先日来、斎藤環氏の著書を使って、「評論の作法」という大仰な問題を考えてみた。
実際のところ、斎藤氏の著書は全体的に興味深いものであり、先日来述べてきたような問題点も、結果として大きな破綻を生んでいるわけではない。
むしろこの論著を出発点としつつ、さらに裏付けの論証を勧めれば、立派な漫画論、現代日本文化論になりうるのではないかと思われる。
特に最終章で漫画を、図像と言葉、擬音・擬態表現など「複数の回路を持」つ表現だとし、また「フキダシ」「人物の(記号的)表情」「漫符」「スピード線・集中線」などの、かなり膨大な「コード」の系列が「ユニゾン的に同期」している、というのは興味深い指摘である。
さらに、アニメ・漫画が他のメディアに比べ「表現形式それ自体がその表現内容を規定する度合い」が高い、「ハイ・コンテクスト」なメディアである、と論じ、「送り手と受け手の間に距離感がない」ことで成り立つ、という。
斎藤氏はここで江戸の黄表紙などにも触れつつ、日本文化論へ傾斜しかけているが、このあたりの議論は個別の文化現象として論じる方が意味深いだろう。「ハイ・コンテクスト」というのは日本文化としてよく指摘されるようだが(※)、俳句をめぐる議論としても理解できるものである。
このあとに続く、
漫画・アニメという虚構空間において、自律的な欲望の対象を成立させること。まさにそれこそが、おたくの究極の夢ではなかったか。「現実」の性的対象の代替物に過ぎない「虚構」などではなく、「現実」という担保を必要としない虚構を作り出すこと。どんなに緻密に虚構世界を構築して見せても、それだけでは全く不足なのだ。
といった指摘は考察は興味深いが、理論上の議論、という気もして、よくわからない。私に言わせればやはり、具体的な作品論を通して議論すべきだと思う。
さて、うだうだ書いてきたが、私見による「評論の作法」を活かしつつ、今後、特に俳句評論をしていこうと思えばどうすればよいのだろうか。
まずは歴史的な作家、作品の捉え直しであろう。
以前もふれたことがあるが、俳句の議論は、ともすれば「座」とか「かるみ」とか、江戸時代の俳諧用語、あるいはさらに俳諧研究の用語、を使ってしまう癖がある。
特に、前衛論議が終わって「古典帰り」が起きた、おそらくは昭和五十年代半ばから、その傾向に拍車がかかっているのではないか。
俳句が俳諧をもとに成立したことは言うまでもないが、なんの前提も検証もなく先祖返りしてしまっては、近代百年の歴史が飛んでしまう。
そもそも我々のもつ「俳句」のイメージで「俳諧」を読んで良いのか、ということが前提としてあるはずであり、我々の「俳句」イメージの形成してきた近代百年の「俳句」観、「俳句」論を、もっと厳密に再検証すべきではないか、という気がしている。
それは、これまでのような著名作家たちの作品を並べればすむような「俳句史」ではなく、それぞれの時代に即して、資料に基づいて行われるべき議論であるべきなのだが、・・・その作業の膨大さと緻密さの前に、私もはっきり言って恐れをなしている状況である。
ただしこの難行に挑む何人かの優れた評論家も存在している。
(この項、続く)
※ 斎藤氏は参考図書としてE.T.ホールの名を挙げている。ちょっと調べると、「文化を越えて」という著作の中で、この「ハイ・コンテクスト」という用語を使っているそうだ。読んでからまた言及します。
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