2011年4月27日水曜日

うーむ

 
やっぱりなんだか「改行」の調子が悪いようだったので、しばし開店休業中。
詰まりすぎているのも読みにくいですが、変にあくのも気持ち悪いですね。

あと「俳句なう」でざっくりアウトプットしているので、あまり煮詰まらなくて、こちらでは書きにくい、ということもあり、すこし間があいています。

すこし、最近は川柳の、それもバックストローク関係の川柳に触れる機会が増えてきたわけですが、そういえば「ねんてんの一句」でも川柳がとりあげられていました。

4月21日に、「街道は江戸まで続く柿若葉  渡辺隆夫」
4月22日に、「洪水が来るまで河馬の苦悩教  小池正博」
4月23日に、「雷鳴が来る春巻きを注文する  小池正博」

http://sendan.kaisya.co.jp/nenten_ikkubak.html

坪内氏は、はやい時期から川柳と俳句との交流については言及していますし、たしか『国文学』かなにかの特集でも対談があった気がします。
川柳と俳句については、そういえば櫂未知子さんにも以前、対談の記録をいただいたことがあったなぁ、と。もうだいぶ前なので手許に見あたらず、捜さないといけませんが。。。

だらだら続けていたものが、だんだんつながっていく、……と快感なんですが、まだつながる様子もなく、ようやく「集まってきた」くらいの感じ。好きなことですから、無理のない程度に、気長に実を結ぶまでやっていきたいですね。



「船団」初夏の集い@東京、の案内を貼り付けておきます。


俳句の言葉を探る
どなたでも参加できます(要・申し込み)




日 時 2011年5月28日(土)~29日(日)会 場 アルカディア市ヶ谷(私学会館)(アクセス
    (東京都千代田区九段北4-2-25 JR市ヶ谷駅より徒歩2分)    (電話:03-3261-9921)
※どなたでも(会員でなくても)参加できます(要・申し込み)。


5月28日(土) 13:00 受付開始
●13:30~15:30:
講演と質問(無料)
金田一秀穂(国語学者) ●15:45~: 吟 行(無料)
九段、神楽坂、靖国あたり
※29日の句会参加者は、懇親会受付時に吟行句2句を投句してください。
●18:30~20:30 : 懇親会 (会費:8000円)
第三回船団賞発表


5月29日(日)
●10:00~12:00 : 句 会(会費:1000円)※コメンテーター: 本村弘一・あざ蓉子・小西昭夫・火箱游歩※司会:
三宅やよい
●問い合わせ・申し込み : 船団の会※申し込みは、5月10日(消印有効)までに、下記へハガキでどうぞ。
※氏名、住所、電話、参加される行事を明記してください。〒562-0033 箕面市今宮3-6-17 船団の会 (電話:072-727-1830)


http://sendan.kaisya.co.jp/shoka11.html

関東の様子見で、中止の可能性もあるかと思っていましたが、今のところ予定続行の模様。
せっかくなので東京の「船団」以外の方とも交流する機会になればいいですね。

ただ、この日程、仏教文学会とマルかぶりなんですよね。。。。同じ東京なので都合はいいんですが、行ったり来たりすることになるかなぁ。。。

※追記。
あれ、この「改行」はうまくいってますね(汗)。
うーん、なんのこっちゃ。。。

2011年4月18日月曜日

樋口由紀子「容顔」を読む

容顔、「ようげん」と読むらしい。(辞書的には「ようがん」もあるようだ)
表紙には不気味なマネキンの女性たちの写真。 冒頭から葬儀をテーマにした句が重ねられる。
式服を山のかなたに干している

まっさきにぺちゃんこになる副葬品
読んでいくうちに、父の死別に直面していたとわかる。

道頓堀の手前で拾う父の病名 
父が逝く籠いっぱいに春野菜 
三月に追いつめられる霊柩車
肉親の死にかかわるのかどうか、作者の日常を見る視点は変である。
此岸の日常風景にもかかわらず、彼岸に近づいていくような、いや彼岸が近寄ってきているような不気味さ、危機感を漂わせるのだ。

むこうから白線引きがやって来る

つぎつぎと紅白饅頭差し出され

半身は肉買うために立っている

作者は繰り返し同じテーマを扱い続ける。
ことに「死」や「肉体」には執拗なほど丹念に向き合う。その多くは自己の肉体を起点として、内省しながらより抽象度の高い「肉体」や「死」へと意識をむける手法をとっている。
腰を据えた粘性、とでもいうのか。誠実な執拗さで彼女の作品は「肉体」を探求する。


ねばねばしているおとうとの楽器

粘性の波と抱き合うわが童話
自身を映し出す「鏡」への関心も、「肉体」への関心の余波だろうか。
鳥たちが三面鏡からいなくなる

昼の鏡魚の名前をつぎつぎ告げる

箪笥の隙間が鏡に映る祝詞か

私の調査では「鏡」を詠んだ句は八句。
「鳥」や「魚」など、鏡に映る自己から人外へ意識を飛ばすような句が特徴的である。これはさきほどあげた内省の視点とは逆に、まったく異なる世界へ意識を飛ばしていくものだ。
他の作品では「象」や「人形」などの、いわば異形への執着が見られる。しかし、あくまで自己の肉体を起点とする部分では共通している。
そしてより明確に、「わたくし」の肉体を内省して異形へ至る、という作品も散見される。

わたくしの生まれたときのホッチキス 
わたくしのなかの兵士が溢れ出す 
わたくしをまわしてみせるまくらやみ
わたくしのなかの兵士が溢れ出す」は、自己の肉体のなかに自分でない暴力性をみる、という、ある意味でわかりやすい句。批評性が強く、いわゆる「川柳」の文脈で理解しやすい。
しかしこうしたわかりやすい「批評」だけでなく、ほとんどの句が同じように自己と世界との対峙、自己の肉体を起点として世界を「批評」する視点を持っているようだ。
おそらく作者にとって、主義や思想のようなあいまいなものは関心がない。主義や思想は言葉によって作られる。ゆえに変化する。それは彼岸の幻影のようなもので、あいまいで流動的なものだ。それに対し、批評する存在として「肉体」が在る。「肉体」を起点とすることで、作者の句はつねに形而上の世界に対する批評たりえている。言葉による形而上の世界と、肉体に代表される形而下の世界との緊張関係に、作者の「わたくし」が、濃厚に在る。

黒板に名前を書いて眠ろうか
巻末にある句。
署名はいうまでもなく自分の名であり、自らの存在を証明づける手段である。最後まで作者は、「自分」の影を残していく。そこに押しつけがましい嫌みがないのは、「眠ろうか」のように現実と夢が混濁していく、その方向性に自覚的な姿勢ゆえだろう。
執拗な、しかし誠実な「問い」として、「肉体」と「言葉」との狭間で、彼女の作品群は、濃厚な存在感を持っているといえる。





さて、そのように濃厚に作者が存在する、ということは、樋口由紀子という作家の問題なのか、それとも川柳(のなかの少なくとも一潮流)としての特徴なのか。

宙返りしてみましょうか彼岸入り 由紀子


冬座敷だれもゐなくて宙返り  御中虫
よく似た二句、並べてみるとどちらが俳句的、とはいいにくい。御中虫もいわゆる俳句の文脈からはずれた「私」が強い作家ではあるが、「冬座敷」にはそれほど明確ではない。 そしてやはりともに「季語」のもつ共有のイメージが、「私」だけではない、広がりと安心感を持っている。なんでこんなことしとんねん?という滑稽さが出ているのも、季語のもつ安心感あってのことだと思う。 その意味でもやはり、季語にもたれない作り方をする「川柳」では、「私」の在り方は、俳句とはすこし違ったふうに出ているのではないか。

※ 『容顔』(詩遊社、1999年)は著者よりご恵贈いただきました。ありがとうございました。
※ 2011.07.10、改行など表記を校訂。


2011年4月12日火曜日

川柳の杜へ

今日の漫画的一句には湊圭史さんの川柳「ピカチュウをお酢に漬ければ分かるはず」を紹介した。


はじめて川柳の鑑賞を書いたが、私自身は「川柳」のよい読み手ではない。


あるいはもうすこし、掲句の持っている「毒」についても言及すべきだったかとも思う。


作品を楽しむのに「川柳」も「俳句」もない、知識がなくても楽しめるのが「よい作品」だ、という立場もあると思うし、読者としては大賛成なのだが、一方でジャンルの蓄積をもって楽しむことも重要である。


俳句や川柳のような短詩型の場合、作品外の文脈によって規定される部分が、非常に多い。


小説や現代文にもある程度は外部の文脈があるのだが、散文の場合は日常的な訓練によって、知らず知らず多くの人が外部文脈込みで小説を読むことができるようになっている。


しかし、新書しか読まない人がファンタジーを手にしたり、重厚な歴史小説好きがライトノベルを読むことになったり、普段と違うジャンルを読み始めたときには、軽いカルチャーギャップとでもいうのか、戸惑いを覚えることがある。自分のなかで作ってきた「文脈」が、対象と合わなかったときのギャップなのだと思う。


しかし、それぞれの作品には、それぞれの作品を楽しむための、それぞれの尺度があっていい。人生訓を求めて三国志を読む人はいてもグインサーガを読む人はめったにいないし、松本清張の尺度で有川浩を測って断罪してもほとんど意味はない。


その尺度を規定するのは、煎じつめれば好みの問題ということになるかもしれないが、もうすこし客観的にいうなら「文脈」を読む力(読もうとする力)だと思う。


短詩型の場合、それはもっと極端に出る。


なにしろ短いから、内容を伝えるためには、読者のもつ「文脈」を利用したほうが効率がいい。


よほど家の事情でもない限り俳句を読む日常的な訓練をしている人などいないから、「文脈」を身につけるまでには、意識的に「読む」必要がある。


「季語」はそれだけで長文の場面設定や心情描写を省略できるし、読者の耳に馴染む「定型」も感情移入を助ける。そうした基本的な約束事(ルール)に加え、類想、類似表現を避けるための細かな工夫や、先行作のパロディ、オマージュのような仕掛けなど、ジャンルに対する蓄積がなければ楽しめない楽しみもまた、楽しみの一部なのだ。


私はこういう俳句にとって重要な側面を「(作品)外部の文脈」と呼んでおり、外部文脈を読みとる能力を外山一機氏に倣って「俳句リテラシー」としている。


「文脈」を無視して楽しめることと、「文脈」にそって楽しめることと、どちらが上かではなく、どちらもできるのが作品にとっては理想的であろう。


ただし、「文脈」を知った上で意図的に捨象することは(原理的には)可能だが、「文脈」を知らなければそのなかで読むことはできない。だから私は、ジャンルの蓄積に信頼を置いているのである。


こうした性格についてはもちろん、多くの先学が指摘し続けている。


曰く、「座の文学」(尾形仂)


曰く、「省略の文芸」(外山滋比古)


曰く、「過渡の詩」(坪内稔典)


外部文脈に寄りかかるという「俳句」「川柳」の性格が、「座」という共同性の場の問題なのか、「短詩」という形式の問題なのか、それは卵が先か鶏が先か、という議論であるが、いづれにしてもこうした「外部の文脈」の修得が俳句の「読み」について重要であるのは否定しがたい事実である。


さて、私は「川柳」についての蓄積、リテラシーがまったくないため、決して「よい読者」ではないのだが、最近縁あっていくつか川柳の句集をいただいた。ありがたいことである。この縁を幸いとして、これから私なりに川柳の楽しみ方をさぐってみたいと思う。



(この項、続く)




Haiku New Generation 俳句、リテラシー
週刊俳句 Haiku Weekly: 前略 上田信治様  澤田和弥

2011年4月4日月曜日

俳句な呟き



「関西俳句なう」 、3月は「坪内稔典1984」という特集で句を紹介したが、4月からは通常運営。私はまた、火曜担当で「漫画的一句」の観点から句を紹介することになっている。


「○○的一句」は、これまで注目が少ない、関西ゆかりの若手作家の句を紹介する、というルールで鑑賞を続けている。ときどきは大家の若い頃の作品も取りあげているが、基本的には今もっとも若い作家たちの作品を取りあげることで、自分を含めた若手作家たちの「今」の関心の在処をアピールしていく試みだ。「俳句なう」というネーミングを、自覚的に名乗る所以である。


もちろん「若手」しか面白い句を作っていない、などということはありえない。


そこで日曜更新の「俳句な呟き」では句集紹介のスタイルで、「○○的一句」の範囲にはずれた「漫画的」方向性を探ってみようと思っている。


他のメンバーの「呟き」は、俳文だったり、俳句と仕事との両立に悩むエッセイだったり、それぞれ個性が出始めている。同じメンバー同士でも次になにをどう書くかはまったく知らないので、今後どう展開していくのか楽しみである。


拙稿では昨日、山本純子氏の『カヌー干す』(ふらんす堂、2009)を紹介した。いただいた当初から楽しく読んだ一冊だったので、まとめて書けたのはよかったと思う。


ご覧いただければさいわいです。



さて、『カヌー干す』鑑賞の最後に加えた一言。


俳句の短さは、ときに詩というより日常の会話や子どもっぽい言葉遊びに限りなく近づく。そんななかで、しかし日常と切り離された「非日常」、驚きを与えてくれる、それが俳句がまぎれもなく一つの作品として独立している証拠なのだ。

このあたりが、使い古されて顧みることも恥ずかしい「第二芸術論」的発想への、単純な反論になりうる根拠だと思う。



もっともわかりやすい例でいうと、


  母の詞自ずから句となりて 
 毎年よ彼岸の入りに寒いのは  子規


(※ コメント欄にてご指摘をいただき、原句は「毎年よ彼岸の入に寒いのは」の表記でした。『子規百句』(創風社出版)などでは「彼岸の入り」表記で、原句を示す形式となっています。)

がある。「母の詞」はあくまでも「日常」の会話だが、それが「自ずから句」になっていると認識して作品として提示してしまったのは子規だ。作品として提示することにより、自然の絶対法則であるような、箴言めいた発見を楽しむことが出来る。


「日常」(会話)から切り離されて「非日常」(作品)へ移っている、あるいは「日常」(共感)から切り離されて「非日常」(驚き)へ移っている、と言ってもいいかもしれない。


この程度のことだが、この程度のことでも人は作品から「驚き」を受け取ることができる。そんな程度の「驚き」を盛る器として「俳句」があるのだと思う。


※なんだか知りませんが、ブログの調子が悪く、単純な「改行」が出来ないようです。この文章も昨日作ったものですが、昨夜は結局投稿を断念。今朝になってHTML編集にも挑戦してみましたが無駄なので、ちょっと読みにくいレイアウトですがとりあえず投稿しておきます。