2011年7月6日水曜日

漫画的俳句 ~神野紗希氏に応える~


まずはおさらい。
今まで私の書いた「漫画的俳句」に関する文章をリンクしておきます。



  1. 「俳句な呟き」Vol.02 01.09

  2. 「俳句な呟き」Vol.08 02.20

  3. 曾呂利亭雑記 オタクはいく、付・個性のこと

  4. 「俳句な呟き」Vol.26 06.26

1と4で述べているが、「俳句でマンガ(漫画的俳句)」と、「マンガと俳句(マンガ俳句)」は、厳密には異なるものだということを強調しておきたい。

「マンガ俳句」は、マンガが詠みこまれた俳句。「漫画的俳句」は、「マンガ俳句」も含んでよいが、むしろ「漫画的手法を使った俳句」である。漫画的手法とは、「誇張」「単純化」「面白さ重視」などの特徴に集約される。

私が関心を持つのは主に「漫画的手法を使った俳句」のほうである。
2で取りあげたゆにえす氏など、もちろん「漫画的俳句」も面白いが、「マンガ俳句」に特徴がある。現代にあっては「マンガ俳句」も、もっと詠まれてしかるべきだろう。

3の文章で言及した「オタク俳句」の試みもそれに類するもの。
私はツイッターユーザーではないため詳しくないが、結構おもしろい作品もあるようだ。ただ、当然出てくる問題として「元ネタ」がわからないといまいち面白さが伝わらない、ということがある。これはかつての江戸俳諧が「忠臣蔵」や「曾我物語」をベースに句を作っていたのが現代人にはよく分からず、注釈に頼るしかない、という感じに似ている。
なかには確信的に注釈付きでオタク俳句に挑戦する向きもあるが、本人も「イタ句」と称するとおり、今後につながるかどうかは未知数である。



さて、『船団』89号に掲載した拙句「夏銀河メーテル待っているつもり」について、神野紗希氏より厳しい批評を受けている。


「待っているつもり」という表現に個性がないので、この文体の中で「夏銀河」と「メーテル」の取り合わせが、いくらでも取り換え可能となっている。「リング上力石待っているつもり」「屋上に綾波待っているつもり」「飴舐めて月(ライト)を待っているつもり」「籐椅子にコエムシ待っているつもり」「夏欅ミカサを待っているつもり」・・・。久留島の句も、一句の魅力の多くを「メーテル」というキャラクターの魅力に頼っているところが弱い。


【週刊俳句時評第34回】昭和二十年ジャムおじさんの夏 「船団」第89号特集「マンガと俳句」 神野紗希 



対象となった拙句は、以下の10句の最後のもの。


 「ジョーならば」
  ジャイアンに挑むのび太と猫の恋
  倒れてもジョーならば立つ春疾風
  春の雨俺がジョーなら勝っていた
  躑躅咲くゴルゴのように振り返る
  青を踏むねずみ男になりきれぬ
  蒲公英に化けて吹かれる狐の子
  浴槽に人魚姫いて春愁い
  行春の目目連の目に泪
  南風ルパン・ザ・サードのテーマ曲
  夏銀河メーテル待っているつもり



自句自解は褒められたことではなく、作品外での作者発言はたいてい無粋だ。
しかし、あえて今作の狙いを明かせば、漫画的価値観でいかに日常的な句を作るか、ということであった。
この場合、作中人物はあくまで現実的日常を生きているのであるが、現実的日常を漫画的価値観をもって見ている。従って私としてはこれは「キャラクター」に頼った句ではなく、漫画的手法を用いた句、という認識である。「のび太」(「ドラえもん」)、「ジョー」(「明日のジョー」)、「メーテル」(「銀河鉄道999」)という古典的作品を用いたことも、価値観として一般化、血肉化しているものを優先したからだった。

神野氏のあげた例の全てを把握しているわけではないが、たとえば「飴舐めて月を待っているつもり」(「DEATH NOTE」)などでは、句中にマンガ内部の小道具が入り込んでいる。
すなわち作中人物がマンガの内部に入り込みすぎており、もともとのマンガがもつ世界に頼った「マンガ俳句」だな、という気がする。
結果的には拙句も、他の人たちの「マンガ俳句」「キャラクター俳句」とよく似た作りになってしまったようで、それは私の実力不足。今作の狙いはそれから脱することにあったので、大いに反省している。しかし、上のような「漫画的価値観」をもって日常を見る視点は、「漫画的俳句」として実践していくつもりである。






引き続き、神野氏の批評を検討する。

神野氏は、「昭和のマンガ」を扱った句として「かつてラララ科学の子たり青写真 小川軽舟」をあげ、次のように評する。


「鉄腕アトム」「子どもの科学」「青写真」といった、おそらく作者の子ども時代の思い出と密接に関わっているモノたちが、「かつて」という時間の経過を示す言葉で括られ、「青写真」という、しばしば「人生の青写真」などという言い方で将来設計をも示唆する言葉で締められている。複層的に関わり合う言葉たちが、一体となって、一人の人間の思い出を体現しているのである。

このあと、神野氏は宇野常寛『ゼロ年代の想像力』(早川書房 2008年)に拠りながらゼロ年代以降の「昭和ノスタルジーブーム」に言及し、『ALWAYS 三丁目の夕日』(2005)、『パッチギ!』(2005)、テレビドラマの山崎豊子リバイバルなどの、「昭和をまるでユートピアのようにつくりあげる作品群」と、『船団』89号に散見される(拙句を含めた)昭和マンガの数々を同列視しつつ、



小川の句が、そんな昭和ノスタルジーの心性のそのものを、自らを通して具現化しているのに対し、船団の句のほとんどは、昭和ノスタルジーにひたる心性から作られている。言語表現としての緻密さという点のみならず、句自身が、自らの孕んでいる昭和ノスタルジーについて自覚的であるかどうかという点で、小川の句と船団の今回の句には、大きな差異がある。

と断じる。
昭和ノスタルジーへの違和感については、むしろ私も同調するところであり、上述3の文章で言及してる。引用する。


「関西俳句なう」の「俳句な呟き」vol.8(2011.02.20) では、船団会員ゆにえす氏のサブカル俳句の試みを紹介した。
  また春が来る磯野家の不老不死  ゆにえす
磯野家住人を扱った句では最近、『超新撰21』に収められた久野雅樹氏の句、
  バカボンもカツオも浴衣着て眠る  久野雅樹
が話題になった。
たしかにマンガ的無理を感じさせない佳句であるが、個人的にはあまりにALL WAYS的情趣が強すぎ、つきすぎ、という感想を抱く。
昭和のマンガの住人である彼らがノスタルジーに馴染みやすいのは当然だが、不条理ギャグと新聞マンガとを同列にノスタルジーに回帰させてしまうのは、作られた昭和像を補強しているだけではないだろうか。


ゆにえす句の内容は、日常会話でありふれた「年を取らないサザエさん」という話題にすぎないが、「不老不死」という語の選択により、「また春が来る」不気味さが倍増され、素材にたよりすぎない問題句たりえていると思う。なにより、昔のマンガを読んでいる、正直な違和感が基底にあることが、久野句との明確な違いになっている。

ところで私は昭和60年生まれで、昭和の記憶はほとんどない。郷愁を懐くような思い出もないが、憧れるほど遠い対象でもない。そのためだろうか。「昭和ノスタルジー」を語る上の世代へも下の世代へも、とても違和感を覚える。一学年上の神野氏もほぼ同様ではないだろうか。
しかし、次のような句が、本当に「昭和ノスタルジー」を感じさせるだろうか?


天高しラーメンお代り小池さん  岡清秀
バカボンのママ春陰の絆創膏  若林武史
白鳥を抱きしめているメリーベル  岡野泰輔

たしかにこれらの作品はもとの作品の世界観に従順であり、批評性に欠ける。「取り合わせ」により読み替えができているかどうか、は検討の余地がある。
しかし、そのことと、「昭和ノスタルジーにひたる心性」は同一だろうか?
不条理ギャグの登場人物に貼られた「絆創膏」。ラーメンを食べ続ける貧しい小池さん。「ポーの一族」の無国籍的な風景。これらの風景がおしなべて「昭和ノスタルジー」に見えるとしたら、あまりに原作マンガを知らなさすぎる。
どれもキャラクターに季語を取り合わせた単純な句だが、逆に言えばそれぞれの作品世界をきちんと踏まえ、虚構と日常(季語)との取り合わせを目指しているのだ。その意味で、ただの「思い出」の一部でしかない小川句中のアトムとは、まったく扱いが違う。

川句の認識は、実はそのまま矢作俊彦『ららら科学の子』(文春文庫、2006)に共通する認識だ。
作中の主人公は「昭和三十年代俳人」よりは少し年上の、学生運動経験者だが、かつて科学万能を信じられた時代、を懐かしむ心性は同じだ。
小川句は、「青写真」の季語に沿って、そのまま多くの同世代人が共感できるだろうセピア色の端正な世界観を築いている。しかしそれは、ある季語の現代的変奏というにすぎない。マンガという沃野を、まったく無視して自己の時代認識を露呈しているのみであり、漫画的俳句の観点からみれば新しみに欠ける行為としか言えない。




俳句も「マンガの表現から盗みたい」と後続に回るような姿勢からもう一歩踏み込んで、たとえば芳野の作品がアイロニーをもってマンガや昭和を相対化したように、素材の価値を作品が超えていかなければ、扱う意味がない。

神野氏の批評の結文は、ともすれば「共感」ばかりをめざしがちな、安易な俳句表現への課題として重く受け止めるべきだろう。
しかし、アイロニーや飛躍によって日常を超えていく表現とともに、自分たちをとりまく等身大の漫画的視点も重要である。私見では、ただマンガのキャラクターを扱っただけではなく、漫画的手法、漫画的価値観によって作られる句に、大きな可能性が秘められている。



春の星世界はデッカイ乳で成る  山本たくや
マーブルの壺が私の住処冬  酒井昌子
ペンギンの丹田切断星流る  工藤恵
かぷせるにいまからはいるはるうれい 津田このみ

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