2011年4月18日月曜日

樋口由紀子「容顔」を読む

容顔、「ようげん」と読むらしい。(辞書的には「ようがん」もあるようだ)
表紙には不気味なマネキンの女性たちの写真。 冒頭から葬儀をテーマにした句が重ねられる。
式服を山のかなたに干している

まっさきにぺちゃんこになる副葬品
読んでいくうちに、父の死別に直面していたとわかる。

道頓堀の手前で拾う父の病名 
父が逝く籠いっぱいに春野菜 
三月に追いつめられる霊柩車
肉親の死にかかわるのかどうか、作者の日常を見る視点は変である。
此岸の日常風景にもかかわらず、彼岸に近づいていくような、いや彼岸が近寄ってきているような不気味さ、危機感を漂わせるのだ。

むこうから白線引きがやって来る

つぎつぎと紅白饅頭差し出され

半身は肉買うために立っている

作者は繰り返し同じテーマを扱い続ける。
ことに「死」や「肉体」には執拗なほど丹念に向き合う。その多くは自己の肉体を起点として、内省しながらより抽象度の高い「肉体」や「死」へと意識をむける手法をとっている。
腰を据えた粘性、とでもいうのか。誠実な執拗さで彼女の作品は「肉体」を探求する。


ねばねばしているおとうとの楽器

粘性の波と抱き合うわが童話
自身を映し出す「鏡」への関心も、「肉体」への関心の余波だろうか。
鳥たちが三面鏡からいなくなる

昼の鏡魚の名前をつぎつぎ告げる

箪笥の隙間が鏡に映る祝詞か

私の調査では「鏡」を詠んだ句は八句。
「鳥」や「魚」など、鏡に映る自己から人外へ意識を飛ばすような句が特徴的である。これはさきほどあげた内省の視点とは逆に、まったく異なる世界へ意識を飛ばしていくものだ。
他の作品では「象」や「人形」などの、いわば異形への執着が見られる。しかし、あくまで自己の肉体を起点とする部分では共通している。
そしてより明確に、「わたくし」の肉体を内省して異形へ至る、という作品も散見される。

わたくしの生まれたときのホッチキス 
わたくしのなかの兵士が溢れ出す 
わたくしをまわしてみせるまくらやみ
わたくしのなかの兵士が溢れ出す」は、自己の肉体のなかに自分でない暴力性をみる、という、ある意味でわかりやすい句。批評性が強く、いわゆる「川柳」の文脈で理解しやすい。
しかしこうしたわかりやすい「批評」だけでなく、ほとんどの句が同じように自己と世界との対峙、自己の肉体を起点として世界を「批評」する視点を持っているようだ。
おそらく作者にとって、主義や思想のようなあいまいなものは関心がない。主義や思想は言葉によって作られる。ゆえに変化する。それは彼岸の幻影のようなもので、あいまいで流動的なものだ。それに対し、批評する存在として「肉体」が在る。「肉体」を起点とすることで、作者の句はつねに形而上の世界に対する批評たりえている。言葉による形而上の世界と、肉体に代表される形而下の世界との緊張関係に、作者の「わたくし」が、濃厚に在る。

黒板に名前を書いて眠ろうか
巻末にある句。
署名はいうまでもなく自分の名であり、自らの存在を証明づける手段である。最後まで作者は、「自分」の影を残していく。そこに押しつけがましい嫌みがないのは、「眠ろうか」のように現実と夢が混濁していく、その方向性に自覚的な姿勢ゆえだろう。
執拗な、しかし誠実な「問い」として、「肉体」と「言葉」との狭間で、彼女の作品群は、濃厚な存在感を持っているといえる。





さて、そのように濃厚に作者が存在する、ということは、樋口由紀子という作家の問題なのか、それとも川柳(のなかの少なくとも一潮流)としての特徴なのか。

宙返りしてみましょうか彼岸入り 由紀子


冬座敷だれもゐなくて宙返り  御中虫
よく似た二句、並べてみるとどちらが俳句的、とはいいにくい。御中虫もいわゆる俳句の文脈からはずれた「私」が強い作家ではあるが、「冬座敷」にはそれほど明確ではない。 そしてやはりともに「季語」のもつ共有のイメージが、「私」だけではない、広がりと安心感を持っている。なんでこんなことしとんねん?という滑稽さが出ているのも、季語のもつ安心感あってのことだと思う。 その意味でもやはり、季語にもたれない作り方をする「川柳」では、「私」の在り方は、俳句とはすこし違ったふうに出ているのではないか。

※ 『容顔』(詩遊社、1999年)は著者よりご恵贈いただきました。ありがとうございました。
※ 2011.07.10、改行など表記を校訂。


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