2011年7月12日火曜日

東京

 
昨日、今日、と、資料調査で東京へ行って参りました。
で、その合間に、東京の句友何人かと遊んできました。場所は伊藤伊那男氏の経営されている、神保町の「銀漢亭」というお店。


遊んだと言っても俳句も作らずひたすらお酒呑んでしゃべくってただけですが、平日の、しかも月曜の夜だというのに遅くまでつきあっていただき、お陰様で、駅の階段を踏み外しそうになるくらい、しこたまお酒を楽しませていただきました。突然声を掛けてお相手してくださった各位に厚く御礼申し上げます。ありがとうございました。

さんざん呑んだあとですが、やはり呑み……いや話し足りないですね。また是非よろしくお願いします。



で、その席で怒られたのですが、どうも当blogの更新が遅い、と。

そんなこと言われたってこっちは普段天狗とかネコマタとかのことを考えながら観音さんの話とか地蔵さんの話ばっかり読んでるわけで、時には後輩がまったく読んだことも物語について報告しているのを聞いて知ったかぶりで助言しなくてはいけない立場にあるのに、そんな毎日俳句のことばっかり考えてるわけにいかんやろうがしゃーないなあぶぅぶぅ、とか思ったのですが、……たしかに先月などはわずか2回しか更新してないわけで、閲覧くださっている方々には申し訳ない限りです。


だいたいいつもは月に3~4回の更新、つまり平均すれば週1更新をメドにしていたのですが、先月は全くダメでして、これは文句言えません。

私がファンを自認しております、そして今回も大変お世話になった西村麒麟さんなどは、お仕事をされながらお酒を飲みながら実に週2というハイペースで文章をアップされているわけで。
きりんのへや:spica

あるいはまた、小池正博氏のように、お忙しいなか毎週かならず刺激的な時評で川柳世界を案内してくださる方もいるわけで。

週刊「川柳時評」

反省しました。


で、これまではある程度書き上げた文章のみをアップしてきましたが、これからは書きかけのものでも順次公開していこう、と。

あるいは、私はツイッターもやっていませんから、「つぶやき」程度の、備忘録のメモ書き程度のものでも、こちらで書いてしまおう、と。

そのように考えています。


とりあえず、何度か言ってきましたが、継続中の関心事は「俳句評論のありかた」について。
俳句そのものに対する関心でないところが、私の弱いところなのだとは自覚しておりますが、私ごときが下調べもせず書いた文章を「論文」とか「論攷」とか言ってくれる方がいて、それはそれで面映ゆくありがたい気持ちになるのだが、きっとそのままではいけないという気がするわけです。

ちょっと昔の俳句雑誌をめくってみると、いまの議論とほとんど同じような話題が、同じようにくり返されている。もう少し昔の人の文章を読んでいると、やはり同じようなことを言っていたりする。「近代俳句百年」の歴史のなかで、問題になる争点は、じつはほとんど変わってないのじゃないか、という気さえする。
本来はそうした昔の議論の蓄積をふまえたうえで、改めて別の資料なり、方法論なりを持ってきて議論しなくてはいけないのです。当たり前のようですが、俳句評論の世界は必ずしもそうなっていないように、私には思える。

えらそうに言っても実際のところ私など、厖大すぎる俳句評論史の蓄積について、まだまだ勉強をはじめたばかりなので、自分自身の勉強のためにも評論読み直し、それをふまえた「評論」の在り方、を気長に考えていきたい、と、まぁそのように考えております。

これまで以上にまとまりのない、支離滅裂あるいは無責任を極めたものになるでしょうが、生暖かい視点で見守っていただければ幸いです。


亭主拝

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