2011年3月24日木曜日

震災俳句

 
先日の記事は、感情にまかせて書いた。
失敗だったな、と思うのは、「読まなくてもいいです」という文言。
ある人から、それなら公開しなければいいじゃないか、評論を書く立場から言うべきでない子どもっぽい言葉だ、と、批判を受けた。

仰るとおりである。個人のblogではあるが、かりにも批評を意識して発表している媒体には書くべきではなかった。

その後、山田露結氏からもコメントをいただき、同様の指摘をうけた。

私がこのブログ記事を読んで不快に思ったのはおっしゃっるように「読まなくていい」と前置きしておいた上で書かれていること、それから「生涯、相容れることが出来ないだろう。」と締めくくって相手の反応を断つ姿勢で文章が終わっていることからでした。そのことによって久留島さんの発言は批判とも反論ともならず、相手に石をぶつけておいて「喧嘩するつもりはありません。」と言っているように受け取れたのです。

前の文言についてはまったくその通りだ。お詫びして訂正したい。
記事を訂正しようかとも思ったが、すでにコメントも書いていただいたし、あえてそのままにした。内容については訂正しないが、これ以上議論にもならない、と思う。

小野氏の文章については今でも強い不快感を持っている。震災に乗じて個人の「美学」「哲学」を強要するような文章は、なんとしても不快、としか言えない。
これは「俳句観」にまつわる話題ではないために、反論があったとしても議論が建設的に進むものではなく、
本来議論の俎上に載せるべきではない。「俳句観」に対する違和感については、西原天気氏の反論のほうが、要を得ている。議論不可能なレベルで、しかし立場の違いは示しておきたいと思ったので、批評としては書かず、読者として個人blogで表明した。
ここにおいても、改めて、個人として「相容れない」と宣言せざるをえない。

管見において「震災俳句」を、明確に始めたのは「季語と歳時記」だった。
歳時記サイトとしてはきっちりしていて大いに活用させていただいているのだが、こういう活動は、全体にいただけない。

応募する人たちが「誠実に立ち向かって」いるのはわかる。
被災地以外の人間にとっても今回の事態を乗り越えようと必死なのである。日本が大変なことになっている。何かしたい。何かできることはないか。一種の躁状態。ここ最近のblogに震災関係の記事を並べたのも、同じ心境だ。

しかし、チャリティーマッチやチャリティーコンサートと違って俳句の募集は物質的に被災者を支援できない。「震災に取材したノンフィクション小説」なら、売り上げを復興に役立てることもできるだろうが、俳句は金にならない。その意味においても俳句は無力である。

報道バラエティで「被災地へのメッセージ」を募集していることがある。
あれもいい趣味とは思えないが、ストレートではある。応援メッセージなら、そのままメッセージとして送ればいい。俳句短歌は、作品という加工が施されているだけ、気持ちの悪さが先に立つ。メッセージに加え、作品としての価値、作家としての態度が問題になるからだ。


「大震災の俳句、短歌を!」って、ね、しかし、あなた。
ノリが、大喜利と変わらないではないか。

「題詠」というのは、もともとたしかに大喜利みたいな座敷芸だと思うが、座敷芸として扱っていいネタとそうでないネタというのは、芸人なら峻別すべきものだ。
そのうえで、ネタとして提供されたからには人を楽しませるかどうか、価値判断にかけられることは当然のことである。
ことさらな「追悼」、ありふれた「激励」が、「作品」として価値をもつだろうか。

なんだか随分昔の記憶のようだが、先月来の「個性」の話題につなげると、一般的な共感できる感傷、追悼、激励、から「個性」を特立させるのは、かなり難しい。
戦争や震災、被害者全てが無条件に巻き込まれ同じように反応してしまう事態に、「個性」を発揮できるなら、内容としては同じでも、まったく違う価値がそこに出現する。それに至らない、メッセージにすぎない言葉の羅列は、だからストレートなメッセージよりも、作品を試行している分だけ、「スベッている」。

いい趣味とは思えないが、これについてもやはり、「反論」して叩く(=取り締まる)べき類のものではなく、「スベっている」と「思う」しか、できない。



個人として、「俳句」のもつ共同性や楽観主義とやらが、だれかにとってなにかの救いになるなら素晴らしいことだ。

私自身が先日、「いらいら」をそのまま文章に公開したのと同様、吐き出すとちょっと気分が晴れることはある。また関悦史氏が介護のストレスを俳句として吐き出したというように、有季定型や季語には、ある種の救済効果がある。
南無花鳥諷詠、俳諧須菩提羅経。まこと俳句は極楽の文学なり。

しかし、個人が結果として俳句によって救済されたという"いいはなし"と、結果ありきで"いいはなし"を募集するのとは、まったく別であろう。

そういえば『俳句界』は昨年、「泣ける俳句」を募集していましたね。
・・・「17音の深イイ~俳句」なんて募集するひともいるだろうか。
笑えない冗談ですね、すみません。



大風呂敷出版局だより 雨の夜のホウレンソウ
無門日記:地震と俳句

2011年3月21日月曜日

龍天に

 
「BS俳句王国」放送は無事に終了しました。視聴くださった方々、ありがとうございます。
噛んだりお茶呑んでたりへらへらしたり、自分で見てると赤面の限りではありましたが、番組中はいっぱいいっぱいでした。
点数がよかったのはありがたいことでしたが、自分の句について感想求められたときはちょっと焦りました。



遅くなりましたが、3月20日の「e船団 ねんてんの今日の一句」に拙句を取りあげていただいております。

龍天に昇り枕投げてよこす  久留島元
バックナンバーはこちらから →http://sendan.kaisya.co.jp/nenten_ikkubak.html




「週刊俳句」は今週から通常営業。

堀本吟氏の渡部隆夫論、西原天気氏の小池正博氏の句集評など、期せずして?川柳色の強い号となっている。
10句作品などもバラエティ豊かでほっとする。

小池氏の句集については、著者より謹呈をうけたので、後日私見をアップさせてもらうつもり。




しかし、同号の、
小野裕三氏の文章には正直、呆れた。

呆れた、を通り越して、不愉快である。

冒頭から不愉快な発言から始まったのでまるで精読できず、不愉快なまま閉じてしまった。
以下、不愉快な思いの連鎖になるだろうから、読み飛ばしていただいて構いません。

というか、吐き出さないといらいらするので書きますが、読まなくていいです。




なにより「天罰と語った某氏」発言から話を起こす無頓着さ。
続く「もともと「俳句」的民族である日本人」などという意味不明の定義。
過去最悪の災厄を「神の試練」などと言い終える浅薄。

私個人としては、まるで被災した人々が「罰」に値する罪人であったかのような、個々人の功罪を裁く神そのものであるかの如き傲慢、破廉恥、無知蒙昧の発言について、たとえ誤解であったとしても弁明の機会を与えたいとは思わないし、それについて考えたいとも思わない。
また生き残った人々に対しては試練であるとして、日々刻々と増え続ける今回の犠牲者に対して、その遺族に対して、どんな顔をしてそのような言葉が吐けるのか。
自然との共生とか、秩序を守る日本人とか、まして俳句が日本の美学とか、お仕着せの、どこにでもころがっている「日本は特別」「俳句は特別」幻想に連結する短絡さについては、もうあえて口出しする気持ちにもなれない。

彼がどんな信仰を持っていても自由であり、それについて興味もないし訂正を求める権限もないが、これが小野氏のいう、俳句の持つ「骨の髄までの平和主義」「俳句の哲学」の所産なのだとしたら、彼の持つ俳句観とは、生涯、相容れることが出来ないだろう。
 

2011年3月18日金曜日

放送

 
「俳句王国」から連絡があり、明日19日午前11:00~、BSにて放送があるようです。
 再放送は来週水曜日の午前9:00~です。



テレビでは連日悲惨な状況、緊迫した事態が報道されていますが、関西では平常どおり。
震災を経験しただけに、安穏としていていいのか、なにかできることはないか、と焦るようなこともあるのだが、なにをできるというわけでもない以上、まずは募金や支援に協力するという程度である。

専用の口座を設けたりするところもあるようだが、口座振り込みの手数料がかかったりする場合もあるし、窓口が増えることで郵送や受け入れの経費、手間がかかるだけ、という考え方もある。大口の、日本赤十字やNHKなどに集中するのがベターと考えられる。


節電ということに関しては、次のようなブログ記事を見つけた。

続・「節電すべきか」という疑問に対する回答(東北電力、東京電力地域以外)/原 悟克

政府公式の見解、大手メディアの情報だけでは安心できないという場合は自分で情報を探すしかなく、現在はそれに相応しいツールもたくさんあふれているが、ネットの情報こそ玉石混淆、自分で取捨選択する必要がある、というのは情報リテラシーの鉄則である。

ネットで目にはいる情報は「自分で見つけた」と思って鵜呑みにしがちであるが、自分が信じられるかどうかをまず判断。それでも、次にまわしていいかどうかは、さらに要注意。他人まで巻き込むことはない。普段信頼している人だからといって、すべての本質を見抜く力があるわけではない。メディアのコメンテイターも同じ。
こんなときだからこそ、情報は冷静に、ご自身で判断ください。
上のブログ記事も、正しいかどうかの判断までは保証しかねるが、ひとまずわかりやすいと思うので引いておきます。なにかお役に立てば幸い。

 

2011年3月13日日曜日

国難

 
先日記事の「BS俳句王国」は当然放送延期。予定は未定です。

10日の16時ごろに担当の方から電話があり、そのときはこれほどの事態とは想定できなかったために「明日までニュースが続くことはないと思うんですが…」というお話だった。
いまになってみれば、なんと平和な話だったか。


阪神間ではほとんど揺れは感じなかった。なにか「ゴッ」という音が聞こえたような気がしたので、そのときは(雨が降っていたこともあり)「春雷?」と思った程度であった。
ビルの上層階にいたひとは長い揺れを感じたようであるが、交通網に影響が出ることはなかった。
ニュースを見て、宮城沖の地震で関西まで揺れが伝わるというのはどういうことか、といぶかしんでいたところが、津波の情報が入り、次第次第に被害の状況が明らかになっていった。

正直なところ、こちらにいるとまだ実感がない。俳句関連の友人知人たち、blogやツイッターで見る限り、関東の被害は東北に比べ少ないようで、すこし安堵。
しかし研究会で知り合いの東北大の方に出したメールには返信がない。地震発生のときに仙台におられたのかもよくわからないが、もちろん無事で、周囲の被害状況からメールしている余裕がないのだ、と思うことにしている。
阪神淡路大震災のときも、ほかの地域ではこんな気持ちだったのだろうか。あ
のころ私はまだ小学校四年だった。電気は比較的はやく通じたが、断水が続き、ご近所で井戸水や給水車の配給に並んだ記憶がある。



チェーンメールがまわっているようである。
枝野官房長官も情報の真偽については冷静に見極めるよう会見していたが、基金などではなく「節電」「節約」を呼びかけるくらいのメールだと、無害と判断してまわしてしまう人も多いかと思われる。

関西電力の公式HPより抜粋する。

このたびの東北地方太平洋沖地震により被害を受けられた皆様に心からお見舞い申し上げます。当社は当社名で震災に関連してお客さまにチェーンメールを送ることはございませんので、ご注意ください。

また、先日話題にしたyahoo知恵袋に、次のような投稿がある。


チェーンメールですよね?
■お願い■関西電力で働いている友達からのお願いなのですが、本日18時以降関東の電気の備蓄が底をつくらしく、中部電力や関西電力からも送電を行うらしいです。一人が少しの節電をするだけで、関東の方の携帯が充電を出来て情報を得たり、病院にいる方が医療機器を使えるようになり救われます!こんなことくらいしか関西に住む僕たちには、祈る以外の行動として出来ないです!このメールをできるだけ多くの方に送信をお願い致します!

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1457480929

この場合見ていただきたいのは「アンサー」ではなく、「投稿」と同文のメールがまわってきていないか(「友人」を名乗るメールが実は一斉に回っているチェーンメールではないか)ということである。
実際に有効な手段であれば、公式機関が公式手段を使って大々的に告知するはずである。大きな被害をうけてはいるが、現在安全な地域の人間は有効な判断をするだけの余裕が残っている。個々ができることをできるように、冷静に準備しておくべきである。



※補記 17:20、関西電力HPの告知が更新されているのを確認したので再掲。
○このたびの東北地方太平洋沖地震により被害を受けられた皆様に心からお見舞い申し上げます。
○当社はお客さまへの安定供給を維持した上で、11日夕方から、電力各社協力しながら融通可能な範囲で最大限の電気の融通を行っております。

[注]○なお、今のところお客さまに特別に節電をお願いするような状況にはなく、当社名で震災に関連してお客さまにチェーンメールを送ることはございませんので、ご注意ください。
[注]東日本と西日本では、電気の周波数が違います。従って、関西電力の電気を東日本に送るには、周波数を変換しないといけません。この周波数変換施設の容量は上限が決まっております。


こんなときにこんなblogを訪れてくれる人も少ないと思うが、なんらか役に立つ情報でも提供できればと思います。
 

2011年3月11日金曜日

告知。付・総合誌のこと


季刊『俳句研究』春の号(2011.03)に、「第七回鬼貫青春俳句大賞受賞」ということで作品を掲載いただいております。



今週12日(土)11:00~放送の「BS俳句王国」に出演しております。
主宰は宇多喜代子さん。ゲストは女優、富士真奈美さん。「新撰組」相子智恵さんも一緒です。
http://www.nhk.or.jp/haiku/


収録は実は1月頭だったのですが、明日放送。再放送は水曜日。

ちなみに「BS俳句王国」のBS放送は今週まで。次回からは地上波で30分番組になるそうです。偶然にもBS最後の放送の出演者となりました。



関西俳句なう」も順調に起動中。
3月はそれぞれのテーマを一旦やすみ、「特集 坪内稔典 1984」を実施。
特集趣意を貼っておきます。

特集は、3月の1か月間連続。
「坪内稔典1984」と題し、1984年(昭和59年)以前の、坪内稔典氏および、その周囲の関西若手俳人の作品や俳論にスポットを当てます。
1984年と言えば、坪内氏40歳。『船団』創刊一年前。
関西俳句なうの執筆メンバーでは、まだ生まれていない者もいます。
2011年の若手俳人が1984年にタイムスリップし、当時の作品とどこまでコラボできるかという試みです。



『俳句研究』は一度廃刊になって以来、直販形式で店頭に並ぶことがなくなったので、見開き1ページのために買って読んでくださいとは言いにくい。ただ季刊になったぶん、一冊の分量が厚く、読み応えは充分である。
すこしでも購買促進につながることを期待して、目次からざっと主要なものを取り出してみると、
  • 巻頭作品33句 「東より 鷹羽狩行」
  • 作品10句  綾部仁喜、有馬朗人ら23名
  • 招待席  大久保白村ほか10名
  • 8句新詠  冨田敏子ほか10名
  • 新主宰登場8句
    松岡潔(渋柿)、古賀雪江(雪解)、伊藤伊那男(銀漢・春耕)、大谷弘至(古志) 
  • 自選自解 大石悦子 名取里美
  • 第8回30句競作入選作品 管野めぐみ、水野紀子
  • 第9回30句競作入選作品発表 「何か待つ 糸井芳子」
  • 第二回桂信子賞発表 受賞記念10句 「春隣 文挟夫佐恵」
  • 第六回島原「蕪村忌」大句会
    辻田克己、大石悦子、茨木和生、岩城久治、黒川悦子、中西夕紀、立村霜衣、藤田真一ほか
  • 特集 今井杏太郎の世界
  • 追悼 皆川盤水
  • 新連載 俳文のすすめ 堀切実
  • 新連載 駘蕩たる句境 高柳克弘
  • ロングインタビュー 斉藤夏風 (聞き手:神野紗希)
  • 俳句の醍醐味 室生幸太郎/永島靖子
  • 現代俳句を語る(最終回) 高野ムツオ、星野高士、井上弘美、田中亜美
  • 第7回鬼貫青春俳句大賞受賞作品30句 「こむらがえり 久留島元」
  • 恭二歳時記  小林恭二
  • 大人の文学 仁平勝
  • かたまりかけてこんなもの  小川軽舟
  • 年鑑自選作品集を読む 中村和弘、藤田哲史ほか
  • 「冬の作品集(本誌前号)」を読む  山田佳乃、関悦史、田島健一ほか

といった感じ。
時評やエッセイはおびただしいので適宜選出したが、「新撰組」などでおなじみの若手たちも執筆していてたのもしい。
特に「座談会」は最終回を迎えたが、4人の作家が俳句甲子園など若手世代の句にもリアルタイムに向き合っていてとても興味深い内容。
今回は特に田中亜美さんが田島健一氏の作品をめぐって星野、井上両氏と意見を戦わせており、ネット上でもいくつかそれに反応する声があがって興味深い問題提起となった。もっともこれは世代間の問題というより、俳句に対するスタンスの差に見えたが、「わからない若者俳句」に押し込めようとする意図を感じたのはひが目だろうか。

しかし、目次だけでも相当の重圧である。
『俳句』に比べると「俳句上達」のためのセオリー解説などは少なく、比較的「読む」「詠む」ほうに特化した誌面作りを意識していることがわかる。
これは「俳句研究」の伝統を充分意識しているのだろう。

ただ(載せていただいて不平を言うのもなんだが)、記事のバラエティの広さというのは、案外善し悪し、である。季刊だからやりたいことを一巻に詰めたい、というのも分かるのだが、いささか欲張りな誌面だとは思う。

端的に示すのは、執筆者の顔ぶれ。
たとえば大石悦子氏の名は「特集 今井杏太郎」と「自選自注」両方に見える。
優れた書き手に頼みたいのは当然だが、記事を書ける人が少ないなら、書ける人にもっと重厚な論陣を張っていただいたほうが、どちらにとってもいいのではないか。
ちなみに、この「特集 今井杏太郎」だが、編集部選の「100句抄」や大石氏ほかの小論、八田木枯、鴇田智哉氏ほかの一句鑑賞などそれなりに充実したラインナップであるにもかかわらず、なぜ今井氏をとりあげたのか、今井氏本人はどういう来歴でどういうお人柄なのか、そのあたりのフォローが一切ない。
「皆さんご存知」という前提なのだろうが、一方で別の「インタビュー」「追悼特集」「自選自注」が並んでいるのをみると、どこを見てよいか悩む、というのが正直なところだ。

せっかくの季刊誌でじっくり読めるのだからこそ、もっと焦点を絞った特集も読みたかった、というのは、これはすでにナイモノネダリの領域だろうか。

近頃、「関西俳句なう」の特集に関連して、1980年代の『俳句研究』バックナンバーを眺めることが多いのだが、この時代は本当に熱い。
よく言われることだが、高柳編集長時代の「特集」は、雑誌一冊がそのまま研究資料集になるというものが多く、文字通り「俳句研究」の基礎資料となっている。

いま、あの時代の誌面を超えるのはかなり難しいと思うが、一方で、新たな批評の場や論客は確実に台頭している。俳句批評は、いま、確実に「凪」の十数年を脱しつつあると思う。

※ 一度アップしてから、一部加筆訂正。



参考.
週刊「川柳時評 川柳の「場」はどこに?」

たじま屋のぶろぐ ある座談会について
閑中俳句日記(別館)関悦史 「鷹」2011年2月号
週刊俳句 Haiku Weekly: 【週刊俳句時評 第26回】神野紗希
たじま屋のぶろぐ 「なう」についての疑問(その2)
 

2011年3月6日日曜日

オタクはいく、付・個性のこと

 
そういえば以前教えてもらった「オタク俳句」というのがある。

http://hon-yomi-hp.seesaa.net/article/160859891.html

 髪洗ひ使徒襲来の夜明けかな

なんかは、案外悪くない。この試みはツイッターで展開されていたそうで、コメント欄には「宗匠」役に千野帽子氏も登場する。


「関西俳句なう」の「俳句な呟き」vol.8(2011.02.20) では、船団会員ゆにえす氏のサブカル俳句の試みを紹介した。

  また春が来る磯野家の不老不死  ゆにえす

磯野家住人を扱った句では最近、『超新撰21』に収められた久野雅樹氏の句、

  バカボンもカツオも浴衣着て眠る  久野雅樹

が話題になった。
たしかにマンガ的無理を感じさせない佳句であるが、個人的にはあまりにALL WAYS的情趣が強すぎ、つきすぎ、という感想を抱く。
昭和のマンガの住人である彼らがノスタルジーに馴染みやすいのは当然だが、不条理ギャグと新聞マンガとを同列にノスタルジーに回帰させてしまうのは、作られた昭和像を補強しているだけではないだろうか。

ゆにえす句の内容は、日常会話でありふれた「年を取らないサザエさん」という話題にすぎないが、「不老不死」という語の選択により、「また春が来る」不気味さが倍増され、素材にたよりすぎない問題句たりえていると思う。なにより、昔のマンガを読んでいる、正直な違和感が基底にあることが、久野句との明確な違いになっている。



以下、無用の駄文「個性について」。

句集の刊行時期から言って、ゆにえす氏の挑戦は比較的早い段階で意識的に行われたものと言っていいだろうが、おそらく日本各地でオタク気質の人によって同様の試みがされており、「新しい試み」と評価されていると思われる。
これまで局所的に行われていたであろう試みを、しかし一望できる可能性が出ているのは、特にこうした試みがネット周辺で行われる可能性が高い(高かった)からである。


インターネット時代の時代の「挑戦」は、つまり、それら個々のレベルで行われていた挑戦を見渡した上で、さらに半歩でも先を行く、ものでなくてはいけない


唐突だが、インターネットの普及は、特別メディアを持たない我々のような個人にも、情報送受信の容易さをもたらした。HP、BBS、blog、ツイッター、そして近頃話題の「知恵袋」。

テレビの報道番組では例の「カンニング問題」について、判で押したように「前代未聞のネット利用」とキャッチフレーズをつけているが、ヤフー知恵袋を覗いたことのある人なら、このような事件が起こるであろうこと(あるいは過去現在起きているだろうこと)は容易に想像ができたはずだ。
知恵袋を見ていると、日常我々が思いつくたいていの疑問は繰り返し質問されているし、それぞれに「ベストアンサー」が付けられている。それぞれが的を射ているかどうかはともかく(今回カンニング事件に寄せられた解答も不正確だったらしい)、日常を生きる範囲内において、ある程度の解答を得られれば、まず問題はない。

なかにはこんな質問もある。

「三月の甘納豆のうふふふふ」この俳句の意味を教えてください!
「三月の甘納豆のうふふふふ」という俳句の切れ字と区切れを教えてください!

憶測するに、国語の宿題で出された問題をそのまま投稿したのではないか。
そうではないとしても、国語の授業で習った「俳句」と、坪内句とのギャップに対して生じた疑問をそのまま投稿したもの、であるのは間違いない。
こうした疑問は、おそらく、この句に接した全ての人が共通して抱くだろう疑問である。
分かれるのは、このあとだ。

「ベストアンサー」に満足するか、
その先へ興味をもって進んでいくか。

ネットがもたらす情報の多くは、結局、多くの人が抱く「共通の疑問」レベルに止まる。人間が日常生活を営んでいて出会うあれこれ、そこで思う疑問などに、そんなに違いがあるわけではない。だからたいていの会話は、共感と相づちで成り立つ。
その先へ進むためには個々が能動的に情報(知識)を摂取、解読していく必要がある。
ありのままの自然体で進んだものが共通レベルを超えているということなど、まぁ、ありえない。
まずは共通レベルを見渡すこと。
そのうえになにかを積み上げることができれば、それがはじめて「個性」と呼ぶべき範疇に入るだろう。

えーっと、何が言いたいかというと、「小主観」が実は「月並」にすぎないから、「個性」を言いたければ「月並」の知識を蓄えて何が「個性」か見極める眼力養えよ、みたいな、意外と俳句の王道の話題。

2011年3月4日金曜日

にっき。


先月末。俳都・松山へ行ってきました。

26日晩に三ノ宮発のJR高速バスで出発し、27日早朝6時前に懐かしの大街道に到着。

まだ真っ暗な三越前に立ちつくし、さて時間を潰すところなんかあるだろうかと思ってぶらぶら歩いていたらマンガ喫茶を発見したので早速入店。一寝入りするつもりが、ふと『ぬらりひょんの孫』読みはじめて、まったく眠れず。知らないうちにかなり巻数重ねてますね。
ほどよい時間になってしまったので、大街道のマクドナルドに移動し朝マック。
ここは店構えが高校時代とまったく変わっていないわけで、後輩連中とがやがや俳句を作っていたことを思い出しつつ、移動を開始。

午前中は、愛媛大学で佐藤栄作教授(文香父)主宰の研究会に紛れ込ませてもらいました。
正式名称は
「役割語」の視点を導入した写生文・「写生」の日本語学的新研究というそうですが、ゲストスピーカーで関悦史さん、青木亮人さんが来松されると聞いていたので、文香氏に無理をお願いして参加させていただいたわけです。

関さんのお話は相変わらず多岐にわたって問題点を指摘しておりついていくのが大変。
よく考えると一番専門から外れてるのは私ではないかと途中で気づき、冷や汗。

なんか適当なことをしゃべった気もしますが、よく覚えてません。

お昼ご飯は道後のお米カフェにて。(たぶん
これ
ご飯の最中にも談論風発、いろいろ意見が飛んでいたのですが、そこで高知大の塩崎先生からルーズリーフがまわされ、いきなり連句がスタート。
関さんが発句で、塩崎宗匠指導のもと、全員参加の素人連句。二週くらいしたので半歌仙くらいにはなったんでしょうか、よくわからないうちに幕切れとなり、結果もどこへ行ったか。

人生初の連句でしたが、『俳句生活』で連句経験のある紗希さんを交えて、連句は参加者以外にはおもしろくない、活字文化に馴染まない、みたいな話題に。紛れもなく丸谷才一の本は文人の自己満足だと思います。
さらにそこから、現代人の教養という点では「アニメ連句」「ガンダム連句」ができるのではないか、という話題に転じ、ガンダム連句の場合は「月の座」をどう捉えるか、という議題に ……。
ちなみにこのときお酒は一滴も入っていません。



午後は子規記念博物館の冬季子規塾へ参加。池田澄子氏、橋本直氏の講演「国語で俳句を教えるの」を拝聴。

橋本氏の演題は「子規、教科書に載る」。
池田氏の演題は「子規と私との関係」。

全体とおしても、なかなか問題は根深い。表面的にやろうと思えばやれたんでしょうが、二人ともそこは正面から問題にぶつかっていかれたので、どーも隔靴掻痒。

まず根本的な問題として、俳句を国語教育の一環として教えるべきかどうか、ということ話題が、本来はあるべきだったでしょう。

もちろん橋本氏の講演はそのあたりを射程に入れたものであり、レジュメ中にも「俳句が教科書に載るということはどういうことなのか」と発問して、教育の中で俳句が「美しい」「伝統文化」と扱われることに対する違和感に言及がありました。
一方、池田氏は、中高時代の授業では俳句の記憶がない、としたうえで三橋氏との師弟関係を通じて子規『俳諧大要』を知った、と話し、俳句を作り続けていくなかでご自身が心がけている点などについて言及していました。

これについては後日、改めて。


後半の対談形式では、佐藤文香氏が絶妙の司会を展開。
相手の話に半畳いれたり、適度にぶち切って話題を展開する手際はなかなかのもの。役者ですね。
コーディネーターから司会まで一日お疲れだったと思うのですが、最後はなんとかゴールにもちこみ、「俳句を教えるには俳句を好きになってもらうことから!」と、自分のフィールドできれいに終わらせました。らぶですね。



夜は懇親会。
松山在住の方々や池田澄子さんを追いかけてきた一行とも合流して大宴会。
…なんかうるさい後輩がいたような気もしますが、そのへんは気にしません。
最終的に私は小西昭夫さん(子規新報)、東英幸さん(船団松山)、岡田一実さん(いつき組/城戸朱里賞)などとともに真夜中まで。松山の夜を満喫させていただきました。

というわけで、朝からまる一日俳句つながり。松山の皆さん、研究会・講演会参加の皆さま、大変お世話になりました、ありがとうございました。



俳句と教育、とか、個性の表現、とか、いろいろ思うところはあるのですが、当たり前のようなことばかりが去来してまとまりません。
ひとまず今回は、珍しく純粋に「日記」ということで。