2009年8月19日水曜日

「俳句を読む」 ~真銅著をうけて~


われわれがテクストと言うとき、それが理論用語としての「テクスト」なのか、作品・教科書の英訳としてのtextなのか、なんとなく使ってしまうだけのテクストなのか、は、今さらながら重要な大前提であって、真銅著のなかでも、まず第一番に確認されるのは「テクストとはなにか」である。

まず、テクスト概念の整理から始めたい。テクストとは、編み目、すなわち、おそらく作者によって書き付けられた……一見実態物に見える文字の羅列と、……これを現実化する読者の読書行為とがぶつかる現場において、一瞬立ち上がる、一時的な意味の総体のことである。(P.26)
要するに、テクストの考え方は、小説を、実体物ではなく、意味の関係性によって一瞬構築されたものとして捉えるわけである。(P.27)


「テクスト」は、不確定で非物質的なものである。断片的には意味をなさない単語、文、節、章が、読者によって (コンテクストに沿って) (また読者それぞれがそれぞれもつ知識・解釈・感情に拠って) 再統合され意味づけられる。その「意味の総体」を「テクスト」と呼ぶのであり、従って「テクスト」に実体はない。 また「テクスト」が立ち上がるためには、「読者」の存在が必然である。読書行為の主体、つまり、意味づける主体がいなければ「テクスト」はあらわれないからである。
同書は、如上のような「読書行為」がもつ創造性について、きわめて意識的であり、またその創造性を高く評価している。
我々はなぜ小説を読むのか。そもそもそれは、決して娯楽の一環としてではなかった。……小説を読むとは、実は想像し、創造するという言葉の言い換えなのである。(P.25)
この「読書行為」のもつ創造性への期待が、後半の「小説を書く楽しみ」へとつながるところに、同書の最大の特色と、魅力があると言っていいだろう。

もちろん、創造性といっても「読み」の無制限の広がりを認めているのではない。

俗流テクスト論・読者論の悪しき典型例は、テクストを文字面だけに限定し文字面を追った解釈者が自由気ままな妄想解釈や連想ゲームを無秩序に広げてしまうようなたぐいである。 そんなものは「ノストラダムスの大予言」解釈と変わらない。
「テクスト論」と、その延長上にある「現代理論」がまとう、なんとなくの胡散臭さ(私が感じているだけかもしれない)は、おそらくこの手の悪しき俗流論者のせいだろう。

しかし、そうした「誤読」は、なぜ「誤読」と切り捨てられるのだろうか。端的に言えば、作品が持つコンテクストを無視しているから、ではないか。
正しい用法なのかどうか知らないが、ともかく私の理解の中では、作品の歴史性や環境、発表媒体など作品外要素もろもろを含めて「コンテクスト」であり、コンテクストをふまえた解釈でなければおよそテクストの読みとしては「誤読」と言えるだろう。
古典を専攻している人間からすれば、もっとも無視できない作品外要素は対象作品の歴史的環境である。同書でもヤウスによる「歴史性の参照」による制限、が紹介されている。
コンテクストに沿って読む限り、テクストの読みは自由、と、こう理解しよう。
逆に言えば、テクストの方向性を決定するのは、作品の表現だけではない。パラテクストとかコンテクストとかの作品外要素と、作品外要素をテクストに引きつける、読者の側の知識や環境の作用も大きい。 つまりテクストを取り巻く「社会性が意味を産出する」


ここで話題は俳句にうつる。
句会で俳句が提出されるとき、それはある程度の読みのルールに沿って読まれることが期待されている。 「句会」で作品を読む人間は、基本的に、すでに俳句を読むことに慣れている人間である。 各人はそれぞれ自分の俳句に関する知識をもとに、目の前の俳句作品を読解するわけだが、「句会」という場はたいてい同じ結社やグループで催されるので、ある程度共有の「読みのルール」ができあがっており、読者はそのルールを参照しながら作品を読解することになる。 俳句は、基本的にはそのルールを知っている人たちのあいだだけで発信・受信されている、きわめて特殊な文芸である。

この「俳句を読むルール」は、小説を読むルールとは、根本的に違う。
あるいは、根本的に違う、と仮想されている。
単に韻文と散文との違い、というだけでなく、具体的には季語だとか切れだとか、あるいは曰く花鳥諷詠、あるいは曰く省略の文学、座の文学、余白の文学、などなど、「特殊」感を醸しだし、初心者に厳しく設定されている。従って初心者は、まずはこの「ルール」を学ぶところから始めなくてはいけない。
こうした「俳句リテラシー」が具体的にどのように形成されてきたかについては、外山一機氏がネット上で緻密な論考を重ねておられる。
 →Haiku New Generation: 近代における俳句リテラシーの形成過程について

これまで拙文でも繰り返し指摘してきたように、「俳句」は作者と読者がほぼイコールという、現代文芸には珍しい、内向きの型を保持している。
和歌はさて措いて俳句のみについていうのであるが、俳句というものは、世の大衆がそれを愛読するような性質のものではない。それは大衆小説というようなものとは較べものにはならない、極く限られた範囲内の読者ほか持っていない。その読者はたいがい作家である。/しかしながら俳句を作る人は割合に多い。読者は少ないが、作家は多い。その点で俳句は大衆文学と言えるのである。
高浜虚子「客観描写」『玉藻』(1953年5月)のち『俳句への道』所収

しかし、次のような真銅著の発言を見るとき、われわれに別の視点が生まれないだろうか。
結局、我々が文学の社会性と述べているものも、実のところは、全読者、全人類なるものを対象としているのではなく、……文学は、ある意味で、閉鎖的な内輪の伝達を前提としている。しかもそれは、「文学なるもの」という実に不確かなものを内容とする、実に曖昧な閉鎖的伝達である。(P.81~82)
おそらくは世間一般でいう「俳句なるもの」は芭蕉、一茶、いって子規どまりであり、われわれ俳句作家が想定する「俳句なるもの」とはかなりギャップがある。その問題は後述するとして、われわれは「俳句なるもの」という共有の、しかし不確かなイメージをもとに「俳句」をやりとりしている。(特にそれぞれの「句会」では「俳句」イメージが共有されているはずだ)
暴論と承知で言うならば、真銅著が示す「小説」のやりとりの構図と、「俳句」作品のやりとりは、基本において違わない。
つまりこのことは、「小説」という巨大な享受層をもつ世界が、実はある共有のイメージを媒介にした「閉鎖的な内輪の空間」つまり「座」である、ということなのではないか。


ここ数日、本稿のオチを書きあぐねていたのだが、ここにいたって私はまったく逆の視点が必要なのではないか、という気がしてきた。
つまり、これまで私は、 小説を中心にくみ上げられてきた議論を俳句に転位すること、
を目指していたのだが、逆に、俳句から小説に言えること、があるかもしれない。
小説を構成するとは、正しく、現実世界とは別のもう一つの世界を構築することであり、小説を描く際の構想とは、その意味において、世界像の把握である。世界をどう捉えるのか、という訓練の機会を、小説は我々に与えてくれるのである。(P.151)
誰もが完璧な小説を立派に完成させなくともいい。誰もがそれぞれ、どんな形でもいいから、物語を構築することを積み重ねていけば、現実空間に埋没する人が減り、多くの人の世界の見え方が変わってくるはずである。……極端に言うならば、今は、これまでのような小説読者を増やすことによる小説の復権ではなく、小説作者を増やすことによって、小説を取り巻く環境自体から整備するべき時なのかも知れない。(P.179)
真銅著においてもっとも印象的な、「小説」の魅力の総括と、「小説作者を増やす」という提言とを再掲した。ところで、
 創作のルール(作品構成)を知っている作者が、読書(鑑賞)において優位であること。
これは俳句が証明してきたことではないか。

むろん、「誰もが完璧な小説を立派に完成させなくともいい」
完璧な小説を書く人間ならば完璧な読者である、ということなどありえない。
しかし、作品構成のおもしろさを知っている人間が、より能動的な読者になりやすいだろうことは期待していいことだと思う。
先日触れた、「俳句甲子園」のゲーム性への期待もおなじことなのだが、要するに「俳句作家」への敷居はどんどん低く、広げてしまっていい。どんどん「創作行為のおもしろさ」を知ってもらうこと、俳句世界の外からの参入者にどんどん俳句のことを知ってもらうこと、それが「俳句を読む」ための土壌になるのではないだろうか。

注意すべきは、第一に「俳句作家が増えた後」についても考えて行かなくてはいけない、ということである。ネットも活字媒体もあふれかえって、表現行為が考えられないほど個人の身近になっている現代に、作家の粗製濫造を加速させることが果たしていいのか。
これは小説よりも「大衆文学」虚子)である俳句にとって切実な課題である。
しかしこれまで述べてきたとおり、私個人はこれらの問題に悲観的ではない。
この問題についてはまた別に考える機会を設けたい。

ともかく今言えることは、「俳句」という特殊な文芸形式の特殊な感覚、をフラットにしたい、ということ。つまり、今よりももっと巨大な、俳句だけでなくせめて今文芸書一般に興味を示す人すべてを視野に入れるような、巨大な「座」の構築ができないか、ということ。
そのためにまずどんな戦略が有効なのか。それがこれからの課題となる。
  

0 件のコメント:

コメントを投稿