2009年11月19日木曜日

「つづきのやうに」 を読む

 
 野遊びのつづきのやうに結婚す

俳句という短い詩型は、断定に向いている。
ああでもない、こうでもない、と言葉を連ねるひまはなく、ただ簡潔に言い止める、それが俳句の理想の、あるいは典型的な、スタイルだ。
だとしても、これらの見事な「言い切り」は鮮やかだ。

 材木は木よりあかるし春の風
 霜の夜の足音ばかりなる団地
 冬眠の骨一度鳴りそれつきり

「材木」に見る「あかるさ」。「団地」中から聞こえてくる「足音」。「冬眠」中の獣が鳴らす「骨」の音。いずれの五感も想像の域に達しつつ、きわめて具体的で実感がある。
これらの句にも見られるように、「~よりも○○」、「~ばかり」といった、きわめて「俳句的」な文体、つまり物事を焦点化させる文体を好むのも、それが言い切ることに慣れた文体だからだろう。
だから、失敗してしまうと、ちょっとあざとい。いかにも俳句的な「ウケ」を狙ったように、見えてしまう。

 どの粒も蟻より重し夏の雨
 焼酎や親指ほどに親小さき
 暮れてより親しきわが家足袋白し
 年忘やがて手拍子だけ残る

しかし、たとえば山口誓子や中村草田男の句にときどきあるような、独善的な感じは受けない。
断定はするのだが、彼はそれを押しつけないのである。その意味で彼の句は、とてもしなやかな知性を感じさせる。

 行列のところどころが花粉症
 なま卵すなほに割れて緑さす
 水は街さまよつてゐる熱帯夜

言ってみれば彼の俳句は、独白なのだ。
本人が、ある出来事に対して、ナルホド、と理解する。理解の仕方。ああ、これって、こういうことなのか、と。その「納得」を、ふと言葉にしてみる。そんな俳句なのである。

 目の中を目薬まはるさくらかな
 吐き出せる巨峰の皮の重さかな

これなど、まさに本人も会心の「納得」だと思う。
「目薬」をさすとたしかに眼球のなかをまわる感覚がある。「巨峰」をまるごと食べたことはないけれど、ちょっと皮を剥いて口に含んで、皮を吐き出したことはある。吐き出した後の「巨峰の皮」は、実を出したはずなのに汁気を含んで重く、皮だけだけでも皿の上にしっかり存在感があるものだ。


ただ、本人は、なかなかいい理解の仕方、だと思っているに違いないのだが、周りは必ずしもそうは思っていないようなものもある。彼の理解は、ときどき妙なのである。
正直、そこにこだわって、どうするの?

 人波のまだナイターに残りをり
 炎天や食つてはたらく男たち
 あけがたの動物園の冬の水
 白鳥を見てゐて首が凝りにけり
 踏切は夜も踏切沈丁花

「白鳥を」「踏切は」はちょっとおもしろいが、「人波の」「炎天や」「あけがたの」などは、当たり前のような気がして、なにがおもしろくて詠んでいるのか、よくわからない。
もっとも、彼にとっても、共感されれば喜ぶだろうが、共感されなくても、たぶん、構わないのである。読者にしたところで、妙なところで「納得」している彼を見るのも、その妙な解釈を聞くのも、またそれがときに当たり前すぎるというのも、いかにも「俳句的」ではあろう。
さきほどから無責任に「俳句的」との評を使っているが、それほど彼の句には無理がない。彼の句に、ある種の食べ足りない感じを覚えるとすれば、まさにその「無理のなさ」に原因があるだろう。彼は、ある「発見」や「納得」を俳句の文体に収めるとき、ほとんど無理をしていないように見える。ところが、あんまり無理なく俳句の文体に収めきってしまうと、却ってもとの奇妙な「発見」の、奇妙さが消えてしまって、当たり前になってしまう。

その意味では、俳句の文体のなかにあって、なおかつ何かはみ出している次のような句は、全体では珍しい。

 火葬場に絨毯があり窓があり



掲句に戻ろう。
 野遊びのつづきのやうに結婚す
彼のしなやかさ、軽快さは、掲句にもっともあらわれている。
彼はマイペースに、自分なりのペースで世界を作っていくだろう。
「野遊びのつづきのやうに」、自分なりのペースと、現実との折り合いで、案外器用に、意外としたたかに、彼は彼の俳句を作りつづけるに違いない。





作者は、山口優夢。


※ 本稿は、『俳句』2009年11月号掲載の第五十五回角川俳句賞候補作品「つづきのやうに」に対する鑑賞文です。
 文体については、山口優夢氏がブログ「そらはなないろ」他で発表されている、「句集を読む」シリーズの文体をパスティーシュさせてもらいました。
 遅ればせながら、優夢氏、角川俳句賞最終候補、おめでとうございます。
  

※ 一度アップしてから、ふと思いついて同日中に加筆しました。

 

2009年11月16日月曜日

告知

 
先日、話題に出しました『国文学 解釈と鑑賞』の鑑賞文を、「週刊俳句」で書かせていただきました。
「虚子の未来・俳句の未来 特集 高浜虚子・没後50年~虚子に未来はあるか」(『国文学 解釈と鑑賞』2009年11月)
ってタイトルです。なんかすごいタイトルですが、あまり期待しないでください。特集全体の意図をとるべく努力したつもりですが、そのぶん各記事に対するツッコミは甘いです。『虚子百句』の読みなど、細かいところで面白い意見が多かったのですが、触れきれませんでした。
ただまぁ、ラインナップ見ていただければ分かるとおり、非常に「船団」に近い執筆陣です。「船団」の仕事を「船団」会員が紹介する、というのも奇妙な話なのですが、それはそれ、寄稿依頼いただけたのをよしとして書かせていただきました。

ちなみに、「週刊俳句」今週号では池田澄子さんの十句も読むことができます。
ついでにご一読いただければ幸い。
 → 
週刊俳句 Haiku Weekly: 週刊俳句 第134号 2009年11月15日



と、上のお仕事を、とりあえず師匠方にお伝えしたところ、ありがたいものでさっそくご紹介いただきました。
出してみたはいいけど何の反応もなく黙殺された一句をひいて、絶賛してくださってます(^^;。

恐懼。
 → 
http://sendan.kaisya.co.jp/ikku.html

2009年11月6日金曜日

鬼貫


11/3、鬼貫青春俳句大賞公開選考会に行ってきました。
 →
http://www.kakimori.jp/2009/11/post_103.php

大賞に輝いたのは、羽田大佑氏(京都産業大学四年)の 『カタカナ+ひらがな+漢字=俳句』。
  短夜の港を映すグラスかな
  専攻は古代ギリシャ語星月夜
  マフラーを巻く本心に触れぬやう
以下、優秀賞に、山本皓平氏 『ファンシー・ゲリラ2009』 、北嶋訓子氏 『ささくれ』、杉田菜穂 『曲がり角』。

受賞作品若干(一句ずつ)が、柿衛文庫HPで公開されています。大賞作品は来春の『俳句研究』号に全作公開されるはずですので、そちらでご確認下さい。

羽田氏は前々からの句会仲間。吹田東高校から俳句甲子園に出場し、「百鳥」(大串章主宰)に所属。長らく大きな賞には恵まれていなかったけれども地道に俳句を続けていて、いま関西学生句会では重要戦力のひとりである。作風は普段、ウェットに富んだ叙情句(というより、ロマンチッ句)、が目立っていたのだが、今回の30句は叙情がほどよく抑えられ、また、なんといっても秀逸なタイトルで注目をあつめた。タイトルどおり、すべての作品にカタカナ、ひらがな、漢字を使っており、しかもカタカナはカナ表記というわけではなく実際の外来語由来のもの。日本語の多層性を意識した意欲的な作品だった。 最近は就職活動が難航しているそうで、そのあたりの鬱屈が、むしろ作品に勢いをつけたのかもしれない。
会場の空気も味方にして、大賞に輝いた。
おめでとうございます。

優秀作に、あやういところで生き残った話題作『ファンシー・ゲリラ2009』の山本氏も句会仲間で、これは「船団」仲間でもある。仏教大学三年、坪内ゼミに所属して近代文学を専攻しているが、ぱっと見、どーみてもブンガクしているようには見えないちゃらんぽらんさが魅力。いや、根は気ぃつかいのおもしろい男なんですけど。ギターが弾けたり酒に詳しかったりお洒落にうるさかったり、いろいろ多芸。 「船団」の先輩方に、いまもっとも期待されている青年であり、彼も本来のロマンチッ句から飛翔してにぎやかな意欲作、実験作で受賞にこぎつけた。

公開選考会のいいところは、なんといっても選考委員の意図が目の前で見られること。いわば「句会」の延長線上であり、どういった作品が、どのような場で「大賞」と成るのか、過程を見られる、そのことが会場にとっての収穫だ。
受賞した側にはもちろん、落選組にも次へつなぐヒントが見える。
句会をともにしていて、その姿勢をよく知っていれば、なおのことである。
その意味で、今回はいろいろと勉強になった。なにより受賞した四作品はどれも選考委員に「採りたい」気持ちをおこさせる勢いがあった。完成度より冒険より、俳句に対してどう向き合っているのか、作品からくる勢い、迫力、それを選考委員が受け止めて、受賞につながった、のだと思う。
落選組にとっては、「次」が勝負である。



上の文、負け惜しみ97%。 
いや、例年どおり意外と平静なんですが、やはり「採りたい」気持ちにさせられない作品、て全然意味がないなぁ、というのを思い知りました。こっから、どう立て直せるかですが。



「週刊俳句 角川俳句2009落選展」、引き続き開催されています。
友人知己を中心に、ぼつぼつ鑑賞も書かせて貰ってます。拙作への評も書いていただきました。
こういう「場」があることが、落選組にとっては「次」へつなげる原動力になる。ありがたい企画である。
週刊俳句 Haiku Weekly: 落選展2009 会場