2023年12月31日日曜日

2023年

年末ですね。


今年から、西村麒麟さんの「麒麟」に所属しています。

まさか自分が結社所属になるとは思いませんでしたが、そのあたりの経緯は、週刊俳句第835号 麒麟発足座談会でお話しさせていただきました。
主宰(麒麟)からは「編集長が結社が嫌い」といわれていますが、結社でありながら結社らしからぬ、そんな雰囲気作りを目指しています。誌面では「関西俳人の系譜」を連載。

関西現代俳句協会青年部では、7月に「関西俳句を辿る」、12月に「俳句の宛先」という勉強会・句会を開催。7月の勉強会は『現代俳句』10月号に、川田果樹さんのレポートを掲載。
参考:note:「現代俳句」2023年10月号 相田えぬ

そのほか、5~7月には、かきもり文化カレッジかきもり俳句コース(ジュニア~ミドル)を担当。

11月26日に神戸市立三宮図書館で俳句講座をさせていただきました。


不定期連載(季刊目指しているがサボり気味)の「オバケハイク」も。
そろそろ冬のオバケを出さなければ。。。

【連載】久留島元のオバケハイク【第4回】「野槌」 | セクト・ポクリット https://sectpoclit.com/obake-4/ 【連載】久留島元のオバケハイク【第5回】夜長の怪談 | セクト・ポクリット https://sectpoclit.com/obake-5/


俳句とは関係ありませんが、学部時代から取り組んでいる「天狗説話」の研究をまとめた著書を刊行しました。

天狗説話考 白澤社


出版社からこの装幀を出されたときは、ちょっと驚いたのですが、わかりやすく書棚で目立つようで、結果的に良かったかなと。
俳句と関係ないとはいえ、天狗を詠んだ近世俳諧などは多少紹介しております。
すこし高い本なので、お気にとまれば図書館などでリクエストよろしくお願いします。

今年も世界が不穏です。平和ぼけできる人生であってほしいですね。
それでは。よいお年越しを


亭主拝。

2023年6月5日月曜日

世界のHAIKU


堀田季何さんの、『俳句ミーツ短歌』笠間書院、2023を読んでいる。

主宰誌『楽園』の連載をもとに再編成された本で、平易な口語体ながら季何さんの俳句・短歌論が縦横に披露され、世界の詩歌に基準とする著者の深い見識に触れることのできる本である。

やはり最も興味深いのは、世界のハイクや季語をめぐる議論である。

SUSHIやJUDOが世界でそのまま通用するように、近年はHAIKUも世界の言語でそのまま用いられます。ウィキペディアでも百以上の言語がHAIKUを扱っていて、その数はSUSHIとほとんど変わりません。

世界のHAIKUについては、関西現代俳句協会青年部のHPでかつて連続エッセーのテーマとしてとりあげ、季何さんのエッセイを基調に、各氏から示唆深い文章を寄せていただいた。

関西現代俳句協会青年部 過去の掲載ページ

最近では、ウクライナの俳人、シモノーワ(シーモノワ、シモノヴァ)さんが話題である。

珠玉の俳句をもう一度 「戦禍の中のHAIKU」ウクライナ(1)

「ウクライナ 俳句交換日記」NHKドキュメント初回放送日: 2023年1月23日

ウクライナだけでなくロシアにも俳句で平和を祈る人々がいる。

俳句を平和の架け橋に ウクライナ、ロシア、ベラルーシ…連なる非戦の声 中日新聞2022年6月8日

馬場朝子さん「俳句が伝える戦時下のロシア」インタビュー 日常が伝える戦争の悲惨 好書好日

むろん、俳句を「平和を祈る詩型」などと美化する言説に、安易に与することはできない。

  討伐を了へぬ燕も巣立ちけり 小島昌勝

 といった聖戦俳句、翼賛俳句が賞賛されてきた歴史を、我々は知っているからだ。

明治時代に写生の方針が定まり、大正時代にはそれが正確に研究され、現代に至つて燦然たる花をひらいた。而も俳壇未曾有の聖戦俳句が生まれ、大東亜戦争開始以来ますます偉いなる業績を成さんとしつゝある。まことに現俳壇に学ぶほど幸福なものはなく、昭和時代の俳句の進展はとゞまるところを知らぬ勢である。

水原秋桜子「巻末に」『三代俳句鑑賞 春夏の巻』第一書房、昭和17年(国立国会図書館デジタルコレクション個人データ送信サービスにて閲覧可能 リンク) 

 わが畑もおそろかならず麦は穂に 篠田悌二郎 セクト・ポクリット ハイクノミカタ

英帝国ひれ伏すや匂ふ夜の梅 長谷川素逝

ますらをはすなはち神ぞ照紅葉 水原秋櫻子

それとは別の話で、俳句がいまやHAIKUであることは、実例、作例が証明するところであって、いくら日本国内でガラパゴスな定義を叫ぼうとも意味のないことである。

EUのファンロンパイ大統領、初の俳句集を出版 世界のこぼれ話 REUTER 2010.04.16

EU初代大統領が「平和の俳句」 ウクライナに寄り添い「調和」の思い込め 東京新聞2022.07.18

第三十三回おーいお茶新俳句大賞 英語俳句の部優秀賞

ユルガ・ヴィレ『シベリアの俳句』花伝社

かつて私も、翻訳の限界ということを考えていた。
論文や実用書ならば翻訳されて情報が広く伝わることに意味があるだろうが、「吾輩は猫である」を「I am a cat.」と訳したときに日本語のも吾輩」のニュアンスは失われるのではないか、まして韻文、まして短詩型であれば、その弊害は大きいのではないか、という紋切り型の考えであった。

しかし振り返ってみれば当然ながら、私も多くの翻訳小説に恩恵を受けてきた。ハリー・ポッターの世界的人気の前に「翻訳の限界」を言うことに、どれほどの意味があるだろうか。

もちろん翻訳で失われるものはあるし、母国語で味わう幸福、深い理解はあるだろう。翻訳の向き不向きで評価が変わってしまう作家、作品もあるだろう。
村上春樹がノーベル賞候補としていつも話題になるのは、作品の無国籍性が翻訳にむいているからだとよく指摘される。一方、日本文学者のドナルド・キーンは、泉鏡花の小説を英訳する難しさを述べたうえで、この文章を味わうために日本語を学んだのだ、鏡花こそ日本語の醍醐味だと言っている。
けれども、それでも文学には翻訳で伝わるものがあるという前提があればこそ、ノーベル文学賞には価値が認められているわけである。

しかし、その翻訳という作業がもつステレオタイプな危険性、「母国語」という幸福の裏にあるナショナリスティックな陶酔を、樫本由貴は鋭く撃つ。

それを選ぶ指先の欲望 「小熊座」2022VOL.38 NO.446 俳句時評

なぜこの俳句の邦訳に「文語」かつ「定型」が選ばれたのか。...散文より韻文を、口語より文語をという選択は、そうでなければ読者が抱きかねない「これは俳句か否か」といったたぐいの疑問を起こさせない。それどころか「ウクライナで俳句を書いている人がいるなんて、感動」とさえ、読者に思わせるのではないか。

この潔癖は、岩田奎がしばしば表明するような、俳句がオリエンタリズム的な誤読のなかで愛好されてきたことへの忌避感と、表裏の関係にあるだろう。(『俳句四季』39-12,2022.12)(余談だが、私は四方田犬彦氏の講演で同様の質問をなげかけ、「(オリエンタリズムの対象でも)構わないではないか」と返され憮然とした経験がある。)


さて、ここで突然関係ないような話だが、季何さんにならって、SUSHI(寿司/鮨/鮓)の話をしたい。今日スシというと多くの人が「にぎりずし」を想像すると思う。

しかしスシの語源は「酸し」で、「魚肉が自然に発酵し酸味を生じているのを利用して人工的につくるようになった」(ブリタニカ国際大百科事典)ものであるとすれば、滋賀の「鮒鮨」のような「熟れ鮨(なれずし)」のほうが由緒は古いはずであった。(以下、『古事類苑』『日本大百科全書』などの記述を参考にする)

 参考.ふなずし うちの郷土料理次世代に伝えたい大切な味 農林水産省
  あゆずし うちの郷土料理次世代に伝えたい大切な味 農林水産省

江戸時代になると発酵に時間がかかる「熟れ鮨」に対して、塩や酢を用いる「早鮨(はやずし)」「一夜ずし」などが生まれる。
このなかにも、酢飯に直接魚介や具を混ぜ込んでいく「ちらしずし(ばらずし)」と、締めた魚とご飯を重ねて強く押す「押し寿司」があって、関西のスシは後者が主流である。

大阪寿司(おおさかずし) うちの郷土料理次世代に伝えたい大切な味 農林水産省
さばずし うちの郷土料理次世代に伝えたい大切な味 農林水産省

こうした積み重ねの上に、さらに即席のファストフードとして、酢飯の上に魚をのせ握った「握り鮨」が生まれるわけだが、これは江戸時代後期になってからのもの。
「握り鮨」登場は諸説あるようだが、文化文政時代(1804~30)、イカやエビ、アナゴの煮物をのせた鮨が始められ、つぎにアジなどの光り物を酢に漬けたもの、そしてようやく刺身をのせるようになったのだという。これよりやや先行して太巻の巻き鮨も江戸で始まったといわれている。

現代では、かつて江戸の庶民が「ねこまたぎ」と嫌ったといわれるほど腐りやすく脂の多いマグロが一番人気のネタとなって、世界の漁獲量を脅かすほどに食べられている。
原義が「酸し」、魚を発酵させたものだとすれば、「握りずしのトロ」などは異端も異端、歴史のないヒヨッコにすぎないという気がしてくる。

現在のスシ文化は当たり前のように「サラダ巻き」や「牛肉ずし」を受け入れている。ここであらたに「カリフォルニアロール」が加わったり「キンパプ」が加わったりしたところで、「スシ」がゆがめられた、なんて思う必要あるだろうか。

もちろん個人的に「これはスシではない」と拒否する自由はあるが、本質とは関係のない、個人の思想信条、究極には好みの問題ではないか。
それぞれの時代にそれぞれの料理人が「これもスシだ!」「これもありだ!」と試行錯誤してきた結果、豊かなスシ文化は展開した。そのなかには捨ててきた可能性も、たくさんあるだろう。それぞれにスシの本質、スシの可能性を追求した結果が、現在である。それぞれの探究はそれぞれに尊重されるべきであって、どれがひとつが完全な正解だというのは、後世から恣意的に逆算した、結果論に過ぎない。

同じ結果論なら、私としては、どのような「誤解」のもとにスシや俳句が広がってきたか、それぞれなにを本質とみて、どんな挑戦をしてきたかを楽しむほうがよいのではないか、と思うのだが、どうであろうか。

「これを考案した料理人はだれだ!」居酒屋で海原雄山のごとく激高...


2023年5月18日木曜日

新時代

 

新しい時代の国の亡びかた

一斉に笑ってそしてそのあとは

知っていた誰にも言ってなかったね

止まってたものと止めていたものと

大丈夫みんないっしょに倒れるよ

2022年8月19日金曜日

朝日川柳の件


朝日川柳の件。


2022年7月15、16日付の朝日新聞「朝日川柳」に、安倍晋三元首相の銃撃事件を揶揄するような内容の作品が複数掲載されたことが、SNS上で物議を醸している。(略)

 問題となったのは、15・16日付の朝日新聞に掲載された「朝日川柳」だ。選者・西木空人氏によってそれぞれ7本の川柳が選ばれている。

   15日には「銃弾が全て闇へと葬るか」「これでまたヤジの警備も強化され」など、16日には「疑惑あった人が国葬そんな国」「死してなお税金使う野辺送り」など、安倍氏の事件や国葬を行う政府方針を揶揄するような複数の川柳が選出されている。16日は選ばれた7本すべてが安倍氏を題材にしたとみられる作品だった。

この記事は朝日新聞の「回答」が主眼だから比較的ニュートラルな書き方だが、次の記事になると川柳の受け止め方が全然違っている。

 批判が集中しているのは「朝日川柳」の7月15日、16日付です。この二日間にわたって、安倍元首相を揶揄するような内容ばかりが選出され、「死人に鞭打つとは、それでも報道機関のすることか」との声がSNS上にあふれているのです。

このとおり、一句も例句をひくことなく、しかも「安倍元首相を揶揄」と書いています。
もう一度J-CASTのほうの記事を読んでみましょう。「安部氏の事件や国葬を行う政府方針を揶揄するような複数の川柳」とあります。揶揄の対象が異なっています。
はっきり言って後者の記事は、例句を引く前に読者に先入観をあたえる、煽り記事にすぎません。

実際の作品はどうでしょうか。

還らない命・幸せ無限大 (2022.07.15掲載)
銃弾が全て闇へと葬るか
これでまたヤジの警備も強化され  
疑惑あった人が国葬そんな国 (2022.07.16掲載)
死してなお税金使う野辺送り
忖度はどこまで続く あの世まで
国葬って国がお仕舞いっていうことか  

「安倍氏」個人を揶揄するような、あるいは「死人に鞭打つ」ような句は、私見では一句もありません。すべて安倍氏の在任中の時事、職務上の「疑惑」と、そうした人物を「国葬」にするという政治方針についての批判です。
公人の業績や政治方針に関する批判、揶揄は、時事川柳として当然ありうべきものである。(当該作品の優劣を問わない)

特に第一句については、すでに繰りかえし指摘されていますが、安倍氏の事件についてではなく、東電旧経営陣に対する賠償命令を素材としたもの。

きちんと読み直してみると、

 還らない/命・幸せ/無限大

と五七五で読めば、「命も幸せも無限大(だったのに)もう還ってこない」となるし、

 還らない命/幸せ無限大

として「還ってこない命/幸せは無限大(だったのに)」ととることも可能でしょう。
いずれにしても「安倍元首相を揶揄」するような理解とするのは、かなりアクロバティックというか、悪意のある誤読というべきで、まして、
暗殺された人に対して、ご冥福をお祈りするということがそんなに難しいことなのか
などという感想(たかまつなな)は見当外れも甚だしいものです。

ただしそのような理解を誘引する要素があったのは確かで、ネット記事の出方として、16日付の川柳欄で7句すべてが安倍氏銃撃事件や国葬に関わる句(ほかの3句は「利用され迷惑してる民主主義」、「動機聞きゃテロじゃ無かったらしいです」「ああ怖いこうして歴史は作られる」)だった、つまりカラーが統一されていた。
そのあとで前日15日を見れば、誤解する人がいても理解できる。
しかし実際には15日は、東電賠償の句(ほかに「高裁も最高裁もなかりせば」)や、季節外れの長雨
を話題にした句(「梅雨明けと言われ機嫌を損ねたか」)もあった。
つまり、16日が「反安倍一色!」といきりたった人々が前日記事の「粗探し」に殺到した結果、誤読が生まれたのである。
先入観と正義警察による暴走、時系列の無視である。

本来であればこのような、小遣い稼ぎで類型的煽り文をならべたコタツ記事が扱う「炎上」など相手にしないほうが正しいのだろう。
しかし、歴史上、こうした「善意」の一般市民による「言葉狩り」「自粛」が、おぞましい結末に至った例は多い、そのことを我々は知っている。
諷刺というなら、まさにこうした事態をこそ揶揄し、啓発しなければならない。

にも関わらず、朝日新聞は、川欄欄への「ご批判」を受けとめてしまった。
遺憾と思う。

Twiiterで述べた私見を繰り返す。

西木空人氏の選んだ川柳は、諷刺というには直接的すぎるし、掲載句すべて同じ主題という均質性も、まことに「つまらない」と思う。
しかし、つまらない川柳すら発表できない国で、圧倒的で衝撃的な川柳が発表されるはずがない、という点において、私は朝日の川柳欄を支持するものである。

2022年8月17日水曜日

天狼を読む会

 

以前お知らせした「天狼を読む会」ですが、オンラインで続いております。

次回は8/20(土)13:30~、「天狼」昭和24年1月号を読みます。
ようやく2年目に入りました。

研究者なども参加していますが、参加資格はとくにありません。興味のある方は誰でも参加できる勉強会、読書会です。
誓子記念館の協力により、参加者とは資料を共有しておりますので、特に用意しなければならない物もありません。これまでの研究会の記録動画などもあるので、ご関心のある方は亭主までご連絡ください。

CQA21226◎nifty.ne.JP(◎を@に、JPを小文字に変換してお送りください)

2022年3月27日日曜日

【転載】京都新聞2022年3月15日 季節のエッセー(30) 

 「豆腐が飛んだ」

三年前の春は何をやっていたかと思い、アルバムのデータを見ていたら、MIHOミュージアムの桜の写真があった。たしか、国宝、曜変天目の展示を見たときだ。
結婚を機に滋賀県に住むようになって一年余り、ついでに桜も見られるし、と言って出かけたのである。
滋賀在住ならこれからもたびたび来られるだろうと思っていた美術館も、県内のほかの花見スポットも、それ以来行けていない。

私のエッセー担当は今回が最終回。
まさか三年のうち二年間がパンデミックにおおわれるとは思いもよらなかった。おかげさまでエッセーも、季節感のうすいオンラインの話題が多くなった。

実はほかの文章はともかく、本欄のように人目にふれるものは読みやすさが一番と思って、毎回妻に下読みをお願いしていた。
はじめはなかなか書き慣れず、季語の由来や俳句について書き込んだ文は「読みにくい」と言われ、日常の話題を書いた文は「まとまりながない」と言われ、何度も書き直した。

本欄の難しさは、季節にあわせた話題を選ばなくてはいけないことと、案外字数が多いこと。
もちろん書き手の腕次第なのだろうが、日常の小ネタだけではうまく話がまとまらないということはわかってきた。

たとえば、通っている床屋さんが西宮神社の福男選びに参加しているという話。
早朝のスタートに好位置を確保するため夜中に並んで抽選し、仮眠をとってのぞむらしい。興味深いが、聞いた話だけでは話に重みがないし、ほかの話題に展開しづらい。

最近でいえば、妻に豆腐をぶつけてしまった話。
もちろん意図したわけではない。以前視聴した情報番組で、プリンなどをお皿に盛るときはカップを裏返して皿に密着させ、皿を持った腕を延ばしたまま一回転すると遠心力で簡単にはずれる、という裏技を紹介していたので、豆腐で試そうとしたのだ。
ところが皿との間にすきまがあったらしく、カップから出た豆腐がつるりと飛び出し、こたつでくつろぐ妻の背中を滑降、カーペットに落ちて無惨に崩れてしまった。悲しかった。

こんな話題も、豆腐は季語にならないし、普段はボツである。

最後だから思い切って書いてみたが、やはり落ちがつかない。修行をやり直して、またいつか、どこかでお目に掛かりたい。


※3年間お世話になった京都新聞「季節のエッセー」はこれで最終回。
はじめはここで書いたとおり書き慣れず、なかなか難しいと思ったけれども、なんとかネタをつないできました。「言葉」について、更新されていくもの、つながっていくもの、みたいなことは漠然とテーマに考えていたけれど、途中でリアルに仲間と会うこと、季語に触れること、を考え直さざるをえなかった三年間でした。思いがけずもと船団の方から感想をいただいたり、よい経験でしたが、パンデミックが収束しないなかで戦争と天災のある世の中になっているとは、まさか思いませんでした。暗い気持ちになるので、思い切ってお気楽な方向に振り切って最終回をまとめましたが、これでよかったのかどうかわかりません。
国が戦争をするということ、個人が、表現や学問にたずさわる人間がそれに直面するということ、を考えさせられます。つら。俺だって気楽に酒呑んで俳句の話してーわ

2022年3月21日月曜日

【転載】京都新聞2022年2月7日 季節のエッセー(29)

 「春を待つ」

春を待つ、という季語がある。
漢語でいえば待春。万葉集にさかのぼるようだから日本でも相当昔から愛されてきた言葉で、春待顔などという言葉も平安時代に用例がみえる。
もう少し春の気配を感じられると、春近し、となる。

春隣という言葉もあって、やわらかな、よい言葉だと思う。
春の訪れは春信、春告鳥といえばウグイスのこと。実家のある神戸の山裾でもウグイスの声は聞こえるのだが、それと意識したのは俳句を始めてからだった気がする。
ある友人は、季語を知ると目の前の景色の解像度が上がると表現していた。まさにそう、知っていたはずの景色をより明晰に認識することができる。

あるいは春に入ってからも余寒、冴え返る、など早春の寒さをあらわす季語がある。

 鎌倉を驚かしたる余寒あり 高浜虚子

行きつ戻りつ、少しずつ寒さがほどけて春らしくなっていく。春夏秋冬、それぞれに移ろう時季を楽しむ季語はあれど、冬から春にかけての変わり目は、特に語彙が豊かなように思う。

春先に強い風が吹けば、SNSのトレンドワードに「春一番」があがる。
気象庁の定義では、立春から三月半ばごろまでに、日本海に発達した低気圧により最初に吹いた南よりの風。もともと西日本の方言だったものを民俗学者の宮本常一が採集し、歳時記で紹介されるようになったという。全国的には比較的新しい言葉だが、いやだからこそなのか、現代では季節の言葉として定着している。

天気予報といえば「暦の上では春ですが、」という定型句もよく使われる。我々はなんとなく春は暖かいものと思い込んでいるけれど、立春を過ぎても暖かい日はなかなかやってこない。だから「名のみの春」などという言葉まで使ってしまうのだが、実はこれも吉丸一昌作詞の唱歌「早春賦」で広まった新しい言葉らしい。
以前、別の場所にも書いたが、一年を四等分した暦本来の意味からすれば本末転倒でも、「名のみの春」の感覚は現代人には広く支持されている。
季節や暦の感覚が乏しくなった時代だからこそ生まれたり、再認識されるようになったりする言葉がある。
歴史の浅い、バーチャルな季語を嫌う人もいるけれど、新しい、軽い手ざわりも捨て難い。そして多くの人に愛されて、厚みを増していくのだ。


ウラハイ = 裏「週刊俳句」月曜日の一句 久留島元の一句