2013年4月23日火曜日

パフォーマンス続考


  逃げ水をちひさな人がとほりけり  鴇田智哉 
  不等式解けず夏木立の中へ  神野紗希 
  一滴の我一瀑を落ちにけり  相子智恵 
個々の俳人によってかなり相違はあるものの、総体としてはある傾向が観察されます。ここには、大げさに言ってしまえば、各人の世界観のようなもの(あるいは、少なくとも個々の文体のようなもの)を見いだすことが可能です。ちょっと俗っぽい言い方をすれば、それぞれの俳人とその作品のキャラがわりと立っているのが特徴でしょう。
宇井十間「相互批評の試み」第11回『俳句』2012.11



俳句にテーマ・素材志向と文体志向の両面があるとすると、俳人にとっては、こういう素材を詠いたいという欲求よりも、こういう文体で詠いたいという欲求のほうが強いのかも知れません。
岸本尚毅「相互批評の試み」第11回『俳句』2012.11

ふたたび、「相互批評の試み」から引いた。

宇井氏のいう「キャラが立ってる」発言は好意的なものであるが、立ち止まって考えてみれば、そもそも「キャラが立って」ない作家が作家と呼びうるのかどうか、疑問であり、現代の若手に見いだしうる特質とは呼べまい。

むしろ、現代の若手とよばれる作家のなかに、飯田蛇笏、山口誓子、阿波野青畝、中村草田男、といった名前を紛れ込ませたら、たちまち「キャラ」負けするだろう。(永田耕衣など入れようもんなら惨敗必至である)

これに対し、岸本氏は宇井氏の発言から「文体」というキーワードをとりだし、「俳人」の欲求が「文体」に向けられている可能性を指摘する。
たしかに、各作家の「キャラ」を成立させているもの、読者に「キャラ」を感じさせているものは、作品の「文体」である、と推測できる。

一句ずつの「文体」もそうだが、まとめて作品群を読むとき、また句集一冊を読み終わるとき、そこに共通する「文体」を発見すると、作家のカラー、「キャラ」が立ち上がる、という印象がある。
そしてその意味では、宇井氏のあげた作家たちは、若くしてかなり自覚的に自らの「文体」=キャラを造りあげている(もしくは造りあげようとする意志が強い)、という見立てに、賛成してもいいだろう。



私が、私たちの世代の俳句を「パフォーマンス」と呼ぶのは、そこに多分に見世物的要素、すなわち「見られる」「読まれる」意識の高さを見るからであり、世代が近くなるにつれてよりその傾向が強まる、と感じるためだ。

しかも重要なことに、私たちは、多様なメディアを通じて、まさにマルチに「キャラ」をプロデュースすることができる、ということなのである。

現代において「キャラ」プロデュースを意識している典型的な俳句作家が、佐藤文香であることは言うまでもない。
彼女は、句集、総合誌、俳句会のような既存の「俳句メディア」に止まらず、各地のイベント、ソーシャルメディア、ウェブマガジンを自在に往来し、筑紫磐井氏をして「電子媒体を通じて遍在」している、と言わしめた。
(遍在するサトウ・アヤカ、は時代をあらわす、いいキャッチフレーズだと思っている)



私が神野紗希を「戦闘美少女」とアニメ・マンガ分析の用語で呼び、

かつ高柳克弘を高山れおな氏に倣って「エンターテイナー」と呼ぶのは、

すべてこうした「パフォーマンス」意識の高さ、自己プロデュース力の高さこそが、現代の若手作家にとっての生命線といえるであろうことを、強く意識し、また彼、彼女たちが意識しているであろうことを感じるからだ。

この意識は、個々の作品傾向や、レベルにまったく相関しない。
意識が高くても作品が追いつかない作家がいる一方、意識せず高いレベルの作品を安定的に生み出す作家もいる。当然のことだ。

だが「現代」を生きる作家として「パフォーマンス」意識の低い作家には、少なくとも私は魅力を覚えなくなっている。


(この稿、未稿)

2013年4月18日木曜日

パフォーマンスということ


高柳克弘さんの句には表現の巧さやセンスの良さに加え、胡散臭さを感じます。悪口ではありません。自分には無い資質を持った若いライバルへの羨望と嫉妬ゆえの物言いです。・・・・・・俳句における「主観的な灌頂の発露」をひそやかなモノローグとして狭く捉えるならば、「劇の普遍性」を志向した俳句は芝居がかった、わざとらしい句に見えることでしょう。しかし、そこに俳句が渡るべきルビコン川があると考えてよいと思います。
岸本尚毅「相互批評の試み」第10回『俳句』2012年10月号

昨年、『俳句』誌上でこころみられた往復書簡形式の「相互批評の試み」はなかなか興味深かった。

宇井氏の問題提起に対して、岸本氏が具体的な作句技法や俳句鑑賞に落とし込みながら整理していくので、資質の違いが相互補完されて興味深かったのである。
(蛇足ながら、宇井氏はきわめて問題意識のたかい作家と思うが、本質を求めようとするあまり、議論が一周して月並というか言い古された結論に戻る、という印象がある。たぶん、私を含めて多くの読者は、今その問を発した先の「答」に期待しているのだが)

さて、そのなかで、高柳克弘さんの句に「劇」、ドラマ性を見るというくだりがあり、特に興味深く拝読した。

高柳さんの句には、ときにレトロな色合いを帯びる、わかりやすい浪漫志向がある。
いわゆる「普遍的な」=ベタな印象の「青春ドラマ」的な感性。
  ことごとく未踏なりけり冬の星
  木犀や同棲二年目の畳

それは一面では高柳さんの弱点だと思うが、別の見方をすると「俳壇」の「若手」代表である「高柳克弘」に対して、「読者」がいだく、当然の「期待」に応えた、きわめて「エンタメ」な作句態度だと思う。

ある種の「読者」を想定しつつ、「読者」の期待を一句の物語のなかに織り込む、そういう感覚をもって「劇」とか「ドラマ性」と名づけるとしたら、まさにそれは高柳克弘という「エンターテイナー」に特徴的な性質ではないだろうか。



一句のなかに「物語」を仕掛けるという手法は、外山一機氏の試みがより先鋭的である。

初期の句、
  川はきつねがばけたすがたで秋雨くる
  大脱走あそび金玉ぶうらぶら
   げらげら笑ふ神の後ろのめしの椀
などにおいて顕著であるが、たとえばこれらの句からは、落語「七度狐」、映画「大脱走」、「平成狸合戦」、服部幸雄、山本ひろ子らの指摘した芸能神「後戸の神」の儀礼などなど、さまざまな「物語」の破片を拾うことができる。

作者がこれらの物語を正しく利用しているのかどうかはともかく(別の物語の可能性もある)、無数の先行する物語を誘引し、包含するところに、外山句の特色がある。

これは、近時その全容が明らかになった「上毛かるたのうた」においても同様だ。

上毛かるた」は「群馬県の子供にの名物、歴史などを教えるため」に作られた郷土かるたであり、群馬出身であればほぼ全て暗記しているという有名なエピソードがある。
(私は同じ大学で群馬出身の知人から直接聞いたが、のちに「ケンミンショー」でもとりあげられていた)

外山氏をして「上毛かるた」に向かわせたものが、「郷愁性」とか「古典を踏まえた」というキーワードですまされるなら、それは高柳重信から大岡頌司を経由して林桂の実現する手法であり、ただ外山氏の「師系」を追認するだけで終わる。
外山氏の手法は、むしろ、そうした「典拠」や「師系」という固有名詞や物語を読者に想起させることを目的とした句なのであり、想起したうえでどう摂取され、加工されているか、まさにtextとしての織り目の細やかさを楽しむものである。

それは、むろんこれまでも俳句表現史においてたびたび試みられてきた手法なのたが、現在までメインストリームとはなっていない。



ウソかマコトか、俳句界の平均年齢は七十余歳であるらしく、そのなかにあって「若手」とは一体いくつまで含めればよいのか、若手アンソロジーと銘打たれた『新撰21』にしたところで、関悦史氏(1969生)から越智友亮(1991生)までは親子ほどの年齢差があることは、すでによく指摘されていることだ。

そんななかにあって、私自身が実感的に「同世代」と感じられるのは、高柳克弘(1980生)や御中虫(1979生)、冨田拓也(1979生)あたりを上限としている。
下限はどのあたりか、と考えると、どうも越智や黒岩徳将(1990年生)、福田若之(1991年生)に対しては「同世代」というよりは「後輩」という意識が強くなる。

一般論として言うと、人は自分より年下には「最近の若い者は」と怒るけれど、年上にはシンパシーを感じるものだ。小川軽舟氏「昭和三十年世代」にもそんな傾向が伺える。
スパンが短くなってしまうが、下限としては藤田哲史、生駒大祐(1987年生)、羽田大佑(1988年生)あたりが目安となるだろう。
(考えてみると藤田・生駒~越智世代までの間はすこし人材が薄いようである)


高柳克弘、御中虫、外山一機、冨田拓也に共通するのは、過剰なほど一句のなかに「物語」を囲い込もうとする姿勢だ。

ここに、佐藤文香や石原ユキオの名前を加え、外山氏にならって「消費世代」というキャッチフレーズをあてはめることも可能だろう。(外山「消費時代の詩ーあるいは佐藤文香論ー」『豈』2009.10。大塚英志『定本 物語消費論』角川文庫、2001)


だが、少し待ってほしい。

彼らを「物語消費」へ駆り立てる、その原動力は何だろう。

単純な「後発世代」としての自意識だろうか。
それだけならば、小川氏らが『現代俳句の海図』で描いて見せた「昭和三十年代俳人」たちの地平と何も変わってはいない。

それでは、何も変わらない。
それでも、彼らの「俳句」は、昭和三十年代俳人たちの句とは違う。

むしろ私にとっては、表面上はまったく違って見えるけれども、西村麒麟や、西川火尖、徳本和俊、野口る理まで含めた、共有の問題意識のようなものを感じているのだ。

おそらく、彼らを、いや、私たちを駆り立てているのは、「読者」なのである。
作家の、「表現者」としての欲望よりも直接に、わかりやすく、私たちの俳句に顕れているのは、「読者」の期待なのである。

言うならば、私たちの表現は、見られるため、読まれるために演じる「パフォーマンス」なのである。
私たちは、自分自身の表現欲と、読者の期待との均衡点に位置するところの「作品」を生み出すために「パフォーマンス」してみせている。

むろん、このような「読者」意識が、私たちにおいて特有だと自惚れるつもりはない。
「俳句」にはもともと「選」の意識が強いのは当たり前であり、また、活字で俳句を読むことが主流となった時代では「読まれる」意識が強くなるのは当たり前のことである。

あるいは摂津幸彦の含羞を含んだ「恥ずかしいことだけど、僕はやっぱり現代俳句って言うのは文学でありたいな」発言だって、すでにして「文学」の中に「含羞」が差し挟まれていることに着目したっていいのである。

だから、「読者」意識の高まりは、次第に深まったものなのだろう。
それに、作家ごとに濃淡があるのも当然で、世代と無関係である、とも言いうるだろう。

しかし、それでも私はあえて言いたい。

私たちの表現は、もはや「文学」でなくてよい。
そうではなく、私たちの「俳句」は、むしろ読者を充分に意識した、「パフォーマンス」としての自覚と矜恃において、先行世代と決別しうるのではないだろうか、と。

 
※追記。 考えてみると私は1985年早生まれなので、1979~1989年あたりが「同じ時期に小学校に在籍できる」世代であり、「同世代」と体感できるのは当たり前なのだ。したがって、下限は羽田大佑・山本たくや、といったあたりになるが、彼らに上のような危機意識があるか、といわれると、むしろ下の世代、越智・黒岩らに近い気もして、やや微妙である。

2013年4月3日水曜日

塩見先生の本。



塩見恵介氏、初の単著『お手本は奥の細道 はじめて作る俳句教室』(すばる舎リンケージ)。

『奥の細道』所収の62句を「お手本」に、著者の設定した62のテーマをひとつひとつ学んでいく、という形式のテキストブック。

それぞれ見開き一面で、
・今日のテーマ
・芭蕉の居場所
・『奥の細道』現代語訳
・俳句の解説
・『奥の細道』や俳句に関するエピソード
などが簡単にまとめられている。

62のテーマは基本から応用へ、という流れではなくて、『奥の細道』本文の流れにそって、具体的な芭蕉の句からみちびかれたテーマで書かれている。

テーマは最初こそ「切れ字を使う」「季語を入れる」のようにごくオーソドックスだが、基本を踏まえたあとは「人名を詠み込む」「ファッションを詠む」「異化してイカす!」「感覚の転換」「取り合わせ(地名と景色)」「取り合わせ(人為と自然)」「取り合わせ(場所+個人的体験)」「ツッコむ」「ボケる」「虫眼鏡になる」など、具体的な技法がどんどん提示されていく。
このあたり、生徒たちを俳句の授業に取り込み、俳句甲子園でたちまち常連校にまで仕立て上げた著者の指導理論が見える。読者は実に要領よく、俳句どっぷり、にさせられてしまうのだ。(私も犠牲者の一人)

また、これらのテーマ設定には、「俳句」をきわめて分析的に、テクニカルな実験(工夫)の成果と捉えている著者のスタンスがうかがえて興味深い。

「はじめに」を引いておこう。
季節の言葉を入れて、五・七・五でつぶやいてみる。いつだって、どこだって、誰だって作れる、素敵な詩。それが俳句です。 
ちょっといいことがあったとき、ちょっといいものを食べたとき、ちょっと美しいものを見たとき、そんなあれこれをちょっとおしゃれに言ってみたくなる。そんなとき、人は俳句を始めるのでしょう。
・・・・・・
誰かと気持ちを共有したい、新しく見えた世界を誰かに伝えたい、俳句が言葉の表現である以上、それは当然の欲求です。そんなとき、句会に出て、多くの人と交わるなかで、表現を磨いていくようになります。そして、今度は作句だけでなく、他人の俳句を詠む楽しみに気付いていきます。 
そうです、俳句とは、実は他者や周囲にどんどん自分を開くツールなのです。
誰だって作れる」「他者や周囲にどんどん自分を開くツール」としての俳句。
近年の坪内稔典氏が提唱する俳句論の成果がつよく反映されているが、一方でステップアップをつよく意識しているところが、つねに現在進行形で俳句の実験を試みている著者ならではと言えるだろうか。

テーマごとに分かれているので一冊まるごとの「俳句論」より読みやすいし、手軽に『奥の細道』を理解できる特典もある。
(ちなみに巻末に原文もついている。あらためて見ると『奥の細道』って短いですね)

現代語訳はかなり意訳されていて、固有名詞や歴史的用語にあまり説明がないので、『奥の細道』の解説書としてはちょっと情報不足かもしれない。
しかし、そういった「お勉強」的知識を大胆にふり捨てたところに、「俳句」を作るおもしろさ、読む楽しさ、が開けている。
カラー写真も多く、基本的な情報量のわかりやすさ、豊富さからいうと、定価1300円はかなりお得だと思う。

あー、でも「ひとマスずつ丁寧に書き込む」ためのマスが毎回ついているのは、ちょっと興ざめかも知れません。マスに書き込むより、もっと自由にノートや携帯に書き込む、ってスタイルがふさわしい本だと思うので。そういう意味では、テーマに基づいた著者自身の俳句とか、現代の例句がないのも、ちょっと物足りない。

しかしこのあたり、「奥の細道+テキストブック」という出版側のコンセプトがあるので、ある程度は仕方ないのでしょうね。



ちなみに、そんな塩見氏の俳句指導の成果『乙女ひととせ』も拝受。

こちらは、同志社女子大学で塩見氏が半期十五回の創作講義をふたつ、一年間担当した成果で、受講者それぞれの30句と句会記録がまとめられている。

柿衛文庫「俳句ラボ」に来てくれた人たちの名前もちらほらあって、なかなか楽しい。

30句は、単純にできた俳句を集めたものではなくてちゃんと編集論理があるものが多く、武川美波「コロッケ」は、全句コロッケでまとめられた30句。
同じような句も多いが、「コロッケ」からどんどん発想が広がっていくのは楽しい。
  叩き落とすコロッケかすと雲母虫
  不揃いのコロッケ一口母の日よ
  コロッケ氏日常茶飯事油照

その他、目についた句をいくつか。

  猟奇的彼女の為か野カマキリ  上田春香
  脳みそにしおりを挿む目借り時  小山鈴未
  重なる瞳リボンで結んでさくらんぼ  松尾綾香
  海日差し羨む私は火星人  篠原有貴
  いかなごが白い海から顔を出す  寺尾美香
  北極星なくてもわたしは帰れるわ  尾上直子
  稲妻と猫と未来と路地裏と  塩野由子
  よそはよそうちはうちです冬桜  松尾唯花