2009年5月12日火曜日

「俳句」という文藝の立ち位置について

能や狂言の魅力というのは、現代ではもっぱら見て楽しむ演劇としてのそれが中心になっ
ているが、つい最近までは、自分で演じて楽しむという楽しみ方がむしろ主流であった。

竹本幹夫「能・狂言の歴史と文学としての魅力」『中世文学の回廊』(勉誠出版、2008)

上のことばは「俳句」という文藝の立ち位置についていろいろ示唆を与えてくれる。
文藝の受容者が、同時に実作者でもありうる、という状況は、この国の文藝を考える上ではある意味で当たり前のことだったのかもしれない。

「俳句」にとって、「純粋な読者」という層が存在しない、あるいは存在しても極めて少数らしいことは、すでに多くの方々の指摘がある。この問題にたいして、
・そのことを問題視する立場(そして「純粋な読者」層を広げようとする立場)
・そのことを問題視しない立場(実作者でなければ俳句は読めない、現状肯定の立場)
のふたつの立場がありうる。
前者の立場は俳句に現代文学としての立ち位置を求めようとする立場だろう。
後者は伝統文化としての俳句に根拠を求める立場かと思われる。
ここでひとつ問題になるのは、俳句の隣人ともいうべき短歌の立ち位置。
現代の社会ではどう見たって短歌よりも俳句のほうが、実作人口は圧倒的に多いはずで、それは大型書店などの詩歌コーナーで俳句関連本と短歌関連本とを比較してみると明らかに俳句関連本のほうが多いことでも明らかである(そのほとんどが実作手引)。
それでもなお、なぜか俳句が短歌に劣等感を感じるのは、短歌界にはたとえば俵万智や穂村弘といった「実作者以外」にも名の知れた人がおおい(ように見える)のに対して、俳句の世界にはそういう「著名人」がいない、まさに「純粋な読者」を獲得できる人材の不足、があるゆえだろう。
考えてみてほしい。
まず間違いなくいえることだが、すこし文藝に興味のある二十代半ば以降の人間で、俵万智や穂村弘を知らない人は少ないはずだ。そう断言していいくらい「サラダ記念日」は売れたし、穂村弘も売れている。
それは果たして、17音と三十一文字の違いなのか、どうか。
少なくとも、黛まどかをアイドルとして敬遠したりしている場合ではない、ということは、肝に銘じておくべきだ。
 

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