2013年1月10日木曜日

「俳句」1月号


遅ればせながら、角川「俳句」1月号を立ち読みしてきた。

雑誌だから昨年末に出ていたはずだが、たまたま「俳句」を置いているような本屋に寄る機会がなかったのと、やっぱり新年号は新年に読もうと思ったこともあって、松の内がとれてからの確認となった。

新年詠7句は、年齢順?と思われる重鎮のそろい踏み。
後藤比奈夫・金子兜太・津田清子・鷹羽狩行・稲畑汀子・有馬朗人・宇多喜代子・大峯あきら・小原啄葉・澁谷道・深見けん二・友岡子郷・和田悟朗・宮坂静生・森田峠・星野椿・星野麥丘人・神蔵器・綾部仁喜・鍵和田柚子・矢島渚男・池田澄子・黒田杏子・大串章・茨木和生・千原叡子・寺井谷子
金子兜太氏が長谷川櫂『震災歌集』に言及して、五七定型詩への信頼はその程度だったのか、櫂君はまだ文学青年に止まる、と苦言を呈していたのが面白かったですね。

一方、新鋭作家は、これも注目若手がそろい踏み。
相子智恵・村上鞆彦・神野紗希・宇井十間・松本てふこ・山口優夢・関悦史・小川楓子・冨田拓也・西山ゆりこ
これも皆さま、個性発揮で読み応えあり。相子さんは雄渾、村上さんは端正、神野さんは佳境、といったところでしょうか。優夢は・・・相当気恥ずかしい句群でした。


さて、今号から始まった俳句時評、評者は櫂未知子氏。
坪内稔典氏も昨年12月30日にe船団の「ねんてんの今日の一句」で書いていたのだが、第一回目は、「カネを積まれても」ということで、カネを積まれても使いたくない日本語、について書かれている。

櫂氏は『広辞苑』が改版のたびに新語を積極的に収載する方針に疑義を唱えつつ、「パソコン」「コンビニ」「ケータイ」などの略語について、日常会話ではともかく俳句として使うことにはかなり否定的である。
そして、コンビニのおでんが好きで星きれい 神野紗希をとりあげ、「コンビニ」という略語が俳句という詩の中の言葉として存在し得るかと言えば、やはり無理なのではないか」という。

さすが、どこだったか忘れたが「有季定型ハードコア」を自称したこともある櫂未知子氏で、旧套墨守というか、物言う守旧派といった趣である。

どこかの独裁国家ではあるまいし、日常会話にだって俳句にだって、使うことが認められぬ言葉などあるわけもない。
放送倫理だの出版倫理だのに基づいて自粛せらるることはあったとしても、作品化が許されていない言葉、俳句にとりこむことができない言葉など、あるわけがない。

もちろん作品として新語や略語を取り入れても、その目新しさだけでは一句として弱くなる、ということはあるだろう。
その結果は甘んじて受けるとして、納得できないのは、櫂氏が新語を俳句定型に取り込んだときの「軋み」を、極めて否定的なものとして受け取っているところである。

新語、略語など、熟していない言葉を、伝承される「俳句定型」に取り込んだときに生じる「軋み」は、むしろ、積極的に「定型」の可能性を広げ、活性化させる手段であると見なすべきだろう。
「定型」に無理をさせず、その力に頼って親和性の高い、古い言葉ばかり使っていたら、どうやって「俳句」が生き残っていけるだろう?
古ければよい、というのでは、まるで遺跡から出てくる出土品ではないか。

言葉は生き物である。
櫂氏は勘違いされているようだが、岩波が誇る『広辞苑』は、頻繁に改版を繰り返すことで時事に対応し、常に「日常わからない言葉に出会ったとき、すぐに引ける辞書」であり続けることを目指している。
中型国語辞典としては大柄なものの、「言葉」だけでなく「ことがら」を引く、百科事典としての性格をも自負していることを思えば、『広辞苑』は決して、日本語の守護神でもなければ、言葉の権威でもなく、よく言われる喩えのように「言葉の海をわたる船」という、きわめて実用的、かつ、頼られる存在でなくてはならない。

言うなれば、辞書たちもまた、生き物としての言葉に向き合っている。

であれば、俳句が、すでに古典か歳時記の中にしか生きていないような古き良き日本語、有り体に言ってしまえば化石のごとき死んだ言葉だけを相手にするのだとすれば(そうした言葉に再び命を吹き込むのも詩の力だとしても)、なんとつまらないことだろう。

俳句が、風韻豊かなうつくしき「日本語」のためだけにあるのだとしたら、なんと狭く堅苦しく、かび臭いものになってしまうだろう。

間違いなく、俳句はもっと、広いものだ。




1 件のコメント:

  1. わたなべじゅんこ2013年1月20日 0:41

    言葉は生き物、もしくはナマモノ。賛成です。所詮道具ですから切れ味よく使いたいですね。

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