2013年1月30日水曜日

「いい句」って、何ですか


ひとつの作品の価値を決めるのは、誰なのだろうか?

ひとまず問題を「俳句」に限定した場合でも、その基準は無数であり、容易に決することが出来ない。

それぞれの結社の主宰であろうか?
あるいは、『俳句』に代表される総合誌、または「賞」を決める審査員だろうか?
あるいは作家の集合体であるところの「俳壇」、または「○○協会」などの集団だろうか?

キャリア数十年の大先生が選んでくれた句は「よい句」で、
俳句を知らない女子大生が選んだ句は「駄句」なのだろうか?

それとも、自分が「よい」と思えない句は、どんなに熱心なファンがいたとしても「失敗」に過ぎないのだろうか?



ああ、そういえば最近、飯田龍太の句を使った妙な評論が「週刊俳句」に載りましたね。

・A句は名句といわれている。本当か?(通説・問題提起)
・名句は○○という条件を備えている。(仮説)
・A句は○○ではない。したがってAは名句ではない。(結論)

(反証)A句が一般的に「名句」と言われているのなら、「名句」の条件と提示された「○○」が一般的な条件に合致していないのではないか?

検証不可能な定義を持ち出して、定義にはまらないからはじく、というのは、たとえば桑原武夫「第二芸術論」もやった手法であるが、粗雑で見ていられない。
「(第一)芸術」だとか「名句」とか「傑作」とか、定義できないものを定義しようとする人は、たいてい信頼できない。



昨年末「俳句Gathering」で行ったシンポジウムで、パネリストの小池康生さんが次のような興味深い発言をしておられた。
俳句は、作句と、評と、選の三本柱。 
俳句をはじめてまず上手くなるのは、「評」。なぜ自分が採ったか、採らなかったか、誰でも慣れてくれば、ある程度は上手くしゃべれるようになる。 
「評」ができるようになると「作句」が上手くなってくる。 「選」は最後。「選」が上手くなるのは、やはり時間が必要だ。

「評」が一句ごとの好き嫌い、相対的な判断力だとしたら、「選」は、まとまった句から選抜する力、絶対的基準、と言い換えることが出来るだろうか。

「選」を師匠にゆだねる、という行為は、つまり自分の中での基準をそっくりゆだねてしまうわけで、自分が好きだろうが嫌いであろうが師匠の価値基準が正しいと思う、違っていれば正しい方向へ自分を是正していく。
基本的には、そういう在り方なのだろう。



高柳克弘さんが確か、「結社は読む技術を育てる場」と発言していたと記憶する。(備忘録・現代詩手帖
また別の場所では「俳句を学ぶ上では、自分を強制的に否定する主宰が必要」とも言っている。(愛媛新聞ONLINE 出身俳人の挑戦(4)

師と弟子、俳句における結社、といった問題については仁平勝氏の評論「おとなの文学」なども想起する。

私なりに換言すると、「俳句リテラシー」が未熟なうちは、理解できなくても師の教えを学び、俳句リテラシーを身につけろ、と。そういうことか。
私は、一人の主宰の価値基準を信頼する「結社」に入った経験がない。
それはやはり自分の価値基準を上回る「師」という存在に、耐えられないと思うからに他ならない。



結社の話は、長くなるのでやめておく。

ここで私が問いたいのは、「誰かが、自分とは違う価値基準で句を評価したとき、それを否定する根拠を、あなたは持っているのですか」 ということなのだ。

それが誰であれ、一人の読者が「Aの句はいい」と言ったとき、それは、少なくともそれだけの価値があるはずだ。
私には「Bの句のほうがもっといい」と言うことはできたとしても、A句を完全に否定する根拠はない。たとえ「趣味悪いな、性格合わなそうだな」と思っても、「えー全然読めてない!」と思ったとしても、A句が一人の読者に届いた、その事実は尊重すべきものだ。

 人と自分は、違う。

だからこそ、異なる価値基準の評価を聞く、ということが、ひとつに固定されない、自分が思っても見なかった側面が評価されているのを楽しむ、ということが、互選句会の楽しみ、俳句の楽しみなのではなかったか。

そんな単純なことを忘れて、一句の評価を絶対的に定めようと言い合ったとしても、所詮、水掛け論で不毛なだけだろうな。

 

2013年1月23日水曜日

西村麒麟め氏の入籍を寿げる


ツイートに囲まれてゐる冬野宿

大寒に三味線弾きの来てゐたり

瓢箪と指輪と句集冬座敷

麒麟村人殖へてきて春を待つ

残雪の朝うるはしくおめでたう



麒麟さんのオススメにより、ご本人にお送りしたものを転載します。

心より、おめでとうございます。



参考.



         1月20日
くそ…、野宿か…。

2013年1月21日月曜日

俳句ラボ 付・インターネット俳句云々


俳句ラボ ~若い世代のための若い講師による句会~

柿衞文庫の也雲軒(やうんけん)では、若い世代の人たちの句会を開催します。1年間の成果は作品集にまとめる予定です。ぜひお気軽にご参加ください。 
・日 時:毎月最後の日曜日 午後2時~(詳細は下記の日程をご覧ください) 
・場 所:公益財団法人 柿衞文庫 
・講 師:塩見恵介さん、中谷仁美さん、杉田菜穂さん、久留島元さん 
・参加費:1回500円 
・対 象:15歳以上45歳以下の方 
・第8回:1月27日(日)・・・冬の句を3句 ※破調(五七五定型をくずした句)1句を含むこと


2013年、1回目の俳句ラボは27日です。 講師は私が担当します。
今回のお題は、「破調をふくむこと」としています。
一応、季節は「冬」にしているので無季自由律というわけではありませんが、五・七・五定型をくずした形の「句」に挑戦してみませんか、というこころみ。

私自身、厳密にいうと五七五ではない句を作ったことは何度もありますし、最近では関悦史さんとか御中虫さんとか、「その道」の達者が活躍してますから、過激な挑戦と言うよりはむしろ「抵抗なく破調」というつもりでやってもらうほうが、よいかもしれません。

ただ、経験から言うと破調句は、なんとなく出来上がってしまって定型に整えられない、というときに破調のまま出す、のであって、はじめから「破調を作ろう」と思って作れるものでは、なかなかない気がします。

その点、皆さんがどんな句を作ってこられるか、楽しみです。

ご都合が合えば是非お立ち寄り下さい。



ツイッター界隈で話題なのは、こちらの時評。

週刊俳句 Haiku Weekly: 【週刊俳句時評75】 闘われているらしい 上田信治

私も先日とりあげた、櫂未知子さんの時評をとりあげているのだけど、上田さんは、より踏み込んでいる。
具体的には、『俳句』時評と、『年鑑』の世代別作家評とを連結させて、櫂さんの立ち位置を、アンチ・インターネット俳句、と読み解いているのだけど、

・・・うーん、さすがにそれは深読みというか、違和感とか拒絶感は持っておられるにせよ、そこまで櫂さんが敵視しているだろうか? というのは疑問。
その昔、記念日俳句という妙な企画で、選者として櫂さんに採っていただいたこともある身としては、櫂未知子がそこまで「インターネット」を盲目的に敵視している、とは思えない。

しかし「インターネットの世界を無闇に信奉しているのではないかと思われる世代って括り方は凄いですね。まあ、俳句界に存在するかどうかはともかく、「試験問題をYahoo知恵袋に聞く」世代もいますし、年長者から見れば「チャットに忙しくて子ども見殺しにする母親」世代もいっしょくたでしょうから、一概に否定はできません。

それに、「総合誌より週俳のほうがおもしろい」という人たちに対し、総合誌で誠実に仕事しようとしている作家・評論家が文句を付けたくなる気持ちもわかる。

私に限っていうなら、ネット上でしか活動してないのは、単に紙媒体からお呼びがかからない、機会の少ない若手だから、というにすぎないのであって、別に江里昭彦さんのように、ネット時代を楽観的に考えているわけではまったくないのですが。

とはいえ、今は一時の昂奮がおさまって、すこしズレたところに関心がいっています。


たとえば西原天気さんが言う
句のなかの語だけ取り出してうんぬんしてもしかたなくて、やはり句で考えないと
といったような言い回し。

はい。おっしゃるとおり。
それは、まったく正論なんですが、でも、「句」で考えようとすると、どうしても「好き嫌い」という個人的判断でおおきく左右されますよね、という。 

振り返ってみるに、私が櫂さんの「時評」に、過剰に反応したは、神野さんの句云々ではなく、その文章に、新語・略語の使用は前提として否定したい、というようなニュアンスを読んだから、なんですね。

個別論ではなく全体論として、「新語・略語はダメ」という姿勢。

どこかで見たような。

つまり、「有季定型でないものは俳句ではない」という、あの立場に、そっくり。

それが「新語・略語」であれ、「インターネット」であれ。
もしも櫂未知子さんが、そういう、「個別の句で考える」立場を棄てて、「頭から否定」派に、足を突っ込んでいるのだとしたら、それはもう、闘わざるをえないだろうな、と。



あ、前掲・西原さんの記事は、関悦史論としても興味深い示唆があります。ご一読を。

 
 

2013年1月20日日曜日

週俳300号

 

「週刊俳句」が300号です。


私も、「週俳アーカイヴ 私のオススメ記事」で、書かせて貰いました。

オススメ記事はいろんな人が書いているので、それぞれの関心の在り方が見えてきておもしろいですね。


週俳を初めて読んだのがいつかは忘れましたが、たぶん創刊直後あたりから読んでるはず。

というのは、佐藤文香、谷雄介を通じてネット上で名前を知った上田信治さんが中心になったウェブマガジンだ、ということで見始めたのだった。

ネット媒体って、始めるのはローコストなのでいいのですが、そのぶんロー・リターンというかノー・リターンだったりして、「週刊俳句」も、「俳句世間のフリーペーパー」と呼ばれるほどの「フリー」っぷりが売り物です。
そのため継続できるかどうかは発信者のやる気にかかってる、というところが、多分にあるわけですが、週俳は適度に人を入れかえつつ、今日まで一号も落とさず毎週アップを続けている、というのは、やはり凄いなぁ、と。



そんなことも含め、福田くんの次の文章は、とても印象的だった。
飲み会のあと、土曜日と日曜日の間、終電の車内。酔っ払いながら携帯電話で週刊俳句の更新を確認したりしてしまうのは、やっぱり一人で帰るのがすこし人恋しいからなのだと思う。あるいは、たまに、月曜日の昼ごろ、相変わらずの"Under Construction"の表示を見て、ちょっとがっかりしながら「お疲れ様です」と思わずにはいられないのは、結局、そこにさえ、その背後にいる人が見えるような気がするからなのだと思う。


まあ、それは福田くんにせよ、私にせよ、ある程度、「週俳」の「中の人」や執筆者の顔をよく見知っているところがあるせいもあるんでしょうがね。
評論なんか、ともすると作品以上にのっぺらぼうな書き手のものとして捉えがちになるけれど、評論にさえ、いや、あえて盛るなら、評論にこそ人が出るのだし、文章の中にその書き手を見つけたように思えたときの喜びは大きい。論理を追って理解するだけが評論の読み方ではない。
これは、まったく同意。

とにかく「批評」とか「評論」って、本当は書き手の顔が見えるものではなくてはいけないのだろう。
その点、「週刊俳句」は、紙媒体の雑誌よりも「読む」という立場に偏っているところがあって、総合誌なんかよりもよほど、「批評」行為への問題意識が強いと思う。

普通「評論(批評)」と「鑑賞(感想)」と「研究」とは全部ごっちゃに思われていて、もちろん世間的にはごっちゃで何も問題ないのだろうが、やっぱり厳密には違う。

「鑑賞」は、「感想」に近い。
「感想」よりは、ルールにのっとった公式的な見解を提示するよう期待されている場合が多いと思うけれど、それでもまあ、素直に感想、印象批評を書くべきだろう。

「研究」は、「研究論文」というように使うと「論」まで含めるのだが、厳密には基礎作業による事実の確定、と規定できるだろう。つまり、正確に事実関係を調査し、分類し、四角四面で行われるべき着実な作業だけを指すのだと思う。
そのうえで、批評」し、「論」じる、という行為は、もっと創作的営為でなくてはいけない。論者の解釈があり、独自の意見が述べられる、そこに個性が出る。むしろ、出てないと、「論」として評価が低くなる。

「個性」とか「解釈」とか言うと、だから文系は主観的で曖昧だよね、みたいな顔をされる。世の中にはキチンと解答の決まった「研究」だけやりたい人、実際やれる人というのもいて、それはそれで科学的で結構だけれど、そこは好き好きで、基礎研究のうえに、書き手の個性が出るような「批評」「評論」を読みたいし、書きたいなあ、と。
("科学"というのは"科(シナ)"、すなわち抽斗とかマスにものを分類して詰めていく作業、ということのようですね)

・・・いや、今、自分がそれで苦労してるんだよ、っていう、かなり切実な話なんですが。



2013年1月10日木曜日

「俳句」1月号


遅ればせながら、角川「俳句」1月号を立ち読みしてきた。

雑誌だから昨年末に出ていたはずだが、たまたま「俳句」を置いているような本屋に寄る機会がなかったのと、やっぱり新年号は新年に読もうと思ったこともあって、松の内がとれてからの確認となった。

新年詠7句は、年齢順?と思われる重鎮のそろい踏み。
後藤比奈夫・金子兜太・津田清子・鷹羽狩行・稲畑汀子・有馬朗人・宇多喜代子・大峯あきら・小原啄葉・澁谷道・深見けん二・友岡子郷・和田悟朗・宮坂静生・森田峠・星野椿・星野麥丘人・神蔵器・綾部仁喜・鍵和田柚子・矢島渚男・池田澄子・黒田杏子・大串章・茨木和生・千原叡子・寺井谷子
金子兜太氏が長谷川櫂『震災歌集』に言及して、五七定型詩への信頼はその程度だったのか、櫂君はまだ文学青年に止まる、と苦言を呈していたのが面白かったですね。

一方、新鋭作家は、これも注目若手がそろい踏み。
相子智恵・村上鞆彦・神野紗希・宇井十間・松本てふこ・山口優夢・関悦史・小川楓子・冨田拓也・西山ゆりこ
これも皆さま、個性発揮で読み応えあり。相子さんは雄渾、村上さんは端正、神野さんは佳境、といったところでしょうか。優夢は・・・相当気恥ずかしい句群でした。


さて、今号から始まった俳句時評、評者は櫂未知子氏。
坪内稔典氏も昨年12月30日にe船団の「ねんてんの今日の一句」で書いていたのだが、第一回目は、「カネを積まれても」ということで、カネを積まれても使いたくない日本語、について書かれている。

櫂氏は『広辞苑』が改版のたびに新語を積極的に収載する方針に疑義を唱えつつ、「パソコン」「コンビニ」「ケータイ」などの略語について、日常会話ではともかく俳句として使うことにはかなり否定的である。
そして、コンビニのおでんが好きで星きれい 神野紗希をとりあげ、「コンビニ」という略語が俳句という詩の中の言葉として存在し得るかと言えば、やはり無理なのではないか」という。

さすが、どこだったか忘れたが「有季定型ハードコア」を自称したこともある櫂未知子氏で、旧套墨守というか、物言う守旧派といった趣である。

どこかの独裁国家ではあるまいし、日常会話にだって俳句にだって、使うことが認められぬ言葉などあるわけもない。
放送倫理だの出版倫理だのに基づいて自粛せらるることはあったとしても、作品化が許されていない言葉、俳句にとりこむことができない言葉など、あるわけがない。

もちろん作品として新語や略語を取り入れても、その目新しさだけでは一句として弱くなる、ということはあるだろう。
その結果は甘んじて受けるとして、納得できないのは、櫂氏が新語を俳句定型に取り込んだときの「軋み」を、極めて否定的なものとして受け取っているところである。

新語、略語など、熟していない言葉を、伝承される「俳句定型」に取り込んだときに生じる「軋み」は、むしろ、積極的に「定型」の可能性を広げ、活性化させる手段であると見なすべきだろう。
「定型」に無理をさせず、その力に頼って親和性の高い、古い言葉ばかり使っていたら、どうやって「俳句」が生き残っていけるだろう?
古ければよい、というのでは、まるで遺跡から出てくる出土品ではないか。

言葉は生き物である。
櫂氏は勘違いされているようだが、岩波が誇る『広辞苑』は、頻繁に改版を繰り返すことで時事に対応し、常に「日常わからない言葉に出会ったとき、すぐに引ける辞書」であり続けることを目指している。
中型国語辞典としては大柄なものの、「言葉」だけでなく「ことがら」を引く、百科事典としての性格をも自負していることを思えば、『広辞苑』は決して、日本語の守護神でもなければ、言葉の権威でもなく、よく言われる喩えのように「言葉の海をわたる船」という、きわめて実用的、かつ、頼られる存在でなくてはならない。

言うなれば、辞書たちもまた、生き物としての言葉に向き合っている。

であれば、俳句が、すでに古典か歳時記の中にしか生きていないような古き良き日本語、有り体に言ってしまえば化石のごとき死んだ言葉だけを相手にするのだとすれば(そうした言葉に再び命を吹き込むのも詩の力だとしても)、なんとつまらないことだろう。

俳句が、風韻豊かなうつくしき「日本語」のためだけにあるのだとしたら、なんと狭く堅苦しく、かび臭いものになってしまうだろう。

間違いなく、俳句はもっと、広いものだ。




2013年1月6日日曜日

新年詠


「週刊俳句」298号 の新年詠に参加しています。

今年の参加者は175句(!)ということで、なんともスゴイ数。


知らなかったのですが、-blog 俳句空間- 戦後俳句を読む というサイトが立ち上がっていました。

もともと「詩客」にて連載されていた「戦後俳句を読む」というコーナーが、blogとして独立したようです。形式的には―俳句空間―豈weeklyを継承するようなことになるんでしょうか。
内容、たいへんに充実しておりまして、これから更新を楽しみにしたいと思います。
こちらも新年詠が掲載されておりまして、これは投句受付アリの「週刊俳句」と違って依頼制でしょうか、人数は少なめですが充実のラインナップですね。

筑紫磐井さんの5句の前にある人が「銀化」所属なのは、各所で話題になってますがw

しかし、読むべきサイトがどんどん増えるのは、いいのか悪いのか。。。


2013年1月1日火曜日

敬頌新禧


あけましておめでとうございます。

新年ご挨拶の賀詞を何にしようかと思っていたら、敬頌新禧(けいしょうしんき)というのを見つけました。「うやうやしく新年のよろこびをおたたえ申し上げます」という意味だそうで、いろいろな言葉があるものですね。


私事ながら、昨年父方の祖母が逝去しましたのでリアルでの賀状は遠慮させていただいております。ネット、メールではもういいかなと思って普通に返信したりしてますが、リアル賀状をいただいた方には正月明けに寒中見舞いを返す予定ですので、ご了解ください。

ということはあんまりここでも新年新年♪とかやらないほうがいいんですかね?

なにはともあれ、今年もよろしくお願いいたします。

亭主拝


追記。
spicaの「つくる」新連載は池田澄子さん!
池田さんの新作と短文がネットで読めるとか、かなり贅沢。