なところ、ふつうに俳句を十年続けていれば、「俳人一〇〇人」言うのは、おそらくたやすい。結社の「仲間」を一人ずつ数えあげていけばいいのだから。

でも、たとえば一〇〇人それぞれ代表句一句ずつ、と言われればどうか。
あるいは、「物故俳人一〇〇人」の「一〇〇句」を、そらで言えるかどうか。

正直、五七が出るけど下五が出ない・・・とか、結構苦労しそうである。

俳句について、何を、どこまで知っているか。
俳句を知るために、どれだけ時間と労力(とお金)をかけてきたか。
あなたの俳句に、あるいは鑑賞に、他の人にはないどんな魅力があるのか。

 自分は俳句についてならどんな相手にも負けない。

表現においても、鑑賞においても、相応のプライドを持って実践している人であるかどうか。

要するに、志。

中山氏に比べればずいぶん青臭いけれど、結局、そういうことではないか。


さて、あなたは俳人一〇〇人、言えますか?
 

2014年1月1日水曜日

慶禧萬福


あけましておめでとうございます。

今年の賀詞は「慶禧萬福(けいきばんぷく)」としました。皆さまにとってよき一年となることを祈念しております。


当Blogの今年の目標は、なにより「更新する」こと。

すこし書きたいことも、方向性が見えてきたように思いますので、追々発信していければと思っております。

どうぞよろしくお願いいたします。



亭主拝



告知。

俳句ラボ、現在の講師は塩見先生です。
3月には総括句会を予定しております、どうぞよろしく。

若手による若手のための俳句講座「俳句ラボ」

関西在住の若手俳人 塩見恵介、中谷仁美、杉田菜穂、久留島元の各講師が、俳句の作り方や鑑賞の方法などについてわかりやすく、楽しく教授。魅惑的な俳句の世界へエスコートいたします。句作経験が無くても大丈夫。実作を中心に実践的な句会を体験していただく、ユニークな内容を予定しております。
対象:45歳以下で俳句に興味がある方ならどなたでも。 
内容:各月の最終日曜日、2時から5時
基本を学ぶ(6・7・8月 講師:杉田菜穂) 
どんどん作って上達(9・10・11月 講師:久留島元) 
楽しいイベントと句会(12・1・2月 講師:塩見恵介・中谷仁美) 
※3月には、全講師参加による総括句会を予定しております。 
※受講者は、講座終了時に作成する作品集(講師、受講者の作品などを掲載予定)に作品をご掲載いただけます。 
受講料:
  1、2、3すべて受講:5000円
  1、2、3いずれかを受講:1期につき2000円
問い合わせ・申し込み:
  電話(072−782−0244)で公益財団法人柿衞文庫まで