真銅著を読んで考えたことなどをまとめようと数日四苦八苦しているのですが、どうもうまくまとまりません。そのせいでここ数日は誰彼なしに噛みついて議論したいような物騒な症状にみまわれています、いかんいかん。
結局、真銅著の指摘する「小説のおもしろさ」とは「虚構」であり「脱日常」のおもしろさ、ということになると思う。それはつまり、同書にも紹介されているロシア・フォルマリトとかいう人々のいう「異化」に近いものかと思われる。
その「虚構」による「脱日常」作用を自覚し、そのうえで「読む」あるいは「書く」という行為を捉え直そうとするのが真銅氏の試みであろう。
ここで注目したいのは、真銅氏が「読む」だけでなく「書く」つまり、「創作」という行為にまで視野を広げている点。ここが、他の理論入門とは一線を画する同書の特徴であろう。
また「精読者」をある種の「創作者」と捉え直している点もおもしろい。もちろんこれは「読者」を重要視するテクスト論の展開からすれば当然なのだと思うが、それでも「創作者」という議論の延長上に「作家を増やす」発言が飛び出すことからすると、やはりこれはただの理論上の結論ではないように思う。
そして、だからこそ同書が他の理論書と違い、「俳句」という特殊な立ち位置の文芸に対して、なにか大きな示唆を与えてくれるような気が、しているのである。
もうすこしまとまったら、詳しく書きます。
で、先日予告していたように、世間が俳句甲子園に熱中する8/7~9まで、福島県のほうへ研究合宿に行ってきます。本blogだけでなく、携帯などもつながりにくい状況があるかもしれませんので、ご連絡まで。
あ、そういえば、田ステ女青春俳句祭、始まったようです。
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