2012年3月18日日曜日

週刊俳句 第256号

週刊俳句 Haiku Weekly: 週刊俳句 第256号 は、ボリュームたっぷりで、特集がふたつ。

ひとつは先週から引き続き、井上井月特集で、今回は相子智恵さんに加え、週刊俳句では久々登場、西村麒麟さんの原稿がふたつも。麒麟ファン必読。

もうひとつ、先月頭に京都で行われた、「写生文」研究会が特集されています。
私も、レポートを一本寄せておりますので、よろしければご覧ください。
当日の竹中宏氏基調講演のほか、彌榮浩樹氏の評論、当日配布された参考資料などもアップされており、なんというか、文字数がハンパない。

ついでなので、後記の上田信治さんのあおり文を引いておきましょう。
今号は、圧倒的なテキスト量です。



写生文研究会の記録は、なんだか、すごい理論水準なんじゃないですか、これは。どの部分をとっても、必読です。

井上井月特集の、西村麒麟さん、相子智恵さんの両エッセイは、ともに泣かせます。これも必読。

ゆっくりどうぞ。それだけの値打ちのある号かと。

今週読み切れなくても、右サイドの既刊号の目次から進んで、バックナンバーは、いつでもお読みいただけます。

そういうわけなので、必読、です。


たぶん今回レポートを依頼されたのは、以前、船団のイベントでレポートしたところで見込まれたのだろうと勝手に推察して、今回また「再現レポート」を試みたわけですが、なんと申しますか、はい、まぁ、大変でしたよ、結構。はい。

殊に関さんのナイアガラ・トークをメモして、記憶を頼って書くのは大変でした。
一度でも関さんの話を聞いたことがある人はご存じと思いますが、引用とか注釈とか、無尽蔵にいろいろつながっていくので、私くらいの偏った知識では追いつけないわけです。いや、聞いているぶんには、わからなくともスリリングで愉快なのですが、書き起こすとなると責任が生じる。
とすると、独断と偏見で、面白いところは拾って、わからんところは切り捨てて、とせざるをえないわけで、最終的にはご本人にもメールで送ってチェックいただいたのですが、かなりの部分が久留島を介して偏向している、と思っていただいた方がいい。
それはもちろん、ほかの方の発言にも云えることで。

えーと、つまり、このあたりの「偏り」具合が、写生が消えた後に残る個性です、という。
さしてうまくもないオチがついたあたりで、オチがわからない人は拙稿ご覧いただければ幸いです。

啓白。



googleブログの設定を以前のバージョンのままにしているせいなのか、最近ちょっとだけ使い勝手が悪くなっている。
たとえば、ドラッグしても選択できなくなったり。
これ、地味にフォントを変えたりするのが面倒なのです。

それに、コピーしてきた文章を貼り付けようとすると、妙なところに表示されたり。

なんか、地味な、嫌がらせで、新しいバージョンに変えろという意味なのか、それとも知らないうちに新しいバージョンが浸食しつつあるのか。


うーむ、小面倒臭い。
 




追記。
愛媛大学「写生・写生文研究会」(2012.02.04、於京都)関連リンク。

週刊「川柳時評」 「写生」と「ノイズ」

けふえふえふとふてふ 写生についてのシンポジウム


『日々録』ブログ版 夜雨、など
『日々録』ブログ版 釘煮、など

週刊俳句 Haiku Weekly: 週刊俳句 第256号 2012年3月18日

写生写生文研究会  第一部基調講演 写生の「中味」竹中宏
写生写生文研究会  第二部第三部レポート 写生ー俳句の場合ー 久留島元
写生写生文研究会  私的感想として 彌榮浩樹
資料 写生不快 竹中宏
資料 ノイズのこと 竹中宏
資料 写生について 関悦史

2012年3月16日金曜日

御中虫氏についての断章

 
 
 
すでにひとしきり、話題になったあとですが。
なかなか、すごいもんが出たな、という。
赤い新撰 「このあたしをさしおいた100句」

こんなふうに的確な批評を「悪口」スタイルで浴びせかけられるというのは、やられる側としては、嬉しいのと辛いのと、半々であろう。
同時に、「アンソロじれない僕ら」(※)としては、うらやましいのと大変そうだというのが、やはり半々。
(※注、アンソロジーに入ってない僕ら、の意味。)

的外れな批評なら不快でも無視すればよいが、的を射た批評は、耳に痛い。そしてこれはかなり「痛そうな」悪口である。
これが「超戦後俳句史」に連なった、つまり「世に出た」作家ならではの苦労というべきで、むろんこれに耐えられないような柔弱な作家はもとより「アンソロジ」ってないわけであろうが、一方で御中虫氏の「芸風」を知っているかどうか、も、この「悪口」を素直に受容できるかどうかには重要だったと思う。
たぶん、もともと「芸風」を知らない人にとってみると、内容よりもまず書きぶりで感情面を刺激されるであろう。とすれば、少なくとも最初に槍玉にあげられている人たちは、御中虫氏の「芸風」については知悉している顔ぶれであろうから、プロローグとしてはふさわしい、ということになる。
ちなみに筑紫磐井氏の前口上後口上は賛否両論で、「芸」として見ると明らかに蛇足であるが、いらぬ誤解や誹謗でせっかくの「作品」が摩耗することを避けたいという(過保護気味の)愛情が感じられ、「芸風」を知らない読者にとっても親切であったと思う。

そういえば高山れおな氏は、先日の「週刊俳句」後記で、
 
先日、俳句甲子園に審査員の一人として始めて参加して大変楽しかったが、社交は俳句(特に批評の)敵ではないかとの反省もつのるこの頃である。

と自己紹介していたが(ところで高山氏は今は俳句甲子園審査員をつとめておられないはずなのだが、このプロフィールは前の使い回しか?)、御中虫氏の「悪口」は、社交と批評との歓迎すべき融和だったのではないか、と、思っている。

ともあれ充分に整えられた舞台設定のなか、新たな批評のスタイルをもつパフォーマーが誕生したことを祝いつつ、今後累々と並べられるであろう御中虫氏の舌鋒の犠牲者たちには同情しつつ、読者として連載を楽しませてもらいたい。

ちなみに「詩客」サイトでは第二回がアップされている。



御中虫氏に関して言えば、句集『関揺れる』の刊行も近日に迫っている。

http://younohon.shop26.makeshop.jp/shopdetail/003000000019/

こちらは、長谷川櫂氏の震災句集に対抗して、御中虫氏が唯一「震災」を感じられる「季語」である「関揺れる」を、自ら創出して作り上げた125句の記録である。
ひとまず私としてはこれら「震災特需」(※藤井貞和氏)についてあまり関心がもてないので購入する予定はないが、邑書林の句集特設ブログ、および「虫日記」に語られる、作品発表から出版にいたる経緯は、なかなか刺激的で興味深いものだ。

御中虫句集『関揺れる』ブログ
「虫日記R6」2012.02.24

文句を言うより作家なら作品(彼女の言葉で言う「実弾」)として示せ、というのは、いたって正論であるが、もちろん作品を作らない、というのも一つの回答である。
句集の内容については125句のうち120句がブログで公開されている。静かな立ち上がりから現実世界を踊り出し、過剰なまでに逸脱していく「虫節」がおもしろい。

虫氏は、きわめて意識的に「御中虫」イメージを構築、プロデュースしている。私にとってはそこに表現された、意識的なイメージ戦略こそ興味深い。

当初「御中虫」は、女性性とか、暴力性とか、とかく実体をもった作者性を感じさせる作家として認知されていたようである。その意味で御中虫は、ステレオタイプな「女性俳句」の系譜に連なる、きわめて私小説的な作家、という誤解があったように思う。
むろん虫作品の世界は「御中虫」という名の実体を持つ女性の、リアルな日常をもとに作られたものなのであろう。しかしその作品群が、虫氏のリアルな現状を表現しているようにみせて、結局きわめて加工度の高い「作品」なのだ、という、いわば当たり前の事実は忘れるべきではない。「作品」から立ち上がってくる「御中虫」は、実体とは別の、意識的に作られた、仮構された「御中虫」である。というより、彼女の一連の言動は、作品を通してしか存在しない「御中虫」のほうを積極的にプロデュースし、実体を持つ作者のほうを消してしまおうという意図をすら感じさせるのだ。

小川軽舟氏はかつて、御中虫作品に「定型の引力」を見いだした。
定型というのは日常言語を韻文に加工する手段であり、そこで表現されたときすでに彼女のリアルな日常は「作品化」してしまっているわけだが、一方で種田スガルや又吉直樹の自由律句にはそこまでの「加工度」が感じられない。
それが小川氏のいう「型」の引力ではないか。
「御中虫」からは、表現され、加工化された作品を通じてのみ世界と関わろうとする覚悟を感じさせる、とまで言えば、これは言い過ぎだろうか。
しかしそのような、読者の期待に応えて日常生活をも切り取って作品化してみせるエンターテイメント的パフォーマンスは、おそらく『新撰21』巻末座談会に指摘された北大路翼、高柳克弘らのもつ「エンターテイナーぶり」と通底し、また、佐藤文香の一連の「芸風」にも非常な近似性を思わせる。



ちなみに、こうした強い「作家意識」は、私自身にはかなり希薄だと思う。
それはつまり、私自身が、俳句を「遊び」と思い、俳句作品を発表する「作家」の立場よりも俳句を楽しむ「愛好者」の立場のほうに重きを置いているからである。
これについてはまた稿を改めて言及する機会もあろうかと思う。
 

2012年3月9日金曜日

サイト紹介


3月3日シンポジウムにご来場いただきました皆さま、ありがとうございました。
お陰様で大入り満員、当初予定よりも大勢来ていただきまして大盛会でした。

スタッフ一同慣れないこともあり準備不足、当日は裏方でばたばたしてしまって内容も充分に把握できていないので、その意味で反省点多し。ご来場の方々、パネリストの方々にもご迷惑かけること多々。もちろん作品創作と教育現場とをどう結ぶか、というのは今後もきちんと議論されるべき重要な課題なので、今回まとまりがつかなかったこともこれから考えていかなくてはいけないかな、などと。




それはさておき、今回はサイト紹介ふたつ。

ひとつは、「ふらここ」中心メンバーで、現在スウェーデン留学中の黒岩徳将くんのサイト。
スウェーデン×俳句×教育×俺

U25日本代表として、遠く離れたスウェーデンの地で「俳句的生活」とは何か? を実践、研究している、まさに体当たり俳句ルポ。
この行動力に羨望ですね。

国際俳句運動というのは、個人的には他言語がまったくできないこともあって夏石番矢さんの名前が思い浮かぶくらいの関心しか持てないでいるのですが、俳句を完全に相対化して見るためには国際という立場の視点も有効なのかも知れません。
難しいことのひとつは「翻訳」の難しさで、つまるところ文学は翻訳できるのかどうか、ということ。つまり、芭蕉や蕪村、子規や兜太という、日本人でさえある程度の「俳句リテラシー」を必要とする作品を、果たして海外に持って行けるのかどうか、ということです。
むろん私だって、それこそ幼少期の『おおきなかぶ』『ひとまねこざる』時代から、ディズニー、ロフティング、エンデ、ヤンソン、C.S.ルイス、もちろんグリム、アンデルセン、西遊記、水滸伝など、数々の翻訳文学の恩恵を被っているわけですが、残念ながら原著で読んだことは一度もない。せいぜい大学に入って少々漢文を読んだくらいのものです。
だからこれらの作品について、本当にその作品を楽しんだのか、それとも実は石井桃子や瀬田貞二の訳を楽しんだだけなのか、というのは畢竟、わかりかねる。散文であってもそうなのだから韻文であれば難しさは倍増で、だから柴田元幸氏のような個性的な「翻訳家」の存在に頼らざるを得ない。

すぐれた日本文化の理解者であり紹介者である、ドナルド・キーン氏は、泉鏡花の文章を絶賛した文章で次のように言っている。

こんなに鏡花の小説にほれている私に、「翻訳する意志はないか」と問われたら、返事は簡単である。「とんでもない、この快感を得るために三十年前から日本語を勉強したのではないか」と。
『日本文学を読む』(新潮選書)

とすれば、つまるところ国際俳句は、翻訳文学としてでなく、「国際俳句」として、「俳句」とは違う基準を設ける必要がおそらくはあって、どこをよりどころとして「俳句っぽさ」を担保しているのか、ということは、興味深い問題として、今後黒岩くんに聞いてみたいところなわけである。



もうひとつ、これは「船団の会」メンバーでもある芳賀博子さんのサイト。
芳賀博子の川柳模様

芳賀さんは俳句でなく川柳人で、いわゆる時実新子「川柳大学」の出身者。昨年「かもめ舎」主催の句会・座談会でご一緒させていただきました。
『船団』でも「今日の川柳」を好評連載中ですが、こちらのサイトでも「はがろぐ」ページで、川柳鑑賞が公開される模様。
とてもきれいで見やすいサイトなので、是非一度ご覧ください。

しかしこのサイトを見てしまうと、「関西俳句なう」ページの、いかに粗雑だったことか。。。今度やるときは、ちゃんとHP作れる人に手伝ってもらいたい。。。


樋口由紀子さんの「金曜日の一句」と並んで、川柳界にも「読む」流れが広がっていけばおもしろいのに、と、ひそかに期待。