2016年12月31日土曜日

年の瀬に

 
今年の「曾呂利亭雑記」は、多くをKuru-Coleについやした。
ブログ版Kuru-Cole(2016)は、ひとまず8人のプロデュースで終了した。


  1. 西川火尖(評者:外山一機
  2. 野住朋可(評者:西村麒麟
  3. 吉田竜宇(評者:青木亮人
  4. 小鳥遊栄樹(評者:山口優夢
  5. 安里琉太(評者:黒岩徳将
  6. 寒天(評者:中山奈々
  7. 木田智美(評者:土岐友浩
  8. 家藤正人(評者:橋本直
今回この8人を選んだ基準は、①既存アンソロジーに入集していないこと、②これからもっと活躍する作家になる(と久留島が予想する)ことのふたつ。

もうひとつ、②に関して俳句の可能性を広げてくれる作家という隠れたテーマもあったのだが、これについては直感的で説明が難しい。身近にもっととりあげるべき作家もいたが、ひとまずキャリアをふまえ優先的な8名を推した。
関西の作家が多いのは、人間関係的なこともあるが、メディアにとりあげられない実力者が関西に多いためでもある。
関西にはまだ次世代の人材も育っており、次にとりあげる機会があればさらに紹介できることと思う。まずは何の謝礼もない個人のblog企画に賛同し作品を寄稿いただいた作家8人に感謝したい。

今回のKuru-Coleの見所は、なんと言っても小論の書き手に一流の人材を配したところ。
いずれも、私がもっとも信頼する、一流の評論家ばかりである。
それぞれの組み合わせは、完全に私・久留島元の独断。フィーリングによる。もともと作家と親しい関係の人もいるし、お互いまったく面識のない関係の人もいる。
私が選んだ作家の、わずか20句から作家論を書いてくれという無茶な要望にもかかわらず、またそれぞれ書き手として多忙を極めているにもかかわらず、いずれも鋭く力の籠もった労作を寄せていただいた。「これから来る」8人の出発を祝していただいた、評者8人にも改めて感謝したい。

とりわけ興味深かったのは、西川火尖論をお願いした外山一機氏の「敗色のなかに詠う―西川火尖小論―」
正直この組み合わせで了解をもらったとき「もらった」と思った。
この企画、これだけで面白くなる、と。
西川火尖は、たぶん2016年の俳句関係のSNSでもっとも存在感を増したひとりだと思うが(きわめて狭い範囲であるが)、おそらく数年内に俳句界においてもっとも注目される存在のひとりになるだろう。(決して、今全然来れてなかったとか、そういうことじゃなくね、火尖さんならもっと来て良いとかね、そういうことですよ!)
外山氏の評論は火尖論と表裏になるという小川軽舟論が公開されている。正直このセットは文学よりも社会学の関心ではないかと思うが、火尖俳句の位置づけを的確にあらわした好文であろう。



さて、私自身はこれまで現代の俳句を「パフォーマンス」という鍵語でとらえ、また若手と呼ばれる作家を「パフォーマンス」意識によって特徴づけようとしてきた。
代表的な作家としては高柳克弘、御中虫、神野紗希、佐藤文香らであり、やや先行する世代として塩見恵介、高山れおな、関悦史などの実験的な作風の作家を意識している。
総じて彼らは、なにか社会へのメッセージや主義主張など、伝えたい内容が先にあって表現する作家ではない。むしろ作品を「演出」し、「読者」にどのような作家として見られたいか、どのような作品を届けるか、というところに自覚的である。
高柳克弘、御中虫に特徴的な物語性ゆたかな文体。
西村麒麟や外山一機における過剰なまでの作家性の演出。
おそらくそれはかつて金子兜太の提唱した「造型俳句」を仰ぎ見つつ、「古典の時代」「平成無風」を通過してきた作家たちなりの、自己規定なのだろうと思う。

ところが、今回とりあげた8人には必ずしも「パフォーマンス」意識が濃厚とはいえない。
何か主張があるとも思えないが、パフォーマティヴな外連味も感じない。
というより、正直なところ今回の8人に共通する世代論など、今の私には出せそうにない。それほどバラエティ豊かな8人ではある。
橋本直氏は家藤正人の作家性の希薄さを指摘している。
なるほど彼の巧みさは、個性の点で少し弱い面があるかも知れない。また野住朋可、安里琉太の場合は、やや素材や技法の狭さが見てとれる。真に彼らが実力を発揮するのは、まだ少し先かも知れない。
しかし吉田竜宇、小鳥遊栄樹、寒天、木田智美などすでに個性を発揮している作家も、あまりパフォーマティヴな印象は見えない。
これが、わずか3年での作家の変化なのか、私自身の見通しの甘さなのか、それとも今回とりあげた作家たちのキャリアや年齢的なものに由来するのか、まだ結論はない。



「松山俳句甲子園 関西オープン戦」と称したイベントが、12/25に行われた。
年の瀬、クリスマス当日という時期に、京都・兵庫・和歌山・名古屋・岐阜から、5校9チームの現役高校生と、OBOGチームが参加し、練習試合が行われた。中にはチームとしては参加できなかったが見学に来た、という熱心な高校生もいた。
主催・実行は俳句甲子園実行委員会関西支部。発起人の三木基史氏が中心となり、当日は俳句甲子園出身者など20代メンバーがスタッフとして動いた。
公式戦とは違い3人一組の対戦だったが、さすが常連校は本番さながらの気迫だったし、まだチームを結成して間もない高校にはそれらしい初々しさがあった。
私は今回、関西現代俳句協会青年部部長として試合に協賛し、審査員の立場で参加した。
本来なら俳人協会、伝統俳句協会と各協会から参加があるのが望ましいが、俳句甲子園関西支部が立ち上がったばりで、各協会の地方支部がどの程度関わってくれるかわからなかったし、まずは身近なところが参加するのも良かろうと協賛・参加したわけだ。
当日、審査員としては、意識的に厳しめなコメントをした。
以前「俳句甲子園に期待しない」という文章を書いた人間が言うのもなんだが、俳句甲子園を今以上に「俳句を楽しめる場」にするためには、画一的・マニュアル通りな句の作り方とディベート方法を改善するべきだろうと思っている。
あとからほかの審査員、スタッフに「ちょっと厳しすぎたのでは」「高校生が泣きそうだった」と注意を受けたが、些末な俳句技法について指導をしても教科書的な優等生俳句を生み出すだけではないかという不満がある。
最後のコメントとして、私は「格調高い句、技術的にうまい句ばかりをめざすのではなく、どこか破格を目指して俳句を作ってください」とお願いした。
過度な要求かも知れないけれど、私自身は高校生たちに破格の楽しみ方を知って欲しいのだ。



自分と同世代か、すこし若い世代と話していて違和感を覚えるのは「俳句がうまくなりたい」という人が多いことである。
正直なところ、私自身は「うまくなりたい」と思って俳句を作ったことがない。
だから「うまくなりたい」人に向かって、うまくアドバイスすることができない。
技術的なうまさは、たぶん「うまい」俳句をたくさん読んで、それを真似してたくさん俳句を作れば、筋トレ的な意味で「うまい」句を作ることはできるだろう。
だが、「うまさ」とは、結局既存の表現技法の範疇におさまる評価軸ではないろうか。

うまくなりたいのでなければ、何のために作っているのか。
単純だが、やはり「楽しい」からだろう。
少なくとも理想的な「うまさ」をめざして、誰かにほめらえたくてやっているわけではないし、と言って俳句の上で表現したい「なにものか」があるわけではない。
ないと言って言い過ぎならば、意識していない。
私は、私自身が自覚する程度の自意識・自己は、千度表現し尽くされた、陳腐なものだと思っている。あるいは自分を表現するなら、散文のほうが精確だと思う。
ただ、俳句表現のなかに新しくなにかを付け加えることができるかどうか、自分自身や、自分の目にした俳句が未知の新しさを付け加えてくれるかどうか、という期待から俳句にかかわっているのだ。

五七五を基本とする定型、季語をはじめとする膨大な詩語の蓄積、その他、がんじがらめになってしまうような複雑な技法と作品の積み重ねのなかで、それでも自分が一句を成すとき、自分が新しく加えたという自負がなければ、やってられないのではないか。
表現した、表現されてしまった結果、その作品のなかで新たな「自分」を再発見する。
偶然だか必然だか、そんなこと読者には関係のないことだけれど、たしかに現在生きている「作者」のよすがが、後天的に作品から感じられる。
その過程こそきわめて俳句的だ、と思うのである。

私は、俳句甲子園に出場する現役生にも、また俳句甲子園をすでに卒業し、あるいは俳句甲子園とは全く関係のないところから現れた若手作家にも、できれば自分の表現に意識を持ち、なにか生み出そうという自覚を持った人であってほしい。
また私自身としても単に俳句の評価軸で「ほめられる」ためにうまくなろうとか、格調高くあろうとか、そうではなく、俳句という表現を自分で楽しんで作るような、そういう作家でありたいし、またそうした作家をこそ「仲間」と呼びたい心地がするのである。

2016年12月4日日曜日

家藤正人「なぜ」を読んでみた


橋本 直(はしもと・すなお)

  
 排気筒ふるはせ野焼見てをりぬ

「排気筒」とは、普通は給湯器などからでている煙突様のものなんかのことをさすようなんだけど、ふるわせている所を見るとどうもバイクのマフラーのことを言っているような気がしてならない。ツーリングの途中、バイクにまたがって野焼を見ているのならば、ホンダのハンターカブなんかちょうどいい感じだ。エンジンを止めないのだから、見ている者は、そこにいることが落ち着かないのに、離れられないでいるのだろう。


 初夏を乾けピザ釜用の薪

割ったばかりの薪なのか、積んでおいた薪の、雨季でたまった湿気をとっているのか。生活において火からすっかり遠ざかった現代日本人の多くは、もっともそれを必要とする冬季が乾燥した季節であることの恩恵にきわめて鈍い。反転して、嗜好として燃す薪が湿っていることの軽さが「乾け」という願いに表象されている気がする。ピザ釜用の薪であるからにはうまいピザを焼くのみ。この遊びのある世界の中で、薪はかるく呪われているのである。


 花蜜柑神は荒々しく遊牝む

『日本書紀』によると、蜜柑の固有種である橘は、田道間守が「常世の国」から持ち帰ったのだそうだ。言わば異世界の植物であり、「常住不変」を象徴し、『万葉集』あたりではそれを前提に歌われている。おそらくは常緑樹である上に、咲く花は真白く芳香があり、橙の果実をつけるという不思議が古代人の心に作用したからだろうけれども、呪力をもつ特別なものと考えられ、帝のおわす紫宸殿の正面に、「左近の桜」にならび「右近の橘」として植えられることにもなっていた。いわば、この国においてちょっと別格の植物である。この句では、そのような履歴をもつ蜜柑の花に、神々の営みが取り合わされている。元は常世の国からきたのだから、さもありなん、なのである。となると、最後まで丈高くやればできそうなところなのだが、「遊牝む」と神々のセックスに落とし込むのは、近世の俳諧っぽい詠みぶりである。
ちなみに、子規は蝶を「神の子」に見立てた句を詠んでいて、そこを知っていてこの句を詠んだのかちょっと気になっている。


 ミュンヘンのポルノショップを出たら虹

ミュンヘンに行った事はない。ま、世界中の大都市にはポルノショップくらいどこでもありそうではある。住んでいて訪れたなら日常の一コマで、旅人なら物見高いというか、物好きなことである。たぶんそこは、メインストリートなんかよりちょっと裏手に入った、マイノリティの集まるような場所で、派手に怪しげな看板掲げているにちがいない。そんな場所柄とお店をいったん思い描いてから視線の向こうに現れる虹は、湿気の国である日本で眺める天然自然の虹とは、ひと味もふた味も違うことだろう。


 よく肥る蟻の六肢の黒光り

蟻は肥るのだろうか? よくしらない。とりあえず、細い脚に対して相対的にぶっとい胴体なのであろう、と読む(六肢が肥る、とはとらない。)。この句はその太い胴体を支えている六肢が焦点化されている。六肢に存在感がなければならないとなると、日本の蟻ごときではかなり役不足な気になってくる。そこで画像検索で調べてみると、アジア最大級という「ギガスオオアリ」などがあたる、こいつはぴったりである。言い換えれば、この句は現実が表現を追いかけるところがある。テキストはただの空想かもしれなくても。


 豚千頭湯がける鍋や大ごきぶり

一つ前の句とちょっと似たような印象。でかいゴキブリには、ばかでかい鍋がよく似合う。どちらもさぞ大きいことであろう。「湯がける鍋」は「湯がくことが出来る鍋」か「これまで湯がいてきた鍋」または「それくらいのスペックのある鍋」と解せようか。三つ目はつまらないのでなし。そしてもちろん千頭分はいる大きさというつもりもない。それではちょっとした小島をひっくり返したようなモノになってしまう。まあ、それでもいいのかもしれないけれど。そして「湯がける」が鍋のキャリアであるとしても、豚を頭単位でカウントして湯がいているというのはかなり嘘くさい話である。いずれにせよ、ミュンヒハウゼン男爵の話のような句だと思って楽しむのがよいのではなかろうか。


 冷房がキツいウォトカは九杯目

ウォッカを九杯も飲めば、もう冷房も暖房もへったくれもない気がする。そう思うと、この冷房はたぶんロシアの寒さへの愛をこめたジョークなんだろう。ちなみに私は、チェコスロバキア産のズブロッカを冷凍庫で凍らせて飲むのが好きだった。過去形なのは、もう手に入らなくなったから。


 モスクワに煙草をたからるる夕立

海外に一人で行くと、時折、厭も応もなく「日本」代表に追い込まれる状況が訪れる。あたりまえだが、目の前にいる異郷の人に「私」は日本そのものなのである。それが東アジアだと、たまにけっこうしんどい目にもあう。その感覚を反転してこの「モスクワ」の使い方に当てはめたとき、とても納得する部分がある。それを句に詠むことの悪趣味具合も。なんにも知らずこの句にあたる人に、その諧謔が伝わるか、どうか。


 はや朝を濡れきちこうの野の行者

秋の早暁、行者が露に濡れつつ、桔梗の咲く野を歩む姿というような景の句。どうも、野生において桔梗は広く群生はしないように思われる。つまり、視点人物の主観による焦点化がこの「きちこうの野」に現れている。となると行者はその野の美を完成させるための添えものということなのかもしれない。ついでに言えば、桔梗の紋は安倍晴明のそれでもあり、明智光秀のそれでもある。「きちこうの野」を地名だと考えれば、もしかするとそのようなものとの回路も開くのかもしれない。


 焼け跡の炭へと黒き蜻蛉は

ひたすら黒い。何が焼けたのか、焼けた理由はなんなのか。焼け跡というからには、もとは何かしらの構造物であり、現場には焼け残りの炭だけが残されている。そこに黒い蜻蛉。過去は失われ、ただ現在進行の廃墟感、喪失感だけがただよう。芭蕉の「むざんやな甲の下のきりぎりす」にはまだ物語が残されているが、この句にはそれすらない。


 白蟻の尻のほのかに柿の色

白蟻を見たことはありますか?といわれれば、私はある。だから、尻が柿色というなら、頭だってそうだろう、と思わないでもない。色でほのかと言えば虚子の「白牡丹といふといへども紅ほのか」がすぐに思い浮かぶけれども、いかにも近代俳句っぽいあちらに比して、この白蟻の尻の柿の色の美の発見は、それを見出している主体のありようがちょっと可笑しい。


 落つる萩蒼し落ちゆく萩赤し

咲いている萩は赤紫色だが、落ちた萩は青紫色になる。萩はたくさん花を咲かせるが、他の多くの花と違って、すこし触れただけでじつにあっさりとぽろぽろこぼれてしまう。ぽろぽろとこぼれるが、また次々と花を咲かせる。この句はその様をただ描写し、そしてうまく時間を閉じ込めている。韻の使い方も効果的だろう。


 ひきつつてちぢむ椿の実のちやいろ

丹念に単純に椿の実の過程を描写しているように感じられる。しかし、ひきつって縮む茶色い実というなら、なにも椿には限るまい、とも思う。ともあれ景の眼目は、乾いた椿の実の茶色ということになるのだろう。どうも、私にはあまりぴんとこないんだけれども。


 蝶は秋従え翅の重し重し

蝶が秋の先陣を切るという。蝶が従えるには、さぞや秋季は荷が重いことであろう。この蝶はもはや自分の華やかなる季節が終わったことを気がつかないでいるのである。が、重いと思っているのは、視点人物の主観に過ぎない。思えば多くの生は、そんなことに気がつくということがない。おそらく人間であることを始めたときからそこに気がつかざるを得なかった人類は、もとより自虐的な生き物なのかもしれない。


 栗はなぜ仇討ちに身を投じたか

猿蟹合戦からわいた疑問の呟きをそのまま句にした、という体。そこを面白がれるかがすべてということになるだろうか。たしか栗は囲炉裏の火にはじかれて猿に肉弾攻撃を仕掛けるんだったと記憶する。「葉隠」ではないがまさに身を捨ててこそ、という役回りである。なんだか、運命に逆らわない日本的なメンタルの表象のように思えてきてしまう。


 失職や秋刀魚の骨は軽く折れ

失職の重みと、秋刀魚の骨折との取り合わせ。「骨を折る」とは人が苦労することだが、反対に秋刀魚は軽い。きれいに焼いてあれば秋刀魚は骨すら食べられるくらい軟らかい魚なのである。だから箸で簡単に折れる。その軽い秋刀魚の骨折が、なんだか自己の骨折りに跳ね返ってきているようでもある。深読みすれば、その程度の失職とも考えられ、あまり沈んだ感じが漂ってこない気がする。


 速贄やけたけた笑ふやうに脚

鵙の速贄の犠牲者達は、死んで不自然な形で木に刺されたり、吊されたりしている。だから、総じてだらしのない格好になっている。蛙か飛蝗か何か判然とはしないが、その様子をとらまえて、「けたけた笑ふやうに脚」と言うのであろう。既に死んでいるのに、「脚」がどこか周りを馬鹿にしているような仕草に見えたのかもしれない。一方で、切字「や」の働きを最大級にして、中七下五は速贄とは無関係の取り合わせと読むことも句の構造上は可能である。そうなるといろいろ読めるが、例えば、鵙の速贄を見ている山から下りてきた視点人物の疲れた足の姿が立ち上がったりする。


 樹と伽羅の伽藍へ秋の風と入る

伽藍を言うにあたり、「樹と伽羅」という構造物のたたずまいを構成する素材をシンプルに提示しているのがどのくらい効いているかがこの句の眼目だろう。「AとBのC」という型は例えば「森と湖の国」とか「夢と魔法の国」というような、ある空間へのキャッチフレーズによく見られるものだ。言い換えれば、この句は前半に伽藍のキャッチフレーズを提示し、そこに秋の風をまとうて訪れる主体を提示するのである。どこぞの古刹のCMのようで、ちょっときれいにはまりすぎな気もする。

 刃を吸うて水蜜桃の輝くよ

水蜜桃という果物は、名前にしてすでに非常なるシズル感がある。その軟らかい実にナイフの入っていく様を「吸う」と暗喩で表現したのは的確であると思う。上五中七がかなり盛り上がった感じでまとまっているところで、気になるのは下五の「輝くよ」。落としどころがいささか説明的措辞のように思われ、上の十二字を受け止めきれていないのではないだろうか。何か物足りなさが残ってしまう。


 元朝の光に涸川を歩く

昔、高校の地理の時間に「ワジ」という言葉を習った。アラビア半島の涸れ川のことである。地元の川は冬になると水量が減って涸れる時があり、友人とよくワジワジと冗談で呼んでいた。そんな覚えがあったせいか、はじめ「元朝」を「げんちょう」と読んでしまった。ユーラシア世界を席巻した古のハーンの国。たちまち広大な平原の風景が広がったのだが、やはり「がんちょう」。涸れ川にはかつてそこに水が流れていた空間に立っていることで、感覚に独特の異化効果をもたらす。平たく言えば普通じゃないしすこし退廃的でもある。お正月にそこを歩くのは、若さゆえかもしれない。

最後に「総評」的なことをリクエストされたんだけど、各句の鑑賞を参照願いたく。以下、感想として少々。

この作家の句を読むのは初めてで、よく存じ上げないのですけれども、たとえば句がまとまったところで表現に対する強い覚悟とか思想とかが全面にばんと出てくる作風ではないし、言葉遣いに独自の負荷をかけて個性を表に出すようなこともないので、その意味では読みやすくクセがない作家だと思いました。
一方で、読み手のコンテクストに対してはわりと冒険してくるところがあるので、ふだん読み手に恵まれているのか、けっこう自由な場でやっているんだろうなって印象も受けました。
それはあくまでこれらの句を読んだ範囲での印象ですが、小出しの句より、いったん一冊にまとめてから、はっきり作家の色がでてくるタイプの俳人なのかもしれません。


Kuru-Cole 8 家藤正人


2016年12月2日金曜日

Kuru-Cole 8 家藤正人


Kuru-Coleとは?




「なぜ」

家藤正人(いえふじ・まさと)

 一九八六年、愛媛県生まれ。「いつき組」所属。南海放送ラジオ「一句一遊」アシスタント。



排気筒ふるはせ野焼見てをりぬ
初夏を乾けピザ釜用の薪
花蜜柑神は荒々しく遊牝む
ミュンヘンのポルノショップを出たら虹
よく肥る蟻の六肢の黒光り
豚千頭湯がける鍋や大ごきぶり
冷房がキツいウォトカは九杯目
モスクワに煙草をたからるる夕立
はや朝を濡れきちこうの野の行者
焼け跡の炭へと黒き蜻蛉は
白蟻の尻のほのかに柿の色
落つる萩蒼し落ちゆく萩赤し
ひきつつてちぢむ椿の実のちやいろ
蝶は秋従え翅の重し重し
栗はなぜ仇討ちに身を投じたか
失職や秋刀魚の骨は軽く折れ
速贄やけたけた笑ふやうに脚
樹と伽羅の伽藍へ秋の風と入る
刃を吸うて水蜜桃の輝くよ
元朝の光に涸川を歩く



正人くんは、いまはまだ作家としてよりもイベント運営、愛媛の俳句タレントとしての活躍のほうが表立っているように見える。
ただ、近年北斗賞や俳壇賞などの選考で結果を遺しており、作家としても少しずつ頭角を現しつつある。
年齢は近いが、作風の違いや単純に距離の問題で実際会う機会が少ないこともあり、動向の気になる一人である。

彼は俳句の国・愛媛で、俳句の伝道者として奮闘し苦闘する母・夏井いつきを間近に見て育った(現在の「成功」に至るまでの苦労は大変なものであったと伝聞する)。
それでもなお俳句の道を選んだ彼の作品には、いつも穏やかな余裕と静かな決意が漂っているように見え、それが私にはとてもまぶしい。

小論には、おなじく愛媛の出身で尊敬する論客である、橋本直氏にお願いした。
お忙しいなか、「まったく誉めない可能性もありますが、よいですか?」と、厳しくも真摯な応諾メールをいただき、その評の行方が私も楽しみである。


2016年11月27日日曜日

日常と季語のこと


土岐友浩(とき・ともひろ)


 ライブ後はみんなばらばら沙羅の花 木田智美

僕が短歌を考えるとき参考にするのは水原秋櫻子編の『俳句小歳時記』なのだけれど、
秋の歌をつくりたいときに秋の言葉を探すというくらいで、
使い方としてはほとんど実用書と変わらない。

その奥に広がる「季語の世界」というものを、ときどき思う。

歳時記に載っている言葉のなかで、「晩秋」「紅葉」「菊」「木の実」は身近に感じられるし、自分の短歌にも、なんの違和感もなく使える。
しかし「秋深し」とか「冬隣」「後の月」「草の実」あたりになると、僕にとって別世界、「季語の世界」への入り口だ。ここに足を踏み入れるのは、勇気がいる。

これが「栗名月」や「菊人形」「懸煙草」「べったら市」「色変えぬ松」まで行くと、異国のお祭りを見るようで、なにかものすごく華やかそうだけれど、ここは自分の世界じゃない、という気分になる。

歳時記に象徴されるような「季語の世界」。
それは豊穣な、しかし僕の日常とはあまりに隔たった、ひと言でいえばエキセントリックな空間だ。

 コンビニの花火がしょうもなくて笑う

花火で遊ぼうと思ったら、いまはコンビニで済ませるひとがほとんどだろう。

僕が持っている『俳句小歳時記』には、

「夏の夜空の祭典ともいうべき揚花火は各地で盛大に行われるようになった。(中略)暗い夜空に開いた花が次々に色を変えては川面を指して流れて消えてゆく。舟を浮かべて酒をくみかわしながらの贅沢な花火見物もあるが、家の窓から見る遠花火もあわれ深い。庭で子供が興じるのは手花火である。中でも一番素朴な線香花火が、俳人にとっては趣深い」

とあるが、その一番素朴だという線香花火と比べても、コンビニで買った花火は、どうしようもなくしょぼい。
「花火」という「季語の世界」に属する言葉が、コンビニという日常のシステムに取り込まれたとき、「あわれ」も「趣」も消し飛んでしまった。

 ブラックサンダーどろどろになる体育館

これは無季の俳句だろうか。
前後に夏の句があるので、これも「ブラックサンダー」に「カミナリ」という季語が隠れた夏の句、と読んでもいいだろう。
いわば「カミナリ」がブラックサンダーというお菓子に生まれ変わって、体育館に姿をあらわしたのだ。

しかしコンビニの花火のように、ひとたび「季語の世界」を離れたブラックサンダーは、あえなくどろどろになるしかない。

 昼寝して見逃すウォーターボーイズ

「昼寝」は夏の季語。
ウォーターボーイズは、シンクロナイズドスイミングに打ち込む男子高校生の物語。映画が話題を呼んで、TVドラマにもなった。僕はリアルタイムでは視聴せず、森山未來が出ているというので後からDVDで観た口である。

この句のポイントは「見逃す」だと思う。
句意はもちろん、夏休みの昼間、ウォーターボーイズの再放送かなにかをやっていて、それを見逃した、ということなのだが、
なぜ見逃したか、といえば、作者が「季語の世界」に眠っていて、日常に戻るのが間に合わなかったからだ。
つまりここに書かれているのはやはり「季語の世界」と日常との隔たりなのだと、僕には思える。

「季語の世界」は、日常に引き寄せるとブラックサンダーのように溶けて跡形もなくなってしまう。
「季語の世界」に入ってしまうと、日常の世界が遠ざかる。

 香水や色褪せている孔雀の絵
 凍鶴や欠けてケーキの砂糖菓子
 葱の花海ひからせて港町


これらの句は、オーバーに言うと「季語の世界」の風景という感じがして、僕にはうまく入り込めなかった。

日常を生きる僕は、「季語の世界」をはたしてどう読んだらいいのか。

 ライブ後はみんなばらばら沙羅の花

木田さんのこの句を見たとき、はじめてそれが、すこしわかったような気がした。

ライブは日常のなかのお祭り、ちょっとした非日常の場である。
解散していく人々を見ながら、作者もまた、日常に帰ろうとしている。
そこに見つけたのが、「沙羅の花」だ。
この花は「季語の世界」に咲いている。

 ピペリカムカリシナムむかし住んだ家

「季語の世界」は、ただ遠く隔たっているのではなく、
おそらく僕たちが帰る場所のようにして、そこにある。

「季語の世界」と日常との往還。

芭蕉の弟子、服部土芳の言う「行きて帰る」の心とは、もしかしたら、そういうことだったのだろうか。

 スパイダーマン中肉中背芋煮会

遠ければ、遠いなりに「季語の世界」を見たらよいのだと気づいたとき、
ずいぶん俳句の見晴らしがよくなった。

「中肉中背」にスパイダーマンのヒーロー性を見る着眼点。
スパイダーマンのスーツと、芋の皮のイメージの共通性。
あるいは、助詞がなくてごろごろとした楽しい韻律。

鑑賞としては、そのあたりに注目することになるだろうか。

そこに僕が付け加えるとすれば、世界を日常へと引きつける作者の眼だ。
フィクションの世界を飛び回るスパイダーマンを「中肉中背」だと気づく眼が、「季語の世界」のイベントである「芋煮会」にも働いている気がする。

だから、この「芋煮会」は、そんなに遠くにある感じがしない。

 4人のRADWIMPSがみたかったよ晩夏

僕の年齢的なものもあって、残念ながらRADWIMPS自体に思い入れはないのだけれど、この句はとても胸を打つ。
晩夏の光が、作者に4人揃ったRADWIMPSのまぼろしを見せている。

「季語の世界」は、きっと日常を超えたなにかを映し出す、光のような存在でもあるのだ。


Kuru-Cole 7 木田智美



2016.11.27深夜、誤植訂正。


2016年11月25日金曜日

Kuru-Cole 7 木田智美


Kuru-Coleとは?



木田智美(きだ・ともみ)

 一九九三年大阪生まれ。「ふらここ」所属。

キャロラインの部屋には黴びたパンがある
紫陽花ゆれてこねこのトムのおはなし
ピペリカムカリシナムむかし住んだ家
香水や色褪せている孔雀の絵
スジャータのトラックのゆく夏休み
昼寝して見逃すウォーターボーイズ
ブラックサンダーどろどろになる体育館
ライブ後はみんなばらばら沙羅の花
環状線乗り換えアルトコロニーの定理
4人のRADWIMPSがみたかったよ晩夏
コンビニの花火がしょうもなくて笑う
騙しあってきたでしょう月と海ぶどう
パステルカラー錆びて寒露の観覧車
スパイダーマン中肉中背芋煮会
エンドロールは童貞のまま銀杏踏む
漫才師去る足揃う三十三才
映画のなかの雪が本物だったらいい
凍鶴や欠けてケーキの砂糖菓子
いそぎんちゃく四歳の子の髪がきれい

葱の花海ひからせて港町


木田さんは、寒天さんと同い年、吹田東高校出身で龍谷大学卒業生だから中山奈々直属の後輩である。船団の句会や、柿衞文庫での「俳句ラボ」にも初期からよく参加してくれていたので、彼女の句を見る機会は比較的多い。

一言で言って彼女の言語センスは天才的なものがある、と思う。

初期の代表作
 ラズベリータルト晴天でよかった
 月光と血とその他からできている
などは、私の愛唱句である。(彼女の手製句集「シュークリーム」に所収)
また昨年の鬼貫青春大賞では、「しりとり」と題し、「臨機応変なあなたに林檎あげる」「留守番はやねうら部屋で蝙蝠と」「ときめきが足りない南瓜も足りない」・・・という、しりとりで30句連作を完成させるという冒険(結句は「小鳥来る樹の椅子奏でるカノン」)を成し遂げた。音律でいえばかなり無理があるものの、言葉のうえで遊びつくそうという覚悟を買いたい。
今後彼女がどのような俳句を生み出すのかわからないが、内向きに籠もりがちな俳句界にとって、俳句という詩型を超えた言葉の活力を発揮できる稀少な個性といえよう。
小論には、いっそ俳句プロパーではないほうが相応しいだろうと思い、悩んだすえ、気鋭の歌人、土岐友浩氏にお願いすることにした。土岐氏は俳句Gatheringのフォーラムにご参加いただいたときからの縁で、俳句に対してもフラットな視点で接してくれるのでありがたく、ご多忙のなか無理を言ってお願いしてしまった。作家としては歌集『Bootleg』(書肆侃々房)で話題だが、鋭い批評眼の持ち主でもある。お楽しみに。

2016.11.26 誤植訂正。 1992年生まれではなく93年早生まれでした。

2016年11月23日水曜日

読みをめぐって


このBlogでも、何度か触れたことがあるけれども、作品を読むときに「正しい読み」というものは、ないと思っている。

だから「正しい読み」を前提として、誤読や、二次創作的な読みの楽しみを批判(排撃)するような言動には、いつも不快感を覚える。
そのように言うと、テキスト原理論者であるかのように思われるかも知れない。
そうではない。なんでもありの無制限な誤読を奨励するわけではない。言葉の意味や、文法上で、勘違いや知識不足によってありえない読み方をしてしまうような読み方は、もちろん避けるべきものだと想う。
季語の理解度などもこれに類するもので、季語を知らない読者が季語を季語として読まない読み方を披露すれば、それはやはり優先的な解釈にはなるまい。
それらの「誤読」が批判され、斥けられるということは、理解できるのである。

しかし、作品を読むときに、個々の読者による偏差(バイアス)を、0にすることはできない。
読者個々の教養や環境はもちろん、性別や年齢によっても偏差は存在し、その偏差によって作品に対する愛着や理解度に差が生じるのは、当たり前のことだ。
その偏差を0に近づけるべきだ・・・・・・というのは、これは研究上の領分である。
私はいちおう「文学研究者」としての肩書をもち、それが本分だと自負しているから、素っ頓狂な「誤読」を容認することは、立場上躊躇われる。
しかし、研究者ではない読者や、遠慮はいらないと思う。むしろ偏差が0になってしまえば、本当はその作品の魅力は消えてしまうような気さえする。(*1)
個人の読みのうえでは(それが個人のものであるという前提が共有されていさえすれば)、どんな文法上の誤読も、勘違いも、ときとして作品を魅力的に輝かせる補助剤となり得るだろう。まして創作家であれば、誰はばかることなく先行作品を「誤読」し、創作的な再生を試みていけばいいのではないか。(*2)

これは、別段「テクスト論」原理主義というような立場で言っているのではない。古典研究の経験上でものを言っているつもりである。

よく例に出すのだが、「源氏物語」が千年の間読み継がれてきたというのは、偏差を0にする「正しい読み」の蓄積ではなく、むしろ個々の「誤読」を重ねて来たからである。
「源氏物語」を仏法唱導の物語と読み解いたり、本文の一々に歌道の秘伝奥義をこじつけてみたり、登場人物のモデルをいちいち歴史的に比定してみたり、あまつさえ「失われた巻」を想定して創作、補筆してしまう(「雲隠」や「輝く日ノ宮」、あるいは後日談を創作する「山路の露」etc)など、歴史的にはさまざまな「注釈」「再解釈」が創り出され、創作されてきたのである。

もとより文芸作品を作家個人のものと限定しない前近代にあってみれば、面白い物語を読めば書き継ぎ加えていくのは当然のことであり、そうした無数のフォロワーたちによって「源氏物語」は読み継がれ、楽しまれてきたのである。
(男女交換の悲喜劇を描く『とりかへばや』は、もともと書かれたものが過激で荒唐無稽だったため改変された『今とりかへばや』が普及し残った、とは『無名草子』に説かれるところである)
近代においても多くの作家たちが「現代語訳」の名のもとに自由な創作を加え、解釈を施してきたことを忘れてはならない。古典が読み継がれるとは、それぞれの時代によって、それぞれに楽しまれ、再解釈されることでしか、ありえないのだ。
だから、現代において「源氏物語」を「王朝時代の華やかな恋愛物語」に限定してプロモートしたり、「ライトノベル」に再生したりするのは、まったく無駄ではない。(*3)

人は誤読を怖れてはいけないし、ましてや創作が、「正しい読み」とやらに遠慮して自分の偏差に根ざす「読み」を公開できないなど、まるで本末転倒なことだと思うのである。(*4)
  1. 私にとって佐藤さとるや岡田淳、柏葉幸子といった児童文学作家の作品は、幼少期の思い出と密接に結びついているからこそかけがえのないものであり、そうでなければただ優れた「作品」であるというだけに止まる。作品の価値は私個人の「思い」と何の関係もないが、私にとっては「かけがえのないもの」である必然は、思い出とセットである。
  2. 現在河出書房から刊行中の池澤夏樹編の日本文学全集では、現役の作家たちが思い思いに古典の現代語訳に挑戦しているが、正直異論が多い。現代語訳の「古典全集」ならわかるが、「全集」なのに現代作家はそのまま収録で、古典は現代語訳という差は納得できない。また短歌俳句に「口語訳」がつくのも妙だ。近代小説同様、原文を楽しむべきではないか、なぜ鑑賞や脚注だけではないのかと思う。そうした研究者、実作者としての思いはある。しかし「読みやすく、幅広い読者に原典の魅力を紹介」する意義と、古典の再生という側面からいえば、やはりとても意味があるし、貴重な仕事であった、と思う。
    ちなみに私が専門としている説話文学はほぼ伊藤比呂美氏の労になるもので、もう伊藤語訳古典全集を出せばいい、という気になる。町田語訳宇治拾遺物語はそれなりに面白かったけど。
  3. 現代における源氏物語の普及が、大和和紀「あさきゆめみし」や田辺聖子、瀬戸内寂聴らの作品を介しているように、今昔物語集は芥川龍之介のリバイバルによって再生し、また夢枕獏の伝奇小説によって広く知られるようになった。個々の好き嫌いはあるだろうが、誤読や、ときに冒険的な再解釈を怖れて文芸の隆盛はないのである。
  4. もちろん、偏った「読み」を披露したとして、それが支持され受け入れられるかどうかは、創作家当人の実力と、運と偶然によるだろう。創作家であれば袋だたきにあう覚悟も辞してはならぬ。

 短歌でのBLが難しい、という話題もありましたが、BL俳句の人に聞くと〈夜を水のように君とは遊ぶ仲 佐藤文香〉などはBL読みして萌えるそうです。こういう方向のBL読みには、私なんかは可能性を感じます。 石原ユキオさんたちのBL短歌・俳句読みは、正統的、常識的な読み方に揺さぶりをかけるのが快感という意味がありそうで、歌人の荻原裕幸さんも同様の関心を寄せていると思います。これらは、どれも「読み」のほうの可能性です。 
 例示された佐藤文香の句は関係性だけ抽出しているのでそういうこともやりやすそうですが、大部分は「揺さぶりをかける」というよりも、それが「正統的」な読み方ではないことを大前提とした「鑑賞」という名の「二次創作」ということになるんじゃないでしょうか。読解法としては、唯一の正解がどこかにあると想定する「解釈学」(これは聖書解釈から発しているので、唯一の正しい読解があるという立場になるのが当たり前なんですが)をそっくり裏返して強化しているだけのようなものでしょう。システムとかヒエラルキーとかはそっくり温存されることになる。私があまりやる気にならないのはその辺が理由でしょうね。 
 「正統」に対する二次創作、という構図は非常によくわかります。それが、「正統」性を裏打ちするだけでなく、別の可能性を拓けるかどうか、ですね。私からするとBL俳句は「読み」のほうが面白い。実作のほうは、わりと「王道」の物語に乗っかっちゃうところがあるので、BLの枠を広げて変な世界を志向しないと難しいかな、とも思っているんです。関さんの考える、実作の可能性は何ですか? 
 まだ全然実現されていない可能性がいくらでもあるのではないかと思います。・・・(中略)・・・昔はこんな本を持っているのが親や知人に見つかったらシャレにならないえらいことだったので、書店であっけらかんときらびやかにBL本が大量販売されていて、そういう話をツイッターで平気で出来るようになってしまった全然別の世の中で同じ事をしていても仕方がない。 
対談・関悦史、久留島元「BL俳句って何でしょう?」『庫内灯』1(2015)


 ところで、近年この「読み」をめぐって、ある意味興味深い試みがなされている。昨年刊行されたBL俳句誌『庫内灯』(編集発行人・佐々木紺)がそれである。・・・・・・BL読みの対象となるのは、「晩夏少年を抱けば甲虫の皮膚感」(高野ムツオ)のように、少年相、同性愛が比較的わかりやすく描かれている句だけではない。「木下のあいつ、あいつの汗が好き」(坪内稔典)のように作者本人の意図とは異なるが同性愛を詠んでいるように見えるもの、「恋とも違ふ紅葉の岸をともにして」(飯島晴子)、「白鳥の愛深ければ頸もつれ」(能村登四郎)のように、いかようにも読めるものまでもBL読みすることで、豊かな読みが「非公式に」発見されていくのである。BL読みをただの知的遊戯といえばそれまでだが、「二次創作」としての矜持からなるその奇襲的な読みは、既成の読みに揺さぶりをかけるものであろう。
外山一機「俳句時評 読み手の本懐について」『鬣』60 2016.08

2016.12.28追補
BL読み」は極私的なものであり、「脳内の腐敗菌を活性化させて」こそ楽しめるという、誤読を前提とした読みなのである。そのような共通認識があればこそ、彼らは互いの読みに(とりわけその嗜好について)必要以上に踏み込んで論じないのである。その意味では「BL俳句」も「BL読み」、も不毛な営みだ。しかし重要なことは、これらが、その不毛さのなかに抵抗の作法を織り込んでいるということである。もしこの不毛さをもってこれらを否定するのならば、その前に、僕ら自身が知らず知らずのうちに行なっている「多毛な」営みの気持ち悪さについて考えてみるべきだろう。たとえば、僕らはある句を読むときにその句についての読みの歴史を参照することがあるし、その歴史の積み重ねの上により適切な読みが生まれると考えることがある。これはごくまっとうな考えかただし、このような読みの努力をすることはちっとも恥ずかしくない。堂々と披露されるべき―いわば実名で披露されるべき読みはこのような営みから生まれる。けれども、このような読みが抑圧するものはなかったか。

2016年11月6日日曜日

寒天句鑑賞


中山奈々(なかやま・なな)

Chapter

【感じて】

久留島さんから「いつになるか分からないけれど、寒天を《Kuru-Cole》に取り上げるとき、鑑賞書いてな」と言われ、いつものように何も考えずふたつ返事をした。

句稿が送られてきて、しまったと思った。身近な人の俳句ほど鑑賞しにくいものはないのだ(というとお前の文章はそもそも鑑賞でもなんでもないだろうという声がどこからか飛んでくるが、それは無視しておこう)。
殊、寒天に至っては、彼女が俳句を始めた高校一年生から知っている。その当時の顧問の考えで、一年生ひとりに卒業生ひとりが指導者としてつけられた。
なんの巡り合わせか、彼女には(かなり迷惑だっただろうが)私が充てがわれた。
俳句甲子園に向けて、二日に一回、彼女からメールがくる。わずか五句。なんだこいつは。二日に一回でしかも五句って! やる気があるのか。
と思いながら読む。読んだ句にコメントやアドバイスを打っていくのだが、文字が止まらない。ダメ出しのためではない。粗い。粗さしかないのに、書いているうちに褒めることしかできなくなる。高校生に対する気遣いや優しさなんて今以上に持ち合わせていなかった。なのに褒めてしまうのは、この句は必死に立ってんだ、と思ったからだ。
必死に立っている。ときおり背伸びもするけれど。座っていたら誰も見つけてくれないことを、知っていたのだろう。彼女の句はいつも立って、待っていた。
本当は泣きたいくせに、泣くのってなんだか面倒くさくないですか、と笑う。疲れているのに、今日の楽しさに必死にしがみついている。そんな、口に出さない痛みに惹かれた。
永遠の十四歳(※)といって周りを明るくする。十四歳。自分が何者なのか、何者になれるか、わからない十四歳。わからないと言えない十四歳。
照れ臭そうに「わかったんですよ」と俳句にする。「実はですね」と俳句にする。そんな俳句だから、誰かから「きみの俳句はわからないね」と言われると首を傾げながら寂しそうに笑うのだ。またひとりになってしまいましたよ、また誰かを立って待っていますよ、という代わりに。
やっぱり身近な人間の俳句の鑑賞は難しい。ひととなりや思い出話ばかりしてしまうから。
だから、ちょっと長くなるが、これ以降、寒天無視ーそれもどうかと思うがーの文章にする。それに私以外の執筆陣はどうも一流揃いなので、ここはもう二流三流の書き手の勝手を許して貰おう。

 大人の気配感じて水鉄砲やめる   寒天


大人の気配感じるまでは水鉄砲をし続けよう。冬だけど。

1、永遠の女子中学生だったかもしれない。どちらでもいい。


Chapter

 【運んで】

高校演劇。それは大根役者より下に見られる。学生演劇でも専門学校でも、何かしら演劇と関わって小劇団に入る。ええ、まあ、というだけの端役だって、ここまでくれば「自分、演劇やっています」といえる。それまでは言いにくい。いや言っても構わない。でもそれを周りがどう見るか、それは知らない。
高校演劇が演劇ではなく、部活の馴れ合いと捉えるひとが、世界があってもそれに関わっているニンゲンは真剣だ。
「今回は、オリジナルじゃないのか」
「うん」
「珍しいね。毎年コンクールはオリジナルだろ」
「オリジナルにこだわりがあったわけではないからね。慣例? 通例? それに縛られていただけ。それに部員数の少なさからオリジナルにせざるを得なかったというのもあるし。あとは演技で賞取れなくても、オリジナル脚本なら、そっちで賞貰える可能性があるっていうか」
「あ、いやらしい裏事情を聞かされた」
「聞かされたって。聞いて来たのそっちだから」
「まーね。で、何やるの」
「寺山修司」
「それはまた……
「第一候補が、『毛皮のマリー』」

 月光を泳ぐあなたを殺したい   寒天

「最初のシーンからバスルーム。マリーが出たあとで情夫が浮いているの」
「ねえねえ、マリーが出たあとでって、マリー、裸なんじゃないの。いいの? 高校演劇的に裸、いいの?」
「それらしい雰囲気にするだけだよ。それに……

 五月病からだの一割が性器   

「それに……?」
「ニンゲンって生きているだけで、エロい」
「え、何言い出すの、急に」
「毎日風呂入るでしょ。で裸になる。それがたまたま舞台の上になっただけっていう。そうなんだよ、生活ひとつひとつが実はエロいんだよ。見られて初めてエロいって意識するだけで」
「え、ちょ、ちょっと待って話についていけないというかなんというか」
「うん。みんなもそう言っていた。欣也が蝶について話すシーンだけでもやりたかったな」

 夏蝶の跡べつたりとある車窓   

「でも欣也が、蝶の話をするだけのシーンじゃ成り立たないだろ」
「だから紋白がくるんじゃない」

 秋蝶の影つややかな手水鉢   

「それでもひたすら会話劇じゃないか。観客は飽きるだろ」
「あくびしたやつは殴ればいい」

手鞠花で殴れば振り向いてくれた

「無茶苦茶だな。そんなことするくらいなら他の作品にしなよ」
……うん。だから第二候補の『身毒丸』にする」

 白露を抱いてゐる母を抱いてゐる   

「よりR指定度、高くなってない?」
「でも『身毒丸』、よく知らない」
「じゃあなんで候補に挙げたの」
「で、最終的に『星の王子さま』になった」
「サン=テグジュペリ?」
「いや寺山修司の」
「あ、そうか。でもあれ、人数多いよね。部員足りるの?」
「役与えず、台詞全部無くし、ひたすらみんなで舞台を歩く」
「もうそれでいいと思うよ」

 誰も笑わず月を運んでゐるをどり


Chapter

【おで】
ふくろふの首に拳を沈めけり  寒天
ふくろうに聞け快楽のことならば  夏井いつき 『伊月集 梟』(2006)
 
寒そうなゾンビが駅で待つてゐる  寒天
秋麗ゾンビのような車掌の声  御中虫 『おまへの倫理を崩すためなら何度でも車椅子奪ふぜ』(2011) 
愛のある酒はうつくしおでん食う  寒天
涼新た良き酒は奢つてもらふ  中山奈々 「里」2016.9

Kuru-Cole 6 寒天