先月末の「ねんてんの今日の一句」「に、高橋修宏の評論集『真昼の花火―現代俳句論集』(草子舎)を引き合いに出した記事が並んだ。
7月29日 に「稲の世を巨人は三歩で踏み越える 安井弘司」、7月30日に「南国に死して御恩のみなみかぜ 摂津幸彦」、7月31日に「戦争と畳の上の団扇かな 三橋敏雄」と、まぁ錚々たる顔ぶれと言ってよい。
しかし坪内氏はこれらの句を「よい句として引いたわけではない」とくり返す。そして「私はよいとは思わないが、……いわば伝説的に読まれているのだ。」と批判する。
安井句については、稲作が中心の世を「3歩で越える巨人とは現代の産業、あるいは市場。それとも原発? 新興宗教の神かもしれない。」と読みつつ、「読者の私にとってはやや概念的な句」で未熟だ、と評する。
摂津句については、「音読すると実に美しい句だが、……むしろ軍歌の快さに酔っている感じ。」「私は居酒屋の攝津幸彦が酔って調子をあげているようすを想像する。別の言い方をすれが(ママ)、この句は戦争ごっこ的快楽。」という。
三橋句については、「この句は「と」によって戦争と団扇を並列というか同格にした、その強引さが見どころではないだろうか。」と読む。そのうえで「団扇を使いながら戦争の話をしている、……なんだか、ありふれて平凡である。」というのである。
興味深いのは、「よいと思わない」としながらも坪内氏の読み方が正鵠を得ているように思われ、しかも私にとっては坪内氏の読み方によって句が魅力的に思えることである。
周知のとおり坪内氏は高柳重信周辺の新興俳句の若き評論家から出発し、次第に俳句の場の問題、「共同性」に注目していくなかで現在の方向性を獲得してきた。
通俗的な俳壇史の興味からいくと、坪内氏と三橋敏雄、安井浩司、摂津幸彦らはお互い遠くない存在のはずである。たとえば川名大『現代俳句』(ちくま学芸文庫)では「新興俳句の系譜」として同じ項目で扱っている。このことからも川名氏の俳句表現史と称するものが、実際は経歴重視の俳壇史を要領よくまとめたに過ぎないことがわかるのだが、それはともかくそれにも関わらず、、坪内・三橋・安井・摂津と並んだときには強い違和感があり、坪内氏と新興俳句との(現在の)距離を再確認させられるのである。
前掲、摂津句は坪内氏のいうように軍国ロマンティズムを臆面もなく歌い上げ、「戦争ごっこ的快楽」に興ずる戦後生まれのふてぶてしい言語センスが魅力的である。アイロニーといえばアイロニーだが、戦争の悲惨さを語りつつ軍国ロマンティズムを捨てることのできない、「男の子」的な感性へのアイロニーというべきであろう。
三橋句のほうも「戦争(非日常)と団扇(日常)とを同格にした強引さ」が強烈で、この不気味な魅力は「戦争が廊下の奥に立っていた 白泉」によって開かれた方向だといえるが、「団扇」の安心感は白泉を上回る。思うにこの日常的安心感(共感)へ帰着するあたりが、季語の効能であり、「俳句っぽさ」、俳句的なるものへの道なのではないか。
坪内氏は早くから三橋に対する違和感を表明しており、『俳句研究』四九・二(1982年2月号)掲載の「三橋敏雄論」でも批判的に論述している。
「過渡の詩」を書いた坪内氏にとって三橋の「俳句っぽさ」との対決は必然であったと考えられるが、共感の蓄積としての「季語」、季語を媒介に発生する「俳句っぽさ」を避けて坪内氏が目指した「共同性」の場には、一体なにがあるのだろうか。
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高山れおな氏の「日めくり詩歌」は自身も参加している『俳壇』「妖怪百句物語」より。
さすが博学の高山氏も妖怪には疎いらしいが、「ぬらりひょん」といえば今でも『週刊少年ジャンプ』で椎橋寛「ぬらりひょんの孫」が連載中であり、現在では比較的知られた妖怪なのではないかと思われる。左勝
宗教に入ってしまう雪女 塩見恵介
右
雪女魂(たま)觸れあへば匂ふなり 眞鍋呉夫
……計百五句のうちに最も多く登場する妖怪は「雪女(雪女郎)」で、四人が句にしている。これは季語でもあるのだから当然として、二位には「ろくろ首」と「ぬらりひよん」が三人タイで続いていて、ちょっと意外だった。ろくろ首は妖怪界の大メジャーだから不思議ではないのだが、そこに比較的マイナーなぬらりひよんが並んだのは、ぬらりひよんという音の面白さのゆえか。……本稿の読者に、ぬらりひよんとはかくかくしかじかの妖怪なり、と手際よく説明できる御仁はいかほどありや。私は、水木しげるが描いた妖怪画をかろうじて思い出せるだけで、どんな振る舞いをする輩なのかはとんと存じません。
妖怪についてはspica連載のほうでもしきりと語っているのでこちらで詳細を語ることは遠慮しようと思うが、せっかくなのでかるく解説。
「ぬらりひょん」は、『広辞苑』にも載っていて、
とある。つまり正体不明であることが本意という妖怪なのである。① 「ぬらりくらり」に同じ。
浮、好色敗毒散「その形-としてたとへば鯰に目口もないやうなるもの」
② 瓢箪鯰のようにつかまえどころのない化物。
「ぬらりひょん」を妖怪の総大将とする説は藤沢衛彦『妖怪画談全集』で「ぬらりひょんと訪問する怪物の親玉」とあるのが早い例のようである。おそらく鳥山石燕の絵を見て創作したものと考えられるが、「ゲゲゲの鬼太郎」のアニメ第三期以降すっかり定着し、現在の「ぬらりひょんの孫」にまで連なるわけである。
また岡山県では海坊主のことをぬらりひょんと称するらしく、これは捕まえようとするとヌラリと沈んでヒョンと浮く、からヌラリヒョンなのだそうで、ぬらりひょんをタコだとする俗説もこのあたりに由来していよう。
ところで、現在挑戦中であるからこそ敢えて言っておきたいが、「妖怪俳句」というのは案外難しい。ただ妖怪を詠みこんだ観のあるキャラクター俳句では「妖怪」の意味がなく、かといって古伝承の世界を偽装してしまうのも本道に外れる。
(だから私がコラムのほうばかり力を入れてるようにみえても、それは志方のないことであろう。)
そのなかで高山氏の注目するとおり、「妖怪俳句」としては塩見氏の句に可能性があるように思われる。
ちなみに相手に選ばれた真鍋氏ほどではないせよ、塩見氏も雪女俳句については挑戦を続けており、『船団』81号(2009年6月)会員作品に連作が載っている。
酔っ払って壁を壊した雪女
そのことは示談にしたい雪女
その示談に遅れて行った雪女
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