俳句を文化にしてしまってはダメなんじゃないかな。
神野紗希氏―「俳句」P.97
前回、文脈の流れですこし暗く、しかも誤解を生みかねない閉め方をしてしまったので慌てて更新を続けます。
前回、僕は次のように記事を締めくくった。
俳句は、…文学は、もっと、生き残るために騒ぎ立ててもいい頃じゃないか?
すこし捕捉をしたい。
「文学」という言い方、これは、川名大氏が『俳句は文学になりたい』というときの「文学」ではない。
また、正岡子規が「俳句は文学の一部なり。文学は芸術の一部なり」というときの「文学」でも、ない。
今さら僕ごときが言うまでもなく、近代が仮想した「文学」観、「芸術」観は、とっくに崩壊してしまっている。
僕が使う「文学」は、端的に言うといま「国文学」が相手にしている「文学」であり、「言語表現ならばすべて文学」という「文学」である。
だから、僕は神野紗希さんの冒頭の発言に共感する。
俳句は、表現でありたい。
少なくとも「俳句」を、できあがって完成しているもの、と捉えなくない。
できあがって完成していて、ただただ継承し伝えていけばいいもの、と捉えたくない。
おそらく冒頭の発言は、この「俳句の未来予想図」のなかで一番注目され、反応を呼んだ発言だと思うが、…それが文脈を正しく捉えた反応だったかどうかはともかくとして、…だから僕も俳句を言語表現の一類型として「文学」に含むことはあっても、守り伝えていくべき「文化」だとは考えていないのだ。
この「文化」という言葉に関しては、また別に機会があったら書きます。
さて、「俳句を文化にしない」。そのためにどうするか、なのだが、そこからが 「俳句の未来予想図」 参加者と僕とではすこし違う。出発点は一緒だが、ルートもゴールも違う。
これから細かく、参加者の発言を追って違いを指摘していきたい。
橋本 この三十年代の俳人たちのことを学んで、神野さんたちの世代が出てくる。だから、神野さんの世代で俳句を作る人が何人増えるかでもって、俳句の未来が図られる。…また、十年後二十年後には七、八十代は大幅にいなくなります。まずこれは間違いだろう。なぜなら十年後、二十年後にはたぶん、新しい「七、八十代」が増加するからだ。(いわゆる団塊世代の退職問題) 団塊世代の人数と経験と、それに次代を担ってきた自負から来る強引な馬力は、侮れない気がする。
団塊世代が怖いのは、彼らが教養世代の最終ランナーでもあるからだ。生活と時間に余裕があって、そこそこの文化的素養…古き良き「文学」観である…を持っているオジサン、オバサンが、「文化」にあこがれて「ボケ防止」に「俳句」を「習い」始める。
そういうオジサン、オバサンは「プロ」ではない、とあるいは思うかも知れない。だが、五十代から俳句を始めても、七十代になるまで二十年ある。一家言なすには充分な時間ではないだろうか。そして、その「途中参加」組に、「プロ」以上に面白い人がいることも多い。
たとえば、僕が俳句を始めたころからお世話になっている「船団」会員の 須山つとむさん は1940年生まれで(今、略歴を見て驚いた。)、句作を始めたのは93年からという。
須山さんはジェントルマンである。陶器や美術がお好きで、しかも世界を股にかける登山家でもある。そんな須山さんの視点はひろく、そして誠実である。
冬銀河ゴビの駱駝の今頃は
パウル・クレーの絵皿の旅へ十一月
賢治のように下着をたたむ冬銀河
仁王像の乳首大粒秋曇句集
『ダリの椅子』(青磁社、2004)より。
おもしろい俳句が、年齢的に「若い人」「次の世代」から生まれるとは、限らない。
しかし、須山さんのように魅力的な七十代が多いかと言われれば、それは違うだろうとも思う。
だから二十年たってもやはり、神野さんの世代がリードできているかどうか、はよくわからない。
続いて次のような発言。
対馬 私などは逆に、こういう時代だからこそ、求心力を求めているというか、テーマ性を求めてくるのではないかという気はするんです。ここも、違和感。高山氏は「前の時代を乗り越える際に参考になるのは、前の前の時代です」とも言う。
高山 (前略)個人的には(テーマ主義が)来てますね。今度はテーマ主義で行こうというのは自分としてはあります。
しかし、「俳壇」に、主義主張や論争や対立軸がなくなってしまったのは、なにも今日昨日ではない。僕自身が繰り返し繰り返し言ってきたように、昭和三十年代俳人が見ていた「開拓すべき土地がない」光景の延長線上に、まだ僕らは立っている。
僕らが見直すべきなのは、前の前の世代、たった五十年かそこら、でいいのだろうか。
vol.01で僕は、自分自身の足下を見直すためには子規まで遡って見ていく必要がある、ということに触れた(つもりだった)。
「現代俳句」に残された遺産は、あまりにも豊富である。「現代俳句」の百数十年の歴史は、実にいろいろな方向の俳句を生み出してきた。
その、すべてがフラットな状態で僕らの目の前にある。
対立軸のない「凪」の状態というのは、逆に考えればとても贅沢な環境だ。
「みんな違って、みんないい、みたいに相対化しちゃうと何もでない」(神野氏)ことも事実であるが、今の時代にみんながひとつの答を出せるわけでもない。肝心なのは、自分の拠って立つものを意識すること、ではないだろうか。
僕の中での当面の課題は、「いろいろ試す」ことである。
どこまでできるかはわからない。しかし、「現代俳句」が、今の形になるまでに選択してこなかったもの、切り捨ててきたもの、を再検討し、自身で少しずつ試してみたいと思っている。
参照HP
筑紫磐井氏「感想風に(俳句1月号「俳句の未来予想図」を読んで/作品番号20)」
→ http://haiku-space-ani.blogspot.com/2009/01/blog-post_5758.html
佐藤文香氏「BU:819的ジヒョー![俳句の未来編]」
→ http://819blog.blog92.fc2.com/blog-entry-85.html
五十嵐秀彦氏「『俳句』2009年1月号を読む」
→ http://weekly-haiku.blogspot.com/2009/01/20091-p71-08-weekly-1p134-55-t.html
0 件のコメント:
コメントを投稿