2009年10月27日火曜日

備忘録


長い文章を書こうと思いながら、なかなか話がまとまらないので一旦中断し、備忘録代わりに言及したい記事を列挙しておきます。



ひとつめは、『国文学 解釈と鑑賞』74巻11号(ぎょうせい、2009年11月)特集 「高浜虚子・没後50年―虚子に未来はあるか」。
過激なタイトルだなぁ、と思ったら、坪内稔典編集、でした(笑)。
http://www.gyosei.co.jp/home/magazine/magazine_detail.html?gc=4100020-09-110

坪内先生が宣伝されているのでもう少し話題になるかとも思ってたのですが、俳人関係のブログでもあまり言及がないのは、やはり専門雑誌だからでしょうか。
ちなみに本誌には出ていなかった、タイトルに寄せる思いが述べられていて興味深かったので、引用しておきます。

「高浜虚子・没後50年―虚子に未来はあるか」が特集の題だが、これは私がつけた。著作権が切れ、虚子を自在に読み解くことができるようになったので、あらためて虚子の文学の持つ可能性を考えたいと思ったのである。
「ねんてんの今日の一句」 http://sendan.kaisya.co.jp/nenten_ikkub09_1002.html

ご存じない方のために紹介しておくと、『解釈と鑑賞』は、岩波『文学』を除くと国文学関係では現在一番メジャーな総合誌。(『解釈と教材研究』は廃刊したので、あと総合雑誌は『日本文学』でしょうか) ほぼ毎回特集を組むので依頼論文が多くなるという欠点はあるものの、公立図書館などでも取り扱っていることも多い雑誌です。 いわゆる、「俳句世界」関係以外からの考察も多く、一読の価値あり。



ところで、坪内先生が興味深い発言。

ところで、「俳句」8月号は実にすっきりしている。誌面の約半分が多佳子特集で、あとは評論や時評のみ。このころの俳句人口は今の何分の一かだったが、いわゆる俳句商業誌の編集は今よりはるかに質が高い。初心者(俳句入門者)を相手にしていないから。
「ねんてん今日の一句」http://sendan.kaisya.co.jp/nenten.html

むむ? 総合雑誌批判だとすれば、坪内先生のいつものスタイルに代わりはないが、「初心者を相手にしない」こと、に対して好意的なのはちょっと意外。これはどう展開するのか、しないのか。
明日の更新を見守りたいと思います。


「季語について」 
は、俳句を作っているとどうしても避けて通れない課題ですが、お世話になっている、「船団」のわたなべじゅんこさんのブログでも最近興味深い言及がありました。
 →
http://junkwords.jugem.jp/?eid=76

なるほど、そういえば「季重ね」、有名な「目に青葉山ほととぎす初がつお 素堂」ではないですが、古い句ではさほど大きなタブーにはなっていないようです。
わたなべさんのブログでは「秋桜子」が容疑者に挙げられていましたが、どうやら違うようで、というのは昨日本屋で『別冊俳句生活』を立ち読みしていたら、小澤實氏、中原道夫氏、片山由美子氏、神野紗希氏らの座談会で同様の話題が取り上げられていました。 そこでは久女、秋桜子の句もあがっていたようなので、どうやら秋桜子が唱え始めたわけでもなさそう。
古俳諧に詳しい小澤氏にも「タブー化」した経緯は結論出ていませんでしたが、やはり「初学者」向けのタブーだったのではないか、という予測。 ということは、まぁ経験則からなんとなくできあがったルールで、あまり根拠のあるものではない様子です。

『別冊俳句生活』は毎回テーマに真剣に向き合っててとてもいい作りだと感心しきり。
しかし、欲を言えば、毎号神野さんと高柳さんを見るってのもどうなんだろう(^^;。 意地悪く見ると、どちらか出しておけば清新でいいだろう、ていう安易な意向が見えるのですが、それがまた図にあたって、お二人が興味深い発言をするのが困りものです(苦笑。 
まぁ、人間、欲を言い出せばきりがない、ということですね。



久しぶりに自分の宣伝。
「週刊俳句」2009年角川俳句落選展 に参加させていただいています。

 →
週刊俳句 Haiku Weekly: 週刊俳句 第131号 2009年10月25日

今年は落選展応募者から「予選通過」が五人も出ていて、レベルが高いです。
感想を寄せたい作品がたくさんあるのですが、これもじっくり読む時間をとれていないので宿題。



第6回鬼貫青春俳句大賞 【公開選考会】 のお知らせ。

☆公開選考会・表彰式・・・2009年11月3日(火・祝) 午後2時~5時

 於 柿衞文庫講座室(兵庫県伊丹市宮ノ前2-5-20)
● 下記選考委員(敬称略)による公開選考 どなたでもご参加いただけます。
 稲畑廣太郎(「ホトトギス」副主宰)
 山本純子(詩人)
 坪内稔典(柿衞文庫也雲軒塾頭)
 岡田 麗(柿衞文庫学芸員)
 岸田茂男((社)伊丹青年会議所 副理事長)    以上 5名(予定)

2009年10月12日月曜日

歌は読んでるだけでおもしろい


『俳句』今月号に掲載されていた高柳克弘氏の「現代俳句の挑戦 「食」をめぐる風景」を興味深く読んだ。
高柳氏の俳句と「食」については以前すこし考えたことがあるので、マジメに考えてコメントしようと思っていたのだが、佐藤文香氏の文章が出たのでやる気を失ってしまった。
 曾呂利亭雑記記事→曾呂利亭雑記: 世代論とか

高柳氏の文章を、誤解を恐れずざっくりまとめると、もともと俳句は「食」に相性のいい詩型だが、現代の食の荒廃に慣れた世代の俳句はちょっと変わってきたかも知れない、ということを、現代歌人の作品を引き合いに論じている。

  これなにかこれサラダ巻面妖なりサラダ巻パス河童巻来よ  小池光
  雨の県道あるいてゆけはなんでしょうぶちまけられてこれはのり弁  斎藤斎藤

小池氏の作品は回転寿司を詠んだ連作なのだそうだが、特にこの作品が秀逸。
高柳氏は前者を「食の聖性を体感してきた世代」「現代の食に対してある違和感」を持っている作品とし、後者を「食の聖性が失われた風景に慣れた、開き直りとも取れる呟き」としている。
さて、後者同様「食の荒廃」世代にあげられた佐藤文香氏は自身のブログで、反論というのではないが、その「変化」は意識的作為的にしているもの、と発言している。

私に関して言えば、食べ物や食べることを素晴らしいと思わないのではなく、それをそう書くことを素晴らしいと思わないのであるから、美味しそうに書かない私の句というのは、リアルというより実は虚構に近い。

http://819blog.blog92.fc2.com/blog-entry-430.html

斎藤斎藤氏と佐藤氏の作品とを比べると、「食の荒廃」というほど強い感じはない。それは潜在的に佐藤氏が「食」への愛着を切り捨てていないからだろうし、本人の意識とは別にそこが作品の安定感を生んでいる。
  アイスキャンディー果て材木の味残る  文香
  新茶葉の嗅いではしまふ茶筒かな
  みつちりと合挽肉や春の海
「アイスキャンディー」は高柳氏も挙げているが、これもアイスキャンディーの味の先に「材木の味」を発見したのであり「食にまつわる聖性が、あっけなく剥ぎ取られている」とまで言えるかどうか。
ちなみに、私が初めて接した佐藤文香氏の俳句は(当時は彼女のことはまったく知らず、いま考えてみれば、ということだが)、次の「おいしそうな」一句だった。
  白桃の汁の肘より落ちにけり



読もう読もうと思っていた渡部泰明『和歌とはなにか』(岩波新書、2009年)をようやく読了した。
著者は1957年生まれ、東京大学大学院教授。かねて和歌表現を身体的に捉える理論で注目されており、和歌研究をリードしている研究者である。どうもご自身演劇青年だったそうで、野田秀樹率いる「夢の遊眠社」で活動されていた経験があるらしい。

内容は主に平安末から中世初期を対象としているが、和歌表現を「演技」と捉える視点から、文字通り「和歌とはなにか」という通時的な大きな問いに正面から答えてくれる内容となっている。
もともと私は和歌が苦手で百人一首もおぼつかない程度なのだが、本書は渡部理論の集大成ともいうべき内容で、和歌についてイチから考える入門書として、とてもおもしろい。
まず、序章からして挑発的である。
さて、どうして、和歌は五句・三十一音なのだろう。難しい問題である。五・七・五・七・七音形式に定着した経緯も不思議だが、もっと不思議なのは、この形式が続いてきたことだ。……簡単に言えば、こういうことだ。何のために、何が面白くて、人は和歌を選び続けたのか、と尋ねようと思うのである。(P.3)
きわめて真っ直ぐで、しかも大きなテーマである。

本書は二部構成で、第一部「和歌のレトリック」では、和歌独特の表現技術(「枕詞」「掛詞」「本歌取り」など)について、一見「無駄」「持って回った」この種の「和歌的」表現技法が続いてきたのか、を問うている。
結論から言えば、著者の考えは、次のようなものである。
先ほど枕詞について、引き出しの取っ手のようだという比喩を用いた。取っ手は、開けるという行為の中で意味をもつ。それ以外では、基本的には邪魔物である。この論理をレトリックに応用してみよう。レトリックは、普段は余計物だが、ある特別な行為とともにあるとき、意味を発するのではないだろうか、と考えてみるのである。……そして、レトリックには、儀礼的空間を呼び起こす働きがあるのではないか、とまとめてみた。(P.5)
これ以上の詳細は本書をお読みいただくとして、当面私が関わっている「俳句」に直接関係が深いであろう部分として「本歌取り」の章を紹介したい。(第Ⅰ部第5章
「本歌取り」は、剽窃・類想句の問題とからんで「俳句」でもよく話題にあがることが多い。字数の制限が厳しい「俳句」では「枕詞」「序詞」に比べてなじみ深い「レトリック」であろう。
まず、著者は本歌取りの定義として、大づかみに 
① 過去の和歌と同じ表現を用いて新しい歌を詠むこと
という定義を提案する。しかしこの定義では「(伝統を重んじる)すべての和歌が当てはまってしまいかねない」。従って次に、
② ある特定の和歌の表現をふまえて新しい歌を詠むこと
という定義が提案される。しかしこれでも「作者が歌を作るときに参考にした、という本歌取りより低いレベルをも含んでしまう」。逆に言えば、「本歌取りは、作者が参考にすることにとどまらない」もう一歩踏み込んだ表現技法だ、ということになる。そこで著者は、
③ある特定の古歌の表現をふまえたことを読者に明示し、なおかつ新しさが感じ取られるように詠むこと
という第三の定義を提案する。
肝要なのは、古歌と新しさが、同時にはっきりと読者に認識されることだからである。
著者によれば、「本歌取り」の、古歌(本歌)と新作とが響きあい、新しい表現によって古歌そのものも甦らせるような関係は、本質的に「贈答歌」に通じるという。つまり古歌(本歌)への返歌のような形で「本歌そのものにも輝きをあたえる」ことが「本歌取り」の手法であり、そこまでいって「詞も心も取る」本歌取り」といえるのだ。

さて、「俳句」で議論になりがちな「本歌取り」の議論は、ここまで考えて議論されているだろうか。せいぜい、①か、②までではないだろうか。また、「俳句」にとって、かつて平安貴族たちの「本歌取り」の対象となったような「読者に明示された古歌」がそれほど多くあるかどうか、ということも切実な問題である。たとえば、よく知られた
  鐘つけば銀杏散るなり建長寺  漱石
  柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺  子規
なども、「詞を盗む」手法ではあっても「本歌取り」とはいえないだろう。ちなみに定家は『詠歌大概』において、次のような本歌取りの原則を定めているそうだ。(P.120)
① 最低七、八十年以内の人の歌句は、一句たりとも取ってはならない
② 古人の歌は取ってもよいが、五句中三句取ってはならない。二句プラス三、四字までなら許される
③ 本歌と同じ主題にすると新鮮味がなくなる。四季の歌を恋や雑の歌に変えるなどすると、非難されない
ちなみに本書、第二章では「行為としての和歌」として中世で「和歌が詠まれる場」についての解説となっている。これも興味深い内容なので、おすすめです。

※ 同日22:00、誤植訂正。
 

2009年10月7日水曜日

読む人のこと


ブログってセラピーみたいなものでしょ?自分話を聞いて欲しい、という。
私ならプロのセラピーに聞いてもらうわ(笑)

キャメロン・ディアス 「TOKYOニュースREMIX <新>「ブログ社会」」 NHK総合 10/6放送分 大意要約


至言である。

セラピーにかける手間と金があって、しかもほっといても始終注目されている一流ハリウッド女優なら、(少なくとも日本社会で流行しているような)ブログは必要ないのだろう。
同番組に、ブロガー芸能人代表で出演していた矢口真里(元モ)が、ブログをすすめる言葉として言い放った「仕事が増えます!」発言も、併せて賞翫したい。

ブログに限らず、ネットで発言すると言うことはどういうことなのか、ということ。
なぜかブログというのはきわめて個人的なメディアだと思われている節があるが、ブログというのは特に規制を設けないかぎり、世界中に向けて発信されているのだ。日本の一般人のブログをチェックし回っているアメリカ人や中国人は少ないかもしれないが、日本人口一億数千万に公開されていると思っただけでも相当である。購買層が特定されるような雑誌や同人誌にむけて書くのとは、訳が違う。

以前、ある文芸批評家がブログ上で、ミクシィで文章を公開している人たちが「テレビに出ている人間のつもり」で発言に気を遣っている、と冷笑交じりに指摘していた。
ミクシィのような参加型コミュニティなら、そこまで気を遣うこともないと思うが、たとえばブログというのは上記のように圧倒的な多数にむけて公開されているのであり、あまり自分がこだわっていないことに「テレビなみに」気をつけて発言するのは、悪いことではないのではないか。もちろん、マスメディアの規制にとらわれず、自分が主張したいことを自由に主張できるのがネットのよさなのではあろうが、だからといって公開の場で、自宅や居酒屋のように放言が許されるわけではないと思う。



と、のっけから当たり前の公衆道徳を復習してしまったけど、今回の主眼はそんなことではなくて、とても興味深い、次のような発言を紹介したかったのである。
掲載元は、朝日新聞夕刊関西版10月7日掲載のエッセイ「私の収穫」。
全国版なのかどうか知らないが、この欄は著名な文化人が全四回で短いエッセイを連載している。これまで、中沢新一氏、岡井隆氏、辻惟雄氏、などと続いて、先日からは長谷川櫂氏が登場した。
その、第一回の表題が、「俳句はなぜ短いか」で、当然、非常に興味を持って読み始めたのである。
そして、……茫然とした。

長谷川氏は、「俳句は十七音しかない、世界でいちばん短い定型詩である」と、よく聞かれるフレーズで語りはじめ「この俳句が、中国やヨーロッパやアメリカではなく、なぜ日本で生まれたのか」と自問する。
そして、『徒然草』の著名な、「家の作りやうは、夏をむねとすべし」(第五十五段)を引用し、

日本の夏はただ暑いだけでなく、蒸し暑い。そんな国で多くの言葉を使っていたのでは暑苦しい。そこで言葉を最小限に切りつめた俳句が誕生した。俳句が日本で生まれたのは蒸し暑い夏のおかげということになる。

と結論づけるのである。長谷川氏のエッセイは、以下のようにまとめられる。

建築にしてもデザインにしても日本文化はシンプルであるといわれる。では、なぜシンプルなのかとなると、日本人はシンプルが隙なのだという理由にもならない理由で片付けられてきた。/ このシンプルな文化もまた日本の夏の賜物だろう。あまりに蒸し暑いと、ごちゃごちゃしたものは煩わしくてやりきれない。そこで日本人はすっきりしいた生活や文化を編み出してきた。/ 日本の夏は蒸し暑くて耐え難いが、だからこそ日本文化の生みの母でもある。その一つが、俳句。わかってみると、いたって単純明快な話である。

ちなみに引用部分に関しては、中略していない。

なんというか、実に超論理であって……(わかってみると」あたりが、特に凄い)……、度肝を抜かれた。

現代を代表する(と目される)俳句作家で評論家でもある長谷川櫂氏が、エッセイの読者層をどのように意識されたのか、私には知るすべもないが、いくら購買者が減っているとはいえ大手新聞掲載のコラムである。長谷川氏の、現在の公式見解ととって、相違あるまい。

今後、エッセイの行方が気になるところでは、ある。



読者層、ということでふと思いついて、いま俳句を特集している『サライ』のバックナンバーを調べてみた。
 →
http://serai.jp/

ざっと見た結果なので見落としたかも知れないが、どうも『サライ』が「俳句」を特集したのは今回が初めてのようだ。(2008年9月号「奥の細道」特集はあり)
俳句読者の拡充、ということを考えると、現実的には、『サライ』や『和楽』読者あたり(日本文化に興味があってゆとりのある中高年男女)が一番のターゲットになるのだろう。
あとは、以前ちょっと触れたように『文藝』や、『ユリイカ』読者あたりだろうか。川上弘美は両誌ともに特集されたことがあるが、知る限りでは俳人の特集はまだない。
『ユリイカ』の特集で摂津幸彦や加藤郁乎、あるいは夏石番矢など、是非読んでみたいものだ。

いや、もちろん、『BRUTUS』が俳句特集を組む日が来ても、全然あり、ていうか歓迎、なんですが、そうしたら一度も手に取ったことのない『BRUTUS』を手に取らなくてはならなくなる。 その場合誰がフューチャーされているかが問題なのだが……今のところ、候補は思いつかない。