2011年7月16日土曜日

若手評論家見取り図、時評篇


先日もとりあげた「川柳時評」で、如月和泉こと小池正博氏が「時評」の難しさについて触れている。



時評とはけっこう困難な作業である。
音楽評論で有名な吉田秀和は、相撲の解説から批評の要諦を悟ったと述べている。現在の相撲解説は愚にもつかぬものだが(そういえば相撲自体の存続もあやぶまれる状況が続いている)、かつては相撲解説者に神風と玉の海がいて、名解説者の評価をほしいままにした。一瞬の取り口を言葉によって鮮やかに解説してみせるそのやり方は、相撲ファンのワクを越えて視聴者を魅了したのであった。
吉田秀和の評論集『主題と変奏』に収録されているシューマン論には「常に本質を語れ」(ベートーベン)というエピグラムが掲げられている。消え去るもの、移り変わる状況を取り上げながら、常に本質を見失わないこと。そこに時評なり批評なりの面目はあるのだろう。



http://daenizumi.blogspot.com/2011/07/71.html

「消え去るもの、移り変わる状況を取り上げながら、常に本質を見失わないこと。」
現代川柳をそれだけで見ることなく、戦前からの「無名性の歴史」をふまえて読み解こうとする小池氏の「時評」がめざす高みが知られる。

さて、「川柳時評」も含め、昨今のネット評論の活性化は、当blogをご覧の方々には周知のところである。
「週刊俳句」を筆頭とするウェブマガジン掲載の文章、個人blogやツイッターでの句会報告や句集評など、いまや若年層だけではなく一定の位置を築いている。
こうした新しい媒体も足がかりにして新たな書き手が輩出し、十数年来「凪」といわれてきた俳句評論の世界にも、少し動きが見え始めてきたようである。

そんななか、「時評」という形式で、現在もっとも注目すべきは関悦史氏だろう。
もともとmixiなどで句集評などを公開していたという関氏は「―俳句空間―豈weekly」安井浩司や、竹中宏などおもに難解派と目される作家論に健筆を揮い、「新撰21」シンポジウムや川柳の大会でも活躍、豊富な知識量に裏付けされた怒濤の言論活動で周囲を圧倒し続けている。

関氏の評論は長短どれをとっても読み応えがあるが、私がもっとも注目しているのが、blog形式の「閑中俳句日記(別館)」である。
もともとSFや現代芸術などに深い造詣を持つらしい関氏は、幅広い読書傾向の一つとして俳句に親しんできたそうだ。結社句会や文化講座ではなく、読書経験から俳句へ入った、というのは、しばしば指摘されるとおり、関氏の特異性のひとつである。そのためだろうか、関氏の視点は、「俳句」内部の論理ではなく、さまざまな表現形式の一角としての「俳句」の位置を見据えようとしている。大げさにいえば、外からやってきた「お客さん」の視線で、俳句表現と、俳句経験について、その位置づけを考察しているように見えるのだ。
むろん「お客さん」全てが関氏のように活躍できるわけではなく、複雑な問題を整理する手際や、的確な論理展開はまったく彼の個性によるものだ。それにしてもイベントや句集の読後評などのリアルタイムな情報が、関氏の体系のなかでたちまち的確に位置づけられていく様は、毎回圧巻である。


個人的に、関氏には「必殺時評人」の称号を奉りたい。


関氏の活動はそれでもまだネット上を中心としたものだが、総合誌を含めてもっとも活動的な若手評論家といえば、まずは高柳克弘氏であろう。
高柳氏が書き手としての才能を一般に知られるようになったのは『凛然たる青春』シリーズであろう。それまでは角川「俳句」賞受賞作家として知られていた高柳氏であるが、現在では論評活動でも八面六臂の活躍をしているのは周知のとおりである。
実際のところ私は必ずしも高柳氏の俳論に賛同するわけではない。しかし彼の文章については大いにファンを自認している。
高柳氏の文章の魅力は、作品同様、ある程度明確な「理想」を掲げつつ、それと対立する視点や対象についても向き合い、取り入れようとする態度が見えることである。それは「読み」(鑑賞)を重視する姿勢にも重なる。自分と違う方向性の句であっても、まずは作品を「読み」、その鑑賞を基に議論を展開する。だからこそ異なる立場にあっても平静な議論として受け止めることができる。文芸評論の王道の態度である。
先入観をもって否定しない、先に結論を持たない、というのは議論の大原則でもあるが、実際行うのは難しい。まして仕事量が増えれば大変だろうと思うが、高柳氏の文章はいつも緊張感を失っていない。
高柳氏を「エンターテイナー」と評したのは高山れおな氏だが、そのとおり彼は周囲の期待をそのままに、期待通り王道を王道として歩む、その覚悟と不適さを持っているように思う。(あるいは普段の飄々とした態度は、周囲の期待に応え続ける反動なのだろうか…)

高柳氏にはそのまま、「鷹の王子」の名がふさわしいだろう。


思うに、「時評」の役割は二つの側面がある。


一つは、リアルタイムの情報を読者に知らせる広報的な役割。

もう一つは、その現象が全体にとってどのような意味があるか、その現象からどのような問題が提起されるか、を読者に問いかける啓発的な役割。

つまりインプットとアウトプットの両方が重要なのだが、インプットが偏向であれば「時評」とはいえない内輪評になるし、アウトプットが曖昧であってはただの広告、掲示板にすぎなくなる。そのためには幅広い関心をもちつつ、それぞれを自分の中である程度の価値基準をもって価値付けていかなくてはいけないわけだ。

「時評」は、考え抜いて書く評論とは違う、反射神経のよさの問われる文章だ。
幸いなことに我々は今、得がたい時評子をふたりも知っている。彼らの把握に賛同するにせよ、反論するにせよ、議論を始める用意は、整っている。

 

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