2014年12月31日水曜日

年納め


大晦日です。

今年は新しい仕事が増えたり、いろいろと雑事が増えたせいもあってblog更新が滞ってしまいました。
Twitterその他の媒体でちょろちょろ意見を出す機会があったということも原因としてありますが、一重に私の怠慢です。

これまでは大学院で「学生」という身分が長かったので比較的時間にも余裕がありましたが、これからは遅ればせながら「社会人」として、自分で時間を捻出していかなくちゃいけないのだなあ、と。
「俳句」は、飽きたらやめるつもりなのですが、まだ当分飽きそうにないし、飽きさせてもくれないらしい。
それならこちらも、やっぱり飽きない努力(工夫)をしながら、俳句をにぎやかに、楽しんでいきたい、と思います。

来年は、「俳句」関係でもいくつかお仕事をいただくことになりそうで、また報告できればと思いますけれども、どうぞ今後ともごひいきに。



で、Twitterで先日少しつぶやいた、「4S」ざっくり見取り図の話。



秋桜子/素十を対称的に見るのは俳句表現史上常識といっていいですが、誓子/青畝の対称も、調べてみたところ、すでに虚子が言っていたのですね。
不勉強でした。

阿波野青畝『万両』の序文(昭和六年三月)において、虚子は「ホトトギス俳壇」で活躍する新人として秋桜子、素十、誓子をあげたうえで誓子と青畝は「共に大阪に居を構へ、共に活躍を続けて居る点も相似て居る」と指摘しています。
青邨が「4S」と名づける以前に、虚子自身、ホトトギスを代表する作家として4人を認めていたのか、というのは、今回改めて読み直して知ったこと。

そのうえで虚子は、青畝の句を「既成の俳諧の天地に歩を留めようとするもの」、誓子の句を「キャムプを詠じ、デウスを詠じ、韃靼を詠じ、餓鬼を詠じ、甚だしきに至つては、宝塚のダンスホールを詠じて居る。而も亦その句の調子は、疎硬放漫なるかに見える」と述べています。(誓子の句にやや辛い感じがします)
一度誓子を去って青畝に帰ると、其処には誓子君の句は国境にある征虜の軍を見るが如き感じがするが、それが青畝君の句になると、俳諧王国の真中に安座して、神官行き、僧侶行き、貴人行き、野人行き、老も若きも共に行く縦横の街路井然として乱れず、而かも其、静なる水に影を映して、一塵をとゞめざる感じがする。青畝、誓子は吾が俳句界に於て面白き対立を為して居る。又相互に学ぶべき点もあると思ふ。
虚子「万両序」阿波野青畝『万両』(引用は角川書店、現代俳句大系より) 

晩年、青畝は「息白しポイ捨て御免合点だ」のような自在の境地に達し、「ペレストロイカペレストロイカ虫滋し」「綿虫を見て湾岸が憂かりけり」などのようなテレビ画面すらも「写生」するに至ります。
その自在さは、しかし誓子の「征虜の軍」が素材を拡張していったのとは全く違って、目に映るものを自然に詠み込んでいく感覚。

4Sそれぞれが長生の果てにたどり着いた境地は一語で語れるほど偏狭単純ではないものの、やはり秋桜子/素十、誓子/青畝の「4S」を極とする見取り図で、当時(大正末~昭和初期)の俳句表現を見通すことはある程度、可能なのだろうと思います。

というわけで、試験的に。




4Sに、その周辺にいた作家を数名加えてみました。

4S以前の大正主観派はあえて外していますが、配置するなら「抒情+根源」に蛇笏、鬼城。「根源+客観」に普羅、石鼎でしょうか。私自身、このあたりは勉強不足なのでわかりません。
写生といえば夜半、風生、草城らをどう配置するか。「客観+滑稽」でやや素十寄り、爽波の隣かなと思いますが、ホトトギス全体がそこに収まるとも思えません。

さらに悩ましいのは草田男。どう考えても、あの歪な、多層的世界を受け止める位置がよくわかりません。わからないまま外して、楸邨、波郷を番外に加えました。


異論はかなり多いと思いますので、コメント欄などで随時受け付けます。

いずれにしても、私は多色多様な、現代俳句の広さを愛好しています。
上図は、かえってその広さを限定してしまうかもしれませんが、図に収まらないことを実感することで広さを再認することもできるかも知れません。


本年はこれまで。
皆さま、良いお年越しをお迎え下さい。今後とも曾呂利亭雑記をご笑覧いただければ幸いです。


亭主拝

2014年12月27日土曜日

俳句Gathering

年の瀬のお忙しいなか、足元の悪いなか、ご来場くださった皆さま、ありがとうございました。
参加者名簿などを参照すると、当日は延べ50名ほどの方に参加していただいたようだ。
この数字はバトルに参加してくれた大学生俳人や審査員、登壇者をふくめた数なので純粋な入場者数ということでもないが、それでも有志イベントとしてはまずまずの入場数だと自負している。

本当にありがとうございました。

昨年まではアイドルを呼んだり、とにかく大きな「祭」を志向したものでした。それはそれで、得るものはあったと思いたいのですが、あまりにもこちらの準備が不足し、特に昨年度は、はっきり「失敗」してしまったと言っていい。
正直なところ、企画内容、予算、スタッフ、全ての面で、我々は不足していた。

今年は実行委員会のメンバーにも変更があった。趣向を変えて、できる範囲のイベントをめざして作ることにした。
代表をお願いした三木基史さんをはじめ、今年初めて関わったスタッフの皆さんは、短い準備期間でイベント趣旨を理解し、慣れない作業を十全にやってくれた。仮屋賢一氏、阿久津統子氏、堀田華絵氏、仲里栄樹氏、物販を引き受けてくれた羽田大祐氏。
また審査員の先生方にも、年末多忙のなか、長時間のイベントに力一杯ご協力いただいた。ただただ感謝である。



第一部は、6大学バトルの予選として「天狗俳諧」を行った。
準備不足でリハーサルをしていなかったため、最初はばたばたと手間取ってしまったが、後半はそれなりにうまくいったと思う。
ただ、案外出場選手たちが本気で対策してきたらしく、即興の面白さというより、チームワークで無難な作風に落ち着いてしまった、というのが正直な感想。
ゲームとして、あるいは予選試合としては、それなりにまとまってよかったが、俳諧のゲーム性という点ではいささか目的を逸した観がある。
天狗俳諧ルールや敗者救済の制度をふくめて、もう少し検討する必要がありそうだ。

第二部では、歌人の土岐友浩氏をお迎えし、中山奈々とともに短歌界の若手の活動についてうかがった。
短歌界では、この数年特に結社や総合誌のような既存の場にとどまらず、Twitter、文学フリマといった新しい「場」で同人誌や独自の企画を展開していく動きが活発だ。
当日は、土岐氏が中心となった同人誌「一角」「サンカク」や、そこから派生した「わたしの五島さん」コミカライズの話題、またTwitter上で短歌の読みに関する議論が盛り上がり「Twitterには謎の読み巧者がいる」という話題など、普段俳句界では聞けない内容が飛び交い、興味深かった。
ただ、客層としては日常的にTwitterに親しんでいる学生たちと、Twitter自体全然知らない中高年齢層とに分かれていたので、司会の不手際もあり問題意識の共有は難しかったかもしれない。反省点である。

第三部は、津川絵理子氏、小倉喜郎氏、曾根毅氏(三木氏から交代)の三氏を審査員に迎え、俳句甲子園形式のディベートを行った。
第三部に勝ち進んだのは、京大(1人は広島大学)、阪大、甲南、龍谷の4大学だったが、想像以上にディベートが活発であり、俳句甲子園の再現を見る思いだった。
しかし、逆に言うとそれは「高校生のディベート」のままだ、ということでもある。甲子園のディベートが、ある程度の完成度で公式のようなまとまりを見せている分、大学生としては別の方向性も模索してほしかったのだが、まだ難しかったようだ。
甲子園未経験の学生たちが、今後どのような批評力を発揮するかに期待したい。

当日投句大会では席題「雪だるま」で、多くの投句をいただき、小池康生氏、星野早苗氏、曾根毅氏によって選ばれた3句に景品が贈られた。
最優秀 雪だるま羽釜におこげ少しあり  平きみえ 佳作  おんなのこのゆきだるまはいるのかな  寺田心 佳作 だんだんと嘘を覚えて雪だるま   小鳥遊栄樹


主催の不手際から当日は時間が押し倒し、30分近い遅れとなってしまった。その後、学生が多かったこともあり近くの自治会館を借りて1時間程度のかるい打ち上げを行ったが、遅くなったにもかかわらず34名もの参加者があり、相互に交流の機会になったようだ。

イベントの成果については、また参加者などから意見を頂戴しながら検証していきたいと思っている。


イベントという方向で「裾野」を拡張しながら、一方で「俳句」に関わる人々は「深化」も目指さなくてはいけない。

どちらか、ではない。どちらも、だ。

それが私に可能かどうかはともかく、それに関わっていくような立場でありたいと強く願う。


年末になってから、ずんと重い手応えの句集をいくつも拝読。
  • 佐藤文香『君に目があり見開かれ』(港の人)
  • 岡田一実『境界-border-』(マルコボ.コム)
句集ではないけれど、
  • 『川柳ねじまき #1』


感想は、また折を見て。


※2014.12.28追記

2014年12月13日土曜日

プロムナード短歌2014


11/30、プロムナード短歌2014、参加してきました。

詳しいプログラムや内容は、いろいろな方のツイッターやブログなどでご確認ください。
いくつか興味深かった発言をとりあげ、ぽつぽつコメントしていくことにします。
なお、発言は当日の記憶に拠っているため、正確なものではないことをお断りしておきます。


第一部

島田修三(短歌)、佐藤文香(俳句)、なかはられいこ(川柳)の、クロスジャンルトーク。司会は荻原裕幸氏。

島田氏「俳句は映像的。川柳は批評的」

俳句は映像的。たいへんよく聞く言説ですね。
嘘ではないと思うが、しかし「映像的」だけでくくれるものでもないだろう。
それは「川柳=批評」という図式にも言えて、基調というかベースはそうかもしれない、けど。っていう。けど。

島田氏「俳句は序詞で、映像だけを詠む」「俳句の五七五に川柳をつけると短歌になる」

「俳句+川柳=短歌」は一瞬納得しますが、要するに「発句+平句」ですよね。違うかな?
先日の高橋睦郎氏による講演で出た
「五七五ですっぱり分かれるのが俳句。でも、と未練を残すのが短歌」
という補助線を引くと、わかりやすいかもしれない。「未練」という本音部分が「川柳」というとらえ方。これも、わかりやすくはあるけれど非常に図式的な説明といえる。

佐藤「俳句カードバトルは、こんなのも俳句だという句を入れている」「無記名で、誰の句かわからないものを、とりあえず鑑賞できるようになる」

佐藤氏は、最近石原ユキオ氏と考案したという「俳句カードバトル」について解説。うん、要するに「借り物句相撲」みたいなもんですね。私も実は似たようなことを考えていたので、先んじられたのと、共感と。

なかはら氏とともに、佐藤文香の立場は、俳句(川柳)の域を広げたい、広めたいという方向。したがって「最近の動向」について聞かれると、「俳壇」というヒエラルキーの外、または周辺で活動している、という答えになる。
一方で島田氏は、短歌の真ん中から俳句、川柳を見ている。そして「非常にインスパイアされ」、両方の良いところを取り込んで「短歌」にしてしまう。拡散していく方向と、周りを取り込んでしまう王道と。
パフォーマンスとして挑発されたところがあるのだろうが、議論としてはかなりベクトルが違ってしまったのは否めない。

その後、文香から俳句の句会と、川柳句会、短歌の歌会との違いについて言及があった。
あまり熟さなかったが、ジャンルの差違を際立たせるためには重要な視点だったと思う。
これは、後半の「作者と虚構」問題にも関わるので、後述する。

番外編ながら、なかはられいこ氏のblogより当日の感想を引いておく。

わたしが出たのは第一部ですが、レジュメつくるときから、なぜかジャンル論になるとはあんまり思ってなくて、途中で、あ、そうか。と思ったわけです。・・・・・・でも、なんとなく、いまさら感があったのは事実で、巷間認識されている川柳と、わたしやわたしの周りのひとたちがいま、書いている川柳の違いっていうのは、「あの場」では共有されているものだと、なぜか思い込んでいて、そう思い込んでしまったのはわたしがラエティティアという文芸メーリングリスト(加藤治郎、穂村弘、荻原裕幸の3人が立ち上げた)の記憶をひきずっていて、しかも荻原さんが司会という状況もあって、場というものを読み違えていたからかもしれません。 
・・・まさに、イベントというのは生きものだなあと思います。


第二部。
「ニューウェーブ三羽烏」、加藤治郎、穂村弘、荻原裕幸、そろい踏み。司会は斉藤斎藤氏。

話題は、短歌研究新人賞を受賞し石井僚一の作品が、父の死を悼む挽歌という体裁をとりながら実際にはフィクションだったということをきっかけに、「虚構」に関するもの。

シンポジウムというよりは、3人がそれぞれ「現在の短歌」にどう向き合っているか、という自分の立場について表明しあった場、という感じだった。
それぞれの発言はきわめて誠実でもあり興味深くもあったが、クロスして議論が深まる、という方向にはいかなかったのは、見ていてもどかしい気がした。

穂村氏は、自身が震災の翌年に鈴木博太「ハッピーアイランド」を短歌研究新人賞に推した(2012年)ことをあげ、「この作者が福島の人であってくれ。鹿児島の人であってはいけない」と祈っていたことを告白した。
そのとき、自分はこれまで、作者と作品とを切り離し、短歌の虚構性を重視した塚本邦雄を信じてきたが、「塚本を裏切っている」ことに気づき、衝撃をうけたという。

穂村氏はそのうえで、虚構かどうかを読者が見抜けるかどうかは、結局は作品の「文体」に拠っており、石井氏の作品はどう見ても「リアリズムの文体」であった、と指摘。
そのうえで、今後彼がどのような作品を発表するかわからないが、「短歌を続けるためには短歌のルールと契約したうえで、どのような文体を選択するかが今後問われてくる」といった趣旨の発言をしていた。

震災詠ということだと、ちょうど俳句のほうでも永瀬十吾氏が俳句賞を受賞しており、それについて週刊俳句誌上に否定的発言を公開されたことも記憶に新しい。

また、当blogの過去記事を探ったところ、御中虫氏の代表作「おまへの倫理崩すためなら何度でも車椅子奪ふぜ」が「作者が車椅子使用者か、近親者にいるならよいが・・・」という的外れな評をうけたことについて、言及していた。議論の方向性が違うのでここでひくのは混乱を招くが、ついでにご参照くだされば幸いである。


加藤氏は、前衛短歌の盛行のあと短歌の流れが「「私」に回帰し、一人称の文芸という部分に生命線を見いだした」という見立てを披露。
そのうえで、短歌に虚構を持ち込むことの是非だけではなく、短歌の虚構性についての情報が(作品、文体からではなく)作者からの情報開示によって区別(差別?)されてしまうことへの違和感を強調した。
石井氏の場合、①作者の情報を知らないで選考した選考委員、②授賞式で作者の虚構を知った参加者、③ツイッター等で作者について知った読者、の3種類がいた。
また受賞コメントでは明らかにされていなかったにも関わらず、北海道新聞のインタビューで虚構性が明らかになった、など(加藤氏ら短歌関係者にとっては)ルールを外れていると思われる段階的な情報開示の差別があったことを指摘した。

たしかに基本的には、作品にふれるときには読者が平等に情報を共有できる、ことが望ましいだろう。
が、それはあくまで理念的なものであり、実際には読者が手に入れられる情報には、読者自身の環境や志向によって常に差がある。
今回は、一部の関係者や研究者だけが知っている情報だったとかいうことではなく、地元新聞を通じてのみ作者の虚構がわかった、ということで「差」が見えてしまったことが特異だった。しかし本質的にはあまり大きな違いは感じられない。

ここで、先の句会と歌会の違いから、「無名性」という問題を考えてみよう。

俳句、川柳の句会は、基本的に無名性を担保する。
俳句は、選句と合評(または選評)の割合が大きい。無記名の他人の句を筆写し、味わい、選び、なぜ選んだか、選んだ選者の「評」を語り、また聞くことが重要である。
これは、互選方式でも主宰単独選方式でも、基本的には変わらない。

川柳は、多数の句のなかから一人の選者が、大量に選ぶ。選ばれた(抜かれた)句の作者は、その場で名乗りをあげ、その名乗りに独特の個性が出たりする。選評は、基本的にしない。おそらく、一読明快であることが川柳の前提であり、どの句を評価したかという選者の切り口、センスが勝負なので、くどくどと評する必要を認めないのであろう。
『バックストローク』からの流れをくむ『川柳カード』など、鑑賞・選評に力を入れているところもあるが、それでもやはり俳句よりは選評にかける情熱は薄いといえよう。

句会は、無名性を担保したところで「作品」についてやりとり可能な場である。
しかし、句会という場から降りたところで作品と向き合うとき、そこにはおのずから記名の「作者」がつきまとう。それはどのジャンルでも変わらない近代的な自我の桎梏、もっと露骨に言えば「著作権の所有者」とでもいうようなものであり、作者情報によって作品の価値が左右されることも、やはり仕方ないことではないだろうか。
壇上では、「老人は死んでください国のため」という句が話題になった。この句の作者を70代と考えるのと、30代の作者と考えるのでは、句の意味が変わってしまうだろうという。座を共有しない、出版ベースの世の中であれば作者情報の多少に差が出るのは当然であり、そのなかで読みの可動域が変化することは、それは、むしろ肯定的に評価すべきではないのか。

短歌はどうか。
第一部で島田氏は、歌会はむしろ一首を決めて批評しあうものであり、作者を隠した状態から選んだり、合評したりするものではない。ゲーム的な歌会はあまりしたことがない、とまで言い切っていた。
司会の荻原氏によれば、実際には名前を隠した状態での歌会で島田氏とやりあった経験もあるそうで、パフォーマンスというかリップサービスというか、相当の誇張があるようだが、それでも無名性のゲーム要素を排除したところに「短歌」を立ち上げようとする傾向があるようだ。


第二部において、荻原氏は終始一歩退いた風に見えた。
しかし、口語の文体が極限まで浸透したことで、これまで短歌が培ってきた文体上の「リアル」と「虚構」の境が不分明になっている、その混沌は「おもしろいことが起きると思うが、現時点でいいかわるいかわからない」「かなり変なことが起きている」という判断は、きわめて誠実だし、おもしろいとも思った。


総じて、「私」を重視しながら、口語・等身大の詩性を推し進めてきた「短歌」に対して、「私」を消すというスローガンを掲げ(客観写生)、文語旧かながいまだ多数派をしめる「俳句」は、随所に違いがあり、軽々に比較できることではないと思う。
しかし、同時代の定型詩表現としての「短歌」は、「前衛」や「私」を経て、「口語」に対してもゆたかな批評文化をはぐくんでいる。
そのことは、ただ素直にうらやましく思う。


※2014.12.14、斉藤斎藤氏の表記訂正。12.27、加筆訂正。

参考.
うたぐらし(大木はちさんのblog)





2014年11月15日土曜日

俳句Gathering


ご無沙汰しております...

先月は、当blog開設以来初となる「更新0」を記録してしまいました。残念。
俳句ラボでやった内容など、備忘録的に書いておきたいことはあったのですが、まとめる余裕がなかったのでこんなことに。
そのうち書きます。


さてさて、そうは言っても俳句活動は続けております。
すでにツイッターなどではご案内のとおりですが、「俳句Gathering」、今年は学生主体で開催いたします。よろしくお願いいたします。



俳句Gathering~関西6大学俳句バトル~

日時:2014年12月20日(土)14:00~ (開場13:30。席題発表)
会場:伊丹、柿衞文庫講座室(兵庫県伊丹市宮ノ前2-5-20
参加費:一般2000円 / 学生1000円


開会挨拶 14:00~ (開場13:30)

第一部   関西現代俳句協会青年部提供・6大学対抗バトル
6大学対抗バトル予選「天狗俳諧575」
江戸時代に「天狗俳諧」と呼ばれた俳諧遊びを現代風にアレンジ。1チーム3人がそれぞれバラバラに作った575を組み合わせて句をつくり、完成度を競います。どのチームがお互いの言葉をミックスできるか、底力が試される。


第二部
特別トークライブ 「短歌・Twitter・文学フリマ」

講師:土岐友浩
一九八二年、愛知県に生まれる。二〇〇四年、「京大短歌」に入会し歌作を開始。学生短歌会の友人と同人誌「町」、「一角」を創刊編集。所属結社はなし。

聞き手:中山奈々(1986年生まれ。「百鳥」「里」のほか「関西俳句会ふらここ」所属)
    久留島元(1985年生まれ。「船団」所属。俳句Gathering実行委員会)


第三部   関西現代俳句協会青年部提供・6大学対抗バトル
6大学対抗句会バトル
 第一部の予選を勝ち上がった4チームが対戦。句作とディベートで戦う俳句甲子園形式でのバトルは必見です。

句会バトル審査員
・津川絵理子(1968年生まれ、「南風」主宰。句集『和音』、『はじまりの樹』)
・小倉喜郎(1965年生まれ。「船団」「玄鳥」。句集『急がねば』、『あおだもの木』)
・三木基史(1974年まれ。「樫」所属。関西現代俳句協会青年部部長。第26回現代俳句新人賞受賞)


当日投句大会・特別審査員(お題は当日発表!)
・小池康生 (「銀化」。俳人協会会員。句集『旧の渚』)
・曾根毅  (「LOTUS」。関西現代俳句協会会員。2014年、第四回芝不器男大賞)
・星野早苗 (「船団」「藍」。2011年、第3回船団賞)


主催:俳句Gathering実行委員会 / 共催:関西現代俳句協会青年部

後援:公益財団法人柿衞文庫  /  NPO法人俳句甲子園実行委員会

2014年9月30日火曜日

俳句ラボ

10月から、久留島の担当です。

若手による若手のための俳句講座「俳句ラボ」

関西在住の若手俳人 塩見恵介、杉田菜穂、久留島元の各講師が、俳句の作り方や鑑賞の方法などについてわかりやすく、楽しく教授。魅惑的な俳句の世界へエスコートいたします。句作の経験が無くても大丈夫。実作を中心に実践的な句会を体験していただく、ユニークな内容も予定しております。ぜひお気軽にご参加ください。
  •  対象:49歳以下で俳句に興味がある方ならどなたでも。 
  •  内容:各月の第2日曜日(ただし6月は第4日曜日)、午後2時~午後5時 
  •  ガイダンス(6月22日 全講師参加予定)    
  1. 基本を学ぶ(7月13日・8月10日・9月14日 講師:杉田菜穂) 
  2. 詠む読む俳句(10月12日・11月9日・12月14日 講師:久留島元) 
  3. どんどん作って上達(平成27年1月11日・2月8日・3月8日 講師:塩見恵介)
      ※初回のガイダンスは、無料でご参加いただけます。
      ※受講者は、講座終了時に作成する作品集(講師、受講者の作品などを掲載予定)に作品をご掲載いただけます。
  • 受講料:
      1、2、3すべて受講:5,000円
      1、2、3いずれかを受講:1テーマにつき2,000円
      6月のガイダンスは無料
  • 問い合わせ・申し込み:
      電話(072-782-0244)で公益財団法人柿衞文庫まで
  • 公式HP(http://www.kakimori.jp/2013/04/post_185.php

1の杉田先生は俳句の基本の知識をしっかり講義されましたが、
2の久留島は、作句したり、関西ゆかりの俳句を読んだり、ともかく「俳句を楽しむ」ことを目標にしていきます。

初心者の方も、ひさびさに再開という方も、句会がなくて探している意欲的な方も、おしなべて歓迎。
どうぞよろしく。

初日は、10月12日です。


第11回鬼貫青春俳句大賞募集(11月12日(水)必着)

芭蕉(ばしょう)とほぼ同じ時代を生きた上島鬼貫(うえしまおにつら)は、10代からさかんに俳句を作り、自由活発な伊丹風の俳句をリードしました。
柿衞文庫では、開館20年を機に今日の若い俳人の登竜門となるべく「鬼貫青春俳句大賞」を2004年から設けました。みなさんの作品をお待ちしています。
●募集要項●
 ☆応募規定・・・俳句30句(新聞、雑誌などに公表されていない作品)
 ☆応募資格・・・15歳以上30歳未満の方(1999年生まれから1985年生まれの方)
 ☆応募方法
  ● 作品はA4用紙1枚にパソコンで縦書きにしてください。
  ● 文字の大きさは、12~15ポイント。
  ● 最初に題名、作者名、フリガナを書き、1行空けて30句を書く。
   末尾に本名、フリガナ、生年月日、郵便番号、住所、電話番号を書く。
  ● 郵送またはFAXで下記まで。
    ※応募作品の訂正・返却には応じません。
    ※応募作品の到着については、必ずご確認くださいますようお願いいたします。
    ※応募作品の著作権及びこれから派生する全ての権利は、(公財)柿衞文庫に帰属します。
    ※個人情報は、表彰式のご案内および結果通知の送付に使用し、適正に管理いたします。
     また、柿衞文庫の事業のご案内をさせていただくことがございます。

      公益財団法人 柿衞文庫(こうえきざいだんほうじん かきもりぶんこ)
       〒664-0895 伊丹市宮ノ前2-5-20
              電話/072-782-0244  FAX/072-781-9090

 ☆応募締切・・・2014年11月12日(水)必着
 ☆選考・表彰・・・2014年12月6日(土) 午後2時~5時
            於 柿衞文庫 講座室(兵庫県伊丹市宮ノ前2-5-20)

  ● 下記選考委員(敬称略)による公開選考 [どなたでもご参加いただけます。]
     稲畑廣太郎(「ホトトギス」主宰)
     山本純子(詩人)
     坪内稔典(柿衞文庫 也雲軒塾頭)
     岡田 麗(柿衞文庫 副館長)
     (社)伊丹青年会議所 理事長         以上5名(予定)

  ● 賞
     大賞1名〔賞状、副賞(5万円の旅行券)、記念品、「俳句」誌上に受賞作品を掲載予定〕
     優秀賞若干名〔賞状、副賞(1万円の旅行券)、記念品〕

     

主催 公益財団法人 柿衞文庫、也雲軒
共催 伊丹市、伊丹市教育委員会(予定)
後援 伊丹商工会議所、伊丹青年会議所、株式会社 KADOKAWA(予定)



2014年9月28日日曜日

短評:『池田澄子百句』


近刊『池田澄子百句』(創風社出版、2014)のあとがきで坪内稔典は次のように書く。
池田澄子が俳句に関心を持ったのは三十代のある日、そして俳句雑誌に初めて俳句を投じたのは一九七四年三十八歳の時だったという(本書掲載の「池田澄子略年譜」)。そのときの句は、 
 死ぬ気などなくて死に様おもう秋 
であったというが、この句からいわゆる澄子の代表作、たとえば
  じゃんけんで負けて蛍に生まれたの
 
 生きるの大好き冬のはじめが春に似て 
 ピーマン切手中を明るくしてあげた 
までの距離は遠い。遠いというより、とてつもない飛躍を澄子は果たした、というべきだろうか。・・・(略)・・・「死に様おもう」から「生きるの大好き」への変換、そこに澄子の大飛躍の秘密がある、と私は思っている。  
                 坪内稔典「あとがき」『池田澄子百句』 

興味深く思ったのは、私の脳裏に、池田澄子が塩見恵介の句を評した、次のような言葉が刻まれていたためである。
「今日自殺決意す・死ねず・鳩を飼う」(勝手なことを言えば、「死なず」と言って欲しいところ)
これは塩見恵介の第一句集『虹の種』に付された栞に寄せられた文章。
もう少し正確に引けば、「議論終え湯豆腐あつししかし食う」と「今日自殺決意す・死ねず・鳩を飼う」に「共通した展開の捩れ」を指摘した文章である。

「死ねず」という言葉には、死を願うふりをしながら結局その勇気を持てない、敗残者としての自嘲がある。
「死なず」の強靭で意志的な男性像は、なるほど人生観としては好ましいが、「鳩」に配する人物としては、不釣り合いだろう。
無気力で成り行き任せな、自己愛と憂愁にある青年像として、やはりここには「死ねず」が相応しく、「鳩を飼う」行為の奇妙さへ、捩れながらつながっていく。
「・」記号による句切れなどの視覚的な効果も含め、塩見の一句は、技巧的な展開力によって類型的な青年像を脱している。むしろ池田の評言こそ類型的な人生訓に似かねない。
だがこの不適当な評言は、その不適当さによって、印象的なものとなっている。

「死なず」、「生きるの大好き」なのが、池田澄子なのだ。

  屠蘇散や夫は他人なので好き
  いつしか人に生まれていたわ アナタも?
  青嵐神社があったので拝む
  八月来る私史に正史の交わりし

池田句の健全さは、ともすればおちいりがちな文学的ポーズや、説教臭い人生訓から、あやういところでまぬがれる。
きわめてメッセージ性のたかい句でありながら、それを固定させない、広やかな地平に、一句が屹立していく。
現代俳句の「広さ」を、もっとも体現する作者の一人といえよう。



『池田澄子百句』は坪内稔典と船団メンバー5人(中之島5*)の編集。

文庫サイズの手軽な入門書として定評のある創風社出版の「百句」シリーズの最新刊である。

発表の句集5冊から編者によって厳選された100句について、船団メンバーによる鑑賞が付されている。初出の句集名が明記されているのも便利。
池田澄子俳句については、先に『シリーズ自句自解Ⅰ ベスト100池田澄子』(ふらんす堂)があるが、作者による自解と読者の立場からの鑑賞とを見比べてみるのも楽しいかも知れない。

軽便なイケスミ・ワールドの入門書として、おすすめである。

注文はこちら。http://www.honyaclub.com/shop/g/g16468359/



* 「坪内稔典の俳句塾」(朝日カルチャー中之島)受講生5人。香川昭子、久保敬子、芳賀博子、陽山道子、山田まさ子の5人。芳賀さんは「船団」誌上に連載をもつ川柳人だが、正式には会員ではないそうだ。





2014年8月8日金曜日

7/19(土)、歌人集会


7/19(土)、歌人集会に参加。

よく知らなかったのだが、有志の集まりで年に二回ほど、講演会やシンポジウムを行っているそうだ。会場には、ざっと見たところ200人弱、150人ほどの人が参集していた。

歌人はほとんど面識がないのでわからなかったが、俳人では宇多喜代子氏、大石悦子氏、小川軽舟氏、三村純也氏、閒村俊一氏、川柳人では樋口由紀子氏など、そのほか国文学者の島津忠夫先生がいらっしゃったのには驚いた。

内容全体についての概要は、西原天気さんのクリアなまとめがあるのでそちらに譲って、いくつか興味深かった点だけ。

大辻隆浩氏の講演は、正岡子規の短歌革新が俳句革新の延長上にあることを、子規自身の言葉を辿りながら要領よく明らかにしたもの。
そのなかで、晩年(と言っても若いが)子規が短歌と俳句との違いを意識しはじめて意見を変えつつあったというのは、面白かった。
歌は全く空間的趣向を詠まんよりは少しく時間を含みたる趣向に適せるが如し。
大辻レジュメより。原文は「歌話」明治32.8.2


只一昨年と少しく考の変りたるは、短歌は俳句の如く客観を自在に詠みこなすの難き事、又短歌は俳句と違ひて主観を自在に詠みこなし得る事、此二事に候。
大辻レジュメより。原文は坂井久良伎宛書簡。明治33.3.18

短歌における「時間を含みたる趣向」はその後の講演やパネルディスカッションでも注目されたところ。
俳句の「時間性の抹殺」(山本健吉)と比較すると、七七、一四音の余裕が、作者の主観の推移まで詠みうる、というのことは実感的にもよくわかる。



高橋睦郎氏の講演は、折々に著書などで示されている詩歌史をふまえたうえで「3.11以後の俳句と短歌」の違いから、「俳句の内包する沈黙」について語ったもの。
正味1時間程度だったと思うのだが、そうとは思えない重厚な内容だった。

「俳句の内包する沈黙」と、ここだけ取り出すと意味が分からないと思われるが、高橋氏によれば俳句は短歌よりも「死者と向き合っている」のだという。
つまり「歌」は、本来は挽歌として死者に向き合い、また「本歌取り」の形で先行する遺産と向き合う機会を有していた。しかし短歌は、次第に恋を重視したり、挽歌が個人的な哀傷歌になったり、「生者中心の詩型」という面を強くした。
短歌が生者の詩型であることは、9.11には「あれほど生き生きと対応したのに」、3.11以後の作品は「目を覆いたくなる」ものだった、これに対して俳句は3.11以後にもすぐれた作品が多かった、これは俳句が「死者の文芸」でありうる証拠ではないか。
俳句は、季語(高橋氏によれば「命の言葉」)を取り込み、切れ字によって「空白」を呼び込むことで、最小詩型を宇宙大に広げることに成功している。
具体的には、季語には「忌日」がある。くりかえし制度として故人を悼むものがあり、死者に向き合うのであって個人的な哀傷・追悼とは違う。
俳句のほうが短歌よりも、死者たちに書かされているという意識がある。そのために個人を超えた空白、沈黙を内包しているのではないか。短歌は、個人の詠作という側面を大切にしたため定型詩でありながら死者からの遺産を引きつがず、一回ごとに個人が沈黙に向き合わなくてはいけない。
短歌はもっと、空白、沈黙を大切にすべきである。そのために、詠みたくないときは詠まない勇気も必要である。〆切が歌人をダメにする・・・

高橋氏の講演の骨子と思われる部分を私にまとめてみた。

最後の部分は半ば冗談交じりであったものの、詠みたくないときには詠まないことで、言い得ぬもの、言い足りぬものを内包すべきである、という指摘は、現代作家としてのジレンマを表明しているようで面白かった。

俳句が「自分一人で書いていない」気がする、というのは、NHK俳句に出演した穂村弘氏が小澤實氏に対して述べた「俳句の怖さ」ともつながる気がする。(1)
周知のように俳句には「多作多捨」の言があり、詠みたくないときにも詠める自動書記的作品を楽しむ風潮がある。
あとのシンポジウムの冒頭でも塩見先生が「自分は多作ではないがむしろ技術を磨きたい」と言って高橋氏との違いを表明していたが、塩見先生個人というよりは「俳人」としての違いだったといえるかもしれない。

ところで、これは当日はあまり気をつけていなかったが、自由律俳句について高橋氏は「俳味のある短詩」というべきであり、 一回ごとに詩型を自分で作らなければいけないのは定型詩ではないといった発言をしていたと記憶する。
一回ごとに、とか、個人で、というのは、短歌の「死者」との向き合い方にも出てきたキーワード。

ここで話題を、後半のシンポジウムに移す。
シンポジウムのなかで塩見先生が「気になる俳句(次世代型)」として掲げ、「主流になるとは思えないが今までとは違うタイプの句」として紹介した

    「この雪は俺が降らせた」「田中すげぇ」 吉田愛

の句が、同志社女子大学の学生によって作られたものであり、合同句集『乙女ひととせ』Ver.2013に収載されていることは、すでにツイッターにて指摘した。(2)

この句集は、塩見先生が指導する俳句クラスの成果であり、他にも興味深い句が多い。

 満月に帰ります泣いてくれますか  松尾唯花
 夜空行きうさぎ専用車両前
 もし僕が鮫なら君を躊躇なく、  加藤綾那
 嫌いです嘘だそんな桃色の目で
 波間へと飛び込む回送「さかな」「いないね」 北なづ菜
 蝉時雨、スカイラインはどこまでも青    
 風除けにさわって こんな夢を見た、今朝

抒情の質は違うが(その違いが重要だが)、最近まとめて作品を見る機会のあったある作家の作品も、「次世代型」と呼びうるだろうか。(3)
 ピーチ姫を助けに行くわたしは実はあみどだった  内田遼乃
 この首の先は君にかかってる私をメリバにつれてって(はつなつや) 
 柿の種を飲み込んだ目高 大丈夫?つまってない?

破調とも呼べない独特のリズム、女子高生らしい抒情を巧妙に転換する言葉のチョイス、など、『乙女ひととせ』の作家たちよりもより硬度だ、という気はする。
しかし私はここに、「一回ごとに」「個人として」ドラマを演じようとする、または「一回ごと」「個人」の生をドラマとして捉えなおそうと企図する、きわめて現代的な作家性の類似を見いだす。
無謀ともいえる形式は、そのために選ばれたものであり、また穂村弘以来の口語短歌との近似も、直接の影響関係だけではない必然を抱え込んでいるのであろう。

これを、近代的個人主義の極限とか、セカイ系の閉じた世界観とか、言い古された評言でまとめるのは控えたい。
しかし、こうした現代の「個人」として季語や詩型を読み替えていく行為は、それが読み替えであること(次世代型=新であること)を見いだす撰者(読者)がいて、はじめて価値付けられる。
あくまでも「作家」という立場から、沈黙や余白にどう向き合うか、を語った高橋氏の講演は、それはそれとしてきわめて誠実なものであったが、同時に我々は、自動書記的に新しいものを呼び込んでしまう定型詩の性質を了解し、「読者」として向き合わなくてはいけない、とも思うのだ。




  1. 穂村氏は、「(自分が)生まれたときに“季語”ってありますから、それは何か凄い恐ろしいように感じるんですよね」と発言している。穂村弘さんがゲスト、俳句と短歌の違いを語った -Eテレ NHK俳句-
  2. 荻原裕幸さん(@ogiharahiroyuki)=パネラーと曾呂利さん(@sorori6)が「歌人集会」を振り返るhttp://togetter.com/li/697936
  3. 内田遼乃「前髪ぱっつん症候群(シンドローム)」/『週刊俳句』第333号2013年9月8日
    「【俳句時評】 たまたま俳句を与えられた 堀下翔」『-blog 俳句空間-  戦後俳句を読む』2014年7月18日金曜日

2014年7月13日日曜日

補足、川柳のこと


前回記事の、川柳の話題について、補足をすこし。


前回、私は川柳は俳句にくらべ「一句の方向性を規定する傾向にある」と指摘した。

川柳について私は傍観者であり、また接した年数も浅いので実感的にわかっているわけではない。それにもちろん、川柳といっても現代俳句と同様の歴史をもち、進化形を有しているわけなので、一概に言えないことは当然である。
にもかかわらず、次のような川柳を見ると「方向性を規定する」傾向があることを改めて思わざるを得ない。

  首括る前にオシッコしておこう   渡辺隆夫



一句にふくまれた批評性は明らかであると思う。
死と生があまりにも生々しく地続きであるところの諧謔と不穏、穿って言えばそのことに無自覚である(作者を含めた?)読者へのシニカルな視点など、たしかに川柳である、と思う。
つまり、川柳の読みは、ある程度まで作者の側から規定されている。

俳句がここまで読みの方向性を規定することは、たぶんあまり好まれない。

これまで何度もくり返されてきたとおり、俳句の読解には、余白を埋める読者の能動的参加が不可欠とされる。一句はむしろ、読みの方向性を規定せず、「客観」的で具象的であることを好む。
時に、「それがどうした?」とツッコミたくなるような、意味から離れて投げ出されたような俳句こそ、(好き嫌いを離れて乱暴に言えば)もっとも「俳句らしい」。

日ごろ柳俳一如を唱え、現代において川柳にもっとも近い詠みぶりを得意とする筑紫磐井氏の作品でも、やはり作者による操作性は薄いように思う。

その結果、「筑紫磐井の句は、悪意なのか善意なのかよくわからない」「玉虫色のバランス」を保っているわけである。(スピカ よむ 「登山して下山してまた明日がある 筑紫磐井」

断っておくが、これは「川柳」読解の自由度を妨げるものではない。

方向性が規定されたからといって、渡辺の句がそのまま容易に読み解けるものではない。


簡略ながら如上のように「川柳」の傾向を測ったところで、もうひとつ、「川柳」と「俳句」が近似していく、という問題がある。
いや、そもそもそれを問題ととらえるかどうかも問題だが、現代の俳句が、どちらかというと作者の心象を核に形成する傾向があること、季語への執着が薄くなっていること、などの諸条件をあげれば、「川柳」と「俳句」との接近は、当然ありうることである。

「俳句」側に立つ私からすれば、接近して「川柳」のいいところを拝借・吸収できればそれでいいと思うのだが、どうだろう。

世の中には自分の俳句を「川柳的」と言われると、おとしめられたように感ずる人もいるらしい。おそらくそれは「川柳」を「サラリーマン川柳」「新聞川柳」だけで判別しているからだと思うが、そんな低レベルで不毛な掛け合いはさておき、どうせやる人の少ない定型詩型の世界なのだから、お互い生き残りのためには、いい戦略的互恵関係を築きたいし、それで拓かれる地平もあるだろうと思う。


2014年7月7日月曜日

千客万来


というほどではないけれど。



六月某日。

佐藤文香が京都を訪れ、関西の若手数名で文香を囲むこと数時間。雑談につぐ雑談。俳句イベントの難しさや、リアルな恋愛事情、さらに俳句男子の体重増加の謎についてなど、ゲストを迎えての濃密な(?)対話が交わされた。
関西の若手にとっては、佐藤文香のように同年代で活躍著しい作家と親しく話す機会は圧倒的に少ない。(私などの活躍が少ないのが原因ではあるが)
文香との数時間は、彼らにとってずいぶん刺激になったようである。


さて、私と文香だけだとたいてい雑談だけで終わるのだが、今回はビアレストランで呑みながら句会を行った。そこで、以下のような句が出された。

  トマトだけかじらない子は嫌いです ゆずず

点を入れたのは私だけだったが、この句の「おもしろさ」について、いささか議論があった。

この句の「面白さがわからない」という文香は、「嫌いです」という意志表明は、句に意味を持たせてしまうのではないか、自分の意見を「述べる」ものになってしまうのではないかと指摘した。
私は、この句には意味はないし、意味のない意見を表明している面白さがある、というようなことを返したのだが、時間も少なかったのでうまく伝わらなかったかも知れない。場外乱闘めくが、作者らの許可を得ていささか考えてみたい。

句の内容は明快である。なぜかトマトだけかじらない子どもがおり、そのことが気に入らない作者がいる。「トマトだけ」ということはそれ以外はたいていかじるのであり、極端にいえば食べ物だけでない、Dr.スランプのが○ちゃんのような子どもさえ想像される。
その子がなぜかトマトだけかじらない。単に嫌いなのか、一口ずつなら食べるのか。ここに奇妙さがある。
つぎに「トマトだけかじらない子」が嫌いな作者がいる。ふつう、そんなことは人の好悪の判断にふくまない。まして子どもである。
そういう無意味な表明を、あえて行うところに掲句第二の謎がある。
総じて、内容は分かるが表明する意味が分からない、無意味なのに作者の意志だけは見える、そこがこの句の奇妙さであり、面白さである、と考えられる。

さて、こうした「おもしろさ」は、しかし私見では川柳に近いと思う。
あくまで私の理解だが、川柳は俳句よりも一句の方向性を固定する傾向がある。
それは、諷刺や機知にとどまらず不安だったり奇想だったり、いろいろなのだが、やはり作者の主観的な把握を重ねて一句を成すことが多いように思う。
 湯上りの爪が立たない夏蜜柑  早川右近
 大声を出して柿の木植えている  芳賀弥市(いずれも金曜日の川柳より)


あくまで原則的に、だが、俳句は「季語」(季題)という制度を抱えている。
季語は、作者個人を超えて蓄積された連想・教養にひらくコードである。ゆえに、作者個人の生を超えて積み上げられた、四季のサイクルや、それにまつわる五感・気分・教養に、自動的に一句をひらいてしまう力がある。
一句のなかで、必然ではないが「原則的に抱える」ことで、無季の句でさえ、季語的な世界、作者個人よりも先験的に存在する「外界」へ一句をひらく効果をもつわけである。

これに対して、掲句の「トマト」はどうだろうか。
内容は、すべて作者の(無意味な)意見表明に終始しており、季語「トマト」のもつ背景(夏の爽やかさ、甘酸っぱさ、生命力)を無視している、といえる。
川柳人に言わせれば、また別の意見もあると思うが、思うに、川柳に近づく俳句というのは、こうした作者の主観的・独善的な把握によって、外界から強引に切り出されたような句風の作品なのではないだろうか。



六月某日。
石原ユキオさん主催のBL句会が、神戸で行われた。
詳細はこちら。石原ユキオ商店 BL句会in神戸レポート

さて、わかりにくいけど参加している男子2名のうち1名は何を隠そう私である。(もう1名は私の高校の後輩にあたる)(ちなみに二人とも男子校出身であるが、ノンケである)(私は少なくともノンケである)

参加表明してから気づいたのだが、私は何度も言うとおり「萌え遺伝子」を所有しておらず、BL読みとしては経験も浅い。果たしてこれで太刀打ちできるか、とやや不安になりながら会場を目指した。

当日参加者は8名。
俳句関係からの参加は、石原ユキオ(憑依系)、中山奈々(百鳥)、岡田朋之(ふらここ)に私(船団)の4名。
他のかたは、正井さん、実駒さん、佐々木紺さん、みずほさん、とBL短歌誌『共有結晶』の関係者で、句会はまったく初心者という顔ぶれ。
萌え初心者である私にとっては、句会初心者との対決!的決意を密かに持っていたのだが、そんな区別は始まって数秒で霧散。というか、そんな気持ちを持っていたのは私だけですね、すみません。

18:30~21:00という時間帯、半分以上は初顔合わせのメンバーだったにもかかわらず、持ち寄ったお菓子だけで大いに盛り上がり、これくらい笑いと嬌声(と、たまにへんなうめき声とか失笑も)のたえない句会というのも珍しい。
事情があって打ち上げには参加できなかったので、お菓子だけで分かれたのは(腹具合的に)ちょっと不満もあったのだが、予想以上に刺激的で面白かった。

改めて感じ入ったのは、俳句についての議論(合評)に対する参加者たちの適応力の高さである。
「BL句会」なので鑑賞はもちろん「BL」方面に偏るのだが、私などから見ると「BL要素」の薄い句でもさまざまなシチュエーションを設定し、一句の解釈を試みる手際は、参加者全員が実にあざやかであった。
特に鮮やかであったのは、次の句の評釈である。

 赤ちゃんと四角いすいかのねむるひる  みずほ

私はこの句を「BLではない」として読み、四角くサイコロ状に切り分けたすいかのまえで、すいかを食べることもなく眠っている赤ん坊を詠んだ句、と理解した。

しかし、参加者のひとり実駒さんによれば、

「四角く育てたスイカを友人宅にお土産に持ってきている。赤ちゃんは、自分の好きな男性と結婚相手との子どもであり、好意を寄せる男性の幸せな家庭を見ながらの句」

であるという。
なるほど、BL読みとしてはこう読むべし、の句である。

作者の弁によれば、この句は「BL以外の句もBL読みする」という前提でBLではない情景として提出した句であり、確かに四角く育てたスイカをお土産に持って行ったときの情景を詠んだ句であったが、友人は女性であったという。
情景こそ同一でも、登場人物の性別を変えるだけで「BL読み」になりうる好例であった。

考えてみると「BL読み」巧者とは、存在しない余白から「BL要素」を見いだし、妄想し、時に同人誌まで出してしまう、おそるべき「読者」である。
対する「俳句」経験者とは、わずか17音からあらゆる知識を応用して背景を想像し、鑑賞し、ときに評論集すらものしてしまう人たちである。
なんということか、「俳人」たちが「鑑賞」と称して行っていること(創作営為)は、まさしく「萌え」そのものであった。
俳句は短い。情報が少ない。だから、大抵の句は書かれてない部分をBL成分で補って読むことができる。人間が二人出てきたら男性同士。植物や動物は擬人してBL的に消費可能。極端なことを言えば「緑蔭に三人の老婆わらへりき(西東三鬼)」でも、三人の老婆の手元に薄い本があるというメタ的なBL俳句であると解釈することもできる。つまり、すべての俳句はBL(読みできる)俳句なのです。BL読みしたときにめちゃくちゃ萌える句とちょっぴり萌える句があるだけです



「俳句」を経験する人たちが少なからず持つ、「俳句」に対する特殊幻想がある。
「俳句」は「短い」、だから、「季語」や「切れ」などの「俳句のルール」がわからないと「俳句が読めない」、だから「俳句は難しい」。
私自身、これを「俳句の文脈」あるいは「俳句リテラシー」の一部として認め、俳句を共有しにくい理由にあげてきた。
しかし、そうした断片から豊かな物語(妄想)を繰り広げるスキルを持つ人たちにとっては、俳句は決して「難しい」ものではなく、むしろ「萌え」られるものになりうるのだった。

むろん、「萌え」や、まして「BL」は、ある特殊な読みの一種にすぎないので、もっともっと別の読み方があっていい。
そして、これからの俳句界はそうした多様な読者をとりこむ場を、積極的に設けていって欲しい。
他人事ではなく、私自身、そのための活動には今後とも邁進するつもりである。



2014年6月18日水曜日

7月19日


7月19日、関西でイベント。

現代歌人集会春季大会

 大会テーマ
俳句 —近くて遠い詩型


7月19日(土)13:00~17:00(開場:12:00)
総合司会: 松村 正直理事
基調講演: 大辻 隆弘理事長
●講  演 : 高橋 睦郎氏
現代を代表する詩人。詩のみならず俳句、短歌、オペラ、新作能などの分野で精力的に芸術活動を続ける。1996年〈姉の島〉で詩歌文学館賞。2000年度紫綬褒章受章。 
●パネルディスカッション
塩見 恵介氏(俳人)
大森 静香氏(歌人)
荻原 裕幸氏(歌人)
進 行:魚村 晋太郎理事
●閉会の辞  林 和清副理事長
※会 場: 神戸市教育会館 アクセス
兵庫県神戸市中央区中山手通4-10-5
電話 078-222-4111
※参加費: 2000円。(受付にてお払い下さい。当日のご参加も歓迎いたします)。

※お申し込み: 永田 淳理事
(〒603-8045京都市北区上賀茂豊40-1 青磁社)
(電話 075-705-2838) 
(Email seijisya@osk3.3web.ne.jp
昨年は、『現代詩手帖』で「詩型の越境」がありましたからね。(参照
ご講演の高橋睦郎氏は昨年もパネリストだったし、議論は、そのあたりもふまえて展開されるのかな?
何にせよ、大変楽しみです。


東京の方は、こちらをどうぞ。

『漱石東京百句』出版記念 第5回 船団フォーラム
『漱石東京百句』を読む

 松山・熊本に続く、漱石百句シリーズ『漱石東京百句』(坪内稔典・三宅やよい編)刊行にちなんで、漱石なじみの土地である神楽坂にて第5回船団フォーラム(船団の会主催)を開催します。一般の方の参加も大歓迎です。 景品として漱石グッズを用意しております。ご出席のみなさんには「漱石にまつわる一句」を投句いただければと思います。投句はパネルディスカッションで選評します。
◆日 時: 7月19日(土) 14:00~17:00  
◆場 所: 日本出版クラブ会館  
東京都新宿区袋町6 電話: 03-3267-611  
◆アクセス  
A )地下鉄大江戸線 牛込神楽坂駅(A2出口)徒歩1分
B )JR飯田橋駅(西口)徒歩8分 
C )地下鉄南北線 飯田橋駅(B3出口)徒歩7分 
D )地下鉄東西線 神楽坂駅(神楽坂口)徒歩7分 
◆ 講演とパネルディスカッション   
◆講 演: 14:00~15:00 
 中島国彦 (早稲田大学教授)「漱石の感受性」  

◆パネルディスカッション:  15:15~17:00 「漱石・東京の俳句」 
【パネラー】 

田中亜美(俳人)八木忠栄(詩人・俳人)三宅やよい(俳人) 
【司 会】坪内稔典(船団の会代表) 

◆参加料:フォーラム1000円懇親会 4000円
◆参加申し込みと投句: 

※申し込み先: 三宅やよい(電話・ファックス 03-3929-4006)(Eメール:yayoihaiku@gmail.com)
※出席ご希望の方は6月15日(日)までに、メール・ファックス等でお申し込みください。※懇親会に出席ご予定の方は、参加申し込みと同時に「漱石にまつわる1句」投句をお願いします。
●主 催 俳句グループ船団の会

2014年6月9日月曜日

びーえる俳句のこと (おかわり)



何度も言うけれど、自分では「萌え遺伝子」は保有していないと思う。ストーリーを超えて、なにか特定の設定、キャラクター、場面などに強く反応すること、というのはほとんどなく、BLというジャンルにも、あまり興味が無い。
(あえて言えば「妖怪」には強い執着があるが、「萌え」とは違うと思う・・・)

とはいえ、振り返ればBLに近いものはかなり読んでいる。稲垣足穂、三島由紀夫、江戸川乱歩、それに栗本薫など。
一体に幻想・耽美といわれるジャンルには「少年愛」「同性愛」はありふれたテーマなのだから、当然だ。(参照:国書刊行会刊『書物の王国』シリーズ)

よく知られるように、男性の同性愛を異端視する傾向が強まったのはごく近年のことで、旧制高校での男子生徒同士のつきあいなどは、現在では同性愛と断じられていい。
そもそも男性社会のなかには女性排除というか、ホモセクシャルというよりホモソーシャルな傾向が強いのであり、少年漫画における女性キャラの軽視は、BLというジャンル確立の土壌として重要である。

逆に言えば、私にとって「BL」というのは、小説やサブカルチャーのなかで潜在的・顕在的にありうべきテーマのひとつにしか過ぎない。従って、ことさら「萌え」て、強烈に推進すべき対象ではなく、「お好きな人に任せます」という程度のものだ。

*

しかし、そのなかで「BL俳句」というものに関心があるのは、これも何度もいうように「読み」の問題が関わってくるからだ。

たとえば、「BL俳句」運動の、ごく身近にいる(しかし渦中ではない)佐藤文香の発言を見てみよう。
「BLである」というような了解のもと書くというのは、個人的にはあまりドキドキしない。前提は、甘えを生む。なにもないところにBLを立ち上げる腕力が見たいし、そこに驚きたい。そしてそのシチュエーションなりの細部に宿る萌えを、BLのなんたるかを知らない人にも提供しちゃってほしい。 
3/2 BL俳句のこと さとうあやかとボク。

うん、そう、これ。
佐藤氏の意図するところは、きわめて作家的でもあるので私とはずれる部分もあるかもしれないが、「BL俳句」を「読者」行為、それも「読者」の能動的創作行為、と規定するところに共感する。

ここにおいて、たとえば田島健一氏のような批判(ないし懸念)は、「BL俳句」のごく一部にしか有効でない、と証明される。
田島氏は、「俳句に意味が固定化するのが苦手」という。
賛成だ。BLを目指したBLは、あってもいいしなくてもいい。作者が好きなテーマかどうか、という好みの問題であって、作者以外にとってはどうでもいい(前述参照)。

だが、何もないところから立ち上げる「BL読み」は、むしろ意味を流動化する、読みの試みに属する。

 少年や六十年後の春の如し  永田耕衣

ごく知られた句である。
「少年」「春」の取り合わせに、耽美的傾向を嗅ぎ取ること自体はさほど珍しくないだろう。「少年」の溌剌、未熟、あるいは希望、あるいは絶望。それらを「六十年後」とイコールで結ぶ嗜虐と、同時に慈愛が、少年を見る老人のまなざしに宿っている。
その感情が交錯するなかで、たとえば私は、私なりに「BL」を見いだ。それはこの句に「老いてなお若々しく、前向きに生きた耕衣」を見いだす読みとは、まったく別種の可能性を秘めていないか。

 男壮りの鵜の匠にて火の粉の中  橋本多佳子

たとえば作者名が伏せられた時、掲句に「BL」、というより、むしろ「ホモセクシュアル」な濃密な感情を感じ取る読者がいたとして、それを否定できるだろうか。
掲句の表現のなかに、作者を女性と特定するものは何もないのだが、「橋本多佳子」の名にひかれて、我々はつい「男性」を意識する「女性性」を読み取ってしまわないか。事実、私もかつてそうだった(こちら)。
「BL読み」という視点が、「男性×女性」という、(書かれていないのに)無意識に固定化されてしまう読みのコードを流動化させる試みなのだとしたら、やはりそこに、ある種の快感を覚える。

つまり、「俳句」という極小文芸のなかには、潜在的・顕在的に「読み」の方向を固定化しようとするさまざまな「枷」、コードがある。
無意識のコードを、別の角度から照らすことで流動化する試みは、特に「俳句」という狭いコミュニティに守られた文化にとっては、貴重な体験なのではないか。



私は一方では歴史的・考証的な「読み」(というより鑑賞、研究というべきか)を重視する研究者という立場にあるが、
一方ではさまざまな「枷」「規定」を外して自由にわがままに「読む」「読者」が拡大し、成長していくことを期待するもの、でもある。
両者は、互いに傷つけあう必要はなく、併存すべきものであると思う。

当blogでも何度か繰りかえし使った喩えだが、「源氏物語」という古典のすごさは、作品自体の長大さ緻密さもさることながら、常に新たなライトユーザーを取り込む、懐の深さだと思っている。
「源氏物語」というテクストを、「恋愛小説」や「日本人のアイデンティティ」に限定してしまうとすれば、それはとても狭く残念な行為である。
しかし同時に、そのように思い込んできた読者がいたから、「源氏物語」は「古典canon」として続いてきたのだ、とも言える。

ともすれば狭いコミュニティに閉じこもりがちな「俳句」にとって、かつて「社会性」や「宗教性」「戦争」などの外圧が与えた刺激は、甚大であった。
別に「萌え」がそうだとは言わないけれど、たとえばこっそり「萌え」と「俳句」のカップリングに成功するような作家、批評家がいても、悪くないだろうと思う。

しかし、それでも「BL俳句」が、「ゲイ向け俳句」「見るからBL俳句」の詠作に留まるとすれば、やはり失望せざるをえない。
それは単なる個人の嗜好に過ぎず、それこそ、これまでくり返されてきたものを「何故ことさら掘り返すのか?」としか思えないからだ。
私が期待するのは、その先、「BL俳句」が拓く、「読み」の地平と、多様な読者を許す懐の深い「俳句」たちだ。



参考
週刊俳句 Haiku Weekly: 刺すために BL(ボーイズラブ)と成員相互間善悪判断基準 藤幹子
密やかな教育 <やおい・ボーイズラブ>前史
フェチと萌えの違いは? 世界はゴミ箱の中に 青木KCのブログ
石原ユキオ商店