斎藤環『戦闘美少女の精神分析』(ちくま文庫、2006)を読んでいる。
ちょっと前の本なのだが積ん読のまま放っておいたのを思い出したのである。特に深い意味はない。
ナウシカ、セーラームーン、綾波レイなどの日本の漫画・アニメに溢れている「戦う少女」のイメージが、アメコミの筋肉質なアマゾネス系戦士と異なって特殊な存在である、という視点から、トラウマ(外傷)を持たない可憐で無垢な「戦闘美少女」の特性とそれを愛好する「おたく」の心理学特性を分析する……裏表紙に書かれた解説をもとに要約すれば、おおよそはこのような内容だろう。
本書はもともと2000年に単行本として出版されたそうである。出版された当初は本格的な「おたく評論」の先駆者としてかなり評判になったようだし、解説の東浩紀氏がしきりと強調するように、後続の評論家にも大きな影響を与えたらしい。
たしかに読み物としてはかなり面白いし、示唆されるところも多かった。書かれた当時を思えば相当先見性に富んだものだったのだろうと推測できる。
にも関わらず、私は読みながら苛立ちを感じていた。
私の考える「評論」のレベルからすると見過ごせない点があちこちにあったからである。
結果として本書は、ほかの粗雑な「日本文化論」、つまり日本の文化が特殊で世界に類が無く、「おたく」や「ジャパニメーション」が今後の世界を導くようなステキなモデルたりうるという……要するに、耳心地いい幻想をふりまいているだけではないか。
確かに日本文化は特殊かもしれないが、それなら特殊でない文化など世界のどこにもない。
問題はどのあたりが共通していてどのあたりが特殊なのか、その特殊性はどう育まれたか、なのだ。その分析がない日本文化論は、「世界に一つだけの花」の歌詞のようにまったく意味がない。凄いぞ日本ガンバレ日本、キミは生まれつきみんなと違う才能があるから競争しなくてもいいんだよ、日本文化は世界で一番なんだよ……みたいな。
違和感は自分の考えを育てるための重要なスタートになる。
自分自身の評論スタイルを模索するためにも、あえて本書の「まずい点」をメモ書きとして指摘しておきたい。念のため申し添えるが、本書の内容に踏み込んで「おたく評論」を展開するつもりはない。あくまで「評論」を実践的に模索する立場からのメモである。
ひとまず私があげておきたい、本書の問題点は次の三つに要約できるだろう。
- 批判先の匿名性
- 定義のあいまいさ
- 非歴史性
1.批判先の匿名性
本書はしばしば「紋切り型」の「おたく論」を批判する。
おたくとは、アニメとか怪獣とかの幼稚な移行対象を握りしめ、手放すことも出来ないまま成長してしまった未成熟な人間のことだ。彼らは現実に触れて傷つくことを回避し、虚構の世界に逃げ込んでいるだけである。成熟した人間関係、わけても性関係を恐れ、虚構に対してのみ欲情するような人間。精神医学的に言えば、「分裂気質」――以上、おたくについて思いつく限りの紋切り型を並べてみた。ただし「紋切り型」であることは必ずしも誤りであることを意味しない。問題はそれが「正しかったにしてもさして意味がない」ということだ。(P.19)ここで重要なのは、この「紋切り型」でおたくを評しているのが誰なのか、そのような認識がどの程度社会で共有されているのか、書かれていないことだ。
批判すべき対象の明確化、これは評論の問題意識を正しく共有してもらうためには必ず必要なことである。
しかし、ここでは批判の矛先が匿名であり、どのような意見の、どのような点を批判しているのかわからない。
これは現在本書を読む人間にとっては重要な過失であろう。
書かれた当時であれば「紋切り型」こそ自然だったかもしれないが、本書の初出から十数年を経ている現在では「紋切り型」以外の見方も多数存在している。しかし本書が書かれた当時にどんな意見がどの程度有力だったのかがわからないために、本書自体の立ち位置もよくわからなくなってしまうのである。
その結果、「紋切り型」を脱したはずの本書が提示するのは、上述のような日本特殊幻想にすぎない。それはたとえば八〇年代(バブル期の)日本で流行した、世界文化の最先端(ポストモダン、脱近代)が日本だ、という言説から、なんら進歩していない。なぜ「紋切り型」を廃して別の枠組みを持ってきたのか、本書の問題意識、重要性は、本書を読んでいてもほとんど伝わってこないのである。
(この稿、問題なければ続く。)
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