2016年4月15日金曜日

伝統俳句


「伝統俳句」という言い方があって、私は前からよくわからないのですが、いったい何を以て「伝統」と呼ぶのでしょうか。

伝統俳句
昭和初年代から一〇年代にかけて新興俳句の運動が起こり、その対立概念として伝統俳句という語が用いられるようになった。内容は論者によって多少異なるが、無季や非定型の試みに対立するものとして、一般的には有季定型の俳句を意味すると理解してよい。(後略)
仁平勝「伝統俳句」『現代俳句大事典』三省堂

有季定型。

まあ、一般的にはそういうことなんでしょうが。
要するに高浜虚子が、新興俳句に対して唱えた用語ですよね、という。

そもそも「俳句」自体が、俳諧連歌のなかから正岡子規たちが取捨選択して作り上げたものだと考えるなら、つまり「俳句」が近代以降の比較的新しいものだと考えるなら「伝統俳句」っていったい何だ?

となるし、

いや「俳句」は俳諧連歌の系譜、つまり宗鑑貞徳芭蕉の伝統を保持しているからそのものが伝統形式であり伝統文芸だ、というなら、俳句であるかぎり「伝統」に乗っているのだから「伝統俳句」とか「俳句の伝統」というのはトートロジーに過ぎないではないか、

と思うし、

「伝統俳句」が、近代以降の「俳句」というなかで特に近世以前の俳諧連歌につらなる「伝統」を継承するものだ、という考え方であるなら、俳諧の伝統を継承してきた無名庵(寺崎方堂橋閒石)、鴫立庵(草間時彦鍵和田秞子)のメンツはどうなるんだ? 

とか思ってしまう。


一方で「日本伝統俳句協会」という団体さんもいて、こちらは、一種の商標登録だと思えばよくわかる。

 公益社団法人日本伝統俳句協会は、俳句を守りその伝統を正しく継承してゆこうという趣旨に賛同する方々によって結成・設立された協会です。 私どもは日本古来からある伝統的なリズムを守る俳句、そして日本での人間と 自然界の風物との脈々たる係り合いを詠う俳句、つまりは花鳥諷詠を基礎とした俳句を拠り所にし、そしてその中には人間界の営みも広く包含する新しく、 しかも伝統的な俳句についての活動を目指しております。 当協会は、昭和62年に現会長稲畑 汀子のもとで発足し、翌63年には早くも社団法人として認可が 下り、平成24年には公益社団法人に移行しました。これは、協会の主張とその公益性が広く世の中に期待された結果の 証であるといえましよう。 平成6年度には会員数は6,500名を越え多数の結社、さらに結社に所属して いない方々にも多数加入頂いております。



いや、よくわかりませんけれども。




結局、「伝統」っていっても、俳句の歴史のなかから、それぞれが自分が大切だとポイントを選び出して名乗っているだけではないのかな、という気がする。
それを自覚的にするか、それとも無自覚に、自分たち自身で日本古来の伝統だと信じこんでしまうか、という違いはあるけれど(その差はかなり大きいけれど)。
そして、それはそれで構わないとも思う。
それぞれが自分たちの大切に継承している部分を「伝統」と考えて「伝統俳句」を名乗るようになる。


ただそれは、自分たちの考えであるから他人と共有できるような、定義の定まった用語にはなりえないと思う。

私自身は、本当のところ俳句が伝統文芸だろうがなんだろうがあまり関心はない。
だからこそ逆に、「伝統俳句」という言葉に価値を見いだせずにいるのだが、むしろ伝統であればなおのこと現代のなかで積極的に生き残る手段というか楽しみ方を見つけなければならないと思っている。

伝統が、伝統に甘んじて閉じこもってしまったら、それは死あるのみだろう。
自分なりに「俳句」を楽しめる方法を模索しながらやっていくことに変わりはない、と思う。



ただ、それでもなんとなく釈然としないものは残っている。


やはり私としては、「有季定型」だけが俳句の「伝統」だとは思えないからだ。


だから、とりあえずこのあたりの本が生まれた背景から考え始めてみようか、と思っているのだ。

傳統俳句の道(三才書院) 国立国会図書館サーチ
「伝統俳句精神」 近代デジタルライブラリー
 

2016年4月3日日曜日


春ですね。
昨日、電車に乗っていたら近くの有名なお花見スポットがにぎわっている見て、なんだかうれしくなったので駅から降りてすこし花見してみました。

ぐるっと歩いただけですぐに帰ってしまったので、花見なのか花見客見だったのかわからない散策でしたが、いちおう記念にぱちり。

この場所、昔から桜は有名だったのですが近年むちゃくちゃな人混みになっています。出店が規制されてしまったので、皆さんばらばらにお弁当食べているだけなのですが、それにしてもにぎやか。


家に帰ってから、新学期の創作演習講義のため資料作り。

この数年で近しい人たちが執筆した、読みやすいテキストがたくさん出版されているので、いろいろと参考になります。

自分から「俳句始めたい!」という声があれば、このなかで適性合いそうなものをオススメするだけでよいわけですが、講義となるとそれだけというわけにもいかず。

私が担当するのは幸い、国文学科の専門科目なので、少人数でもあり、文芸にまったく無関心という学生はいない前提。
それでも、もともと俳句に関心があるという学生は少ないし、知識もあるわけではない。
そんな人たちに俳句を「教える」意味があるのか、と言われれば、悩みますが、私は「ある」と思う。
昨今力のない「文学」関連の講義全般にいえることですが、研究とか創作に必要なある程度の技術的なことは、単純な「指導」でできますが、基本的にその先は、私が先導者(扇動者)となって「広める」ことしかできない。

無関心で通り過ぎて行かれてしまうくらいなら、大学の講義という形式でも、立ち止まらせておもしろがらせる工夫をしたいと思っているわけです。

ただ、俳句に関しては、そもそも俳句実作者になりたい学生ではないのだから、「作り手」を養成する、指導していく必要はないと思っています。

実際私は創作演習では、添削指導の類いはほとんどしない。場合によってアドバイスは可能だけれど、アドバイス程度。聞くも聞かぬも、それは学生個人に任せている。
だから学生から期末のアンケートで「もっと技術的なことも教えてほしい」とか書かれてしまうのですが・・・。

むしろ私が「教えたい」のは、「俳句」のいろいろな幅、おもしろさ。俳句というジャンルに、どれほどバラエティがあって、楽しんでいる人たちがいるか、ということ。
作るほうは楽しめばいいけれど(その先は自分自身で行ってくれればいいけれど)、読む、知る、これは私のほうから入り口に案内したい。

その意味でいえば私の「講義」は、やはり「講義」として作っていくつもりです。



俳句ラボのほうも、2016年度募集が始まりました。