船団「初秋の集い」が、いよいよ今週土曜と迫ってきた。
→http://sendan.kaisya.co.jp/shoka09.html
「初夏の集い」が新型インフルエンザ騒動で流れてから、約二ヶ月。 世間では夏を超える大流行、重症化の危機が叫ばれている中での開催であるが、某主催側にお尋ねしたところ、「今回は流さず、なにがなんでもやってしまいます!」という強い決意の下、運営準備が進められているそうである。期待して待つことにしよう。
……アドレスが「shoka」のままなのは、ご愛敬ですね。
ところで、先週日曜の「―俳句空間―豈weekly 」で、秋のシンポジウム登壇者のおひとり、高山れおな氏が興味深い発言をしていた。
いうまでもなく高山氏は俳句世界の「若手」のなかで屈指の論者と見なされている方であり、またおそらくは俳句史上でも言論史上でも空前と思われる、俳句評論専門のblog「―俳句空間―豈weekly 」の主筆のひとり、でもある。
誰にも好きな季語、嫌いな季語があるのは当然だが、好き嫌い以前にそのような季語が存在すること自体に疑問を覚える場合もある。筆者には原爆忌がその最たるもので、いかなる意味でもこの言葉を風雅の文脈に回収することはできまい。それでもまだ、原爆忌そのものを詠むのであればやむをえないとしても、単なる取り合わせの季語にして済ませているに至っては、ほとんどその作者の正体の程を見届けた気分になる。 →―俳句空間―豈weekly: 佐藤清美句集たしかに、「季語」のなかでもっとも扱いに慎重さを有するのは、こうした「災害記念日」俳句であろう。ほかにも、「終戦(記念)日」、関東大震災の「震災忌」、阪神淡路大震災の「西の震災忌」、近いところではN.Y.の「9.11」など、扱い方というだけでなく、「名前」や、そもそも季語と扱っていいのかどうか、を含めて議論となることが多い。 だから高山氏の発言も理解はできるのだが、たとえば次のような句にはどう反応すればいいだろう。
カルビーのポテトチップス原爆忌 中田美子
偶然と言えば偶然だが、掲句は8月6日の原爆忌に「e船団 日刊この一句」で塩見恵介氏が取り上げた句である。塩見氏の評を挙げよう。
まだ20歳ぐらいの時に、船団の句会でこの句に出会い、衝撃を受けた。原爆の日のことを「原爆忌」というのでさえ違和感を覚えていたのだが、こんなふうに軽々しく詠んでよいのか、と道義的な違和感を覚えたのだった。ただし直感的に、あのポテトチップスの油の匂い、包装の中の銀色、そこにある日常を、反転し転換した世界にも思えた。……また何年かして今、しみじみ、一枚のポテトチップスと同化し、その気持ちになった、鎮魂歌に思えている。塩見氏は、はじめ原爆忌を「軽々しく」扱われることにショックを受けたが、現在では「鎮魂歌」として受け入れられるようになったという。 句に対する違和感が、そのまま拒絶ではなく、時間的経過はあるにせよ、よりそって理解するほうへ転化したのだ。
→http://sendan.kaisya.co.jp/ikkub09_0801.html
以前、記念日俳句という企画があった。
→http://www.kinenbi.gr.jp/
→http://www7.ocn.ne.jp/~haisato/satotop.htm
これは日本記念日協会の定める記念日を詠みこんで俳句を詠む、というものであって、私も縁あって何度か参加させていただいていた。(HNは「中性子」。) このなかには8月6日「広島原爆忌」もあったのだが、高山氏に言わせれば、こんな企画自体嫌悪すべきことかもしれない。しかし、こうした句群にもまた、それぞれの「原爆忌」のとらえ方が表れているわけであって、そのことを否定してよいものか、どうか。
ところで、私はあまり面識もないような人が「追悼句」や「祝句」と称して詠む句が嫌いである。 もちろんよく知っている人ならいいが「個人的な体験」に、個人を知らない人がどうして詠めるのか、意味が分からない。 もっともこれは私の「好き嫌い」だが、「個人的な体験」に較べるとこうした記念日俳句は、より多様な個人的な受け止め方がありうるし、あっていいのではないか。 もちろん被害者当人たちにとって許せないこともあるだろうが。
いつ来るかいつ来るか、と思っていたら、やっぱり来た。
坪内稔典氏から高柳克弘氏への挑戦状である。
「e船団」に、いつの間にか登場した新コーナー「ねんてん今日の一句」、7月29日の評で、坪内氏は高柳氏の第一句集『未踏』を辛辣に評する。
1980年生まれのこの人、俳諧の研究者であり、現代俳句の評論集『凛然たる青春』も出している。俳壇の期待の星だが、残念ながら句集はおもしろくない。 http://sendan.kaisya.co.jp/nenten_ikkub09_0703.html坪内氏が唯一評価するのが、この日とりあげた
百人横断一人転倒油照 高柳克弘
であり、これを「ほぼ唯一の例外」で「俗のエネルギー」を感じる句である、とする。
この句は、偶然にも(?)塩見恵介氏がその数日前、7月19日の土用の丑の日にとりあげた句であるが、坪内氏とはまた違った捉え方をしているのが面白い。
群衆の中、転倒して、周囲にあっと思わせながらも、3秒後には日常にかえる。油照りが蘇る世界。その一人は、全く知らない誰かか、自分かもしれない。というと自分を突き放した言い方だが、……こういった世界は年配から見ると、意外だが、若い世代からは、むしろ今、もっとも共感される客体的自己かもしれない。坪内氏から高柳氏への挑戦状、「俗のエネルギー」の欠如、という点については、坪内氏の年来の主張からすれば当然の評言であろう。
→http://sendan.kaisya.co.jp/ikkub09_0702.html
個人的な感想を述べれば、以前拙稿でも鑑賞したとおり、高柳氏の「雅」な世界は章がすすむにつれて変化しており、特に句集のラストでは意識的な句材の拡充が見られる。だから高柳氏が「俗のエネルギー」との距離をどうとっていくのか、は今後に注目したいと思う。
さらに無礼を承知で言えば、「俗」一辺倒では高柳克弘の詩質が消えてしまうのではないか。 やはり「雅」「俗」双方にまたがるような、そんなバラエティを楽しませてほしい、と、無責任な読者は思うのだ。
話は飛ぶが、以前扱った「俳句の未来予想図」での、神野紗希氏の発言が、今でも問題提起として胸に残っている。
みんな違って、みんないい、みたいに相対化しちゃうと何もでない。
それはそのとおりだ、と思いつつ、では逆に、ある句を完全に否定する根拠というのは何だろうか。みんな違って、みんないい、 は、結局、何が悪いのだろうか、と。もちろん、個々の句の巧拙はあるだろう(技法上の巧拙は確実にあると思う。)
しかし、「巧拙」でなく、そして「好き嫌い」ではなく、あるひとつの方向性を完全に否定する根拠を持てるだろうか。 自分と別の方向性の句に対して、もちろん「好き嫌い」はあるし、「違和感」も「異和感」もあるが、それを拒絶するだけの根拠を持てるだろうか。 少なくとも、今の自分には持てないと思う。
「船団」の初秋のイベントにおいて、ふたりの全く異なるゲストを迎えた「船団」は、どのような刺激をうけ、どのように反応するだろう。
そしてその異和は、「百年後」、拒絶となるだろうか、それとも異和は異和のまま、別の世紀を迎えるのだろうか。
たぶん百年後、僕らはこの世にいないのだが。
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