『週刊俳句』111号に、上田信治さんの記事が掲載された。 →週刊俳句 Haiku Weekly: ポストモダンについて今言えそうなこと 上田信治
上田さんとは面識がない。ないが、共通の句友が多いので、(勝手に)親近感を抱いている。そのうえ数年前、ネットを通じてたいへん面倒な議論に丁寧につきあっていただいたことがあり、以来、(面識もないのに)(一方的に)信服している。
だからというわけではないが、今回の記事にはとても共感を覚える点が多かった。
今回の「断章スタイル」の記事は、冗長な文章にして誤解を招くのを避けたためだろうか、幅広い問題意識を端的に論じていて、とても示唆的。下手な長文で書くと文脈上、当初意図しない部分が結論めいてしまうことがあるので、上田さんのスタイルはその意味でも誠実である。今回の記事もその危険が大きいが、スタイルを変えられるほど器用ではないので変えずに行きます。
まず、「ポストモダン」という語について。
私は5/24の記事で、東浩紀の著書に拠り、「ポストモダン」(70年代以降の変化の総称)と「ポストモダニズム」(特定の時代思潮)を分けて考えた。
一方、上田さんは高田明典『知った気でいるあなたのためのポストモダン再入門』に拠りつつ、以下の4概念を分類する。
・ポストモダニティ(ポストモダン状況)1970年ごろに端を発する時代状況。
・ポストモダニズム(ポストモダン思想)ポストモダン状況に登場した思想的枠組み。
・ポストモダン(思潮における時代区分)「モダンの後に位置する(今は分からない)何か」
・ポストモダンX(ポストモダンの要素を持つ文化的現象)
「東ポストモダン」は「高田ポストモダニティ」に対応しているようだが、
「東ポストモダニズム」が「高田ポストモダニズム」に対応しているのかどうか、
また「高田ポストモダン」がなぜ「今は分からない」のか、つかめないのだが、*
「ポストモダンX」=「ポストモダン的表現」を大きく扱うところを除けば、
おおむね東著に拠る私の理解でもしのげそうである。
そのうえで上田さんは(音にすると変な感じ)、高田著を縦横に引用しつつ、「ポストモダニズム」の沿革をあきらかにしている。このあたり、とてもあざやか。
さらにそのうえで上田さんは(わざとやってます)、やっと「俳句」に議論を移す。
上田さんがおっしゃるとおり、
ポストモダン的表現として読める作品を、俳句に見出すことは容易である。
私は「日本的モダニズムの特徴」、つまり「ポストモダニズム文化=非モダン文化=日本文化」な錯覚だろう、と意識的に切って捨てたのですが(6/3)、
定型それ自体が、定型に対する「問い」を生むものだからかもしれない。
という上田さんの示唆は、じっくり考える必要がある。なにしろ「俳句」は、生まれてたった百年の間に、作家ひとりひとりに「俳句とは何か?」という疑問を突きつけ続けているのだから(夏石番矢編『俳句百年の問い』参照)。
そのなかで上田さんが着目したのが、坪内稔典の代表句なのである。
三月の甘納豆のうふふふ
・坪内稔典の句に見られる商品名や過剰な通俗性は、「わざとやってます」という文脈で理解されるべき。
・氏の他の代表作と比べても、この句には異質な肌合いがある。(略)「既知の何かをよりどころに書かれた感じがしない」というか。
上田さんは、<三月の>が「メタなアプローチ」を通して、見る人に「俳句かよ?」「人間かよ?」と疑問を起こさせ、「それぞれ個別の価値」を創出させる俳句であり、坪内俳句のなかでも群を抜いて「ポストモダン的」である、という。
すこし脱線。
前に言ったとおり、最近、理論系の入門書を再読している。いま読んでいるのは近現代文学専攻の友人たちに紹介して貰った本で、
土田知則、青柳悦子、伊藤直哉著『現代文学理論 : テクスト・読み・世界』(新曜社、1996)
土田知則、青柳悦子著『文学理論のプラクティス』(新曜社 2001)
の二冊。
姉妹編になっていて、前者は理論カタログ、後者が実践例、といった構成になっている。わりに読みやすいし、巻末にブックガイドがついているのでオススメである。
さて、後者のなかに、川上弘美が取り上げられている。(「あるようなないような 気配と触覚のパラロジカル・ワールド」p.198~)
スリリングな展開を持つこの批評を、無謀にも一口にまとめてしまえば、
川上作品は、ひとまずディス・コミュニケーションの世界、他者との違和感を生きている ようである。しかし最終的に作品は、そもそもコミュニケーションという概念の根底にある「主体と客体の二分法」の撤廃へむかう。その結果、論理(ロジック)を超えたパラロジカルな世界の顕在化を、「触覚的に体験させる魔術的装置」となっている。とでもなるだろうか。(かなりの暴挙。詳細は本文をお確かめ下さい)
この批評自体は、とても面白く、読める。
しかし、それでも私には、「不毛」に見える。
この文脈で引用するのは誤解を招くが、最近、頭の隅にこびりついていることがある。『週刊俳句』100号記念の延長に発表された、谷雄介の発言である。
「週刊俳句のココがダメだ」ということなんですけども、「~を読む」のコーナーに少し不満があります。 それぞれの作品について鑑賞を書いておしまい、という体裁のものが多いなという気がしてます。(略)どれだけ豊かに読み込めるか、どれだけ上手く書けるかの勝負を見ているような気がしてしまい、少し辟易。
週刊俳句 Haiku Weekly: 谷 雄介 「~を読む」のコーナーに辟易
理論批評の多くは、「どれだけ上手く書けるかの勝負」に、陥ってはいないか?
閑話休題。
その意味で、上田さんの今回の批評が面白かったのは、坪内俳句の「ポストモダンっぽさ」、つまり表現史上の特徴を指摘しつつ、自らの鑑賞態度の表明と、現在の『船団』に対する違和感(挑戦?期待?)、に議論が着地しているからだ。
谷氏が、今回の上田さんの批評を読んでどう受け取るかはわからないが、私としては、現代を生きる俳句愛好者・上田信治の見解に触れて、興味深かった。
そして、結論的に言うと、やはり上田さんの、
・ポストモダニティの影響下の心性、素材、技法 etc.
について言えば、それは要するに「ポスモダンっぽさ」の「取り入れ」であり、個々の作家のレベルで語られるべきテーマであって(山岳俳句とかの類)、俳句自体の課題ではないだろう。
に賛成なのである。
80年代以降を生きる個々の作家の作品や、作句姿勢について、「ポストモダンっぽさ」が看取される可能性はあるだろう。その可能性は否定しないが、…その視点は、あっても、なくても、いい。もっと言うなら、論じられるべきは「ポストモダンっぽさを取り入れた」結果、成功しているかどうか、それの表現が我々にどのように受け止められたか、ではないだろうか。
80年代以降を生きる個々の作家の作品や、作句姿勢について、「ポストモダンっぽさ」が看取される可能性はあるだろう。その可能性は否定しないが、…その視点は、あっても、なくても、いい。もっと言うなら、論じられるべきは「ポストモダンっぽさを取り入れた」結果、成功しているかどうか、それの表現が我々にどのように受け止められたか、ではないだろうか。
一応、本稿をもって私の「ポストモダン俳句」言及は終わらせていただきます。
錯綜した長文をお読みいただいた方々、ありがとうございました。
それにしても今回、 改めて、坪内稔典という人の表現史的立ち位置が、まだ定まっていないのだなぁ、という、問題に辿り着きました。困ったもんだ。
* 上田さんによる高田著の引用は、おおむねわかりやすく、示唆的なのだが、
「現代」が、単なる「今という時代」の別名であれば、それを「ポストモダン」と呼ぶことは、言葉の定義上できない。「今という時代」の次に来るのは、常に、次の「今という時代」だから。「現代」のあとに来るものは「現代」。「モダン」のあとに来るものは「モダン」。(同p.66)
・「ポストモダン」とは、「歴史の先端」としての「現代」の、次に来るもの。進歩の幻想の終わりの、その次に来るとされている逃げ水のようなもの。
・だから、幻想としての「モダン」が、ほんとうに潰えてしまったら「ポストモダン」という語は、意味を成さない。
これはどういう文脈で読み解かれるべきなのだろうか。
「モダン」は、「現代」というよりいまや「近代」であり(『広辞苑』にもふたつの意味が載っている)、産業革命だとか市民革命だとか、歴史的、思想史的に区分された「モダン」、チャップリンの「モダンタイムズ」の時代なのであって、そして「ポストモダン」は「ポスト現代」ではなく「ポスト近代」である。従って、今を生きるわれわれの間で「幻想としてのモダン」が消えても、時代区分として(それが歴史用語か思想史用語かわからないが)「モダン」は残ると思うし、だからこそ「ポストモダン」という区分が有効になるのは?
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