2020年4月21日火曜日

【転載】京都新聞2020.03.17 季節のエッセー(10)


「百年目」

スマートフォンでネットの検索画面をひらくと、ニュース項目がずらっとならぶ。
普段の閲覧、検索の履歴からおすすめ記事をピックアップしてくれるらしく、私の場合、俳句、芸能ゴシップ、大学や出版社関係の記事が多くなる。昨日放映された俳句番組の内容とか、俳優の不倫報道とか、有名大学の学生の不祥事とか、あまり読んでもためにならないような記事はタイトルだけ読み流す。
先日、尼崎の落語会を取材した記事に目がとまった。
尼崎在住だった人間国宝・三代目桂米朝さんにちなんで、もう四十年以上続く勉強会という。第一回目のトリは、桂枝雀さんだったそうだ。その記事で気づいたのだが、米朝さんが二〇一五年三月一九日に亡くなって、今年は五年目。枝雀さんの死は一九九九年で、二十年以上が経っている。
桂枝雀さんが亡くなったのは、私が中学生のとき。
当時そんなに落語が好きだったわけでもないのに、なぜか「せっかく同時代に生きていたのに、死んだら見られないな」と強く思った。追悼特番をテレビで見たときだったかもしれない。
そんな理由もあって、学生時代、米朝さんの高座には自覚的に足を運んだ。
印象的だったのは、枕の途中で「……いま思い出しましたけどな」から始まる小咄。
知られるとおり米朝さんは学者のような一面があって、江戸時代の文献から古い咄を蒐集し、復活させていた。
小咄でくすっと会場を笑わせて、「こんなしょうもないもんでも、話しとかんと消えてしまいますさかいな」。
ときに二つ、三つと小咄が続くときもあり、本当にアドリブなのかはわからないが、米朝さんが蓄積し、伝えようとしてきた文化の豊かさに触れた気がして、嬉しかった。
私が一番好きな大ネタは、「百年目」。
仕事はできるが口うるさく堅物の大番頭が、実は店の外では遊び人で、芸者をあげて花見をしていたところを旦那に見つかり大慌て。店を出るしかないと覚悟するも、翌朝番頭を呼び出した旦那は、思い出話をしながら、自分の金で遊ぶのは甲斐性だ、これからも自分を支えてほしいと話す。タイトルは、旦那に見つかった番頭が思わずお久しぶりでとあいさつしてしまい、「もうこれが百年目だと思った」というサゲに由来する。
百年後も落語で笑えますように。(俳人)



参考.支局長からの手紙:尼崎の桂米朝さん/兵庫 - 毎日新聞2020年2月23日地方版(会員有料記事)

2020年4月17日金曜日

句集鑑賞(順不同)


『301 ダダダダウッピー』vol.2(象の森書房)は、俳句・短歌を共通言語としてダンサー、画家、生物学者、ミュージシャンなどさまざまなメンバーが集まって活動するワークショップ301がまとめた作品集第2弾。
301の世話人である山本真也は画家であり、「氷室」「船団」で活動する俳句作家でもある。目にとまったいくつかの句・歌を紹介する。
 泉より石のいろいろ見えてきて  鈴木春菜
 それぞれの道へ別れた友達が僕の京都の半分だった  山口凜
 松虫やさよなら清涼飲料水  嵯峨実果子
 うな垂れた分だけ飲めるコカ・コーラ  中村公
 夏院試時間切迫何故勃起  山口優輔
 オカリナを沈める清流夏が行く  植田かつじ
 飯蛸や母の子どもが集う日の  工藤惠
 闖入し餓鬼やはらかに氷柱盗る  石川凍夜
 吾輩は全ての屋根の主である  山本真也
 ここからは地獄の沙汰もすみれ草  宇都宮さとる

workshop 301
301vol.2ダダダダウッピー Amazon 



『エンドロール』(青磁社)は、朝日泥湖の第二句集。
朝日泥湖は1940年生まれ、「船団」句会の長老のひとり。以前は朝日彩湖という俳号で句集『いけず』(青磁社、2007)があるが、句集刊行後改名したので、今のところ別名義で1冊ずつということになる。
 普通の町普通のくらし風光る
 おぼろ月ラップかけずにチンをする
 さくらさくらあんた何人殺めたの
 また負けた風船飛ばしてあげたのに
 話したいんだ、六月の大きな樹
 サバンナの風は遺伝子赤い風
 表札は父娘別姓秋日和
 外はぱりっと中はふわっと冬日和
 秋の海おおきなものが消えてゆく
 散在もええねん老朽船の春



『乙女ひととせ』vol.08は、同志社女子大学表象文化学部創作講義の作品集。今年から講義名が「クリエイティブライティング」に変更されたそうだ。講師は塩見恵介氏。受講生による作品のほか、「平成の名句鑑賞」「私が選ぶ!平成イチオシ句集」などのページもあり、令和のはじめに平成を振りかえった企画がならぶ。
ほとんどがはじめて俳句の実作をおこなう女子大学生であるが、現代の女子大学生に交じりながら時に発想を飛ばし、時にベタな笑いをひきおこす塩見氏の舵取りで、創作や鑑賞を楽しんでいる様子がよくわかる。
 プールでは戦争にてのひらの銃  趙蘭
 ごめんねは苺ミルクで総精算  西山萌花
 お人好し鎖骨で金魚を飼う季節  松本志穂

 クリスマスゼミの教授がサンタさん  加藤雅
 秋の夜ちょっと火星へお買い物  松宮静香
 コスモスをいつか見下ろす日が来たら  辻田真波
 たんぽぽを咲かせて天と地の和解  塩見恵介


2020年4月10日金曜日

私は異教徒


論考にもならない、駄文である。





どちらかと言えばこれまで、マジョリティではなくマイノリティの側に生きてきたと思う。

自分のいる共同体は心地良い空間で、私にとってこれほど安心する場はない。
一方、自分の分野に興味を示さない人たちは、別種の、不可解な異人に見える。

私にとっては音楽ファンも理解できないし、スポーツの話題に興ずる人たちは、ほぼ異教徒にしかみえない。
まあ五輪もW杯も、日本人が買ったと聞けばなんとなく嬉しいし、テレビを見ていれば主要な選手や話題は何となく頭に入るが、試合を観戦することはまったくない。
だから私は、博物館や史跡を見に旅行することはあるが、スポーツ観戦やライブのために旅行(遠征)する人が実在するのが、よくわからない。異文化そのものだ。
私はたぶん、よっぽどよく知っている人が出場するというのでもない限り、母校が甲子園で優勝したとしても観には行かないし、それが吹奏楽や将棋の大会でも同様だろう。

異教徒たちが自分たちに共有の価値観にもとづいて、その価値観を当然のものとして交歓しているのを見るとき、実に不可思議な気分になる。
彼らは、私にとって不可解なジャーゴン(業界用語)を取り交わし、私にとって何の魅力もない対象に熱狂し、敬愛し、共感し、涙している。
そして、当人たちが意識しているかどうかわからないが、「その」共同体が、とても排他的で、「私」の仲間入りを拒んでいるような、そんな被害妄想におちいる。
私にとってスポーツや音楽ほど遠い存在ではなくても、
 たとえば、私の知らないマンガやゲームに熱中している人たち、
  私がまったく関心を持てない小説や俳句を愛好する人たち、
に対しても同様に感じる「疎外感」である。

特にSNSという場は、小さな共同体を作りやすく、そのうえ共同体内部で熱が沸騰しやすく、それは共同体内部の結束を高め、共感しあうにはとても心地よく、しかし、だからこそ圧倒的に排他的で、共同体の掟を理解しない「異教徒」に乱されることを、極度に怖れ、警戒し、殺気立っている。

少なくともそう見える。

もちろん、私自身もそう見えるのだろう。
私自身は、明らかに中立ではなく、また、中立を自称したこともないつもりである。

くり返すように私はスポーツや音楽より読書が好きな子どもであったし、数学や物理の問題には今も昔も関心を持てないし、同時代の『少年ジャンプ』連載漫画より往年の『ガロ』掲載の白土三平や水木しげるに親しんできた。
そうした人は、全国で数えれば少なからずいるはずだけれども、全体的にみればやはりマイノリティであり、極端といっていいほど偏向している。

生まれも育ちも関西であるし、現代俳句協会会員であるし、なにより俳句甲子園で俳句に出会い、「船団の会」会員として口語俳句を作っている。
中立なわけがない。偏向そのものだ。

いつ自覚したのか覚えていないが、私は、たいていマイノリティの側に生きてきた。
しかし、たしかに変わり者という扱いではあったけれど、小中高と、それなりに仲間には恵まれ、部活動では部長としていい経験をさせてもらった。
大学・大学院に進んでからはよき師、よき先達に出会って、文学(怪異学)探究と、俳句の実作・評論を続けている。
案外自分は、マイノリティに見えて、特別でも何でもないのではないか。

そうした自覚が確信に変わったのは、インターネットのおかげである。
インターネットの世界にはおそろしくひろいろな人が、いろいろな情報発信をしていて、自分の好きなジャンルについても多くの人が知見を公開している。
それを見ていると、なんのことはない、私のような趣味嗜好の人はどの年代にも一定数存在するし、そのなかには私などが及びも付かないほど深く、また膨大にして微細にわたる知識と、そして行動力や企画力をもってその知識を活かした表現活動を行っている人たちが、存在したのである。

少なくとも、私は、孤高の存在でもなんでもない。
むしろ、平凡な、ありきたりの人間にすぎない。

そう自覚するにつけ、ことさらマイノリティを自負し、一つの価値観を信奉するようなやり方に、違和感を覚えるようになった。
それは明確な排他主義であり、別のマイノリティを排除しているだけではないか、と思うようになったからである。
私自身が中立でありえないのは確かとしても、「異教徒」の話を聞き、お互いなにが違うのか、なぜ違うのか、聞く機会を持ちたいと思った。

私の中にある「マイノリティ」は、個性として恃む限りは私を意味づけるけれども同時に異教徒との分断を生み、私の中の「平凡」は、私をその他大勢に埋没させるけれども異教徒との共感を生むはずである。

幼いころ、自分の好きになれないスポーツや音楽の祭典に浮かれる人たちはまったく理解できず、高校野球の中継でアニメ番組が放映されないときは大泣きしたし、オリンピックで連日大騒ぎしている人は、本当に大嫌いで、心底馬鹿にしていた。
しかし、自分が好きになれないものを好きな人たち、に対する関心が芽生えてきた。
そこにある熱は、もしかすると私が水木しげるに捧げる、あるいは桂米朝の落語にもつ、そうした熱と同じなのではないだろうか。

以前、BL俳句誌『庫内灯』の発刊編集に、少しく関わったことがある。
私自身が腐男子ではないのにそんな企画に関わっていたのは、上に書いたような、私の感じない熱、「萌え」によって動く人たちと仕事をするのが、面白かったからである。

自分が、「マイノリティ」であることと、「凡庸」であることは、併存する。
そこに私が、ある。
すくなくとも「マイノリティ」=「孤高」であることを根拠とする俳句は、私ではない。

そう思うように、なったのである。