2011年2月24日木曜日

俳句的発想

 
俳句的発想、三題。



日本経済新聞に連載されていた、坪内稔典氏の「俳句的発想」が第四回で最終回を迎えた。この最終回がかなりおもしろい。
いままで書いてきたことの総まとめという感じで、かなりストレートな形で意見が表明されている。
冒頭と、末尾の文章を引く。

自分の感動を表現しないのが俳句だ。
と言うと、えっ、表現とは自分の感動や暮らしの記録ではないか、と思う人がいるだろう。……だが、俳句では五七五の言葉に表現させる。五七五の言葉の表現を通して、作者は感動を発見する。つまり、感動の表現でなく、感動の発見が俳句の基本なのである。

作者の感動などを表現するという近代の文学観から見ると、以上のような俳句は前近代的かもしれない。明治時代、坪内逍遙は批判した。
……実は私も逍遙や武夫の意見に賛成である。だが、賛成しながらも、野蛮や第二芸術であることも大事だ、と思っている。つまり、句会を通して自分の感動に気づき、自分をほんの少し広げる、そういう五七五の表現に魅かれている。

「俳句的発想」日本経済新聞2011年2月24日夕刊



申し遅れましたが、今週末はこちらのイベントを見学に行く予定。

子規記念博物館 冬季子規塾

こちらの告知では、なぜか青木さんや関さん、越智に混じって私の名も。

週刊俳句 Haiku Weekly: 子規記念博物館 冬季子規塾 国語で俳句を教えるの―正岡子規から池田澄子へ―



前回ぼそっと書いた、自分たちのプロデュース、ということですが、このあたり、ほったらかしにしている女流俳句ということへの続きへもつながってくる話だと思っています。
要するに、自分のなかでの、どこにこだわって、どこを表現していくか、というところ。

女性は消費される。これは、もう、しょうがない。しょうがないと言ってしまうと身も蓋もないが、女性という性別と肉体を与えられた以上、私たちの眼の前には、それを利用するかしないか、という選択肢しかない。

神野紗希「木曜日と冷蔵庫」『週刊俳句』195号

「しょうがない」ってのは、なんなのだろう。女性ならぬ私には想像もできないが、表現において「女性」であることはそれほど決定的なことなのか。
作者にとって女性であることは、あるいは重要かも知れないが、全部ではないはずだ。まして読者にとって作者が女性であるかどうかは、数ある情報の一部にしか過ぎない。何を見るか、は読者側の問題だ。
高校生が作る句に必ずしも「高校生らしさ」が表れる必要がないように、女性の句に「女性性」が表れる必然性はなく、また読者がそれを看取せねばならぬいわれもない。

そのうえではっきり言うと、文芸表現において「女性性」を表明するのは、すでにかなり過激なかたちで先人が実行しているのであって、いまさら誰がどんな表現をとったとしても、ほとんどは既視感にまみれてしまうのではないか。
端的に言って、現代において女性が「女性性」にこだわること自体、現代の表現として新しくない、と思う。である以上、評論がその地点に止まっていなくてはならぬわけはない。

俳句表現では「女性性」に限らず、ときどき現れる「私性」の過激表現に対して過剰なほど賛否両論がまきおこるように見えるが、評論の怠慢だと思う。評論家の仕事は、きちんと評論史を参照し、既視感のある表現にはそれと指摘してご退場願わなくてはならない。

というか、同じ人間がつくりだす表現が、自然のままでそれほど「個性的」であるわけもない。たいていは先行して同じような作風があり、そのバリエーションで理解できるものなのである。
ところが同時に、まったく同じ表現、というのも、作るのが難しい。
やはり語彙やニュアンスに時代差、世代差、地域差、そして性差があらわれる。
作品の「個性」など、多くは、その程度である。だが、その「程度」が重要であり、それを意識してプロデュースできるかどうか、だけが「新しい表現」への途だと思う。



と、どうひねっても当たり前のことしか言えていないように思うが、ひとまず、極小詩型のなかからの発想、三題。

2011年2月21日月曜日

週刊俳句200号


「関西俳句なう」を紹介した記事 を、週刊俳句 Haiku Weekly: 週刊俳句 第200号に掲載いただきました。

文責は自分ですが、メンバー全員にいろいろ推敲してもらったので、いつもと少し違った文体、視点になってます。編集人のほうで、リンクとかレイアウトを整えていただけたので見やすくなってますね。ありがとうございました。

さて、その『週刊俳句』、200号の記念特集である。
(おそらくたくさんいる)創刊以来の読者の一人なので、ちょうどタイミングがあって文章を掲載いただき、お祝いに参列できたのはありがたかった。
さまざまな視点からの「オススメ記事」を集めた「週俳アーカイヴ」や、西村麒麟さんの好評企画、そして「ちょっと大きめのお知らせ」など、読みどころが満載。
しっかし「アーカイヴ」の、リンクの便利さといったらありませんな。これは紙媒体ではできない。

「アーカイヴ」で江渡華子氏が触れているが、先日の福田若之氏の評論は力稿であった。
とはいえ、手放しで褒めたのはちょっと軽率だったかもしれぬ。

改めて読み直すと粗いところが多い、というか、かなり論旨があっちゃこっちゃ行っていて真意(結論)がつかみにくい文章である。
しかし、それでも評者の向く姿勢は好感がもてる。

『傘』に掲載された藤田哲史氏の評論は、佐藤文香の句について外山一機氏の評を引いて、「かつての俳句から今の俳句を構築する行為」とみた。そのうえで、

ことさら新しさを外部から導入せずともかつての俳句からの引用だけで作品が構成できるほどの、俳句の成熟度も同時に示している。

と肯定的な評価を下したのである。
これに対し、福田氏の次の表現は、いささか違う姿勢をもっている。彼は『新撰21』の作家たちについて形式へのフェティシズムを看取しない立場であり、その上で

もちろん、『新撰21』の外側に「俳句想望俳句」は見出せるかもしれないし、『新撰21』の中に入っている作家たちのなかにも、やがてはかつての俳句へ深く深く入り込んでいく「俳句想望俳句」的な表現方法を見出す作家がいるかもしれない。……だが、「俳句想望俳句」という一つの特殊な方法論を時代の主流とし、「遺伝子をきちんと受け継ぐことが肝心だ[55]」という脅迫観念に俳壇全体がとらわれるとしたら、それは「第二芸術論」の支配したとされる近代俳句の歴史とは逆の向きで、俳句にとって不幸な時代になりはしないか。

というのである。
彼の評が妥当かどうかは、作家自身の評論を積み重ねるよりも作品分析を土台に検討されるべきであろう。
また言論史からいうならば、もっと第二芸術周辺の議論(高柳重信の一連の評論や、赤城さかえ『戦後俳句論争史』俳句研究社などで俯瞰できる)などを抑えてから議論を深めていく必要があるだろう。

しかし、「俳句想望俳句」という上(外)からのレッテルに対し、近い世代から自分たちを見直そう、とするところがいい。

結局、自分をプロデュースするのは自分だし、自分たちをプロデュースするのは自分たちでなくてはいけない。ある程度は師匠やら結社やら友だちやら先輩やらの厄介になって構わないが、最後は自分が何に拠って何を出すか、である、と、ごく当たり前に思う。
だからこそ、自分たちが先行世代と何が違うのか、どこにこだわって自分を出していけるのか、というのは、たとえ幻想に過ぎないとしても、過剰なくらい意識して発信していったほうがいい。

このblogも、結局はそうした発信のための土台作りである。



最近、『俳句研究』のバックナンバーを読んでいる。
1980年代後半、高柳重信編集時代の晩年から、重信没後のあたりを読んでいるのだが、この時代、実に熱い。
なによりオモシロイのは、重信の肝いりなのだろうが、坪内稔典、宇多喜代子、澤好摩といった若手の論客がほぼ毎号のように筆をふるい、議論しあっているところだ。

そのなかで『俳句研究』1984年7月、重信の没後に組まれた「特集・高柳重信の世界」において坪内稔典が発表しているのが「口誦の文学」である。
内容については『現代俳句入門』感想に書いた(→曾呂利亭雑記: 『現代俳句入門』を読む)のだが、初出時の特集と合わせて読むと、意図したものかどうかわからないが、改めて坪内氏流の「恩返し」を思うのである。

そしてさらに二ヶ月後。『俳句研究』1984年9月号の月評では、澤好摩による「口誦性の問題など」という文章が発表されている。

ところで、最近書かれた評論の中で坪内稔典の「口誦の文学」は気になる一文であった。単に浮ついた文章だから、という意味においてではなく、その批評の視点、角度が、彼のこれまでの評論とは明らかに異質な感じがしたのである。俗な言い方をすれば、一般うけしそうな、枯れた批評とでも言おうか。

この時期が、坪内氏にとって画期であったことは再三当blogで確認してきた。同時代にあってもそれまで盟友関係にあった澤氏が、相当戸惑っていることがよくわかる。

口誦性・暗誦性は、確かに重要な俳句の属性であるが、その問題を「今なお、披講を伴う句会という音読の場が、俳句の根ざしている場所なのだ」というレベルで語る坪内稔典は、『過渡の詩』を書いた頃の、俳句の近代から現代へかけてを俯瞰し、対象化可能な視点と方法的構想力を持ちえた場所から、かなり大きく後退しているように見える。

詳しくは別の機会をもつ予定なのでそれに譲るが、同時代の雰囲気をもって坪内氏の「転向期」を読み直す作業、かなり興味深そうである。

2011年2月8日火曜日

メモ。

 
今週は、評論、当たりの週間。

週刊俳句 Haiku Weekly: 「俳句想望俳句」はロラン・バルトの夢を見るか? 福田若之

私もかなり説得されていた「俳句想望俳句」という用語に警鐘を鳴らす、丁寧な論述。これが大学の講義レポートとして提出されていたということに驚く。
結論部分はちょっと飛躍が感じられ、一読では納得できない部分も散見される。
しかし問題意識はきわめて明晰。評論が陥りがちな、レッテル貼って喜ぶ風に対する冷や水として有効。自戒を込めて。


だが、「俳句想望俳句」という一つの特殊な方法論を時代の主流とし、「遺伝子をきちんと受け継ぐことが肝心だ[55]」という脅迫観念に俳壇全体がとらわれるとしたら、それは「第二芸術論」の支配したとされる近代俳句の歴史とは逆の向きで、俳句にとって不幸な時代になりはしないか。


ふたつめ、前提として。

asahicom 俳句 新世代が台頭 30代で結社主宰 学生が同人誌

で、大谷弘至(「古志」主宰)、高柳克弘(「鷹」編集長)、藤田哲史、越智友亮(「傘」)が紹介されたことをうけ、

佐藤文香公式HP、「さとうあやかとボク」より
傘とさとうと俳句甲子園

佐藤のとりあげる「俳句甲子園世代」には、それでもやはり漏れが多いのだが、概観としては私がかつて行った見取り図と重なる点が多い。
ただし私は森川大和、神野紗希らの時代を「俳句甲子園第一次世代」とし、山口優夢、佐藤文香を中心とする1985年生まれ世代を「俳句甲子園第二次世代」としている。以降、「第三次世代」は伊木勇人、熊倉潤、藤田哲史、生駒大祐、羽田大祐、越智友亮まで続いていく。
佐藤との差は、私が俳句甲子園自体の形態に即して言い、佐藤は「俳壇」的なデビューに重きを置いているためである。

第一次世代は第1回~3回までの出場者だが少数第4回出場者を含む。この世代の特徴は、俳句甲子園が愛媛の県内大会であったころを知っていること。
従って必然的に松山周辺の出身者で占められており、夏井いつき氏の直接の薫陶を受けた人々が多い。

第二次世代は、俳句甲子園の大枠が作られつつあった時期に俳句甲子園の洗礼を浴びた。
山口、佐藤らは、初の全国大会となった第4回で登場し、その後高校三年間をみっちり「甲子園」に捧げた世代である。
この世代はもっとも濃厚であり、山口、佐藤のほかに酒井俊佑、谷雄介、宮嶋梓帆、浅沼知季といった名前が思い浮かぶ。佐藤は言及していないが、俳句甲子園スタッフが充実しはじめたのもこの時期からだ。森川、神野に引き続き、名実ともに「俳句甲子園世代」といえるのが彼らである。

間にはさまっているのが、我々、第4回、第5回に出場した世代である。
第5回で優勝を経験している藤田亜未などは同い年でも第二次世代に限りなく近い存在かもしれないが、偶然とはいえ第4回にしか出場していない私は、個人的には「一.五次世代」のつもりでいる。
実はこの学年の作家、きわめて少ない。関西に藤田、徳本、久留島の「関西俳句なう」組がいる他は、甲子園出場経験のない江渡華子、面識のない西川火尖がいるくらいではないか。甲子園出場者のなかでも、定着率の悪い学年ではあった。

佐藤は「甲子園組」の条件として以下のみっつをあげる。

1 俳句甲子園デビュー
2 俳句甲子園出場経験アリ
3 俳句甲子園世代

俳句甲子園デビュー、とはよく名づけたものだ。
これこそ、かの大会エンターテイメントたる部分であり、文字通り「スター」として「デビュー」してしまう人間が、ある時期までは、毎年いたのである。(多くは優勝・最優秀の二冠、またはどちらか片方を獲得していた)

そのうえで、俳句甲子園の形態変化に関する、重要な指摘をしている。

俳句甲子園が全国大会となったのが第4回、それが3年生の神野紗希が優勝・最優秀賞をダブル受賞した年である(佐藤はそのチームにおり、翌年準優勝&最優秀賞)。全国大会のひとつのかたちができあがったのが第6回、ちょうど山口優夢が開成高校3年生で優勝・最優秀賞をダブル受賞した年である。

個人的な思い出でいうと、第6回、山口優夢と準決勝であたった甲南の主力が伊木勇人であり、優夢×勇人のディベートが、俳句甲子園ディベートのひとつの頂点であった、と思う。
個人史のなかでは決勝戦での淳也×優夢の対決よりも伊木の活躍のほうが思い出深い。

佐藤の指摘するとおり、第7回以降の「ディベート賞」設立以降、いわゆる「スター」は登場していない。ディベート賞は、我々の間ではよく「イロモノ賞」とか「キャラクター賞」とか言われ、作品で評価されていないことを半ば揶揄、半ば同情するための賞であった。
(伊木勇人は個人賞では奮わず、第7回でディベート賞を受賞している)

こうした甲子園側の体制強化は、一方で第一次世代、第二次世代が必然的に抱え込んできた「ミウチ感」を希薄にさせるものだったのではないか。
第一次世代、第二次世代で、「スター」といえないまでも多少目立つ人間は、スタッフ側にとっても注目すべき可愛い存在であった。従って早くから裏方との交流が生まれていた。特に谷、佐藤のような愛媛出身生はスタッフの中心ともなり、文字通り体制強化に尽力していたのである。

俳句甲子園の関係から離れて久しい私であるが、佐藤の論を読んでちょっと書いておきたくなった。
雑然と書いてきたが、ここにひとつの傍証をあげる。私を含め、第二次世代までの甲子園出身の作家たちは、俳句甲子園について言及することが、きわめて多い。
好例は上の佐藤論や、橋本直氏に「学問的にはだいたい自己神話化を疑われる」と評された山口優夢の「俳句甲子園と僕」
を挙げることができる。

しかし、案外、第三次世代以降の作家が俳句甲子園について言及することは少なく、かつ、かなり覚めた口調なのではないか。
俳句甲子園に対する愛着が、第二次世代までは「スタッフ」的愛着と半ば一体であったのに対して、スタッフ側の体制ができあがった後に「作家」として自立を選んだ層は、数こそ少ないがきわめて冷静であるように思う。
スター、でこそないものの、「作家」としての覚悟がある世代だ、と思えるのである。

先日「関西俳句なう」で紹介した金田文香や、最近親しくしている黒岩徳将といった作家が、越智と同期であることを付言し、ひとまず擱筆したい。

関連拙稿:曾呂利亭雑記: 取り合わせの時代