2014年6月9日月曜日

びーえる俳句のこと (おかわり)



何度も言うけれど、自分では「萌え遺伝子」は保有していないと思う。ストーリーを超えて、なにか特定の設定、キャラクター、場面などに強く反応すること、というのはほとんどなく、BLというジャンルにも、あまり興味が無い。
(あえて言えば「妖怪」には強い執着があるが、「萌え」とは違うと思う・・・)

とはいえ、振り返ればBLに近いものはかなり読んでいる。稲垣足穂、三島由紀夫、江戸川乱歩、それに栗本薫など。
一体に幻想・耽美といわれるジャンルには「少年愛」「同性愛」はありふれたテーマなのだから、当然だ。(参照:国書刊行会刊『書物の王国』シリーズ)

よく知られるように、男性の同性愛を異端視する傾向が強まったのはごく近年のことで、旧制高校での男子生徒同士のつきあいなどは、現在では同性愛と断じられていい。
そもそも男性社会のなかには女性排除というか、ホモセクシャルというよりホモソーシャルな傾向が強いのであり、少年漫画における女性キャラの軽視は、BLというジャンル確立の土壌として重要である。

逆に言えば、私にとって「BL」というのは、小説やサブカルチャーのなかで潜在的・顕在的にありうべきテーマのひとつにしか過ぎない。従って、ことさら「萌え」て、強烈に推進すべき対象ではなく、「お好きな人に任せます」という程度のものだ。

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しかし、そのなかで「BL俳句」というものに関心があるのは、これも何度もいうように「読み」の問題が関わってくるからだ。

たとえば、「BL俳句」運動の、ごく身近にいる(しかし渦中ではない)佐藤文香の発言を見てみよう。
「BLである」というような了解のもと書くというのは、個人的にはあまりドキドキしない。前提は、甘えを生む。なにもないところにBLを立ち上げる腕力が見たいし、そこに驚きたい。そしてそのシチュエーションなりの細部に宿る萌えを、BLのなんたるかを知らない人にも提供しちゃってほしい。 
3/2 BL俳句のこと さとうあやかとボク。

うん、そう、これ。
佐藤氏の意図するところは、きわめて作家的でもあるので私とはずれる部分もあるかもしれないが、「BL俳句」を「読者」行為、それも「読者」の能動的創作行為、と規定するところに共感する。

ここにおいて、たとえば田島健一氏のような批判(ないし懸念)は、「BL俳句」のごく一部にしか有効でない、と証明される。
田島氏は、「俳句に意味が固定化するのが苦手」という。
賛成だ。BLを目指したBLは、あってもいいしなくてもいい。作者が好きなテーマかどうか、という好みの問題であって、作者以外にとってはどうでもいい(前述参照)。

だが、何もないところから立ち上げる「BL読み」は、むしろ意味を流動化する、読みの試みに属する。

 少年や六十年後の春の如し  永田耕衣

ごく知られた句である。
「少年」「春」の取り合わせに、耽美的傾向を嗅ぎ取ること自体はさほど珍しくないだろう。「少年」の溌剌、未熟、あるいは希望、あるいは絶望。それらを「六十年後」とイコールで結ぶ嗜虐と、同時に慈愛が、少年を見る老人のまなざしに宿っている。
その感情が交錯するなかで、たとえば私は、私なりに「BL」を見いだ。それはこの句に「老いてなお若々しく、前向きに生きた耕衣」を見いだす読みとは、まったく別種の可能性を秘めていないか。

 男壮りの鵜の匠にて火の粉の中  橋本多佳子

たとえば作者名が伏せられた時、掲句に「BL」、というより、むしろ「ホモセクシュアル」な濃密な感情を感じ取る読者がいたとして、それを否定できるだろうか。
掲句の表現のなかに、作者を女性と特定するものは何もないのだが、「橋本多佳子」の名にひかれて、我々はつい「男性」を意識する「女性性」を読み取ってしまわないか。事実、私もかつてそうだった(こちら)。
「BL読み」という視点が、「男性×女性」という、(書かれていないのに)無意識に固定化されてしまう読みのコードを流動化させる試みなのだとしたら、やはりそこに、ある種の快感を覚える。

つまり、「俳句」という極小文芸のなかには、潜在的・顕在的に「読み」の方向を固定化しようとするさまざまな「枷」、コードがある。
無意識のコードを、別の角度から照らすことで流動化する試みは、特に「俳句」という狭いコミュニティに守られた文化にとっては、貴重な体験なのではないか。



私は一方では歴史的・考証的な「読み」(というより鑑賞、研究というべきか)を重視する研究者という立場にあるが、
一方ではさまざまな「枷」「規定」を外して自由にわがままに「読む」「読者」が拡大し、成長していくことを期待するもの、でもある。
両者は、互いに傷つけあう必要はなく、併存すべきものであると思う。

当blogでも何度か繰りかえし使った喩えだが、「源氏物語」という古典のすごさは、作品自体の長大さ緻密さもさることながら、常に新たなライトユーザーを取り込む、懐の深さだと思っている。
「源氏物語」というテクストを、「恋愛小説」や「日本人のアイデンティティ」に限定してしまうとすれば、それはとても狭く残念な行為である。
しかし同時に、そのように思い込んできた読者がいたから、「源氏物語」は「古典canon」として続いてきたのだ、とも言える。

ともすれば狭いコミュニティに閉じこもりがちな「俳句」にとって、かつて「社会性」や「宗教性」「戦争」などの外圧が与えた刺激は、甚大であった。
別に「萌え」がそうだとは言わないけれど、たとえばこっそり「萌え」と「俳句」のカップリングに成功するような作家、批評家がいても、悪くないだろうと思う。

しかし、それでも「BL俳句」が、「ゲイ向け俳句」「見るからBL俳句」の詠作に留まるとすれば、やはり失望せざるをえない。
それは単なる個人の嗜好に過ぎず、それこそ、これまでくり返されてきたものを「何故ことさら掘り返すのか?」としか思えないからだ。
私が期待するのは、その先、「BL俳句」が拓く、「読み」の地平と、多様な読者を許す懐の深い「俳句」たちだ。



参考
週刊俳句 Haiku Weekly: 刺すために BL(ボーイズラブ)と成員相互間善悪判断基準 藤幹子
密やかな教育 <やおい・ボーイズラブ>前史
フェチと萌えの違いは? 世界はゴミ箱の中に 青木KCのブログ
石原ユキオ商店

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