今日でようやく休校措置も終了。図書館が使えないと新しいことがなにもできないので困る。それなりに大学図書館が充実した大学にいるという幸せを思う。
さて、誰が読んでいるかもわからないまま、対談「俳句の未来予想図」と、それに対する自分の考えを長々書き連ねてきた。
しかしながら他にもこの対談には注目すべき示唆が詰まっている。
たとえば、つぎのような発言。
高山 ただ、昭和初年生まれからいえば、宇多喜代子さん、安井浩司さん、加藤郁乎さん、坪内稔典さんもいるというふうに、作家としてはいると思うのですが、かたまりはないですね。高山氏はこのあとも、「例えば、角川俳句賞の選考委員は四人いますが、矢島渚男さんはあの年齢であれだけ業績をお持ちだけど、特集が組まれたことはありますか」「あの世代はもうそういう特集の対象にならないのです」と発言している。
俳句には「世代」でくくれるグループがいる。一番有名なのは「大正八・九年組」で、すなわち、
金子兜太、佐藤鬼房、沢木欣一、鈴木六林男、森澄雄、石原八束 …以上、大正8年生まれ。
飯田龍太、三橋敏雄、草間時彦、津田清子、野沢節子、伊丹三樹彦 …以上、大正9年生まれ。
といった面々。なかでも金子、森、飯田、三橋、は四天王ともいうべき顔ぶれである。
戦後、高柳重信(T12)が編集した「俳句研究」誌などではこの大正八・九年組が大活躍しており、飯島晴子(T10)、波多野爽波(T12)、赤尾兜子(T14)、藤田湘子(T15)なども含めて同世代意識を保って活動していることが伺える。
閑話休題。
高山氏の発言には大納得だが、加藤郁乎(S4)ならともかく、矢島渚男、宇多喜代子(S10)、安井浩司(S11)、坪内稔典(S19)は初年生まれとは言い難い。むしろグループからすれば角川春樹(S17)や、摂津幸彦(S22)らに近い。 (*)
昭和初年というと、川崎展宏(S2)、岡本眸(S3)、廣瀬直人(S4)、鷹羽狩行、有馬朗人(S5)、辻田克己、稲畑汀子(S6)、といった顔ぶれを挙げるべきで、負けず劣らずバラエティに富んでいる。先日亡くなった阿部完市(S3)を送る意味でも、昭和一桁世代俳人の特集は組むべきかも知れない。神野さんがいうとおり「カリスマは周りの人が作り上げていくもの」なのだから、カリスマ不在を歎くばかりではダメなのだ。
続いて、神野さんの発言。
神野 結社出身の人の作品がよく見えないと言うことは、結社にいて自分の作品を矯めるビジョンが見えないということです。では、どこへ行けばいいのかというときに、(略)私の周りの若手は今の権威として角川俳句賞をすごく狙うんです。神野はほかに、自分も含めて「私たちの世代では結社に入らず、自分の敬愛する俳人と一対一の私淑関係を持つ人が増えています」という。これはだが、文字通り神野さんの周りの若手、の話だろうと思う。
ひとつは「俳句甲子園」の影響があるのだろう。
「俳句甲子園」のゲーム性にはまった高校生たちは、結社にはいることなく俳句の基本的な技法を身につけ(あるいはそう思いこみ)、かつある程度俳人とも面識を得られる。そうなれば、今どき様々な通信手段を使って「私淑関係」を築くことは可能である。
ただし、そのような関係を続行させるのは決して簡単ではない。まず結社に入らないと定期的に句会に参加することができない。俳句を発表する媒体もなくなる。自然、作句の機会も減り、勉強も自ずから独学になるので知識も偏る。
俳句が発表できないと面白くもないので続けるモチベーションを保つのも難しい。
結局、「私淑関係」を継続することができるのは、環境の整った一部の若者、端的に言えば東京近郊でひまのある大学生、に絞られてしまう。
最近「結社離れ」を正面からとりあげる俳句関係メディアが多いが、実際結社に属さず活動している若手が、何人いるのだろうか。
とはいえ「結社離れ」の若手が、中央に限らず存在することも事実だ。実情を知るためには、「結社離れ」と騒ぐよりも、「結社に属さず活躍する若手」特集を組んでくれたほうが面白い気がする。
もうひとつ、高山氏の発言。
高山 雅ではなく俗、その俗もお洒落ないかにも俳諧的な諧謔ではない詠み方がほしい。そういうとき、社会性俳句とか前衛俳句とか、長いこと悪口ばかり言われてきた時代のものに手がかりがあるかもしれない。
高山氏の発言を見ていくと、坪内稔典氏がいう「俳壇の雅化」へのアンチテーゼとして「社会性」を持ち出しているようだ。
しかし「雅/俗」と、「伝統/前衛」は併置できるものだろうか。
このへん、小西甚一あたりから読み直さなくてはいけないので、また次回。
*ちなみに、川名大『現代俳句 上下』(ちくま学芸文庫)「新興俳句」の章の総説には次のように書かれている。
戦後生まれの団塊の世代の中で新興俳句の精神に連なる俳人としては、摂津幸彦や大井恒行を挙げておけば十分だろう。
『現代俳句』には宇多喜代子、角川春樹の項目がなく、また坪内稔典についても昭和六十二年以降の句集が取り上げられていない。小林恭二が同世代の「昭和三十年代俳人」をプロデュースしたのと反対に、川名(S14)は同世代俳人を論じ切れていないと見るべきではないか。「昭和20年世代俳人」論も、書く余地は充分にありそうだ。
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