2009年6月3日水曜日

ワンダーとか、ポスモとか、コラージュとか。


詩や短歌から小説へ移った書き手は昔からたくさんいるのに、その逆の小説家から詩歌へという例は皆無である。
穂村弘「共感と驚異・その2」『整形前夜』(2009年)

とある機縁で穂村さんを読む機会があって、こんな箇所を見つけた。
しかし、俳句の歴史にすこし興味がある人なら、多くが知っているはずだ。小説家から俳句へ移った、有名人の名前を。 むろん、高浜虚子である。


これは小説の法が読者が多いとかお金になるとか言う理由だけによるものではない。書き手の加齢や経験の蓄積と共に、表現感覚が「驚異(ワンダー)」志向から「共感(シンパシー)」志向に移るのが普通であって、その逆ではないということの影響が大きいと思う。
冒頭に続くこの「驚異」「共感」論の箇所は、非常に示唆ぶかい。
まさしく虚子こそは、「驚異」から「共感」へ評価軸をずらした張本人ではなかったか。
穂村さんは、詩歌が読まれないのは「共感」よりも「驚異」に傾くからだ、という。しかし上の見立てが正しければ、俳句が読まれないのは、まったく別の理由に依るのだろう。



「ポストモダン」談義、いまだ華やかである。上田信治さんが今週末「週刊俳句」に書き下ろすそうなのでそこでひと段落するかとも思われ、わやわやしてる間にこっそり、周辺から声を上げてみたい。

問題点は、ポストモダンといっても、詠み方(表現)と、素材(内容・社会風俗)の二つの面があること。これを分けながら考えないとごっちゃになりそう。
 
神野沙希「鯨と海星」http://saki5864.blog.drecom.jp/archive/412

そのあとも紗希さんは同じくブログで、俳句にあらわれる「ポストモダン的」な事象を、
 1.「表現」としてはポストモダン的ではないが「素材」がポストモダン的
 2.「素材」は珍しくないが、季語の歴史性などに対する姿勢がポストモダン的
という二つに大別している。
そのうえで、前者の例として、
  ビニル傘ビニル失せたり春の浜  榮猿丸
後者の例として、
  三月の甘納豆のうふふふふ  坪内稔典
  押入を開けて布団の明るしよ  上田信治

などを挙げている。(同ブログ6月2日 http://saki5864.blog.drecom.jp/archive/422

しかし、どうなんだろう。
いみじくも紗希さんが「俳句はそもそもポストモダン的だとかいう意見」とおっしゃるように、曖昧模糊でヌエ的な「ポストモダン的」なる視座は、「俳句」に馴染みやすいようである。それはたぶん、先日挙げた「日本的ポストモダン」の特徴に、関わっている。
そうして見ると、1.の「ポストモダン的」なものに詩情を見出してしまう視座も、2.の季語や形式をメタ化してしまうような視座も、結局、すべて「ポストモダン的」に見える。
重要なのは、それが「見える」だけではないか、ということである。
はっきりいうと「あれもポスモ、これもポスモ、きっとポスモ♪」という非生産的なレッテル貼りに終わって、たとえば山口誓子が俳句に「モダニズム」を持ち込んだこと、それを素材だけでなく作家の時代状況からも裏づけること、ほどの意味はないのではないか。

ただ、かつて誓子が「モンタージュ」と名付けた近代の作句法とはちがう、それこそ「異物」をかかえたような俳句が「現代的」なのも、印象論としてはたしか。あえて、ある世代以降の俳句に「ポストモダン」の傾向を見るとするなら、それは「コラージュ」のような言葉で表せるかもしれない。それなれば、表現史の問題である。


「コラージュ」俳句、というのはたとえば川上弘美の俳句である。
これも俳句やってる人には有名だが、小説家・川上弘美は小林恭二らと句座をかこむ、ばりばりの俳句作家なのである。
先日、『文藝』の穂村弘特集をとりあげたあと、おもいたって過去十年間の『文藝』バックナンバーをざっと見てみた。
特集でとりあげられているのはほとんど第一線の小説家で(なぜか女性作家が目立つ)、なかに俵万智氏がいた(2004年冬号)。 が、いわゆる「俳人」からはひとりも発見できず、唯一、川上弘美特集で「川上弘美自選・百句ほど」が掲載されていた。

  はっきりしない人ね茄子なげるわよ
  泣いてると鼬の王が来るからね
  目玉おやぢ目玉あらへる日永かな
  風邪つのるつぎつぎ生れて記紀の神
『文藝』(2003年秋号)

たしか、佐藤文香嬢も言っていたが、俳句雑誌は是非、川上弘美特集を組んで欲しい。
そういえばポルノグラフィティのひとが<はせきょー>と結婚したときも俳句界からの反応はほとんどなかった。管見の限りでは「週刊俳句」に記事が一本載った程度。
 →近恵「クリスマスは俳句でキメる!」
http://weekly-haiku.blogspot.com/2008/12/blog-post_21.html

ポルノグラフィティの作詞家がつくる俳句というのも、大変興味があるんですが、いまだ実作例にはお目にかかったことがない。
俳句界は、若手不足を憂うまえに、一度見苦しいほどの「あがき」を見せてはどうか。
 
  

5 件のコメント:

  1. 久留島くん>わ、どうもありがとう。ブログにもコメントいただいて恐縮。

    もちろん「見える」「的」ということだと思うよ。外の理論だから、ぴったり当てはまるということはなかなかないと思います。少なくとも、創作者側が、モンタージュやモダニズムのように、方法論として採用して、潮流になっているわけでもないしね。

    しかし例示だけに見えたのなら、反省反省。句が挙がるだけでなく、そこに、現代俳句の問題まで展望できれば、ポストモダンという話が、意義のある議論になるのかもしれないね。実際の目的は、すでにポストモダン(相対化)の世界の中で、私たちはどうやって、俳句という伝統詩に向き合っていけばいいのか、ということを考えたいわけで、ポストモダン的な俳句を見つけて楽しがりたいわけではなく、そこから学べるものがあれば(反面教師的にせよ)いいなあ、という気分です。

    楽しみに読んでいるので、これからも読み応えのあるものを期待しています。またご一緒していろんな話もしたいですね。

    返信削除
  2. >sakiさん
    早速、ありがとうございます。初コメント(^^。

    blogの内容を例示だけのように誤解、あるいはそのような誤解を生む引用になってしまったこと、失礼しました。むしろ、こちらの未熟です。
    ただコメント欄でのやりとりも含め、文学研究の用語を使う必然性が、見えにくかったもので。

    >すでにポストモダン(相対化)の世界の中で、私たちはどうやって、俳句という伝統詩に向き合っていけばいいのか

    まったく、どうしていきましょうか(笑。
    是非是非、いろいろなお話をしていきたいと思います。未熟者ですが、よろしくおねがいします。

    返信削除
  3. 追記。
    「ポストモダン」のような時代精神をあらわす用語を使ってしまうと、時代が変われば自ずから違う俳句になるのだろうか、と疑問が浮かびます。そうかもしれませんが、そうではなく、表現史のうえから、必然的な変化ととらえていきたい。
    ・時代を読み解く鍵語、
    ・文学研究上の理論用語、
    ・作句法上での俳句用語、
    これらの使い分けが重要なのだと思いますが、果たして「ポストモダン」はどういうことばでしょうか。

    返信削除
  4. 初コメントやったんやね、失礼失礼。
    私は、俳句では今のとこ「時代を読み解く鍵語」として使うのが妥当かなと思います。

    俳句の雑誌などを見て、個別の事象について考えることがある。そしてそれらの性格や成り立ちを考えるとき、ああ、これも「ポストモダン」のもたらした相対化の結果のひとつといえるのかもしれないなあ…と思ってみる。このとき、個別の事象を変えてゆくヒントを得るためのものが、①俳句史の中だけで考えて見つかるもの、だけでなく②同時代の文化状況の変化から導き出せるもの、に広がるところが、一般的な「時代を読み解く鍵語」を導入するよさのように思います。

    表現史の上からとらえることももちろん有意義だと思いますし必要な作業だと思います(むしろ私もそちらのほうに興味があります)。
    しかし実際には、私たちは、俳句の世界だけでなく、普段、一般社会の中で過ごしているわけです。そうすると、影響を受けるのは、過去の俳句からだけではなく、過去や同時代の文学や作家や音楽、絵画、サブカルチャーに至るまで、幅広いものから影響を受けて俳句を作っていることになります。積極的に時代精神を取り入れて作句する人もいれば、その社会に居ることでおのずと時代精神が反映された句を作る人もいると思います。だから、少なからず、時代が変われば自ずから違う俳句が出てくるのではないかなあ。そのことは、読み手としてよりも、むしろ、これから俳句をつくっていくうえで、作者として念頭に置いておきたいと思ってます。

    東京に来る機会があれば、是非教えてくださいね。みんなで美味しいごはんでも食べにいきましょう。

    返信削除
  5. >sakiさん
    続けてありがとうございます。

    >私は、俳句では今のとこ「時代を読み解く鍵語」として使うのが妥当かなと思います。

    そうですね、賛成です。
    「ポストモダン」という言葉の曖昧さが、意識せず取り込んでしまう同時代の雰囲気、とでもいうようなものをあらわすには的確なのかもしれません。作者・作品の固有性と、時代精神一般への普遍性、さらにジャンルそのものがもつ普遍性。いろいろなレベルの性質を、どう読むのか、というのは、とても難しいことだと思います。

    「鑑賞」ということについて、いま、慌てて理論系の本を読み返しています。念頭にあるのは、「週刊俳句」に対する、谷雄介の批判。また、書かせていただきます。


    >これから俳句をつくっていくうえで、作者として念頭に置いておきたいと思ってます。

    sakiさん、というより、神野紗希の活躍を期待している人間としては、とても嬉しくなる宣言ですね♪

    是非、またお話したく思います。美味しいご飯、期待してます!

    返信削除