2017年12月29日金曜日

〈わからなさ〉について。


備忘録。




参考。

「わからない」というのは、たぶん櫂未知子さんの評に関してであろうかと思う。
「わからない」といえば、櫂未知子さんの一連の評が話題になっている。
鴇田智哉(昭和44年5月21日生/オルガン)
  交錯がしたいかひやぐらのわたし  『俳句』6
  あめんぼを撥ねたる痕の数多なる  『俳句α』6・7
  ページとも皮膚とも春の乾きたる  々
 わからないが、若いかたがたの一部はじゅうぶんわかっているようだ。真似のできないことだけはわかる。 
関 悦史(昭和44年9月21日生/翻車魚)
  水澄みて鬼哭の如き日暮かな  『豈』59
  国寒く膝から蝶が出て困る   々
  わが時間破裂してゐる桜かな  『俳句』6
 ここに挙げた作品は割合にわかりやすいもの。前書を前提とすることで初めてわかるものや、かたまりで読むことで意図が見えてくるものなど、なかなか手ごわい。懐かしき(ように見える)前衛に回帰しようとする風潮は、氏の登場によって加速されたように思う。 
甲斐のぞみ(昭和48年7月5日生/百鳥)
  一本の川のまはりの冬田かな  『百鳥』5
  拭き上げて卒業式のピアノかな  『百鳥』6
 まことにすこやかである。ただ、ここから半歩、あるいは一歩だけ、謎を加えてみたい気もする。 
田島健一(昭和48年11月28日生/炎環・豆の木・オルガン)
  霧よ着られる霧よきらめく日本刀  『炎環』1
  ついてきた狐と喫茶しているよ  『炎環』4
  みなが霧感じてバドミントン大会  『豆の木』May
 さんざん調べた、読んだ。でもわからない。私には氏の作品を論ずる資格がないようだ。
いずれも『俳句年鑑2018年度版』2018.12.7より。
下線部は引用者による。

このあたりの「謎」「わかりやすい」「わかりにくい」、なんだろう。

「わからない」をマイナスの評価として考えて、また「わからない」ものをありがたがる「若いかたがた」への皮肉として使っているのであれば、それでいてなお、こうして同じように並べるのは評者自身の選句基準への自信喪失ではないか。
「わからない」を「評価できない」という意味で用いているなら、こうしてあげていく必要はなく、せいぜい一句引いて「人気らしいが、わからん!」と突き放すべきであろう。
なぜならここにあがった作者は結局40歳代のごく一部・評者の視野に入った作家をあげているにすぎないのだから、わざわざ名をあげ句をあげて「わからん」というのは、他人の評価に拠って「人気らしいです。私わかんないんですけど」と言っているわけで、誰も櫂未知子にそんな自信なさげな評は望んでないのである。

ということで、むしろ櫂未知子のいう「わからなさ」と、「謎」の境界線については、たぶん櫂さん自身や、その周辺の作家によって、もっと丁寧に掘り下げられていい問題ではないかと思う。

2017年11月25日土曜日

LINE



「LINE」
さわやかに大学爆破予告ファボ
本日の#トレンド #良夜 #月をシェア
既読スルーされたまんまで紅葉狩り
枯葉彼ぴパリピパーティみんな夢
圏外のスマホ暖かなればよし
インスタに映える柚子湯の入り方

2017年10月25日水曜日

第14回鬼貫青春俳句大賞募集【2017年11月15日(水)必着】


芭蕉とほぼ同じ時代を生きた上島鬼貫は10代からさかんに俳句を作り、自由活発な伊丹風の俳句をリードしました。そこで、柿衞文庫では、今日の若い俳人の登竜門となるべく「鬼貫青春俳句大賞」を2004年から募集し、今年で14年目を迎えました。また、昨年から10代のかたを対象にした敢闘賞を新設しました。若い世代の皆さんの意欲的な作品をお待ちしています。
●募集要項●
 ☆応募規定・・・一人俳句30句を一組として応募(新聞、雑誌などに公表されていない作品)
 ☆応募資格・・・1988年生まれから2002年生まれの方
 ☆応募方法
  ・作品はA4用紙1枚にパソコンで縦書きにしてください。
  ・文字の大きさは、12~15ポイント。
  ・最初に題名、作者名、フリガナを書き、1行空けて30句を書く。
   末尾に本名、フリガナ、生年月日、郵便番号、住所、電話番号を書く。
  ・郵送またはFAXで下記まで。
   ※応募作品の訂正・返却には応じません。
   ※応募作品の当文庫への到着については、各自でご確認くださいますようお願いいたします。
  ※応募作品の著作権及びこれから派生する全ての権利は主催者に帰属します。
  ※個人情報は表彰式のご案内および結果通知の送付に使用し、適正に管理いたします。
  また、柿衞文庫の事業のご案内をさせていただくことがございます。
    公益財団法人 柿衞文庫(こうえきざいだんほうじん かきもりぶんこ)
     〒664-0895 兵庫県伊丹市宮ノ前2‐5‐20
     電話/072-782-0244  FAX/072-781-9090

 ☆応募締切・・・2017年11月15日(水)必着

 ☆公開選考会・表彰式・・・2017年12月16日(土)午後2時~午後5時(予定)
   於 柿衞文庫 講座室(兵庫県伊丹市宮ノ前2‐5‐20)
              ※当日はどなたでもご参加いただけます。

  ◎選考委員による公開選考会
    稲畑廣太郎氏(「ホトトギス」主宰)
    山本純子氏(詩人)
    坪内稔典氏(柿衞文庫 也雲軒塾頭)
    岡田 麗(柿衞文庫館長)
    伊丹青年会議所 専務理事         以上5名(予定)

  ◎賞について
  大賞1名〔賞状、副賞(5万円分の旅行券)、記念品、「俳句」誌上に受賞作品を掲載予定〕
  優秀賞若干名〔賞状、副賞(1万円分の旅行券)、記念品〕
  ≪10代のかたを対象にした賞≫
  敢闘賞1名〔賞状、選考委員坪内稔典先生の直筆色紙、記念品〕

主催:公益財団法人 柿衞文庫、也雲軒
共催:伊丹市、伊丹市教育委員会
後援:伊丹青年会議所、角川『俳句』


2017年10月18日水曜日

タイムライン


タイムライン

 秋郊にマジレスしちゃう垢ですか
 FFの外から轡虫します
 ねこじゃらしほどのつながりファボひとつ
 僕@bokuさんは8割少女2割秋
 究極のかまきりbotさんがフォロー
 インスタに映えない精霊火だよね
 野分近づく今日もツイ廃ぼくら
 タイムラインコロッケあふれ台風来
 タイムライン出水見にいくなかれ友
 タイムライン台風一過の青あふれ
 尊いねたかぶるねマジ紅葉だね
 古典系クラスタ発狂破芭蕉
 お気に入り動画永遠長き夜
 秋の風手紙にいいねボタンなし

2017年9月19日火曜日

天の川銀河発電所のこと


「俳句を、よろしくお願いします」

のキャッチフレーズとともに、佐藤文香編『天の川銀河発電所 Born after 1968』(左右社)が刊行された。
サブタイトルにもあるとおり、1968年生まれ以降の作家を集めた、俳句のアンソロジーである。
これに類する若手アンソロジーとしては『新撰21』ほか邑書林の3冊のほか、私も加わった『関西俳句なう』(本阿弥書店)がある。対象としては多くが重複しているが、まったく新しく、本書ではじめて出会った作家もいる。
既刊アンソロジーが少なくないなかで、この本の新しさはなんだろうか。
まえがきを引く。
俳句の世界へようこそ。
今、俳句を読んでみるという選択は、アリだと思います。
(略)そのジャンルについて全然知らなくても、本当に面白いものに出会えば、興奮しませんか。願わくばこの本で、今のあなたにとって最高の一句に出会ってほしい。
そこで本書は、「現代俳句ガイドブック」としました。今、私たち比較的若い俳句作家が面白いと思う作品が、このジャンルのなかでどう面白いか、どう新しいかを、ふだん俳句を書かない人にもわかるように紹介しようと努めたものです。この短さで、これだけの多様性が生まれるのか! と思っていただけるだけでも嬉しいです。
(略)そして、これから追いかけたい作家を見つけてください。
俳句を、よろしくお願いします。
一読、懐かしさに包まれる。
佐藤文香の一連の活動、それこそ10年くらい前から、BU:819なんて名乗っていたころからの主張が、形になったのだ。(昔話でごめん)

ガイドブック、というスタンス。
入門でもないし、鑑賞でもない、ましてこれが俳句の全てだというわけでもない。
ただ、佐藤文香という編者の目を通して、一番「おもしろい」「かっこいい」「かわいい」と思う作家たちを、惜しみない愛情でもって「紹介」している本なのだ。
佐藤文香が、「あなた(読者)」に、自分の好きな作家、読んでほしい作家、を力いっぱいオススメしている、そんな本なのである。
(主語が【私たち若い俳句作家】と複数形なのが若干気に掛かるところではある)

私と佐藤文香の目指す俳句は違うけれど、佐藤文香の活動は、いつも私にとって魅力的であり、刺激的である。
今度の本も、すばらしく魅力的な性格と、ただここちょっと、と言いたいところと、いろいろある。いくつかあげてみよう。

まずいいところ。
  • 熱い
編者・佐藤文香が本書にかける情熱は、前掲の序文でも伝わると思う。
収録作品を「おもしろい」「かっこいい」「かわいい」という独自の3分類にふりわけられた構成とか、公募作家を選んだ選考過程を逐一説明する手際とか、全体にこの本、編者のこだわりが熱い。
  • わかる
「特にいまが旬」な18名は81句、公募を含む36名は39句が収録されており、前者には解説の対談、後者には佐藤による寸評がついている。
俳句を読み慣れていない人はこれを頼りに読み始めることができるし、読み慣れた人にもそれぞれの作家の個性を知る手がかりになる。
巻末につけられた「収録作家分布図」は、収録作家を「軽/重」「ホット/クール」の基準でチャートっぽくふりわけたもので、物故作家の配置とともにおもしろい。
こういうのは厳密性が求められるより、読むときのてがかりとか、俳句仲間と話すときのきっかけくらいになれば上々である。これをサカナに、あれこれ言い合うのは結構楽しい。
  • 若い
平均年齢70代といわれる俳句界のなかで、収録作家の若さは特筆すべきである。
『新撰21』だってかなり若かったが、本書には堀下翔、大塚凱、山岸冬草(1995年生)宮崎莉々香(1996年生)を下限として今泉礼奈(1994年生)、小野あらた(1993年生)と若い作家が目白押し。
今回私自身もまったく知らなかった若い作家に出会い、驚いた。『新撰21』の最年少メンバーだった越智友亮や、これがアンソロジー初参加となる中山奈々、生駒大祐らも、もはや中堅の域である。
  • 復活
個人的な感傷を付け加えるが、『新撰21』収録作家でもあった越智友亮、藤田哲史のふたりが、健在な姿を見せてくれたのは嬉しい。
しばらく俳句から離れた時期もあったふたりだが、幸い短いスパンで帰ってきて、変わらぬ実力を示している。心から寿ぎたい。


こっから、悪いところ。
  • 字が小さい
すでにあちこちで声があがっているが、字がこまかい。
この細かさは、老眼にもつらいだろうが、単純に言ってかなり内容に関心のある人でなければ読みこなそうと思えないだろう。
たくさん句を収録したかったのだ、という気持ちはわかるが、それにしては行間が広い。行間が詰まっていたら、逆に読みやすかったような気もする。
俳句に関心のない層に届けたいという編者の思いがあるだけに、このレイアウトはなんとかならなかったのだろうか。
  • 熱盛
いいところとして編者の熱意をあげたが、いささか熱すぎるところもある。
  • 対談
本書の特徴として、18名の作家については佐藤文香と先輩作家による解説対談(実況)がついており、実況中継風に作品を読み解いている。
「おもしろい」には上田信治氏、「かっこいい」には小川軽舟氏、「かわいい」には山田耕司氏、と、かなり個性的な面々で、これが功罪半ばすると思う。
解説自体は読み物として大変面白いのだが、何しろ3人とも図抜けた批評家ばかりなので、佐藤文香にプラス3人の個性が加わって、いささか情報過多という気になる。
ちなみに、36名の作家に対してつけられた佐藤文香の寸評は、短くまとまっていてとても読みやすかった。それぞれの作家の、いわゆる特徴や長所とは少し違うと感じるところもあったが、佐藤文香自身が見いだしたツボという感じがして、読み応えがある。
「旬」の作家についても作家個々に論じるより、各章まとめて論じるとか、もうすこし薄めたほうがよかったのではないだろうか。

けっきょくぐだぐだと言ってしまったが、相変わらず佐藤文香の仕事は刺激的である。
先日東京で俳句仲間数名に声を掛けて食事をした際、そこに集まった人が全員本書を手にしていた。もちろん何人かは収録作家自身でもあったのだが、何も約束したわけでもないのに申し合わせたように全員が持参していた、ということが、やはり今いちばん俳句仲間とともに「語り合いたい」気分にさせてくれる本だということだ。


さて、そんな佐藤文香の『天の川銀河発電所』の、販促イベントが関西で開催される。
まだ残席があるようだからここで宣伝を手伝っておこう。

佐藤文香×正岡豊

『天の川銀河発電所born after 1968 現代俳句ガイドブック』刊行記念トーク&サイン会

講師/ゲスト 佐藤文香さん 正岡豊さん 
2017年10月07日(土) 18:00~19:30(開場17:30)
会場:梅田 蔦屋書店 4thラウンジ
参加費:1,500円(税込)
定員:80名
主催 梅田 蔦屋書店
共催・協力 左右社 / 毎日新聞出版「俳句αあるふぁ」
申し込み:蔦屋書店


また翌日は、せっかくの来阪にあわせて関西現代俳句協会青年部で勉強会を企画した。
こちらは若手の歌人・岡野大嗣氏をまねき、短詩型の現在について自由に語り合ってもらう予定である。

「佐藤文香(俳人) × 岡野大嗣(歌人)  フリートーク」

■ 日 時
2017年10月8日 (日) 10:30~12:00  (開場10:00)
■ 会 場
らこんて中崎1階(大阪市北区中崎2丁目3-29)
■ 定 員
20 名(要予約)
■ 会 費
500円
■ 申込・問い合わせ
E-Mail : seinenbu@kangempai.jp
■ 主 催
関西現代俳句協会青年部

午前中の開催ということもあって小さな会場を準備をしたのだが、はやくも申し込みが殺到し、残席僅少となっている。参加を希望される方はおはやめにお申し込みください。





2017年9月2日土曜日

つぶやき


これは、まったくの個人的な基準なのだが、作者の美意識とか倫理とかが前面に出ている俳句は、とても苦手である。「○○ありき」で作られている俳句、という気がしてしまうのだ。

「馬酔木」系の作家に対して、読まず嫌いが多いのも、おそらくそのせいだろうと思う。なんとなく代表句・有名句に気後れしてしまって、ほかの句を読もうという気になれないのである。

微妙なのが中村草田男で、暑苦しいなあと思いながら読んでいくと、あの腸詰め俳句と言われる詰め込み具合が、自ら美意識を壊しているというか、あふれ出ている感じは、好きにはなれないが笑ってしまう。
 妻抱かな春昼の砂利踏みて帰る 草田男
とかね、これはもう、笑うしかない。(妻抱かな、の上五だけで検索できますよこれ)

富澤赤黄男の切実さは、わりと好きだったりする。赤黄男なんて美意識のかたまりで、自分の好きなワードばかりで俳句を作っているような気がするけれど、全体の作品数がそれほど多くないからなのか、身を削っている感じがして、嫌いではない。
 恋人は土竜のやうに濡れてゐる  赤黄男
 切り株はじいんじいんと ひびくなり

このへん、まったくの好みと、先入観。
だから、意外と苦手に思ってる作家でも、腰を据えて読み直したら、好きな句がぽろぽろ出てくる、なんてこともあるかも知れないし、実際そういうこともある。いい加減なものだ。

一方、倫理が全面に出やすい俳句といえば、戦争(反戦)、原爆、震災(災害)、なんかがそうだろうと思う。

社会詠については同様の批判がよくなされるので、あえて付け加えることもない。思想ありき、道徳ありきで作った句は、ゴールが同じところに収斂していく感じが、どうも苦手である。

社会的な情景でも答えを言わない俳句があって、答えは明らかなのだけどあえて読者に投げている、という句は、やっぱり面白い。
 戦争と畳の上の団扇かな 三橋敏雄
 前へススメ前へススミテ還ラザル 池田澄子

メッセージ性の強い俳句は、俳句を使っているだけで結局散文で表明したほうがいいようなものだと思う。フォークソングなんかのなかには、メッセージ性をふくめて名曲とされるものが多いけれど、わざわざ極小詩型のなかで思想を込める必要はないと思う。

山口誓子の面白いところは、メーデー(労働者祭典)とか、クリスマスを詠んでも、明らかにそこに興味がないというか、思想的なものに入り込まずに、目にうつることだけで作り上げるところ。
 メーデーの朱旗奪られじと荒るゝものを 誓子 「黄旗」
 メーデーの道が揺ぐと子は思ふよ
 柊がサラダにありし聖夜餐  「構橋」
 ホテルの聖樹覗きし鈴に玉は無し 「大洋」

『季語別山口誓子全句集』(本阿弥書店)によれば、誓子は『凍港』時代にもクリスマスの句をいくつか作っているが(昇降機聖誕祭のとつくにびとと、わらべらに寝ねどき過ぎぬクリスマス)、「柊が」の句は昭和28年頃に作られたもの。親族の菅沼家でふるまわれたクリスマス晩餐会で作ったものといい、近所の教会で葉書大のカードに書いて配られたこともあるという。
菅沼家は、義弟山彦(波津女の弟)の妻、訓の実家。カトリックの信者であった。

誓子には自分をキリストに擬したような句があるが、
 万緑やわが手のひらに釘の痕もなし 「青女」
 昼寝の中しばしば釘を打ち込まる
信仰心というより強烈な自意識、自尊心のあらわれという感じで、倫理とか美意識とかとは違う気がする。変な句だと思うが、押しつけられている感じはしない。
 雪嶺の大三角を鎌と呼ぶ 「方位」
になると、自分の見立てに酔ってる、自己陶酔の感じがするけれど。

美意識、倫理の枠組みで作られた句は、一般論でいうと枠組みのなかに収まってしまって、もちろんある程度「美しい」し、「意義深い」と思うこともあるが、しかし、結局はそれだけのものだ。
それを素材として扱うことは否定しないが、ストレートに、正面から扱った作品には、あまり興味が持てない。一句ならかろうじて「かっこいい」「おもしろい」ものでも、まとめて読むと息苦しい感じがしてきて、いけない。

難しいのは、BL俳句とか○○俳句といった、一種の「題詠」も、ある程度完成した美意識を前提にした句になってしまう可能性があるということ。
ふるい話だが、かつて田島健一さんがしたBL俳句批判は、ここにつながっていると思う。
苦手、というより、その都度、残念だな、と思う。
震災俳句も、吾子俳句も、BL俳句も、そこに意味が固定する、という点でことごとく残念だ。

これに対して私はかつて、「「BL俳句」のごく一部にしか有効でない」と述べた。

この意見は変えるつもりはないけれど、同時に、私のようにBLに対して思い入れが少なく、バリエーションが少ない人間は、固定された美意識で書いてしまう。田島さんは「意味」という語彙を使っているけれど、要するに俳句を多義的に読むことができなくなる、ということは、とても貧しい世界に思えてくる。

BL俳句の表現が「まだ全然実現されていない可能性がいくらでもあるのではないか」(関悦史の発言『庫内灯』1所収)のかどうか、またそうであるとして今後実現される可能性があるのかどうか、は、私よりもその表現に自覚をもつ作り手たちに委ねられるが、現在のBLジャンルの豊穣を横目に眺めるとき、確かに、思いがけない表現が生まれる可能性が今後ありうると思う。

なんの話だ。

つまり、美意識や倫理を前提とした句は苦手だが、その前提を持ちながら、前提を逸脱したり、くつがえしてしまったりする表現を期待したい、ということ。


2017年7月29日土曜日

句会の選び方


おもにツイッター上で、「歌会こわい」論争というものがある(あった)そうで。
経緯については、ツイッターのことだから追いかける・全容を把握するのが面倒である。
いったん収まったようだったのだが、大辻隆弘氏が朝日新聞の時評欄でとりあげたことから、しかも若干、問題意識にずれがあったことから、再燃していささか話題になっていた。以下のblogでまとまっているので、そちらをご参照いただきたい。

歌会論争:目がでかい
歌会論争(大辻隆弘氏の時評):目がでかい
大辻隆弘さんの朝日新聞の短歌時評「歌会こわい」に関するツイートまとめ :存在しない何かへの憧れl
(そもそも「論争」の当事者である「えりうに」氏のblog記事は、現在見られない模様)

別段、そんなホットな話題を枕にもってくる必要もないのであるが、さいきん、ネット上で知り合った方に「句会のありかた」についていろいろ質問されることがあり、句会と歌会とはずいぶん雰囲気が違うのかなあと思った。
私は、歌会というものにきちんと参加したことがないので、歌会のことはよくわからない。聞くところでは、歌会は句会よりも、評の時間がながく、また、とりあげない歌、票のはいらない歌についても議論するのが常であるという。句会の場合は、票のはいらない句については合評しないことが多いと思う。
とはいえ、句会も、千差万別、主催者・司会によって、進行も雰囲気もまったく違うことがほとんどである。指導句会や、勉強会的性格が強ければ、全句をひらいて、ひとつひとつ丁寧に添削、指導がおこなわれる場合もあるだろう。
おそらく、歌会も、それぞれに個性があるのだろう。私が聞いているのは主に学生歌会の話なので、一般的な歌会とも、またすこし違うのかもしれない。

私の周囲では、俳句が好きな人で「句会がきらい」な人は少ない。
むしろ、俳句よりも句会が好き、という人のほうが、多い印象がある。
もちろん、知らない他人と同席するのが苦手だとか、そもそも外に出るのがおっくうだとか、そもそも句会にあまり重きを置かないとか、句会に対する思い入れはさまざまである。句会に参加しないタイプの作家は存在するが、「句会嫌い」を明言する人は、少ないのではないだろうか。
小林恭二『俳句という遊び』(岩波書店)などを読むと、それもずっとそうだったわけではなく、小林著が出る以前は、句会といえば結社の指導句会が主流だったというような調子で書いている。
同じく小林の『実用青春俳句講座』などでは、小林自身が学生句会でおおいに楽しんでいる様子が描かれているし、それ以前に句会をやっていなかったわけではないだろう。

俳句史的な話をすれば、伝統的な句会は発句を提出しあう「句合わせ」(合評があまりない)、選者による指導がある「月次句会」などがおこなわれたが、明治24年ごろに伊藤松宇らが互選形式をとりいれ、正岡子規らが仲間同士で実践していった。
しかし、結社による大規模な句会が増えてくると互選で合評しあうことが難しくなり、選者を固定して、選者による指導・コメントだけを求める形式が主流となって、戦後をむかえた。互選は同格の「仲間」感覚がなければ進行しにくいから、結社ではなく学生句会や、一部の鍛錬句会などで行われていたようである。それが、小林著や、別派で坪内稔典ら句会を重視する論調が強くなり、句会が再評価されたという流れではないかと思う。

くりかえすが句会は、それぞれ主催者、運営者によって進行も雰囲気も目的も違う。定義としては「複数の人が、句を出し合って鑑賞・評価しあう場」という程度でいいと思うが、ここに「選者・先生による指導」を加えるかどうかは各人の判断となる。また「相互の鍛錬を目的とする」とするか、「俳句を共同で創造していく場」とするか、など、重点の置き方でずいぶんイメージは変わるだろう。

関連リンク:《作者主義/読者主義/いいね主義》by 斉藤斎藤 : 俳句的日常
句会は楽屋あるいはワークショップと捉えるので(句会は発表の場じゃないよ)、技術論にもなり、代替案・選択肢もときとして提示する。作者主義に近づく。 
一方、連作・句集は、楽屋ではない。すでに舞台だから、悦楽・愉楽する気満々で臨む。楽しめない句は心に残さず捨て去り、愉しめる句については、その瞬間瞬間、悦楽・愉楽に身を任せ、ときに悦楽・愉楽の謎に思いをいたらせたりする  


先に「句会の選び方」について相談されたときに返答したメモが手元にあったので、加筆修正して、「句会の選び方マニュアル」を考えてみた。(短詩型界隈のTwitterユーザーなら推測できるかもしれないので明かしておくと、この相手というのは「みやさと」@paststranger さんである)
メールの文章に加筆したので、かえって読みにくいかもしれない。
もし余力があれば、箇条書きにするなり、チャート式に「Aという場合なら→①」みたいな形でまとめて、句会案内がまとめられればいいな、と思うが、たぶん余力ないので誰か作ってくれるとありがたい。

また、念のため言っておくと、この「句会の選び方」は、あくまで私個人の印象と経験にもとづくものなので、間違いや誤解をうむような点があれば、ご連絡、ご指摘いただければ幸いである。
結社句会は、オープンで誰でも参加できるものと、結社会員しか参加できないものがあります。
おおまかに言うとホームページ等で告知しているものは外部の方にも開いている可能性が高いですが、これも程度があるので確認したほうがよいです。
会場や進行の都合があるので、事前に参加したいと幹事役の連絡先に相談するのが大人のマナーだろうと思います。兼題がある場合もあるので、ルールなども確認したほうがよいですね。
また、特に結社句会などの場合は、参加(見学)はできるけど後日入会するの前提だよね?というところも多いです。
どこの結社でも若手は大事にしてくれますが、合わないところに入ったら、人間関係など苦労されると思いますので、ご注意ください。
結社句会の場合は、基本的には指導者(選者)がいて、ある程度は主宰のめざす「いい俳句」が共有されていますし、参加者はそれを目指しています。 
そのなかで、先生以外でも、グループの古参の意見が尊重されたりしますから、添削や指導が入ることが普通だと思います。
先生に指導されたい人たちの集まりで、ひとりだけ議論をしようと息巻いても空回りしてしまいますし、それは「目的が違う」としか言えません。
しかし、結社句会のなかでも地方支部などで、ふだんは特定の選者(先生)を置かず、互選で自由に討論しあう、という句会も存在します。また、あとから句会に出た句を選者(先生)に送って、指導コメントをいただく、という形も多いです。
まあ、結社句会の場合は、内情を知っている人に紹介してもらうか、連れて行ってもらうのがベターだと思います。
あるいは、文化講座・カルチャースクールなどで、結社主宰の方が先生をしている場合、受講生も結局おなじ結社の人たちばかりで、結社の支部句会のようになっている、ということも多いです。
この場合、結社じたいに入らずにカルチャーとして(ビジネスライクに)おつきあいできるので、「この先生の結社興味あるけど、どんな感じかな?」という場合は、講座から入ってみるというのは、よいと思います。
あと、これはたぶん多くの若手もわかっていないのですが、結社と同人誌の違いも、すこし意識されるといいと思います。
同人誌ならいいのか、というと、議論するより仲間だけでまったりしたい、というグループもあると思いますし、同人誌といっても指導格の方がきっちりと指導される、という場合もあるでしょう。同人誌のほうが、バラエティはゆたかだと思います。

句会は、それぞれ考え方が違うので、厳密にはひとつずつ確かめるしかありません。
気に入った句会に出会って、そこでずっと研鑽を積まれる方もいますし、同じ結社・グループの句会を、毎月たくさん参加する、というタイプの方もいます。
あるいは気に入った仲間と気の置けない会話をしながらしたいよ、ということで少人数句会にとどまる方も、もちろんいます。
私の属している「船団」は基本的にどこでもオープンだと思います。他結社の人も出入りするし、初心者も歓迎です。指導も基本的にないので、典型的な互選の同人誌スタイルだと思います。
HPに各句会の予定あり。船団:各地の句会

以上、ご参考まで。

2017年4月29日土曜日

船団フォーラム


本日です。

第12回 船団フォーラム
『池田澄子百句』『坪内稔典百句』記念 口語の時代の俳句

日 時 :4月29日(土・祝)14:00~
 シンポジウム 「口語の可能性」
 ◇神野紗希: 俳人
   ◇橘 上 : 詩人・ミュージシャン
   ◇秋月祐一:「船団の会」会員
   ◇久留島元 :「船団の会」会員
 
 対 談 「思って、作って」 
  池田澄子 × 坪内稔典

会 場 : 神楽坂・日本出版クラブ アクセス





5月です。 関西現代俳句協会青年部 勉強会
「句集を読み合う 岡村知昭 × 中村安伸」



■ 日 時
2017年5月21日 (日) 13:30~

■ 会 場
コープイン京都小会議室203(京都市中京区柳馬場蛸薬師上ル井筒屋町411)

■ 内 容
1.  岡村知昭句集『然るべく』(人間社)を読む
    報告: 中村安伸、 久留島元 
2. 中村安伸『虎の夜食』(邑書林)を読む
     報告: 岡村知昭、 仲田陽子
3.  句集を読み合う (合評会)

■ 会 費
500円

■ 定 員
20名

■ 事前申込
E-Mail : seinenbu@kangempai.jp にお申し込みください。


※ 現代俳句協会の会員以外も歓迎します。当日は会場定員のため入れない可能性がありますので、できるだけできるだけ事前申込をお願いします。
 

2017年2月24日金曜日

俳句甲子園対策?型ゲーム


俳句甲子園対策に使えそうな、練習ゲームを考えてみました。

ABCの3チームに分かれます。最小は3人でも可能です。

まず「親」を決めます。ここではAとします。

「親」Aは、一句詠みます。渾身の一句をお願いします。
あるいは、自分の句ではない有名句を持ってきてもいいかもしれません。

BCは、攻守を決めます。仮に、攻B、守Cとします。

Aの句が出たら、若干の作戦タイムをとって、試合開始です。Bは、Aの句を徹底して攻めます。Cは、守ります。時間配分などは、俳句甲子園ルールに準じます。

大事なことは「他人の句」で、しかも「仮に攻守を決める」ことです。
Bは、自分の好きな句でも攻める必要があります。一方Cは、自分ではあまり良さがわからない句も、一生懸命アピールする必要があります。

初心者が陥りがちな俳句甲子園の誤解に、「自分の句は自分で守る」「相手の句はとにかくdisる」というものがあります。
いま全国大会でそんな勘違い・初心者は、ほとんど出場できないと思いますが、もしこのblogを、俳句甲子園初心者の方が見ていれば、考えを改めていただきたい。
自分の句について、もしかすると自分より深く知っているのは他人かもしれない、というのが俳句の基本的な考え方。(※

そう考えると、大事なのは、C守かもしれません。疑問点、批判点を突くのは、ある程度「型」を覚えてしまえば簡単というか、まあ最低限形にはなります。
しかし、守るためには句を理解し、よい解釈を見つけてあげる必要があります。
もちろんB攻も、それに応じて攻めを考える必要があるので、型どおりの、揚げ足取りだけで何度もやっていくことはできません。あくまでも最低限、と言うこと。

判定は、まあ全員の合意で決めてもよいですが、基本的にはAが決めることになります。

Aの句が終わったら、Bの句でCA守、Cの句でAB守、とまわしていきます。


発展型です。

同じくAが句を出します。

BCは、攻守ではなく、先攻後攻を決めます。

そして、交互にその句の解釈をし合います。
時間は、まあ一回230秒くらいでしょうか。Bが話し終わったらCCが話し終わったらB、というふうに交互に、その句について語り合います。
よい点ばかりではなく、悪い点、直した方がいい点、いやまったく別の解釈、など、相手を否定する必要はありませんが、相手の言わなかったことを言う必要があります。回数を重ねると、だんだん言うことがなくなり苦し紛れになると思われますが、そこでどれだけ別の視点を提供できるかが勝負です。
どちらかが、完全に何も言えなくなったら試合終了。最終的に、Aはどちらの解釈がより踏みこんで、句のよさを引き出していたか、を判定します。言葉に詰まっても、先によい解釈をできたら勝つ可能性はあります。

この場合Aの出す句は、自分の句より、解釈が多義的な、有名句を出すほうがやりやすいかも知れません。その場合、Aの選句センスも問われそうです。

また、先に話し始めるBのほうが有利のように見えますが、Bの解釈の上に話せるCのほうが有利かもしれません。わかりません(やったことないから)

いかがでしょうか。
単なる思いつきですので、うまくいくかどうかわかりません。
やってみたい方、どうぞご自由に。



発展型を考えた理由としては、上に書いたように俳句の鑑賞がある程度の「型」におさまってしまう、ということに対する疑問からです。
これについてはまた、詳しく書きたいと思いますが、俳句の作り方で「マイナスを避ける」やり方があります。作句の作法書(入門書)に書いてある「ダメな作り方」を避けていく、というやり方です。
つまり、

  • 定型(中八になっていないか、上五は伸びてもよいが下五はいけない、言葉を入れ替えて作ってみる)
  • 季語(季語は入っているか、季重ねになってないか、当季か、季語の本意は合っているか)
  • 文法(文語文法、仮名遣いに間違いはないか、意味がわかりにくくないか)
  • 類想(先行する類句はないか、月並みな表現になっていないか)

など、まるでチェックリストでチェックするように俳句の作法をチェックして、無難な句、「上手い句」を目指そうとするような、あるいはそれを目指すように指導するような、そんな画一的な俳句表現におちいってしまうのは、私は反対だからです。

どれだけ多義的な読みを展開できるか。
どれだけ俳句を楽しめるか。
そちらのほうが、よほど俳句表現にとって豊かで有意義だ、と思うわけです。

Twitter、または当Blogのコメント欄などに感想を書いてくださると喜びます。

曾呂利亭亭主のtwitterはこちら→ sorori@sorori6



※2017.02.26追記 この部分、本当は「俳句」に限らず表現一般に共通する。作品についてもっとも深い理解者が「作者」に限られるなら、読者・鑑賞者はサブ的な立場にしかいられないし、作品研究なんて成り立たない。作者が自解してくれればすむ話なので。
そうではなくて、読者・鑑賞者の鑑賞によってはじめて「作品」が立ち上がる、それは作者であっても知らない「作品」の可能性がある、というのが、現在共有される基本的な考え方であると思う。

2017年1月30日月曜日

句集は無料


ネットで賛否両論やかましい、こちらの話題。

炎上芸人・キングコング西野亮廣、2000円の絵本『えんとつ町のプペル』無料公開で物議! 称賛の声の一方で批判も殺到

これ、句集の話にもつながるよね、たぶん。

句集が、ほとんど自費出版・仲間うちの贈答文化のなかで消費されて、つまり作家の自己負担のうえ、「無料」でやりとりされているものだ、というなかで、でも本屋でバーコード付けて売っている、という事実。

建前としては読むべき句集ならちゃんと買いますよ!と言いたいところだけど、本音を言えば、読みたい友人・知人の句集は、もらえるとたいへん助かる。ありがたい。
特に、さほど親しいつもりもなくて、買うつもりだった句集が不意に送られてくれば、それは大変ありがたく、助かるわけです。
とはいえ、私は句集として一人の作家の作品をまとめて読むのが好きだし、本棚に並べるのも好き。
だから、作家として尊敬している友人、知人、先輩、後輩の句集が出たら、その作品に、対価を払うことになにも不都合は感じないし、読みたい句集なら絶対に買う。
男波弘志句集『瀉瓶』のように、定価壱萬円、とか言われたらさすがに買えないですけれども)
たまに「読みたいから下さい」と作者に言う人を見かけるけれど、私自身はかなり抵抗がある。読みたいなら、基本はやっぱり「買う」でしょ。

でも、どうなのかなあ。

実際問題として、陸続と出版される句集の山を、正直に買ってたら破産します。
一冊2000円前後、高いものは3000円くらいするわけで、しかも俳句仲間というのは年をおってどんどん増えて広がっていくわけで、どんどん買い続けなくてはいけないのは、経済的に相当負担。

よく言うように、句集出版が「多くの人に読まれたい」、つまり、情報として多くの人に共有されることだけを目的にするなら、ネット公開のほうがよほど多くの人に読まれるのではないか。
ネットを使わない人に対しては、郵送なりメール添付なりで直接送ってさしあげてもよい。

実際、先般句集『ただならぬぽ』(ふらんす堂)を公刊された田島健一さんは、無料電子書籍を継続的に公開しつづけていた。
「たじま屋ebooks」

外山一機さんの『平成』『御遊戯』は、週刊俳句からダウンロードできる。
週刊俳句 Haiku Weekly: 週刊俳句 第317号 2013年5月19日

石原ユキオさんや岡田一実さんも、期間限定だったのでいまは公開されていないが、定期的にネット上で配信しており、愛読者にとってはうれしい。

でも、どうなのかなあ。

句集というのは、本として形に残る。というところに付加価値があって、ふらんす堂さんなどはその製本技術にたいへんな矜持を持っている。
曾呂利亭雑記: 活動記録
(ふらんす堂山岡社長も登壇した船団フォーラムの記録)

私自身は、どちらかというと本好きではなく読書好きであって、好きな作家の本でも文庫や廉価版で手に入れて読めればいいタイプ。装釘や初版にこだわる、いわゆるビブリオマニアな趣味には遠く、書誌的な関心は薄い。
それでも電子書籍よりは、本という形で読むのが好きだし、本にかける人がいて、たくさんの人の手をわずらわせながら一著に成るという行程も嫌いではない。
だから、句集として残す、というところに意義をかける作家が多いことはわかるし、そこを助ける本屋と、本屋を助ける意味でも書籍流通の場は機能していってほしい。

ネットの無料公開というのは、その行程をすっ飛ばしてしまうことになるし、作品を売って生活する職業作家としての意義も、その作品を売るマーケットを支えるさまざまな業種の人たちの価値も、全部無意味だ、無効だ、作品が情報としてだけ共有されればいい、という態度に見えてしまう。

それはちょっと、(西野問題でも明らかになったように)いただけない。
私たちが好きな「本」にまつわるあれこれに対するペイは、決して「お金の奴隷」ではなく、必要な対価であり、正当なものだと思う。

でも、どうなのかなあ。

思い出として、内外に残すために作るなら、私は句集の数はもっと少なくてよいと思う。

建前として「句集」にかける、「句集」に残す意義が喧伝される一方で、実際問題としてひとりの作家が出している句集の数は、それだけの理想や意義を超えた分量だと思うのですけどね。
鷹羽狩行句集『十七恩』平成22年から24年までの401句を収める第17句集。
中原道夫句集『一夜劇』 第十二句集

うーん、なんなんだろう、このもやもや。

ある意味で「売れる」のだから、作家として「売れる」ために書き続ける、出し続ける、というのは、いいことなのかな。

俳句にはもうひとつ、「文台引き下ろせば反古なり」という言葉もあって、
というか「句会が大切」「句会こそ俳句」なら、なんで私たちは句集という形で句を読み、句集という形を大切にしてきたのだろう、という、俳句特有の問題もある。

実際のところ、俳句・俳諧というのは、江戸の昔から出版業界と密接な関係にあって、「座の文芸」であると同時に、出版メディアと不即不離で発展してきた分野である。
本読みのための 大阪まちある記 〜活字メディア探訪第4回 大阪の出版文化をリードした俳諧師たちとは(前編)
本読みのための 大阪まちある記 〜活字メディア探訪 第5回 大阪の出版文化をリードした俳諧師たちとは(後編)

「俳句」の流通に、どのような「メディア」がふさわしいか。

それって、俳句の歴史と意外に深く関わっているのではないだろうか。

参考.
キングコング西野の件は「炎上」では足りない
ハックルベリーに会いに行く キングコング西野さんの絵本の売り方について(3,823字)

2017年1月2日月曜日

迎春万歳


賀詞、いちおう毎年変えてるんですよこのblogで。
昨年はちょっと休んだのですが、今年は原点回帰でわりとわかりやすいものを。

というわけで明けましておめでとうございます。

気づけば開設当時はにぎやかであった俳句評論系のblogも、ほとんどは休眠状態、書き手の方々も、もっぱらSNSなどに移行している感じがいたします。
いや、むしろ紙媒体へ移行されている、のでしょうか。各総合誌の時評子なども、顔なじみ・世代の近い書き手が増えてきたように思われます。
世代交代の遅い俳句界にも、少しずつ変化が生まれてきているのでしょうか。

昨年末、Twitter上で、青木亮人さん、関悦史さんたちと直近俳句史について意見交換する機会があり(トゥギャッターまとめ 現代俳句史のための材料集め)、私が俳句界に足を踏み入れてからの十数年も、確実に歴史は変わってきているなあと実感。

一方で私のほうは相も変わらず関西で好き勝手やっておりまして、昨年はついに関西現代俳句協会青年部部長という肩書きになってしまいました。おかげさまで昨年は2回の勉強会を主催しましたが、周りからはイベントよりも俳句を発表しろと怒られております。
考えてみると私が定期的に発表する媒体は「船団」のみ。これが年4回の季刊で、一度投稿を忘れてしまいますとたちまち半年くらい音沙汰不明になるわけですね。それ以外の媒体は、なにしろ依頼が来ませんから、発表したくても発表しようがない。
あとはこのblogかtwitterくらいでしょうか。
昨年はひきつづきなかなか句会にでる機会も作れず。大学の講義で俳句創作なんかを任されている手前、句数だけは作りましたが、顕著なもので、緊張感のある句会へ出ていないとやはり実力は鈍るようです。
一年間これといったヒットもなく、うーんどうしたものかな、と。

あ、そういえば私、俳句は第四回俳句甲子園からですから15年ほどやってることになりますが、年末恒例の「年鑑」に名前が載ったのはたぶん一度もないです、はい。
正直言って、私の知名度も実力もその程度です。ですが、ありがたいことに大学の講義や俳句ラボ、それに現代俳句協会など、俳句について考える機会はずっと与えてもらっているし、俳句を読み、詠むことはずっと続けている。
昨年夏には、編集委員として関わった『坪内稔典百句』(創風社出版)も刊行されましたし、おかげさまでずっと俳句について考える機会はあった。
塩見先生発案の「伊丹俳句ラボHP」(名称は俳句ラボだが柿衞文庫とは無関係、俳句ラボ有志のあつまり)で句集一冊を読むという企画をやったのも、こっそり力になっている気がする。なかなか句集一冊しっかり読んで文章にまとめる機会も少ないですからね。(バックナンバーで公開中)

負け惜しみ程度のことを言うと、俳句を続けてきた15年間、個人的な好不調は何度も味わっていて、ただ止めようかとはならなかった。たまたま環境が良かった、チャンスがあった、ということもありますが、さすがにこれからは、環境が変わっても俳句をやめることはないだろうと思っています。
研究と同時に創作に関わっていること、そして創作の第一線にかかわる人たちの息吹を知っていること、これは私にとってとても貴重な財産だと思っています。

だからね、私からすると、作品ごと、一句ごとに勝負をかけたい作家的態度と、ずっと俳句にかかわりたい、楽しみたい、という俳句愛好の立場は、共存するし、入れ替わるし、どちらか一方を強いられるものではないと思うのです。
俳句って、先も長いですからね。

関連:関西現代俳句協会 エッセイ チョコを食べるのをやめてしまった 久留島元



さて、そう言いながらありがたいことに、今年は年始に紙媒体でのお仕事をいくつかいただいています。

まず、同人誌「里」2017年1月号で、瀬戸正洋句集『へらへらと生まれ胃薬風邪薬』(邑書林)より一句鑑賞。すでに刊行されています、拝受しました。ありがとうございます。
松本てふこ(同時)(ホントは童子)、石原ユキオ(憑依系俳人)に囲まれて、これはどこの庫内灯?と思う顔ぶれですが、楽しく鑑賞書かせていただきました。


また、これはちょっとイレギュラーですが、神戸新聞文化欄の正月特集「新子を読む 新子へ詠む」に登場します。掲載は、1月6日の予定。
この特集は時実新子没後10年の企画ということで、5回連載のラスト。ほかの顔ぶれは八上桐子ほか川柳界の錚々ということなので、ひとり場違い感がハンパないのですが、ほとんど初めて、新子川柳に正面から向き合いました。
機会があればお手にとっていただけると幸いです。



期せずして回顧と展望的な話題に。

俳句の片隅で俳句を続けていく所存です。本年もよろしくお願いいたします。


亭主拝。