第13回俳句界評論賞決定のお知らせ
平成23年3月15日(火)、第13回俳句界評論賞の選考を行いました。慎重な協議の結果、第13回俳句界評論賞の授賞が決定しましたのでお知らせ致します。贈賞式は、平成23年11月8日(火)第一ホテル東京シーフォートにて行います。
依田善朗 「横光は波郷に何を語ったのか」http://www.bungak.com/info/haikukai.php
まだちゃんと読んでないが、『俳句界』8月号で掲載されていたので本屋ですこし流し読みした。
実は最近、まったく違うところで横光利一の「純粋小説論」にあらわれる「偶然」という概念について講演を聴いた。依田氏の評論にも横光に関わって偶発性に関して論及があったので、ちょっと興味深く思っている。
参考.真銅正宏「昭和十年前後の「偶然」論―中河与一「偶然文学論」を中心に―」
→pdf公開版(http://doors.doshisha.ac.jp/webopac/bdyview.do?bodyid=BD00012675&elmid=Body&lfname=016000430002.pdf)
真銅正宏氏の「偶然文学」に関する論攷一覧
http://ci.nii.ac.jp/search?title=%E5%81%B6%E7%84%B6&author=%E7%9C%9F%E9%8A%85%E6%AD%A3%E5%AE%8F&range=0&count=20&sortorder=1&type=1
※追記(2011.08.04)
依田氏の評論をざっと拝読した。
「馬酔木」新星として俳壇デビューした波郷が「古典と競ひ立てる」句へ傾斜していく際に、横光の俳句観、文学観が影響した、という指摘である。横光の影響についてはすでに知られているらしいが、昭和十年前後の横光の文章(「純粋文学論」)などから具体的内容にまで踏み込んで考察したもの。ごくまっとうな手続きであり、新味はないにしても手堅い評論だ、ということだろう。
真銅先生の「偶然文学」に関する講演を聴いたときにも「俳句へ応用できるな」と思ったが、横光自身、「偶発性」とか「無目的」という手法から俳句へ関心を持ち、実作にも関わっていたらしい。不勉強でまったく知らなかった。
こういう話を聞くと、やはり俳句研究はもっと近現代文学研究に資するところがあるし、もっと近現代文学研究の成果を取り入れていかないといけないのだろうな、という気がする。
それにしても『俳句界』の誌面は、謎。
表紙では「第11回山本健吉文学賞」のほうが大きな字で書かれており、受賞者の加藤郁乎氏、岩岡中正氏の名も出ている。依田氏の名前は表紙には全く出ていないのだ。自誌が主催している評論賞より山本健吉文学賞のほうが大きな扱いというのは、どういうことなのだろうか。
また「特集 芭蕉異説~アウトロー伝説を追う~」となっているが、芭蕉アウトロー説といえば嵐山光三郎氏だろうと思うが、文章中にもほとんど名前が出てこない。文章を読んでも芭蕉の何をアウトローと呼びたいのか、どのあたりが「異説」(通説と違う、の意味だろう)なのかがよくわからなかったのだが、
思えば、芭蕉はいつも正統なる異端であり、アウトローであった。その姿勢を芭蕉は「風狂」といい、アウトローになることによって風雅の道を極めようとしたといえよう。
水津哲「アウトロー芭蕉」
などを読むと、『俳句界』の相手にしている「通説」というのは「わびさびの俳聖」とか、そういう中高生の教科書レベルなのかなと思う。芭蕉が「風狂」だとか「孤高」だとかいう見方こそ、「通説」だと思っていたのだけど。
ほかの執筆陣も、どうやら編集部から依頼された題で苦労されたようで、どうも歯切れが悪いことおびただしい。
読み応えがあるのは今泉康弘氏「夏草の夢 異説~"兵どもの夢"とは何か?~」で、『文学』七・一号(2006年1月)掲載の深沢真二氏の論文を紹介し、「夏草や兵どもが夢の跡」の「夢」が、夢幻能としての「夢」である、という見方を提示している。
芭蕉は自らを諸国一見の僧になぞらえて、奥州平泉の高館を訪れた。そこは義経主従が、藤原安衡に裏切られて討死をした場所である。芭蕉はワキ僧として、義経主従という「兵ども」に出会う。彼らは語り、舞い、供養を願う。芭蕉はそれに応える。そして、ふと、夢から覚める。その跡には、ただ夏草だけが広がっている…。
また、今泉氏は従来の「兵どもが栄華の夢をみた跡」という解釈が二十世紀になってから登場する、という深沢氏の指摘に対して、「ワキ僧となって夢を見た、という趣向は「写生」にあわない」ために切り捨てられたのではないか、と推測している。重視すべきだろう。
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